NHK「理想的本箱 君だけのブックガイド」/将来が見えない時に読む本(3) | 日々是本日

日々是本日

bookudakoji の本ブログ

 NHK「理想的本箱 君だけのブックガイド」はEテレの本の紹介番組である。

 

【番組紹介】
静かな森の中にある、プライベート・ライブラリー「理想的本箱」。 あなたの漠然とした不安や悩み、好奇心に答えてくれる一冊を、この世に存在する数えきれない本の中から見つけてくれる、小さな図書館です。 これから長い人生を生きていくあなたに素敵なヒントを与えてくれる本を、あなたの心に寄り添って一緒に見つけてゆきます。

※上記公式サイトより引用

 

 各回毎にテーマが設定されており、

「理想的本箱」主宰・吉岡里帆
「理想的本箱」司書・太田緑ロランス
「理想的本箱」選書家・幅允孝

の三人によって毎回三冊の本が紹介される30分番組である。

 

 昨年の放送を観て、今年から各月の最初の記事は、この番組の各回を順に取り上げることにした。

 

 番組の詳細については、過去の記事を参照されたい。

 

 

 選書家となっている幅允孝(はばよしたか)さんは、主に書店や図書館のプロデュースを手掛けるBACHという会社の代表をしている人で、詳細は下記のリンクを参照されたい。

 

 

 さて、これまで放送された8回のテーマは以下の通りである。

 

2021年:第3回 将来が見えない時に読む本
2022年:第1回 もっとお金が欲しいと思った時に読む本
2022年:第2回 ひどい失恋をした時に読む本
2022年:第3回 母親が嫌いになった時に読む本
2022年:第4回 父親が嫌いになった時に読む本
2022年:第5回 人にやさしくなりたい時に読む本
※初回放送順

 

 ゴールデンウイークを挟んだこともあり時間が空いてしまったが、今回は2021年放送分の第3回「将来が見えない時に読む本」の三冊目の記事である。

 

 一冊目と二冊目については、それぞれ過去の記事を参照されたい。

 

 

 

 

 NHK「理想的本箱 君だけのブックガイド」選定書

 

・将来が見えない時に読む本(初回放送日:2021年12月23日)
 伊藤比呂美「女の一生」岩波新書(2014)
 斉須政雄「十皿の料理(御馳走読本2)」朝日出版社(1992)
 茨木のり子「永遠の詩02 茨木のり子」小学館(2009)

 

茨木のり子「永遠の詩02 茨木のり子」小学館(2009)

 三冊目は茨木のり子さんの詩集で、選びどころとしてはオーソドックスなところから持ってきた印象であった。

 

永遠の詩02 茨木のり子

【内容】

弱ったこころを勇気づけ、希望に導いてくれた詩人、茨木のり子。そこにはいつも生きるための言葉があった。ヒューマニズム溢れる名詩から、亡夫を想う挽歌まで、鑑賞解説付きで収録。

 

【著者略歴】

1926年(大正15)~2006年(平成18)。敗戦後、結婚前後から詩を書き始め、川崎洋とともに詩の同人誌「櫂」を創刊。ヒューマニズムと批評精神溢れる詩で多くの読者の心を鼓舞した。戦後を代表する女性詩人にして、エッセイスト、童話作家でもあった。

※上記バナーの Amazon 商品サイトより引用

 

 茨木のり子さんの詩集は多数あるが、この本は小学館の「永遠の詩」シリーズの第二巻で、

詩人・高橋順子さんの解説付である。

 

 幅さんは茨木のり子さんの詩について、目の前の誰かに話すような対話的な表現をしているとコメントしていた。

 

 番組ではまず、「倚りかからず」の朗読があり、次に「自分の感受性くらい」が映像で紹介された。

 

「自分の感受性くらい」

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難かしくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

 

 茨木のり子さんは2022年1月にNHK「クローズアップ現代」で特集されており、下記の公式サイト「取材ノート」の記事では、この詩は「48歳のときに発表された代表作の1つ」ということである。

 

