馬来田国造の創建した神社 菅生神社 木更津市 | 未知の駅 總フサ

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千葉県=東国は蘇我氏に縁の地であったという痕跡を探し、伝承・神社・古墳など諸々を調べています。

百嶋神社考古学にご興味を持たれた方はブックマークの「新ひぼろぎ逍遥」さんを訪ねてみてください。

今回は袖ケ浦市のお隣、木更津市にあるコチラの神社です。

 

 

菅生スゴウ神社

木更津市菅生字高千穂294-1、295-1

 

鳥居の目の前が線路なんです

カラフルなJR久留里線の列車が走ってます

振り返ると屋根付きの門?と階段

登りきると開けた場所に道路とその先に鳥居

左手に神社があります

御手水

拝殿の全体写真を撮り忘れました

神紋の入る場所に「社」の文字が

真の神紋はなんなのかなぁ

菅生社の扁額

本殿を左から

背後には小高い山が

本殿裏手の下部にある謎の扉

只の物入れか、御籠りに使う特別な場所か

本殿を右から

彫刻は雲がテーマ

「雲」かぁ・・・

 

 

「千葉県神社名鑑」によると

主祭神 瓊々杵尊

相殿 木花開耶姫命・大山祇命

社伝によると馬来田国造の創建といわれ、往時は菅生明神と称されたが、明治元年菅生神社と改称。同4年10月村社に列す。社地は高千穂山の中腹やや平坦なところを占め眺望絶佳。

 

「千葉県神社明細帳」によると境内社は

富士嶽神社(木花開耶姫命)

疱守神社(大己貴命)

琴平神社(大物主命)

北野神社(菅原道真公)

栗島神社(少名彦命)

 

現地取材で発見したのですが、先程の画像で気が付いている方もいると思いますが

 

 

道の向こうに鳥居がありますよね。

なに?何があるのっ!!??

 

道があるじゃん!

突 き 進 め !

蜘蛛の巣だらけだけど

そんなものは我を止められないのデス!!

 

小径に沿って進んでいくと

右手に石祠

こちらが

神武天皇を祀る石祠なのです!!

なんだろう、境外社になるのかなぁ

 

 

神社の鎮座している地の裏手の山は高千穂山ですし、主祭神は瓊々杵尊ですし、神武天皇石祠まであって、嫌でも九州との繋がりを

 

ビンビン

 

感じますよね~。

菅生神社は馬来田国造の創建といいますが、それを裏付けるように当神社の裏手の高千穂山周辺には古墳が多く点在しています。

これらは高千穂古墳群という名称で12号墳まであります。

そのうち円墳が10基、7号墳は前方後円墳、9号墳は帆立貝式古墳とされています。

でも7号墳に関しての調査で初めは円墳であったものに後から前方部を造設したものであると判明しているのです。

ということは馬来田国造は主に円墳での墓葬であったということになります。帆立貝式や前方後円墳は後からなんらかの影響を受けての築造でしょう。

古墳の他にも小櫃川床になってしまいましたが有名な菅生遺跡もありますし、古代に繁栄していた土地であることは間違いありません。

 

馬来田国造について少し説明しますと、祖先は天津彦根命で茨城国造の祖である建許呂命の子・深河意弥命が初代馬来田国造になっています。天津彦根命は百嶋神社考古学では神沼河耳命のことです。

深河意弥命の後裔かはわかりませんが、袖ケ浦市飯富の飫富オフ神社の氏子さんに深河姓の方がおられます。飫富神社は神沼河耳命の兄である神八井耳命が創建したという神社なので、深河氏が存続しているということに軽く感動を覚えます。

 

も~ビンビンに

九州ですよ。

 

支配領域は上総国望陀郡、現袖ケ浦市全域、木更津市の大部分、君津市と鴨川市の一部となっています。金鈴塚古墳など小櫃川下流域の木更津市内にある祇園・長須賀古墳群はこの国造が造営したと考えられています。

