アクセル・ハッケ「ちいさなちいさな王様」講談社1996 | 日々是本日

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bookudakoji の本ブログ

 昔の書評スクラップを整理していたら、こんな本があった。

 

 アクセル・ハッケ「ちいさなちいさな王様」である。

 

 書評は2014年のものだったが、原著の出版は1994年、日本語版の出版は1996年で割と古い本であった。

 

 日本でも1996年の出版以来、読み継がれている本であるという。

 

 この機会に読んでみようと思い購入した。

 

ちいさなちいさな王様

この世の中のことは全て本当のことなのか? 僕の人差し指サイズの小さな王様。王様の世界では大きく生まれて成長するにつれ小さくなり、しまいには見えなくなってしまうという。長きにわたって愛されてきた30万部突破のドイツのベストセラー小説。「いま、大人が読むべき絵本」と柳田邦男氏推薦。

上記バナーのAmazon商品サイトより引用

 

 著者のアクセル・ハッケは1956年生まれで、南ドイツ新聞の記者をしながら作家活動をしていた人である。

 

 表紙の絵は、ミヒャエル・ゾーヴァというドイツの画家によるもので、挿絵の評価が高いようである。

 

 

 本書の中にも数点の挿絵が入っている。

 

 とは言え、この本は子ども向けの絵本ではない。

 

 話の中心は「僕」と、僕の部屋にあらわれた人差し指サイズの小さな王様との会話であって、主人公の「僕」は毎日通勤しなければならない大人であるし、話の内容も大人向けであると思われた。

 

※本文中では「ちいさな王様」の表記は「小さな王様」となっているので、この記事でも「小さな王様」と表記する。

 

 章立ては以下の通りで、実に逆説だらけである。

第1章 大きくなると小さくなる

第2章 眠っているときに起きている

第3章 存在しないものが存在する

第4章 命のおわりは永遠のはじまり

第5章 忘れていても覚えている

 

 

---以下、ネタバレ注意!---

 

 

 各章の内容を見ていくことにしよう。

 

■第1章 大きくなると小さくなる

 しばらく前から、ほんの気まぐれに、あの小さな王様が僕の家にやってくるようになった。(p5)

 物語は既に小さな王様がいるのが当たり前であるように始まり、小さな王様が現れた時の会話について語られる。

 

 それによると、小さな王様の世界では人生は大人から始まり、だんだんと小さくなっていくという。

 

 この小さな王様によって逆転した世界を提示した後、どういう物語が展開されるのかと思って読み進めると、だんだんと大きくなって大人になっていく「僕」の世界が、小さな王様からはどう見えるかが語られていった。

おまえたちは、はじめにすべての可能性を与えられているのに、毎日、それが少しずつ奪われて縮んでいくのだ。(中略)おまえたちの想像の世界はどんどん小さくなっていき、知識はますますふくれあがっていく。(中略)ある日、おまえたちは実際、消防士とか看護婦といった何者かになってしまっていることに気がつくのだ。(中略)こう考えると、大きくなるというより、小さくなっていく、といったほうがいいのではないか?(p15-16)

 この章はほぼ小さな王様との問答で終わる。


 大人になったら人生はどうなるか。

 大きくなるということは可能性がしぼんでいくということだ、と小さな王様は言っている。

 とはいえ、誰かにならないわけにもいかない。

 どちらかと言えば、早く誰かになりたいと思って大人になる。

 

 可能性というものは、ただ可能性であり続けても意味はない。

 

 作者もこのことはわかっている筈だ。

 

 だからこれは謎かけに違いないと思うのだが、深遠な謎かけだなぁ。

 とは言え、大人としてはこの謎かけに答えねばなるまい。

 まずこの謎かけは、「大人になるのであればどうしたら可能性を減らさずにすむかを考えよ」と言っているのだとすることにしよう。

 そして「想像の世界はどんどん小さくなっていき、知識はますますふくれあがっていく」という部分に注目する。

 

 これを逆転してみよう。

 

 知識が増えたら想像の世界が更に膨らめばいいのだ。

 こういう世界はある。

 

 研究はこういう世界である。

 

 知識が増えると更なる謎が現れる。

 研究の世界は、1つの答えが10の新しい謎をもたらすような世界である。


 それでは皆、研究者のように生きよと言っているのだろうか。

 

 そんなこともないだろう。

 

 何事もわかった気になり過ぎず疑問を持ち続ければいいのだ。

 

 怪我をして消防士をやめたからといって、人生が終わりなのではないように。



■第2章 眠っているときに起きている

 次の章はどうなるかと思っていたら、今度は「僕」の方が小さくなって王様の部屋に遊びに行った。

 小さな王様の部屋には夢の箱なるものが沢山あった。

 

 この箱には夢がしまわれているという。

 

 そして「僕」と小さな王様の夢についての問答が始まる。

 日本では、夢の中の自分が現実か現実のほうが夢なのかわからないのではないか、という荘子の「胡蝶の夢」と言われる話が知られているのでそういう話かと思ったら、案外そうではないように思われた。

 確かに「胡蝶の夢」風の問答をするのであるが、小さな王様はこう言う。

おまえは、朝がくると眠りに落ちて、自分がサラリーマンで一日中、仕事、仕事、仕事に追われている夢をみている。そして夜、ベッドに入るとおまえはようやく目を覚まし、一晩中、自分の本当の姿に戻れるのだ。(中略)そうすると、夜のほうがおもしろくなってきて、日中していることなんて、もうおまえにとってはたいして重要ではなくなってくる。というか、もうそれだけがすべて、ではなくなるわけだ。(p35-36)