※代表的な詩作、若い頃の写真、晩年のラジオ番組でのコメントなどがあり、こちらの記事も是非、参照されたい。

 

 茨木のり子さんは1926年6月12日生まれであるから、1945年の終戦時は19歳である。戦後に詩作をはじめて、1949年に結婚。1975年48歳の時に夫と死別しており、「自分の感受性くらい」が発表されたのもこの時期である。

 

 尚、茨木のり子さんの死後に亡き夫への詩が発見され、詩集「歳月」として刊行された。

 

 

 

「将来が見えない時」に読む意味

 

 茨木のり子さん自身について語るのはこの記事の主旨ではないので、以下では、「自分の感受性くらい」を選書のテーマである「将来が見えない時」に読むということの意味について書いていきたい。

 

 幅さんはこの詩について、自分自身を鼓舞するところがあったのではないかとコメントしていた。

 

 私もこのような印象を持ったし、内容的には中年の心境を詠んでいる印象も受けた。

 

 こうした感想を伴って、私にはこの詩は言い訳の見本市のように見えた。

 

 そして、言い訳をする原因は、乾いていく心、気難しい心、苛立つ心、初心を忘れた心、駄目なことの一切である。

 

 大きな絶望のようなものではなく、老いによってじわじわと心を蝕んでいく類のものである。

 

 中年の私自身には実に心に刺さったが、この詩の若者にとっての良さは別のところにあるのだろうと思われた。

 

 まず挙げたいのは、「他人や暮しや時代のせいにしない」というメッセージである。

 

 これは二冊目の本「十皿の料理」から感じた、「何がないからできないというのではなく、自分にある持ち味を磨け」というメッセージとも通じるものがある。

 

 この詩の第一節から第三節は、心が乾いて瑞々しさを失っていくのを他人のせいにしていると指摘している。

 

 第四節では暮らしの中で消えかけている初心が指摘され、もうこれは自分のせいである。

 

 中年の心境がこうであるならば、これは若者に対して未来の心の有り様を語っていることになる。

 

 なので私はこう書くことにした。

 

 中年を待つ必要などない!

 

 これはこの詩が、将来が見えない不安に対して具体的なビジョンで答えるということではなく、心の在り方で答えているという意味である。

 

 だとすれば、若い頃から心掛けておくに越したことはない。

 

 そして第五節では更に、この自分の「ひよわな志」を含む駄目なことの一切を、個人の「志」よりも遥かに大きな「時代」という力のせいにするのであれば、それは「わずかに光る尊厳の放棄」だと語っている。

 

 「自分というわずかに光る個人の尊厳」の「放棄」という意味であると思う。

 

 何かのせいにしてしまうことを諫めながら、何かのせいにしないで持ち続けるべきものの価値として「個人の尊厳」を挙げている。

 

 これは茨木のり子さんがこの詩に込めた人間観であり、老若男女を問わず響く部分なのではないかと思う。

 

 特に、多様な価値観に惑う若者には、中年とは違った感じで響くものがあるのではないだろうか。

 

 若者が茨木のり子さんの詩をどう感じているかということの具体例として、前掲のクローズアップ現代の記事から20代の女優・志田彩良さんのコメントを引用する。

 

「ちょっと弱っていたりとか、逃げたいなって思っている時は、自分自身を正してくれたり、優しく寄り添ってくれたり。日常的に持っていくことが多くて、自分にとってはお守りみたいな存在です」

 

 茨木のり子さんの詩が自分の支えになっている気持ちが率直に語られてるコメントであると思う。

 

 また、ここで注目したいのが「逃げたいなって思っている時は、自分自身を正してくれたり」という部分である。

 

 第六節の「ばかものよ、自分で守れ」という部分が連想される。

 

 自分が「逃げたい」と思っている時に、自力で自分自身と向き合うのは誰でもしんどいものである。

 

 この第六節には、こうした時に自分自身と向き合う方向に背中を押してくれるような力を感じる。

 

 なので私はこう書くことにした。

 

 中年も襟を正さねばなるまい!

