NHK SONGS「一青窈」/もらい泣き | 日々是本日

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bookudakoji の本ブログ

 SONGS はもう随分と昔からNHK総合で放送している音楽番組である。

 

 このブログでも何度か取り上げてきたが、今回は2022年10月27日の一青窈さんの回の記事である。

 

 

 一青窈さんは2022年でデビュー20周年だそうだ。

 

 デビュー曲は「もらい泣き」である。

 

 当時、ちょいちょい聴いた覚えがある。

 

 もうあれから20年とはねぇ。(笑)

 

 公式サイトを検索していたら、10年前の10周年の時に出演していた情報があった。

 

 

 この後、2015年に結婚されて、今は三児の母である。

 

 トークの中で子育ての話も出ていたが、ここでは番組で歌われた以下の三曲の話を中心にコメントしていく。

 

もらい泣き
ハナミズキ
耳をすます

 

 「SONGS」の記事を書くのはけっこう久しぶりだが、毎度のことながら録画の整理のついでに見直していたら、作詞の独特さを改めて感じたのでブログ記事にすることにした次第である。

 

 尚、音楽番組の記事では歌詞の直接引用は控えているため、似た表現で代用している。

 

 正確な表現はリンクページを参照されたい。

 

 さて、番組ではまず生い立ちと共に、一青窈さんが詩を書くようになった経緯が紹介される。

 

 一青窈さんは、1976年に台湾人の父と日本人の母との間に生まれた。
 

 幼少期を台湾で過ごすが、6歳の時に日本へ移住。
 

 離れ離れになった父親へは、手紙を書いていたという。
 

 小学二年生の時に父親がガンで亡くなる。
 

 その後も父親への手紙は書き続け、それがだんだんと詩になっていったという。
 

 そして、高校生の時に母親が亡くなる。
 

 この後で、自分の想いを伝える歌手になりたいと思ったという。

 

 大学ではアカペラサークルで自分の詩を歌い始め、2002年に「もらい泣き」でデビューするに至る。

 

もらい泣き


 この曲の詩はまず、テレビの付いた広いリビングで自分の場所を探す「僕」から始まる。

 

 そして、段ボール箱の中に引き籠っている「君」を思い出すのである。


 なんでこんなに変わった展開なのだろうと思ったら、画家の友人から「段ボールの中から出られない」というメールがきたという実体験に基づいていたからだった。

 

 そして、その友人の気持ちを想像してもらい泣きしたという。

 

 続くサビのところでは、「君」にもらい泣く「僕」がいる。

 

 これを「一人ぼっち」ではなく「二人ぼっち」と表現することで、お互いに独りでいるんだけれども「一人ぼっち」ではないと伝えている。

 

 そして、サビの後半部にも驚きがある。

 

 「僕」は「もらい泣き」してもらう側でもあって、詩は、やさしいのは誰かと問うのである。

 

 自分自身の悲しみではなく「もらい泣き」してしまうような悲しみをテーマに選んで、なおかつ、それをこう歌うというところに一青窈さんの独特の感性が表れているように思われた。

 

 次の内容は、恐らく「もらい泣き」してもらう側の「僕」の心境だろう。

 

 この星座と小宇宙とあげそびれた絵本の下りもなかなか独特だ。

 

 一青窈さんは作詞のために、日常の出来事を綴ったりピンときたもの描いておくスクラップノートがあるという。

 

 恐らくこの、星座と小宇宙とあげそびれた絵本にもそれぞれ投影されているものはあるのだろうけども、難しいなぁ。(笑)

 

 一青窈さんは9月20日生まれだからおとめ座なので、このことから運命や世界の法則の説明は救いにならないということを言っていて、あげそびれた絵本は占いの絵本で今では廃れてしまったと言ってこのことを強調しているのだろうか。

 

 最初のリビングの描写は具体的なのに、ここは一青窈さんのイメージワールドだなぁ。

 

 ということで、これ以上は深入りしないことにして先に進む。

 

 この後で、「もらい泣き」してもらう側の「僕」の孤独は、迎えの来ないシンデレラに例えられる。

 

 「僕」の心境がシンデレラに例えられているが、ここでの「僕」はそもそも一青窈さんでもあるのだから、ここでは性別にこだわる必要はないだろう。

 

 そして、教えて欲しい「からだ」が登場する。


 性的な暗示にも読めるが、どうだろうか。

 

 個人的には前の部分の、星座と小宇宙とあげそびれた絵本によって語られている心境的な寂しさとの対比を意図していると読んだ。


 その理由は、ここで心境的な寂しさと「からだ」を対比させる意味を、「二人ぼっち」である状況で終わるのではなく、「君」も「僕」もそれぞれに現実において一人でいるという「からだ」の孤独から解放される必要がある、というメッセージであるように思われたからである。

 

 それ故、教えて欲しい「からだ」は性的な暗示ではなく、孤独から抜け出して明日笑えるための身体的な実感という意味ではないかと思う。

 

 また、この詩は全体としては心境を詠っているので、ここで「からだ」のことを持ち込まなくても成立し得たと思う。

 

 ここで敢えて「からだ」のことを持ち込んでいるのは、一青窈さんとしてはこれは絶対に必要な一節だったからだろう。

 

 この心境と身体との結びつきを重く見るところにも、一青窈さんの独特の感性が表れているように思われた。

 

 そして終盤はサビの連呼である。

 

 ここではサビが4回繰り返されるが、詩は少しずつ変わっていく。

 

 1回目のサビは最初と同じでやさしいのは誰かと問うが、2回目ではこれに答えるように、やさしいのは「君」だという。

 

 2回目のサビでは更に、「君からもらい泣いた」とは言わずに、「一人一人」が「ぽろぽろともらい泣いた」という形で「二人ぼっち」が説明される。

 

 3回目のサビはまた最初と同じで、やさしいのは誰かと問う。

 

 そして4回目のサビでは、「え~あ~」の後に「ありがとう」と続けてから、やさしいのは「君」だという。

 

 最後は「もらい泣きしてくれるやさしい君」に「ありがとう」と言って終わるのである。

 

 こうして全体を見ると、この詩はもらい泣きしてしまうような悲しみを歌っているのではなく、もらい泣きしてしまう人のやさしさを歌っているのである。

 

 最初に立ち返ってみると、そもそも「僕」は「君」にもらい泣きしているので、やさしいのは「僕」でもある。

 

 もらい泣きするやさしさを、サビでは逆にもらい泣きしてもらう側から表現しているだけで、やさしいのは「君」も「僕」も同じである。

 

 そして、僕がもらい泣きする「君」と僕がもらい泣きされる「君」は同じ場合もあるし、違う場合もあるだろう。

 

 だからこの詩は基本的に、自分と他者の同質性を念頭に置いて書かれていると思う。

 

 そうすると「二人ぼっち」という表現は、実のところ「万人ぼっち」ということなのではないかと思うのである。

 

 今の時点でこうして考えてみると、この曲は売れるべくして売れたように思われたが、実のところこの曲を発売当時に聴いた自分はもっとサラッと聴いていた気がする。

 

 プロデュースした人はわかっていたのだなぁ。

 

 そして、ここまで考えなくても歌に込めた気持ちが伝わる詩の良さと歌唱力を改めて凄いと思った。

 

「ハナミズキ」の記事に続く)