小笠原望「診療所の窓辺から」ナカニシヤ出版2017/刈谷たかし遺句集「ちびた鉛筆」 | 日々是本日

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bookudakoji の本ブログ

 一昨日の記事で、小笠原望「診療所の窓辺から」について書いた。

 

診療所の窓辺から―いのちを抱きしめる、四万十川のほとりにて―

 

 この本は医師である小笠原さんが、四万十川のほとりの診療所での日々を川柳とともに綴ったエッセイである。


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※6ページ分(連載2回分)の試し読みあり

 

 ページをめくる毎に、この川柳という形を目指して日々の出来事に想いを巡らすという営みが、小笠原さんの中で日々の診療だけでなく人生を支える源にもなっているのだろうと思われていった。

 

 川柳の中で特に印象的だったのは、この金平糖を詠んだ句だった。

 

てのひらの

金平糖が

ころがらぬ

 

 金平糖には角があります。てのひらにのせて飴のように転がそうとしたら、びく
ともしません。 小さな金平糖の意思を感じます。 認知症のお年寄りも、 言葉を持たない赤ちゃんも、意識のない寝たきりのひとも、みんな自分の意思はあると思います。その意思を尊重することの大切さをてのひらの金平糖に感じます。

※小笠原望「診療所の窓辺から」ナカニシヤ出版,p164 より引用

 

 この句からは、小さな金平糖に意思を感じることができる小笠原さんの繊細さと優しさが伝わってきた。

 

 するとその後で、

 

『遺された二十万句を通して亡き父と「会話」する』

 

というタイトルの回があり、亡くなった父親の遺句集を家族で作った話が書かれていたのである。

 

 このこと自体がなかなかできない経験である。

 

 本文からこの箇所を引用する。

 

 先日、八年がかりの父の遺句集が完成した。父の遺した句帳百四十九冊から、息子から見た父らしい句をぼくが選んだ。ちびた鉛筆とメモ用紙を持って、父は毎朝散歩をしていた。そのメモ用紙をノートに貼り付けていた。
 昭和三十年代からの、父の肉筆の句帳と向かい合いつつ一句一句を選んでいった。全部で二十万句はあっただろうか、そのなかから一万二千句を選び、さらに千二百句に絞った。
 句を選びながら、父と会話をしている気持ちで余韻を楽しんでいた。父の句は堅実で、家族などの身近な素材が多い。このときには父はこんなふうに思っていたのかと再発見があった。
 表紙の色を病床の母が選び、装丁をぼくの長男がして、題字を兄の妻、挿絵を妻が描いた。一家総がかりの句集ができた。「句集はまかせた。無料でみんなに読んでもらってほしい」と、生前の父は言い残していた。

 よく眠る妻それでよし旅にいる
 子のために生きた一生だっていい
 私からどうして好きといえますか
 貧しさが夫婦のきずなだったかも
 都市砂漠らくだの鈴が聞こえない
          (句集から)
 苅谷たかし遺句集「ちびた鉛筆」。

 

※小笠原望「診療所の窓辺から」ナカニシヤ出版,p175-176 より引用

 

 こうして作られた句集が、苅谷たかし遺句集「ちびた鉛筆」である。

 

 そしてエッセイの後半で紹介されている五句は、二十万句のうちから選ばれた五句である。

 

 この二十万句から選ばれた五句を鑑賞していると、本文からでは読み取り切れなかった小笠原さんの優しさが感じられた。

 

よく眠る妻それでよし旅にいる

 句中の妻が小笠原さんの母親であったどうかはわからないが、寝たきりになった妻の介護をしている夫の姿が連想された。寝ているだけでもまだ夢の中で旅ができるという夫の優しい視線が見える。

 

子のために生きた一生だっていい

 一生を総括しているような表現の仕方が、そろそろ人生の終わりを迎えつつある大切な人を想像させる。「子のために」ということから妻か母親の姿が連想される。誰かのために生きることの素晴らしさを控えめに肯定している、その控えめさによって、かえって自分のためだけに生きることのつまらなさを思わされるところがある。

 

私からどうして好きといえますか

 反語的な終わり方から、好きと言えない理由があるのだとわかるがその内容は定かではない。自分から好きとは言えないというそこだけを表現したことによって、読み手は伝えたいけれども伝えられない気持ちを抱え続けている心情を真っ直ぐに想像することになる。

 

貧しさが夫婦のきずなだったかも

 最後の「かも」という終わり方をどう受け止めるかによって感想にはかなり違いがでるように思われる。個人的には、貧しさが絆であったと断定するよりも、「かも」という終わりにしたことによって、真実はわからないけれども大切なのはそこではなくて結果的に乗り切ることができてよかったという安堵感が感じられた。そして、結果的に問題を乗り越えることができた今から思ってみると、かえって貧しさが絆になっていたかもしれないことに気づいたという、今の安堵感から過去を振り返っている心情が伝わってきた。

 

都市砂漠らくだの鈴が聞こえない

 砂漠にだってラクダがいるのに都会には生き物の声がしないという主旨であると読んだ。これだけの読みだとこの句が毛色が違うように感じられるが、聞こえないのはラクダの声ではなくて、ラクダの鈴の音であるとしている。ラクダの鈴は人が付けるものであるから、ないと言って嘆かれているのは実は人と動物の共存であると思い至って、この句が選ばれた理由がわかった気がした。

 

 こうして感想を書いてみると、小笠原さんの金平糖の句のように、いずれの句にも人の心の機微を捉える繊細さとそこに流れる心情を汲み取ろうとする眼差しが感じられた。

 

 恐らく川柳のプロが選べば、この五句にはならなかったことだろう。

 

 それ故にこの選ばれた五句から、本文だけでは読み取り切れなかった小笠原さんの優しさが伝わってきたのであった。


 尚、その後の小笠原さんの著作を確認したころ2021年に書き下ろしエッセイが出版されていたので、こちらも挙げておく。

 

▼小笠原望さんの最近のエッセイ