今回も引き続き袖ケ浦市の神社です。
袖ケ浦の神社ってそれぞれかーなーり個性豊かなのですが、この神社も非常に濃い特色を持っております。
率土神社ソットジンジャ
袖ケ浦市神納字宮ノ本3382
道路沿いの鳥居
ものすごい階段!
ひいいいいいぃぃぃぃーーーーーー!!!
登っても登ってもっ!!(ゼーハー)
や、やっと・・・台地上に・・・到着・・・
そして振り返ると・・・
この景色!絶景!疲れも吹っ飛びますね!
下に見えるのは県立袖ケ浦高校の体育館とグラウンドです
遥か彼方に鹿野山も見えます
長い参道の先に御鎮座されてます
元は率土大明神だったんですね
なかなか他にはない字を使うと思っていたのですが
他にも「率」のつく神社ありました
拝殿
扁額
神紋:八つ波輪紋
この神紋も県内では他でみたことないです
本殿を右から 女千木ですね
同じく左から 装飾は一切ないのですが主神は女神様
まずは境内にある御由緒を刻んだ石碑の内容を以下に。
(数字は123表記にしてあります)
御由緒
一 御社名
率土神社(そっとじんじゃ)
一 御祭神
埴安姫尊(はにやすひめのみこと 土の神のち産業の守護神)
一 御相殿
倉稲魂命 大己貴命の2柱
一 境内神
大杉神社 疱瘡神社 淡島神社 厳島神社 阿夫利神社 水神社 日枝神社5社 金毘羅神社の13柱
一 御創建
天平3年(730)と傳へられる
一 御神域
1877坪(6193平方米)
一 御本殿
神明造 延寶6年(1679)の修復
一 御神体
鏡と傳へられる
一 御神木
けやき
一 御神紋
八つ波輪
一 御神寶
縁起書 神楽の面 棟札 祭祀具 神社周辺から出土した土器 その他
一 御祭典
元旦祭 1月1日
御飾焚き(小正月) 1月15日
節分祭 2月節分
春季大祭(縁起式) 2月9日
例大祭 10月15日
御上り(神無月の神事)10月31日
秋季大祭(新穀祭) 11月23日
一 社名の由来
出典は史経の「溥天之下莫非王土 率土之浜莫非王臣」によるもので気宇雄大な社名である
一 其の他
當社は旧神納村の総鎮守で隣の式内社飫富神社と特殊な関係にある
當社の神楽囃と神楽の面は文化財に指定されている
當社は耳の疾患に霊験がある
當社の周辺は古墳の集落地で前方後円墳などがあり 附近一帯から土器類が出土している
全文ご紹介してみましたが幾つか掘り下げたいと思います。
その前に市指定文化財に指定されている率土神社縁起もご紹介します。
天竺摩伽陀国の王盤古帝は、隣国の王により国を追われ、皇后と7人の皇子、家臣の大朝臣清麻呂等を従え船に乗り大海原を漂流した。そして39ヵ月後の養老2年(718)1月、日本の播磨国飾磨郡に漂着し、ときの帝・元正天皇により都の奈良に迎えられた。天皇は天豊媛命の名を授け新宮殿を造るなどして一行を厚くもてなした。しかし皇后は東国に赴いて民を守りたいと志し、7人の皇子と家臣の大清麻呂・岡本安重などの家臣を伴い、同年4月都と発って伊勢国から船出して東国に向かった。一行は6月初午の日に上総国望陀郡飯富に到着、多くの船で到着したので、その場所を「千艘谷」と呼んだ。長い船旅で飢えに悩んでいたところ、村人からムギコガシを献上されて飽食し大いに満足した。皇后は大変喜び、村人に以後地名を「飽富あきとみ」と称するようにと言われた。
皇后は岡本安重ほか女官達を伴い、一行から別れて隣村に至ると村人たちは貴人の到来と喜び、新しい社を造って歓迎した。皇后は「ここに永住し死後もこの郷を守護しよう」と決め、神宝の鏡を納めた場所に因んで、地名を「神納かんのう」と命名した。天平2年(738)10月1日皇后は63歳をもって崩御。従者の岡本安重はこの旨を天皇に報告するため神納の多田出雲という者を伴い都に赴いた。天皇は聖武天皇に代替わりしていたが、皇后崩御の報告を聞かれて「我が父元正天皇の遺言に従い盤古帝皇后を率土大明神埴安尊と号すべし」と宣下され併せて岡本安重に亡き皇后の墓守を命じられた。