 

 

守るものが「感受性」なのはどうしてか

 

 さて次に取り上げたいのは、詩のタイトルにもなっている第六節の「自分の感受性くらい」という部分である。

 

 第五節では何かのせいにしないで持ち続けるべきものの価値として「わずかに光る尊厳」を挙げている。

 

 しかし、第六節ではこの「尊厳」を守れとは言わずに、「感受性」を守れと言っている。

 

 ここに飛躍がある。

 

 ということは理由がある。

 

 まず考えられるのは一つの具体としてということである。

 

 「尊厳」を守るというのは観念的すぎる。

 

 こうした観念的なお題目は、それは具体的にどうすることなのかというところまで落とし込まなくては実践的ではない。

 

 この意味で、詩人である茨木のり子さんの具体は「感受性」を守るということだったと考えることができる。

 

 こうした意味合いは含まれているだろうと思うが、しかしこれだけでは、それぞれに自分の具体を設定してそれを守れということになる。

 

 そうではないだろうと思う。

 

 「感受性」という表現には、誰しも守って欲しいものという意図が込められていると思う。

 

 「自分の感受性くらい自分で守れ」というのは、「自分のことなんだから自分でやれ」という言い方であるから、それは誰の心にもあって守ろうと思えば守れるものであると言っている。

 

 これは、誰にでもある個人の尊厳に対応する内容としてはもっともだが、守るべきものとしてそれぞれに自分の具体を設定する余地は残る。

 

 この余地を更に検討するために、再度、詩の構成を見ていくと第一節から第三節は「他人」のせいにするなであり、第四節は暮らしのせいにするなである。

 

 この第四節の「暮らし」とは言い換えれば、各個人と社会との関係性から形成される日常でありるから、ここは「社会」のせいにするなとも読める。

 

 そして第五節で指摘されるのは、「時代」のせいにするなということである。

 

 つまり、駄目な自分の責任を負わされる対象は、個人が直接やりとりをする「他人」から「社会」へ、そして「時代」へと拡大されていくのである。

 

 この点では、この詩には「他者・社会・時代」に対して揺るがないものであれという想いが込められているように思われる。

 

 こうして考えてみると思い出されるのが、この詩の背景にある茨木のり子さんの人生である。

 

 再度、前掲のクローズアップ現代の記事から「わたしが一番きれいだったとき」という詩についての番組製作ディレクターのコメントを引用する。

 

1926年生まれの茨木さん。太平洋戦争中、“いっぱしの軍国少女になりおおせていた”という彼女が、自分の青春時代をふりかえって書き綴ったこの詩には、おどろおどろしさがありません。

 

戦争はどす黒くて怖いものという先入観があった中学生の私にも読みやすく、何よりも、若い女性の視点で戦争体験が読まれていることが新鮮でした。

 

※詩の原文については引用元の記事に一部が掲載されている。この詩の全文と茨木のり子さん本人のコメントについては、下記サイトを参照されたい。

 

 この詩では青春時代と戦争が重なったことによる数々の悔しさが綴られており、番組製作ディレクターのコメントの通り「若い女性の視点で戦争体験」ならではの内容がある。

 

 そしてこの記事では茨木のり子さんの、戦後十年経って無念さからこの詩を書いたのかもしれないという内容のコメントが紹介されているが、これは生きることに精一杯だった頃を過ぎて、やっと過去を冷静に振り返ることができたということでもあると思う。

 

 この詩は「これから長生きする」という形で希望的に終わっているが、こうした詩作で過去を振り返る作業において、茨木のり子さんの心中には「ではどうすればよかったのだろうか?」という反省の気持ちもあったのではないかと思う。

 

 ここで「わたしが一番きれいだったとき」という詩を取り上げたのは、その後にこの問いの答えとして結実したのが、「他者・社会・時代」に対して揺るがないために「感受性を守る」ということだったのではないかという考えからである。

 

 最後の「ばかものよ」には、この過去に十分に感受性を守ることができなかったという反省の気持ちと、これからの未来の自分を鼓舞する両方の気持ちが込められているように思う。

