NHK SONGS「一青窈」/ハナミズキ | 日々是本日

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bookudakoji の本ブログ

 SONGS は毎週木曜日にNHK総合で放送している音楽番組である。

 

 2022年10月27日の放送回が「一青窈」さんだった。

 

 

 今回は以下の三曲の話を中心にコメントしていくシリーズ記事の2回目である。

 

もらい泣き
ハナミズキ
耳をすます

 

 前回の「もらい泣き」の記事に続いて、一青窈さんの代表曲である「ハナミズキ」を取り上げる。

 

 尚、音楽番組の記事では歌詞の直接引用は控えているため、似た表現で代用している。

 

 正確な表現はリンクページを参照されたい。

 

 

ハナミズキ

▼一青窈公式チャンネルPV「ハナミズキ」

 

▼歌詞はこちら

 

 この曲は2004年曲に発表された一青窈さんの代表曲である。

 

 番組内での話では、デビュー前の段階で2001年のアメリカ同時多発テロをきっかけに、シンガーソングライターのマシコタツロウさんと一緒に作っていた曲だという。

 

 個人的にも好きな歌で、カラオケでも歌うことがある。

 

 綺麗な描写なのに力強さを感じる歌詞だと思っていたので、改めて自分なりの歌詞の読み込みを書いてみた。

 

 最初の内容はこうである。

 

 五月の空に手を伸ばす君に、水際までくればハナミズキの蕾をあげようと言う。

 

 そして最初のサビで、「果てない夢が終わる」ように「好きな人と百年も続く」ようにと言う。

 

 季節は夏になり、僕の気持ちは重すぎるから先にいってくれと言う。

 

 そして、後のサビで僕の我慢が結実して波が止まるといいと言う。

 

 またサビで、「果てない夢が終わる」ように「好きな人と百年も続く」ようにと言う。

 

 この後、白い帆を揚げて進む君に待たなくていい、知らなくていいと言う。

 

 そして、「かわいい君の…」という最初のサビと「ぼくの我慢…」という後のサビが繰り返されて、「好きな人と百年も続く」ように願って終わる。

 

 ハナミズキの花言葉は「永続性」、「想いを受け取ってください」、「返礼」であり、全体的なメッセージに対して「想いを受け取ってください」というのはしっくりくるように感じられる。

 

 もう一度、最初から追っていこう。

 

 登場人物は「君」と「君の好きな人」と「僕」である。

 

 「君」は「好きな人と百年も続く」ように希望を託されている。

 

 全体を概観した後では、出だしの「空に手を伸ばして押し上げる」というのは希望の希求を表しているように思われた。

 

 空は五月晴れのイメージである。

 

 そして、希望の希求に対して渡されるのはハナミズキの蕾である。

 

 これは、いずれ花開くであろう希望の象徴であろうと思う。

 

 場所が水際であるのは、この後、希望へ向かって船出するからだろう。

 

 明示的に「僕」からとは書かれていないが、語り部は「僕」であると読んだ。

 

 そしてサビで希望が歌われる。

 

 季節は夏になり、希望に向かって一緒に行けない僕、希望のために我慢している僕、この僕は何者なのだろうか。

 

 これはまだ希望が実現されていない世界に居て、傷ついて今はまだ希望とは一緒に進めない人、まだ波が収まらない現実で傷ついている人だろうと思う。

 

 でも、母の日にはハナミズキの(花ではなく)葉を贈って欲しいという。

 

 誰に?