 特に「もうそれだけがすべてではなくなる」というところに心に響くものがあった。

 

 作者は荘子のような哲学的な問いかけがしたいのではなく、我々が現実の世界に生きていることをわかって書いている。

 

 それ故、夢の中で自分の本当の姿にならなくても、「もう仕事だけがすべてではなくなる」のであれば、現実の中に本当の自分を生きる時間を作っていけばよいのだと言っているように思われた。


■第3章 存在しないものが存在する

 この章では、今度は小さな王様の方が「僕」の職場に行く。

 

 せっかくの休みだから家にいたいという「僕」に、小さな王様は職場に連れて行けと言う。

 その理由を小さな王様は、「何をしたらいいかわからないから」だと言う。

 

 だんだん、この本が読めてきた気がした。

 

 きっとこの小さな王様は、「僕」の童心なのだ。

 

 童心に休みはない。

 休みが必要なのは勤務日の現実から解放されたい大人の「僕」の心である。

 でもそれは、大人の「僕」の心が勤務日には現実に縛られているからである。

 

 そして、小さな王様と歩く職場への退屈な道は、小さな王様の視線によって相対化されていく。

 

 道中で「僕」はいつもは見たことがない竜が職場へいく人々を攻撃しているのを、小さな王様と一緒に目撃する。

 

 驚く「僕」に、小さな王様はこう言う。

おまえは会社へいく途中、一度もなにか妨害するものを感じたことがないのか?(中略)竜のしわざだったのだ(p59)

 小さな王様の説明によると、竜はみんなに職場にいってほしくないのだという。

 なるほど、童心からすればそうだろう。

 

 しかし、作者は大抵の人は職場に行かざるを得ないということを知っていて書いているから、職場を捨てて夢に生きろと言っているわけではあるまい。

 

 むしろ逆に、職場でも童心を忘れなければ現実に縛られすぎずに済むよと言っているように思われた



■第4章 命のおわりは永遠のはじまり

 そしてまた、なかなか深遠なタイトルが現れる。

 

 物語はこう始まる。

 ある気持ちのいい夏の夜のことだった。

 僕は、小さな王様とベランダに出て、床にあおむけになり空の星を見上げていた。(p64)

 「僕」が星を見て自分がちっぽけに感じると言う一方で、小さな王様は自分が巨大になっていくような気がすると言う。

 

 そして「僕」は気がつく。

「きっと、小さな王様が欠けていてさびしい思いをしている人が、世の中には、本当はもっとたくさんいるんだよ。ただ、そのことに気がついていないだけで」(p69)

 王様はその理由をこう説明した。

おれだっていつかはおまえにも姿が見えなくなるほど、小さくなってしまうのだ。(p69)

 この後、二人は想像ごっこという遊びを始めるが、ここでも「僕」は小さな王様に叱られる。

ひとつ質問するたびに、必ずひとつ答えが返ってくるとでも思っているのか!(p71)

 想像しなくなってしまう大人、物事には答えがあると思ってしまう大人、好奇心は失われ
疑問を持たなくなる大人になりつつある「僕」に、いずれ見えなくなるであろう童心の指摘は鋭い。

 

 小さな王様は最後にはどうなってしまうのだろうという謎を残してこの章は終わった。



■第5章 忘れていても覚えている


 いよいよ最終章である。

 

 「絵持ち」のところに絵を売りにいくという小さな王様を、「僕」は手伝うことになる。

 

 小さな王様の説明によると、生活の糧を得るためにはときどき絵を売ったりしなければいけないのだという。

 

 小さな王様の部屋にいった時のように「僕」は小さくなって、二人はミニチュアのトラックで「絵持ち」の家まで絵を運んでいった。

 

 途中で小さな王様は「絵持ち」についてこう説明する。

あいつの家は人の頭の中みたいだと考えればいいのじゃないだろうか。人は、一生、自分のまわりの世界を見続けている。だから見た分だけ、頭の中には数えきれないくらいたくさんの絵がたまっていくのだ。(中略)当の本人が、ひょっとして、もはやそれを思い出すことがないにしても、その絵は一枚一枚、ちゃんと部屋にかかっているのだ。(p104)

 無事に「絵持ち」の家についたが「絵持ち」は不在だったので、絵を家の前に置いて二人は帰ることにした。

 

 帰り道で「僕」は小さな王様にきいた。

「絵持ちは、幸せなのかなあ」(p107)

 小さな王様は答えた。

不幸なはずがあるものか!(p107)

 こんなに沢山の絵を持っているのに不幸なことがあるだろうかと言うのである。

 

 こんなに絵があるのだからいつでも思い出せるよ、と童心が言っているように思われた。

 

 これが「僕」と小さな王様の最後の会話であった。

 

 部屋で我に返った「僕」は、「絵持ち」が絵を受け取った印を見つけて物語は終わる。

 

 その印は、「赤い」グミベア―というお菓子であった。

 

 「僕」の心が、小さな王様のメッセージを受け止めたのだろうなぁという余韻があった。

 

 

■おわりに

 

 あからさまに大人向けと思わせる内容にもかかわらず、いろいろな余韻の残る作品であった。

 

 アクセル・ハッケの他の作品を確認してみたところ幾つかあったが、同系統の作品としては日本語版が2019年に出版されている「僕が神さまと過ごした日々」という作品が目についた。

 

 

 また、下記のエッセイ集も面白そうであった。