金鈴塚古墳からは馬具が出土しています。

馬来田国の民は騎馬民族であったことになります。

 

馬来田国造は九州からきた多氏であり、騎馬民族だという背景はわかりましたが、まだ幾つか疑問があります。

 

その1

「馬来田」はどういう読みで、どういう意味なのか。

その2

万葉集の和歌にある「馬来田の嶺ろ」の山はどこなのか。

その3

馬来田皇女にちなむ地名由来伝説は本当なのか。

 

 

検証していきましょうか(ワクワク)

 

その1

「馬来田」はどういう読みで、どういう意味なのか。

 

「馬」という字は呉音「ma」に由来していて、音読みは「バ」。

常用漢字表外だと「マ」「メ」。

訓読みで「ウマ」。

名前には「タケシ」「ムマ」が使われます。

意味としては

①うま

②月

③かずとり(数をかぞえる事)

④罵る、罵る時の例え

⑤悪い、悪いものの例え

⑥卑しいもの

 

地名だと「馬来田」は後に「望陀」に変化しますが、「古代地名語源辞典」によると

 

まうた(望陀、望多)

「和名抄」上総国望陀郡、陸奥国亘理郡望多郷。

現木更津市望陀の名が残る。古くは「馬来田」と書き、ウマクタ、マウタとも呼ばれた。「湿地」をいうウタ、クタに接頭語マの付いたものか。

「山間の狭所」をいうウタ(=ウト)の可能性もある。

 

とあります。ウタはムタに通ずる語で「湿地」のことです。

つまりウマクタとは湿地を意味する言葉です。

 

地形的に見て小櫃川沿いに発展した国であったと考えて相違ないと思います。縄文時代は海進で海が現在よりも内陸にありました。

海が次第に後退していき川沿いに湿地が広がり、人々はそこを開墾して暮らしていました。世界四大文明もすべて川沿いです。

確実な水源があることが古代において拠点を置く重要な条件でした。

 

他にも「馬来田」は「ウマキダ(牧田)」の意味で馬を囲って牧畜する所をいう説や「ウタ」は山間の狭所をいうという説もあります。

 

 

その2

万葉集の和歌にある「馬来田の嶺ろ」の山はどこなのか。

 

万葉集には「馬来田」を入れた歌が二首あります。

 

宇麻具多能 祢呂乃佐左葉能 都由思母能

 奴礼弖和伎奈婆 汝者故布婆曽毛

(馬来田の 嶺ろの笹葉の 露霜の

 ぬれてわ来なば 汝は恋ふばそも)

 

宇麻具多能 祢呂尓可久里為 可久太尓毛

 久尓乃登保可婆 奈我目保里勢牟

(馬来田の 嶺ろに隠り居 かくだにも 

 国の遠かば 汝が目欲りせむ)

 

 

歌に詠まれている「馬来田の嶺ろ」がどこなのか。

推測しているサイトさんは山ほどあるのですが、私なりに推測するならば、あの辺で一番目を引く高さのある鹿野山を推したいかなぁと。

 

前の記事で書いた率土神社に画像を載せましたが、この景色ですよ。

薄っすら遠くに見えてるんですよ、鹿野山

拡大すると、ほらね

 

標高のある山って漁師の方達には位置を確認する「山アテ」に利用されたりしますし、「この山がある所が自分の故郷」という感覚があると思います。そういう感覚を抱く山とは、やはり目立つ山だと思うのです。

関東で言えば富士山のような。

だからこそ歌を詠むために故郷を思い浮かべた時に、望郷の念に心を突き動かされて、その景色を詠ったのだと思います。

 

 

その3

馬来田皇女にちなむ地名由来伝説は本当なのか。

 