 

 まず、このハナミズキの「花」ではなく「葉」を贈って欲しいという意味は何だろうか。

 

 そして、この「葉」を贈るのは母の日だから「母」でいいのだろうか。

 

 「花」ではなく「葉」であることに意味はなく贈るのは「母」であるとすると、「君」は希望へ向かって進んで母の日にはハナミズキの葉を贈れるような平和な日々を過ごしてください、ということになるがこういうことではないよなぁ。


 ハナミズキの「花」ではなく「葉」を贈って欲しいというところにも意味がある筈である。

 

 この後で、帆を揚げて進む「君」に待たなくていい、知らなくていいと「僕」が言う。

 

 ここまでを含めて考えると、「君」と「僕」との関係において、葉を贈って欲しいと言っているように読める。

 

 ここで更に、何を知らなくてもいいのだろうかという疑問が出てくる。

 

 これは、気持ちが重すぎて一緒に渡れなかった僕の気持ち、僕の我慢、僕のその後についてなどではないかと思う。

 

 これを「私のことは心配しなくていいからあなたは自分の道を進みなさい」という気持ちの表現だとすると、親心的なニュアンスを感じる。

 

 「花」ではなく敢えて「葉」としている場合、解釈の定番の一つは「言の葉」であろう。

 

 母の日が五月であることを考慮すると、またハナミズキの花が咲く五月になったら便りをくださいというように解釈できる。

 

 母の日に「元気です」の便りが一枚あればいいというイメージである。

 

 「母の日」という表現もしっくりくる。

 

 また、ここでの「僕」は一緒に渡れなかった人々であるとすれば、実際に「母」を含めて考えることができる。

 

 更に、この関係性は大きな視点で見ると、世代間の関係にも置き換えられるように思う。

 

 これは、若い世代は過去の時代の出来事に捉われないで夢に向かって進んだらいいよ、という思いやりの表現としても解釈できるということである。

 

 正解はわからないし実際にはいろいろな意味が込められているかもしれないが、この曲を自分がどういう気持ちでカラオケで歌っていたかというと、こういう親心的なニュアンスで好きな人との未来を全うしたらいいという希望的な気持ちを込めて歌っていたように思う。

 

 さて、ここで番組の話に戻る。

 

 番組では「ハナミズキ」の曲が流れる前に、「果てない夢が終わる」というフレーズの意味を司会の大泉洋さんが訊いたのだった。

 

 一青窈さんはこう答えた。

 

 「果てない夢が終わる」というのは、君の夢が叶って願うことがこれ以上ない最終状態のことだと言う。

 

 このフレーズについては、人生が続いて夢がちゃんと結末を迎えるというように捉えていたので、説明を聞くまではこれほどの意図があったとは思わなかった。


 そして、これは「No War」とすら歌う必要がない状態だとも言っていた。

 

 これにはかなりビックリした。

 

 こんな究極の理想状態をスパーンと歌っていたとは!

 

 こうなると詩の解釈をもう一度、再考する必要がある。

 

 まず、こう説明されると最初のサビの「果てない夢が終わる」が次のサビでは「波が止まる」に言い換えられていることの意味が明確になった。

 

 「果てない夢が終わる」ということが戦争のない世界の実現であれば、「波が止まる」というのは戦争がなくなることである。

 

 解釈はスッキリしたけれども、一方で、「ちゃんと終わる」というフレーズは人生が続いて夢がちゃんと結末を迎えるというように想って歌っていたし、「波が止まる」は人生の波風が収まってという想いで歌っていた自分がいる。

 

 今度はどう想って歌ったもんかなぁ……

 

 次に、戦争がない世界としての「波が止まる」は僕がする我慢の結果であるから、戦争がある時代の犠牲の上に戦争がない世界が実現することであると解釈できる。

 

 更に、こういうことであるならば「船」ですよね、「葉」ですよね、「平和」ですよね。

 

 ということは「鳩」ですよね、「オリーブの枝」ですよね?

 

 だから「ハナミズキの葉を贈ってください」というのは「究極の理想世界が実現されている新天地から便りが来るのを信ずる」ということですよね?


