草津白根~志賀高原~秋山郷 紅葉と山の暮らし その2 | 写真小話

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私が撮影しながら散歩した備忘録的な記録

2022.10.20

日が変わり、本日は先ず天池から

天池周りの紅葉はまだチト早くてイマイチです。

水没した切り株が良い感じです。

駐車場そばの森も良い感じです

天池のとなりの池でもパチリと、今はこっちの方が良いかも、鳥甲山が良く映えます。

ところで、昨日宿泊した切明もこの天池周辺もそうだけど、民家があまりありません。

切明なんて宿しかない感じ、その宿も地元の人が経営しているのではなく、ちょいちょい経営者が変わっている様です、働いている人もサラリーマン的な感じで神奈川の人だったりして。

ここらあたりの秋山郷でも奥にあたる所は地元民が絶滅寸前なんですかね?

そんな事を思いながら、天池を後にし、秋山郷総合案内所へ、そこに郷土資料館的な展示があるので勉強する。

主に秋山郷での生活様式の展示物が主で、農機具とかその使い方とか。

で、この超山深い、雪も超深い秋山郷にいつから人が住んでいたかって事がずっと気になっていたのだけど、どうやら戦国時代かららしい、上州からの落ち武者が住み着いたと書いてある。

ずっと(15年くらい)前に秋山郷に来た時は屋敷という集落にある民族資料感に立ち寄って勉強したのだけど、そこでは平家の落人って事になっていて、かなり疑問を覚えてました、平家は無いでしょ~と、

でも、ここで、戦国時代の上州落ち武者説があったので、そっちの方が信ぴょう性高い気がする。

上州ってのがミソかね、相手は武田勢かな?

そしてその子孫はここで、厳しい自然を相手に壮絶な生活を送って世代を繋いで行く事になる。

ここの展示にもあるように、時には飢饉になって集落がいくつも全滅したりして…

その中で近世の秋山郷の暮らしを記してある書籍の展示がありました。

上の原から屋敷へ嫁ぎ、切明にて焼き畑をして暮らした山田ハルエさんの語りを書籍化したもの。

この本は私も読みました、凄まじいまでに厳しい秋山郷での暮らしが記してあります。

昭和20年代、自動車道路と電気が供給されるまでは、はっきり言って江戸時代どころか、平安時代の農家とほとんど変わらない暮らしと言える。

病気になれば医者もおらず、祈祷師に頼り、簡単に子供はおろか、大人までもが亡くなってしまう。

コメは食べられず、アワをおやき状にしたものを主食とし、朝早くから起きると同時に労働がはじまり、昼は畑で重労働、夜は日付が変わる時間まで油の灯のもとで作業する。

もう、生きていくのにいっぱいいっぱいで、そこから抜け出す手が打てない、子供も学校にいっている時間がない、学校に行かないから一般的な知恵がつかないので遠い街に出稼ぎに出ても良い職につけない。

家は筵(ムシロ)の埃だらけで、ノミが常にたかり、誰かに移されればシラミもたかる。

そんな平安時代と変わらない暮らしがほんの少し前、昭和30年ごろまで、そこにあった。

昭和30年代って言えば、首都圏では鉄道網、路面電車が行き渡り、生活家電(俗にいう所の三種の神器)が普及しだして来たころです。

でも、最近の我々の災害や戦禍、疫病などに対する行動を見ていると、人間って大昔から基本的になにも変わってねぇんだなぁ~とつくづく思います。

人間の中身は原始人と同じで、文明の継承により生活は変わっているけど、肝心な運営する人間の方は世代交代していつもフレッシュな原始人状態なので同じ過ちを何度でも起こす、教育で教え伝えられて理解したつもりでも実際に喰らうと過去の二の舞を演じてしまう。

一歩間違うと、現代の我々の生活もあっけなく崩壊して滅んじゃって、平安時代どころか原始時代に逆戻りしてしまうかもね。

この秋山郷は現在では普通にインフラが整備されて一般的な生活をされていると思うけど、今度は過疎化に見舞われて人口がどんどん減っている事でしょう。

近いうちに本当に人がいなくなり、道も無くなって人からも歴史からも忘れ去られちゃう日がやってくるかも、せめて記録だけでも残しておきたいものです。

 

総合案内所を後にして、今回是非立ち寄ってみたいと思っていたポイントへ

それは廃村跡、天保の飢饉、天明の飢饉で村が全滅しちゃった跡地。

大秋山村跡、矢櫃村跡、甘酒村跡があるようだけど、先ずは甘酒村跡へ、細い車道を登った先にある。

道がかなり細く、離合が心配だったので、途中に停めて徒歩で向かう。

甘酒村跡地に佇む石碑というか、お墓…

先の山田ハルエさんの本を読むと、たしかに飢饉になったら全滅しちゃうのが良く分かる。

甘酒村は天明の飢饉で全滅してしまったようだけど、昭和の初めまで平安時代と変わらない生活をしていれば昭和の初めまでは飢饉で全滅の可能性が常にあった訳で…

飢饉の時の記録がさっきの総合案内所に展示してあった。

朴訥とした文で記されていて決して分かりやすくも詳しくもないのだけど、それでも、もう悲惨さと悲しさが伝わってきて…

現在の甘酒村跡、田圃になっている事に驚く、時代が進んでお米が取れるようになったんだね、これも道路開通による機械化のおかげだろう。

でも、この田圃も深い山中にポツンとある感じで決して生産性が高い訳じゃないだろう、お米が作りたかったんだ!ていう強い意志を感じます。

 

そういえば、今年の夏に沢散歩で出かけた山梨県上野原市棡原村もお米が全く取れないのだけど、その棡原村から下った上野原の市街には田圃があります。

上野原の市街は桂川の河岸段丘の上にあり、普通に考えて田圃を築く事ができないのだけど、畑の下にゴムシートを張り巡らして水が溜まるように改造して田圃にしておりました。

当時(35年前)それを見学したとき、そこまでしてお米が作りたいか?と疑問に思ったのだけど、お米が作れなかった土地の人からしたら、稲作する事は悲願だったようで、稲作する為ならやれる努力はすべてやる、そこまでしてお米を作りたいって思いだったのだろう。

しかし、現在ではその稲作に関する思いや価値がだいぶ無くなってきたようで、上野原の河岸段丘上での田圃はだいぶ少なくなりました。

 

次は、大秋山村跡に行こうと探したけど、道が分からず敗退。

気を取り直して、屋敷という集落にある みずと屋さんでラーメンと揚げ出し豆腐を食べる。

みずと屋さんは20年前くらいに食べたっきりだったけど、今も健在で嬉しい。

しかも結構繁盛している様子で何よりです。

 

屋敷からは秋山郷のシンボル的な存在の布岩山の柱状節理が大きく見える。

この岸壁は見る位置でどんどん姿を変えて行きます。

まぁ、こんな感じ。

岸壁の反対側は苗場山が大きくそびえています。

それから、屋敷集落から北へ少し車で進んだところにある矢櫃トンネルから徒歩少しで絶景スポットがあるようなので行ってみる。

苗場山と小赤沢集落、棚田が良い感じです。

小赤沢集落は秋山郷の中で最大級の集落です、因みに秋山郷で最初に稲作が開始されたのは明治7年なのだそう。

それから昭和30年代まで、稲作の可否でそこの集落の暮らしぶりが大きく違っていたようです。

最後に蛇淵の滝を見て今回の秋山郷は終了、次はいつになるか分からんし、もう来ないかもだけど…

ここの紅葉はまだ早かったようです。

 

おしまい