アジャン・ブラム「マインドフルな毎日へと導く108つの小話」
第59話 思いやりの羽
マインドフルな毎日へと導く108つの小話
Amazon |
生まれつき耳の聞こえなかった男性の話である。
---あらすじ---
生まれつき耳の聞こえない男性が、
両親と病院に来ていた。
医者は手術をすれば耳が聞こえるようになる可能性があると言う。
両親は可能性を信じて息子に手術を受けさせた。
手術を受けた息子は耳が聞こえるようになった。
そして、医者と両親に激怒して言った。
「こんな意味不明の雑音に耐え続けなくてはならないとは!」
----------
何が本当に相手のためになるのかを考えてケアすることは、
実に難しいことである。
この項の冒頭で著者はこう書いている。
「思いやりを美しい鳩だと想像するならば、知恵はその羽です。
知恵のない思いやりは飛び立つことはありません。」(p125)
思いやりの難しさを伝えるという主旨からすると、
この話は極端すぎるように思うが、
以下のような後日談を加えることもできる。
視覚の場合で言うと、
水晶体などの器質的な障害で生まれつき目が見えない人が、
成人になってから手術で目が見えるようになるケースがある。
(心理学では「先天盲の開眼」と呼ばれている研究である。)
この場合、器質的に問題がなくなるだけでは目は見えるようにはならない。
これは赤ん坊の状態に近いものであって、
赤ん坊も標準の三次元世界が「見える」ようになるには、
幼児期の間の外界との視覚的な相互作用が必要である。
同様に、成人になってから手術で目が見えるようになったケースでも、
標準の三次元世界が「見える」ようになるには相応の訓練が必要なのである。
さて、一年間の訓練の後にようやく、
「見える」とはこういうことかとわかるぐらいには回復したとしよう。
その時点までくれば、手術をして良かったと思いなおすかもしれない。
そして、手術を強く勧めた両親に感謝するかもしれない。
それ故に、何が本当に相手にためになるのかということは、
長期的な観点でも考える必要がある。
また、自分についての自分の判断も正しいとは限らないということである。
この、長期的な観点でも考えるということは、教育の難しさに通じるものがある。
教育においてはしばしば言われるのは、
釣った魚をあげるのと魚の釣り方を教えるのとの違いである。
釣った魚をあげることとは、答えを教えることである。
これは易しいが、これを続けていれば自分で答えを見つけられるようにはならない。
魚の釣り方を教えるとは、答えの見つけ方を教えることである。
見つけられるようになるには時間がかかるが、
見つけ方を教えればいずれは自分で答えを見つけられるようになる。
ただし、良い答えを見つられるようになるには更に時間がかかるだろう。
自分の判断も正しいとは限らないということには、
自分がケアする場合とケアされる場合の両方が考えられる。
前者の場合、相手の判断も正しいとは限らないとすれば、
ケアする方は何に基づいて判断することができるだろうか。
これはもうケアする方の確信でしかないように思われるが、
この「確信」は実体験と曇りのない心が告げるものである必要があるだろう。
後者の場合に必要なことは、
どのような結果であっても他人のせいにはしないということだろうと思う。
現実には、他人が釣った魚を食べることもあれば、
自分が釣った魚を食べることもあるだろう。
他人が釣った魚であれ、自分が釣った魚であれ、
それが良い魚であるとは限らない。
良い魚に見えても実はそうではないかもしれない。
互いに最善を尽くすしか道はない。
そのために、マインドフルな心はある。