田村実氏の著書「房総の民唄をたずねて」のなかで「昔継体天皇の三女にうまくた皇女と申す方があって、田植えの頃になると美しい馬に乗ってその状況をご覧になった」という伝承があり「以来この里を「うまくた野」とよぶようになっった」という地名起源が紹介されています。

 

継体天皇は一説によれば古代高句麗の王・好太王で出自は安息氏であったといいます。高句麗の正当王家である高氏と血族になったものの、ペルシャ人の血を引く為に地位を追われ、日本に渡ってきた好太王は継体天皇と名乗り武蔵を開拓したといいます。

古代日本には大陸の国同士の対立により追われた皇家も含めた人々が避難してきて、日本の地で新たに国を興し暮らしていたようです。

「魏志倭人伝」にあるように邪馬台国以外にも多くの国があったのです。そして小国同士、大陸の大国に潰されぬよう、結束を図るために積極的に血縁関係となっていきます。そうして出来ていったのが古代倭国らしいです。

 

通史にはまったく出てきませんが、古代の勢力図や大陸の国同士の力関係も学んでいかないと、この国の真の歴史には辿りつけないようです。でもそれだけスケールのでかい国に今住んでいて、真実を知られたくない輩が消し忘れたヒントを拾い集めながら、真の歴史を探究していくのって震えるぐらい楽しいです♪

 

さあ、ここからはいつものように証拠からの妄想話です(笑)

馬来田皇女は父である継体天皇に福井県福井市にある足羽神社の巫女を任されます。この神社では継体天皇の御霊を祀っています。

 

この足羽神社の神紋が「三光の紋」なのです!

しかも千葉県にはない紋なんです!!

画像は用意できなかったので足羽神社の公式HPを見てきてください!!!

行ってきて~!

 

 

 

 

・・・見た?

 

ね?これが千葉の三光紋の原型だと思うんですよ!!!!

丸の中に北極星と月と太陽!

もー!今度三光紋の記事書くっ!

 

三光紋は蘇我氏の紋だと思っているのですが、継体天皇も絡んでいるのが明確になり嬉しい限りです。

 

さてさて、まだ終わらないですよ。

もう一人「馬来田」の名がつく女子がおります。

印波国造である伊都許利命の妻の馬来田郎女です。

彼女は成田市台方にある麻賀多神社の境内社に祀られています。

「麻の実」紋ってダビデの星にしかみえない

 

 

麻賀多神社は伊都許利命が創建したのですが、彼の祖も多氏である神八井耳なのです。

 

「多氏」のいるところ「馬来田」が関係し、「馬来田」の地には「多氏」がいる。

なんだか理由はわかりませんが、二つは非常に密接な関係にあるようです。

 

 

幾つかの神社を調査してみて、古代の千葉には九州から多氏が来ていて、国を興し国造にもなっていたことが、よくわかりました。

以前記事にした銚子市の阿蘇神社は八木氏の勧請でしたが、彼らも九州から渡ってきた一族です。

 

古代から多くの九州の人々が渡ってきていたことは、今後の神社調査に重要なポイントになってくると思います。

あとこんな事を書くと怒られるかもですが、菅生神社の真の御祭神はニニギではないと思います。たぶん御祭神が不明になってしまったので地名が高千穂だからニニギにしたのではないかと。

そう考える根拠は百嶋神社考古学だと許氏のニニギと多氏の神八井耳で二人は全く出自が違うからです。ちなみに相殿の大山祇命・木花開耶姫命の親子は金首露王の後継です。

取材した感じでは菅生神社は男神だと思いますが、ニニギは違うと思います。まぁこの方向で考えると飫富オフ神社の御祭神も「えっ!そっち?」って感じなんですけどね(笑)

 

最後に境内社を。

 

拝殿から見て左側にありました

こちらは拝殿から見て右側に

 

今年になってから、これまでの取材がやっと線になってきた感じです。

でもまだまだ神社はたくさんあるんですよね~。

紹介したいトコロもいっぱいある!!

取材、がんばりますっ!