【再放送】
総合テレビ:2月22日(水)午前1:10~ ※2月21日(火)深夜
※NHKプラスで配信中(配信期限 :2/25 午後10:49)
ウクライナ政府のウェブサイトにある「チルドレンオブウォー」というカウンターは、戦闘で犠牲となった子どもの数字を刻み続けている。命を奪われるだけではない。子どもたちは家族と引き裂かれ、見も知らない場所で心の傷を抱えながら孤独な日々を過ごす。キーウのある公立学校の日々を追った。鳴り止まない空襲警報、ろうそくの灯(あか)りを頼りにした授業。教師たちは子どもたちにどう寄り添うのか、模索する人々の記録である。
※上記の公式サイトより引用
今週はまず、もう死にたいと思った時に読む本(3)の記事を書く予定だったが変更した。
尚、番組の内容はキーウの子どもたちのドキュメンタリーであるが、このブログの記事には政治的に何かを主張する意図は全くない。
---以下、ネタばれあり注意---
公式サイトの番組紹介の通り、冒頭はウクライナ政府のウェブサイトにある「チルドレンオブウォー」の映像から始まる。
そして、番組のメインであるキーウの公立学校の四ヵ月間の記録に進んでいく。
この学校は2022年9月1日から運営が再開された。
500人いた生徒の約半数とウクライナ各地からの転校生が登校を始めた。
キーウで戦争の被害にあった子ども、戦地から転校してきた子どもが多数いる。
学校再開から一か月後にキーウは再び攻撃され、学校には空襲警報が鳴る。
防空壕に避難しながらも学校は続けられ、先生達は戦争に触れるような内容の授業も進めていく。
戦争が生活に入り込んできている現実がよくわかるし、子どもたちの語る体験にもリアリティーを感じた。
12月に入り気温は氷点下になる日もあるが、ミサイル攻撃がくれば停電が起こりシェルターに避難する。
番組は、ロシアに憎しみを持つ子どもたちと、憎悪は必要ないという方針で授業を進める教師の両方を映していく。
学校は冬休みに入り生徒たちは新年を迎えた。
ここで、14歳の男子生徒と戦地で戦っている父親とのビデオ電話の取材内容が流れる。
再会の言葉を交わした後で息子が訊く。
息子「パパが戦っているのは、敵に対する憎しみからでしょう?」
父親「ロシア人に対する?」
息子「うん、彼らに対する憎しみをどう考えているの?」
父親「答えは簡単ではないな。これだけは言える。私はおまえたちに戦争を見せたくないから戦っている。それだけだ。ロシア人を憎んでいるわけではない。ロシア人にも良い奴はいる。いろんな人がいるからね。」
息子「でも、良い人が別の国に来て、こんな戦争を起こすなんてあり得ないじゃないか。」
父親「戦争とはこういうものだ。私はもうすぐ帰る。」
息子「待ってるよ、寂しいけど、ずっと待ってるよ。」
まず感じたのは、この父親の大人としての真っ当さである。
実際に戦闘に参加していながら、ロシア人を憎んでいるわけではないという。
本心かどうかはさておき、少なくとも父親として息子にはこう語った。
次に感じたのは、若者の純真さである。
戦争が憎しみから起こっていると真っ直ぐに考える純真さ、だから父親は憎しみによって戦っているに違いないと考える純真さ。
一人一人は良い人でも戦争は起こるということがわかる大人と、子どもの頃から日常に戦争がある生活を体験している子どもの受け止め方はこうも違うのである。
この若者の純真さは、生きづらさを抱える現代の若者に「社会とはこういうものだ」と言う大人の自分が忘れているものではないだろうか。
番組はこの後で更に、母親と息子との会話の映像を流した。
母親「パパの言いたいことをわかったよね?」
息子「でも、どうやったらロシア人を憎まないなんて出来るの?」
なかなかに衝撃的だった。
子どもの心が憎しみで一杯になってしまうのを大人はなんとか防ぎたいと思うが、大人だからわかることを子どもに求めるというのはそもそも難しいことだ。
「社会とはこういうものだ」、「戦争とはこういうものだ」という大人は間違っていなくても、説明だけでは若者の生きづらさも憎しみも解決しない。
そして番組は、
いま東部を中心にロシアの大規模攻撃が始まっている。
子どもたちの笑顔を守るために、世界は、私たちは何ができるだろうか。
というナレーションで終わった。
このナレーションには、目の前の戦争被害から子ども守るというだけでなく、子どもの心を憎しみから守るという意味が含まれているだろう。
このナレーションは、私の心の中で、
若者を死なせないために何ができるだろうか。
というセリフに置き換わった。
このブログでも取り上げた、NHKスペシャル「若者たちに死を選ばせない」が放送されたのは2021年6月13日のことである。
この番組を観て私は、今の日本が若者たちに死を選ばせない社会を作るのに失敗していると思わざるを得なかった。
そして、今の社会を作ってきた大人の感じ方と今の社会からスタートする子どもの感じ方の違いが、子どもの頃から日常に戦争がある生活を体験している子どもの受け止め方の違いと同質のもののように見えたのである。
これが今回、この番組を取り上げた理由である。
大人が「社会とはこういうものだ」という現実に対して若者が折り合いをつけていくことに失敗すれば死を選び、「戦争とはこういうものだ」という現実に対して若者が憎しみと折り合いをつけていくことに失敗して死ぬかもしれない戦争が選ばれるのだとすれば危うい。
この以前に、生きづらさに満ちた若者の心も、憎しみに満ちた若者の心も既に危うい。
子どもたちをどう守れるかという問題提起はいつだってもっともなのだが、「戦争とはこういうものだ」と言う大人の言葉が空疎なら、「社会とはこういうものだ」と言う大人の言葉も危うい。
「戦争とはこういうもの」であっても、憎いものは憎いのである。
「社会とはこういうもの」であっても、生きづらいものは生きづらいのである。
憎いものを憎むなと言っても、生きづらいものを平気で生きろと言っても、若者の心においては憎いものは憎いし生きづらいものは生きづらいままであり続けるだろう。
そして、大人の言葉が空疎なままであるだけなら、社会であれ戦争であれ、若者を死なせないために何ができるだろうかという問題提起もただもっともなだけであり続けるだろう。
戦争の憎しみをなくすことも社会を変えていくことも易しくはないが、大人が立ち向かっていくべき現実の一面であると言わざるを得ない。
大人もまた日々の生活をしていく中で、この具体的な正解があるわけではない問題に向き合っていかなくてはならないのであれば、大人と若者のギャップを十分に感じた上で、思うところを実践していくしかないように思う。
とすれば、「社会とはこういうものだ」ということを若者に十分に納得させることができていない我々の現実を、「戦争とはこういうものだ」と言う大人と「どうしたら憎まないことができるか」と言う若者のギャップからもたらされる衝撃をもって受け止めるぐらいのことが必要であるように感じたのである。
ウクライナでの出来事を対岸の火事のように見ていては、我々の未来も暗いように思われてならない。
![](https://ssl-stat.amebame.com/pub/content/9477400408/amebapick/item/picktag_autoAd_301.png)