2022.09.10
八月末の土曜日に会社の同僚が参加している写真展が銀座のギャラリーで開催されてたので行ってきた。
ついでに久しぶりに日本橋を散歩したいなと思っていたのだけど、例によって午後出発なので、写真展ですらギリなくらいで、日本橋まで散歩なんて無理無理、ちぇっ!って訳で苦し紛れに国際フォーラムに寄って撮った写真が上の画像、ここに来た人はみんな撮るやつです。
そして月日はちょいと流れて9月10日猛暑も少々マシになってきたので、日本橋界隈でもぶらついて橋巡りでもするかと出かけました。
東京駅の八重洲口から歩き出します。
例によって午後2時です、いつものことです。
まず、いの一番にやらなきゃいけないのは、さくら通りにある和菓子屋さんでくず餅を買う事、山の神からの指令です、午後遅くなると無くなるヤツなので、真っ先に向かいます。
くず餅購入完了。
さて、次はヤツの所に行こうか。
ヤンヨーステンの記念碑
八重洲の語源はこの人から来ています。
オランダ船に乗って、どこに行こうとしていたか分からないけれど、難破して航海長のイギリス人ウィリアムアダムスと共に九州に漂着して、そのまま日本で外交、貿易に使役させられたそうな。
イギリス人の方も三浦按針として船舶建設とかに使役させられたよう、そっちはまたいつか三浦方面の散歩の折にでも触れようか。
で、ヤンさん、按針と同じく帰りたかったようで、ジャカルタあたりまで帰ったのだけど、帰国交渉がうまくいかず、あきらめて日本に帰る途中にまた遭難して亡くなったのだそうな。
気の毒な人だなってよりも、これは現代でいえば、宇宙船に乗って深宇宙に探検に出て遭難し、違う星に不時着しその星の土着星人に捕らえられて帰れなくなる感じか?
あっ、いや我々そこまで進んでねぇな、月にもロクに行けないくらいだから。
いずれにしても、当時にヨーロッパから極東に航海する人たちは人権薄目な宇宙飛行士みたいなモンだったのだろう…すごい冒険、そして数奇な運命。
ヤンヨーステンを後にし、日本橋へ向かう
日本橋高島屋を通り過ぎ、
日本橋到着
改めてみると凝った橋だよね、この橋はこういった装飾に費用の一割くらいかかってるんだって、ふうん。
で、この橋、所々先の大戦の跡があるんだって、東京大空襲の焼け跡と機銃掃射の跡とか…
こんなのがそうなのかな?
ずっと汚れと思ってました…
川を渡って燃え移るようなものすごい火災だったそうだから、そりゃ跡もつくよなぁ。
日本橋を後にして、茅場町を目指す。
東京証券取引所、ここに鎧橋が架かっている、そして証券会社が立ち並ぶこの辺りを兜町というけど、鎧橋があるから兜町なのだろうか?と思っていたけど、どうやら兜町と鎧橋の由来は同じみたい。
このあたりも、証券取引の電子化にともない、地理的な意味を失って空洞化しているらしい。
そして、ほどなく茅場町、この界隈は江戸時代、町方の同心や与力なんかの住まいである町屋敷があった所、今で言えば公務員の寮みたいなものだろうか。
八丁堀という地名が今でも残っているように、ここら辺に住んでいる役人という事で、その役人の事を「八丁堀の旦那」と呼んでいたらしい、「中村主水」の事じゃなくお役人様的な意味だったのね。
基本的にビジネス街なので、休日は人が全然いません。
ここいらで蕎麦でも食べたかったのだけど、街中華はおろかチェーン店含めて全く開いてない。
ちっ、もういいもん。
茅場町を通り過ぎ、亀島川まで来た、そこにかかる亀島橋。
亀島橋から、南側の眺め。
橋のたもとに戦災と震災の慰霊碑があります。
まぁ地震は天災だとしても、戦災はなぁ、想像を絶する熾烈で過酷なものだったろう。
こんな大量虐殺が自分のほんのちょっと前の代の人たちがくらってたとは、まったくもって過去事ではないよな、昨今の禍(わざわい)の我々の対処を見ていると、あまり過去から学んでいないようだし。
再度戦禍に遭わない為には本当にどうしたら良いのやら…
亀島橋からは運河沿いに日本橋方面へ戻る。
亀島橋から北側の眺め、霊岸橋で何か工事をしているようだ。
近づくと…
ちょうど小さな重機を吊ってました。
茅場橋まで戻って足元見ると…
遊覧クルーズしてました。
江戸橋西側の歩道橋より新橋方面の眺め、眼下の道路は昭和通り、これを反対側の上野方面へ行くと上野で国道4号と合流して、はるか青森まで続いている北への大動脈である。
旅心がくすぐられるねぇ、青森いいねぇ。
途中の地蔵堂がビル群の中のポッカリスポット感出してました。
お次は一石橋。
橋のたもとに
迷子知らせ石標がありました。
江戸時代は結構迷子が多かったらしい、まぁ天下の日本橋だしな。
でこの石標に探し人と知らせ人が互いに情報を紙に書いて貼ったのだそうな。
で、あれっ?あれと繋がらないか?
往年の「子連れ狼」の主題歌
しとしとぴっちゃん、じゃないヤツ、「ててごとははごと」の方!
ここの一石橋はかつて橋の両側に幕府御用達の呉服屋の後藤さんと、金座を営む後藤さんが居を構えていて、ゴトウとゴトウ、五斗と五斗で一石という事で一石橋と名付けられているので、ピッタリ符号するじゃん!
まぁ歌の方は父(てて)ごと、母(はは)ごと五斗五斗と一石橋で待てばよい、なのだけど。
迷子を待つ石標がある一石橋って事でここがモデルなんじゃない?
スゲー古い話なので、知る人も少なかろうけど…因みに私もギリ記憶にあるかな位の古さ。
お陰で、家に帰ってから漫画の「子連れ狼」Kindleで読んじゃったよ、タダだったから。
実は「子連れ狼」って昔から街中華とか定食屋とかに「ゴルゴ13」とならんで良く置いてあったけど、全然読まなかったんだよね、なんか暗そげで…、でも今あらためて読むとスゴイ面白いね、ちょっと勉強になる事もあるし、マジで良くできてますよ。
一石橋よりちょいと進むと常盤橋。
よっ渋沢栄一さん、今度お札になるんだってね。
栄一さんの裏に常盤橋がある。
常盤橋には江戸時代の石垣が残っている。
で、登山の話になっちゃうんだけど1980年代に岩登りが人口登攀からフリークライミングに移行する流れで、今みたいに、そこらじゅうに人口のクライミングウォールなんて無かったから、都内のクライマーはこの常盤橋の石垣でフリークライミングの練習してた。
自分の山岳会の先輩なんかも当時ここで練習してたよな、私は自分ちの擁壁で練習できたから、なにも横浜から常盤橋に行くことなんて無かったけど、当時は壁がチョークの粉でかなり汚れるくらい多くのクライマーが練習していた。
んで、当然クライミング禁止に…
今やクライミングは完全にスポーツになりオリンピックの種目になっちゃったんだから驚くよなぁ。
これがその石垣、今は誰も取り付いてないよ、その面影もない…
まさに夢の跡だ、いろんな意味で。
だいぶ日も陰って腹も減ったし、どっかのデパ地下でお惣菜でも買って帰るとするか。
おしまい





