 そしてこうなると、「待たなくていい、知らなくていい」というフレーズの解釈はどうだろうか。

 

 ここは形式的には前のところで「どうぞお先に」と言っているところに対応する部分であるから、この部分を受けて「またなくていいですよ、私たちのことはお気になさらずに」と続けているとする。

 

 この場合の解釈は、「僕」を戦争がある時代の象徴であると考えると、「究極の理想世界には戦争時代の傷跡を持ち込まなくてもいいですよ」ということだろうか、と深読みしたくなる。

 

 まぁ、「No War」とすら歌う必要がない究極の理想状態の表現をしようとするとこうなるというのはわからないでもない。

 

 しかしこうなると、先述した「親の世代の苦労は無理に知らんでいい」という親心的な気持ちによる、「若い世代は過去の時代の出来事に捉われないで夢に向かって進んだらいいよ」という解釈以上の内容になる。

 

 とは言え、この以前の解釈以上の内容を、単に戦争時代は知らなくてもいいと言っていると考えてしまうのは安直だろう。

 

 ここはもう一歩、深堀りせねばなるまい。

 

 五月の次に夏になるのはアメリカ同時多発テロを暗示しているのだろう。

 

 この季節の「僕からの重い気持ち」、希望へ向けて出港する船とは一緒に行けない気持ちとは、恨み、憎しみ、悲しみではないだろうか。

 

 そして、僕がこの気持ちを我慢する結果として理想世界が実現するといいと言っていると解釈できる。

 

 この後、希望へ向かって船出をして理想世界についたらお知らせくださいねと言うのであるが、サビが「○○でありますように」という未来の希望を詠っていることからすると、便りが欲しいというよりも、「きっといずれは理想世界に着く」と信じるというニュアンスが多分に含まれているように思う。

 

 これに続く「またなくていいですよ、私たちのことはお気になさらずに」という部分は、独立して「過去の時代の出来事に捉われないで」と解釈するのではなく、前の形式的に対応する「どうぞお先に」という部分からの流れで考えることもできる。

 

 「僕からの重い気持ち」とは「恨み、憎しみ、悲しみ」であるとすれば、「どうぞお先にゆきなさい」という言い方をしてはいるが、実のところはこの気持ちは「どうぞ置いていきなさい」という奨励のニュアンス、あるいは、この気持ちを持っていくのは「おやめなさい」という禁止のニュアンスがあるとも考えられる。

 

 更に「お先に」というところは、「早くいきなさい」というニュアンスもあるかもしれない。

 

 そうすると、後の部分での「待たなくていい」は「遺恨を受け継ぐな」であり、「知らなくてもいい」は「過去の恨み辛みは水に流せ」ということになる。
 

 これは「僕の我慢」の意味でもある。

 

 以前の解釈では「僕の我慢」が強調されすぎの印象を持っていたが、この解釈であれば「僕の我慢」を強調するのは納得感がある。

 

 詩の流れでは、希望の蕾が託されてこれが花開いて理想世界が実現されたならば、これこそが「僕の我慢」が結実した結果だということである。


 そしてこの後に続く、「ハナミズキの葉を贈ってください」ということの最終的な解釈は、未来の希望を詠っているニュアンスと遺恨を捨てるという意味を考慮すると、遺恨を捨てて平和な世界を実現してくださいということになる。

 

 これが、一青窈さんが詩に託して歌いたかった戦争時代の傷跡のない理想世界なのかもしれない。

 

 自分の現実主義者的な部分が、過去の戦争を忘れたら平和は実現しないだろうと思う一方で、禍根を受け継ぎ続けても平和は遠いように思われた。

 

 また、ハナミズキの花言葉の一つが「想いを受け取ってください」であるということが改めて思い出され、一青窈さんは本当に突き抜けて理想世界への想いを歌っているなぁと感じた一方で、自分はこの解釈ではこの曲を一青窈さんほどの気持ちで歌えないとも感じた。

 

 今は、いずれこの解釈で気持ちを込めて歌える日がくることを願うのみである。

 

 尚、この解釈は私の読み込みの結果であり、2015年にこの曲をセルフカバーした時の産経新聞電子版の記事には一青窈さんのコメントも紹介されているので、こちらも参照されたい。

 

 

「耳をすます」の記事に続く)