 

 また読み手に対してはこの詩全体として、人々の心が、自分を顧みず他人のせいにする気持ち、初心を忘れるような暮らし、時代のせいにして尊厳を放棄するような諦めに満ちていては、個人も社会も良くはならないという想いが込められていると私は思う。

 

 であるならば、この「感受性」は各個人のそれぞれの具体に置き換えることはできない。

 

 ここでの「感受性」とは、「わずかに光る尊厳」を保ちながら、誰にもあって、「他者・社会・時代」に対して揺るがない、全ての人に守って欲しいものだからである。

 

 

「感受性」の内実はなにか

 

 それでは、「他者・社会・時代」に対して揺るがないために「感受性を守る」という場合の「感受性」の内実とは、どのようなものだと考えられるだろうか。

 

 「他者・社会・時代」に対して揺るがないというのは個人と社会の関係において、個人の心の在り方のことを言っている。

 

 この個人の心の在り方としての具体が「感受性を守ること」なのであれば、この具体としての「感受性」の内実はもっと明確に捉える必要がある。

 

 そこで、「他者・社会・時代」に対して揺るがない心を持つことに対して、ここで「感受性」によって期待されているものは何かと言うならば、それは自分の個性を開花させることではないかと思う。

 

 感受性が自分の個性を開花させるから、その心は「他者・社会・時代」に対して揺るがなくあれるということである。

 

 逆の言い方をすれば、自分の感受性を殺して皆が同じように感じる、同じように考えるようであっては、「他者・社会・時代」に対して飲み込まれていくだけであるということである。

 

 ここには、自分の個性を開花させなければ、個人の在り方として十分ではないという想いが込められていると私は思う。

 

 しかし、これでもまだここでの「感受性」の内実を書き切れていないように思う。

 

 個性を開花させているというのは心の状態であって、心の状態は何らかの活動によって心自身にとってその意味をもたらすものだからである。

 

 「感受性」が心自身にもたらすものは意味の一つは、喜怒哀楽である。

 

 喜びも悲しみも、具体的な中身がどうであるかは「感受性」に左右される。

 

 そして個性が開花していくにつれて、喜怒哀楽の深味は増していくものである。

 

 喜びは自分なりの喜びとして味わい深く感じられるようになっていく。

 

 悲しみもまた自分なりの悲しみとしてしっかりと感じられるようになっていく。

 

 また、私個人としては同時に共感性も高まって、個々人の違いを越えたところにある人間に共通の喜怒哀楽を深く感じられるようになっていくとも考えている。

 

 戦後に詩作をはじめた茨木のり子さんの心中には、こうした個性の開花と喜怒哀楽の広りがあったのではないだろうかと思う。

 

 更に、こうした個性の開花と喜怒哀楽の広りを伴って、「他者・社会・時代」に対して揺るがないための答えとして「感受性を守る」を挙げたというところには、気づきに向かって自問自答を進めていくプロセスを見ることができる。

 

 先述の通り、幅さんは茨木のり子さんの詩には、目の前の誰かに話すような対話的な表現をしているとコメントしていた。

 

 この対話的な表現は、作者の心の中で起こっている、気づきに向かって自問自答を進めていくプロセスによってもたらされているのではないかと思う。

 

 それ故、ここで自分の個性を開花させるということには、この気づくということによって、自分なりの感じ方や物の見方、考え方を形成していくということを明確に含めたいと思う。

 

 これもまた、個人の個性を形作っていくものである。

 

 そして、何かのせいにしていることに気づかなければ、正しようもない。

 

 こうして考えてみるとこの詩は守るべきものを「感受性」と一言で言っているが、このことの意味は思いのほか深い。

 

 この意味するところは「他者・社会・時代」に対しては揺るがなくあれということであり、それは個人として、個性を開花させて、喜怒哀楽の深みを感じ、気づきによって自分なりの感じ方や物の見方、考え方を形成せよということであると思われた。

 

 

「感受性」を守る難しさと「個性」の輝き

 

 さて最後に、以上のことを踏まえた上での個人的な感想を述べて終わりたいと思う。

 

 そもそもここまで考えを進めたのは、第五節では何かのせいにしないで持ち続けるべきものの価値として「わずかに光る尊厳」を挙げているにもかかわらず、第六節ではこの「尊厳」を守れとは言わずに、「感受性」を守れと言っているという飛躍のためであった。

 

 この飛躍に対して「感受性」を守れと言っている意味は、「他者・社会・時代」に対しては揺るがなくあれということであり、そして個人としては、個性を開花させて、喜怒哀楽の深みを感じ、気づきによって自分なりの感じ方や物の見方、考え方を形成せよということであると思われた。

 

 ここで最初から読み返してみると、第一節から第三節では、「心の瑞々しさ」というものは、いつの間にか知らぬ間に失われているものだと感じられた。

 

 第四節は、個人が社会に為していくべきことは「志」であると言っているように思ったが、この詩では「志」の達成よりも、「初心」を忘れないことが強調されていると感じた。

 

 先に第六節について書くが、この「自分の感受性くらい自分で守れよ」という部分を改めて読むと、この「自分で」という部分が、実に重く感じられた。

 

 この「自分で」はまず、自分でやらなければ誰もやってくれないというということであるが、「他者・社会・時代」というものは個人を、あるいは個性を押し流していくものであるから、実際の意味合いは、これに抗いながら自分でやるということである。

 

 つまり、実践はなかなか難しいものであるが、敢えて「自分の感受性くらい」という言い方をしているのである。

 

 そして、自分のことだから自分でやらないと「ばかもの」なのである。

 

 突き放されたような感じがする一方で、茨木のり子さんがこの詩を書いた年齢に近い私自身としては、「自分の感受性」を守っている自分でありたいという共感もあり、「自分の感受性くらい」自分で守らないと「ばかもの」という言い方には鼓舞されるところも感じる。

 

 なので中年である私自身に対して、こう書くことにした。

 

 「ばかもの」のままで終われるかい!

 

 そして若者には、もっと希望的なことを書くことにした。

 

 第一節から第五節で語られている「他人や暮しや時代のせいにしない」ということは、中年にも若者にも言えることである。

 

 ただし、第五節の「わずかに光る尊厳」という表現についてはちょっと気になるところがあった。

 

 第五節で挙げられている「わずかに光る尊厳」は、なぜ「わずかに光る」なのだろうか。

 

 大意としてしては「個人の尊厳」ということであると思う。

 

 これを「わずかに光る尊厳」としているのは、一個人の光だからだろうか。

 

 そうではなく、「ばかものに残されたわずかな尊厳」という意味を込めてるのだろうと思われた。

 

 だとすれば、これから個性を開花させていく若者は、感受性を磨いてもっと輝いていていいはずだ。

 

 なので若者にはこう書くことにする。

 

 感受性を磨けば個性はもっと輝く!

 

 ここで、感受性を「守れば」としないで「磨けば」と書いたのは、感受性を「守る」ことと「磨く」ことは両立するという考えからである。

 

 特に若い人は、感受性を「守る」というよりも「磨く」という感じであって良いように思う。

 

 感受性を磨いていく色々な実践の中で、自分らしさが失われていないかを時々は気にするという在り方でも、私は良いと思うのだ。

 

 さてさて、ようやく三冊目の本についての紹介記事を終えることができたが、全体を通して見るとこの三冊は、「将来が見えない時に読む本」という選書のテーマに対して、どれも自分自身と向き合って自分らしくあれということを強調している印象であった。

 これは、将来が見えないことに対して、見えない社会を気にして不安に思うよりも自分らしくあることが解決になるという逆説的な考え方であるが、自分の人生の答えは自分の中にしかないということからすれば、なかなかテーマに適った選書であったと思う。
 

 来月は、2022年放送分の第1回「もっとお金が欲しいと思った時に読む本」を取り上げる予定である。