この縁起は二年前に初めて当神社を取材した時に拝殿前に置かれていた「率土神社の概要」にまとめられていたものに、袖ケ浦町史研究などの情報を足したものとなっています。
本当は御縁起原文を確認したかったのですが、書籍に載っておりませんでした(涙)縁起にある内容は全てが真実というわけではないと思いますが、個人的にとても気になる時代背景ですので考察♪
結論から言えば聖武天皇から埴安姫命の名を授かった皇后(以下埴安姫命姫とします)は実在した可能性が高いと思います。
縁起にある養老2年は西暦718年で安房国が建国された年でもあります。
この年に摩伽陀国から盤古帝一行が播磨国(現兵庫県)に漂着とありますが摩伽陀国とは現在のインドの事で、養老2年にインドの国王で訳経僧であった漢名:善無畏(インドではシバカラシンハ)が富山県や奈良県で浄域を創った伝承があり、後に寺院が建てられています。
当時高僧は一流の知識人であり、皇家も皇子皇女の教師として招いていた存在でしたから、インドから渡来していた事もあったでしょう。
しかし縁起の中で「帝」とされている「盤古」は中国の神話に出てくる天地創造の神の名前です。おそらく盤古帝の名前を出すことによって埴安姫命の出自を不透明にし、古事記のように神話の世界の物語だと思わせたい人がいたのではないでしょうか。逆に考えるなら、真実を残すために敢えてトンデモな設定を加えたという事も考えられます。
「漂着した一行」については藤原政権により滅ぼされた国内のとある国の大王一行か、蘇我一族のどなたかであったと考えます。
正史の記録だと乙巳の変から大友皇子の反乱までの蘇我氏VS不比等戦争は672年で終結したかのようになってますが、実際はまだまだ火が消えていなかった筈です。
蘇我一族の主要な成年男子は殺害されていたとしても妻や娘・幼い子供は生き残っていたと思います。その方たちは僻地に行かされて監視されながら生き延びていたのではないかと。
正史だと蘇我氏の女性が皇室に嫁していますが、これもある程度は史実だろうと考えます。私は当時蘇我氏は正当皇室であったと考えているので、政権を簒奪した側が旧王朝の血を取り込んで自分たちを正当化するのに妻にしたのだと思います。そうすれば母系で血が続いていくので諸外国にも体面が保てますから。
生き残った蘇我一族が再び力を着けて復権することのないよう、藤原氏側は用意周到に蘇我氏を支持する力を奪おうとします。
書物は多くを語ってはくれませんが養老4年(720)には九州で大規模な隼人の反乱が起こっています。
これまでにも度々蘇我氏と隼人の関係を書いてきましたが、この反乱で多くの隼人は命を落とし、捕虜となってしまったといいます。
埴安姫命姫一行が兵庫県に漂着したのはその2年前の養老2年(718)です。簒奪政権側の締め付けが厳しくなり命の危険も感じてきたことから隼人国の大王家が護衛の家臣をつけて、女性や子供を安全な地に逃した可能性があります。
秘密裏に北へ逃れる計画であったのが情報が洩れ、兵庫県で藤原氏側に見つかってしまい、監視付きで東国に流されたのではないでしょうか。
そう考えると率土神社の春季大祭において神前で縁起書を読み上げる神事があることも辻褄があうんです。因みにこの春季大祭が行われる2月9日【旧1月9日】は皇后の誕生日だそうです。
香取市大倉の側鷹神社で行われていた白状祭に通ずるというか、私の感覚だと埴安姫命姫に「これこれこういう事になってますから。間違って変な事言わないでくださいね。わかってますね?」と毎年縁起を聞かせて念押ししているように感じるのです。
本当の事は秘しておいてください
ってね。
ちなみに白状祭の場合は毎年罪状を読み上げさせることによって侮辱していた感じを受けます。
さて、藤原氏側の監視役ですが大清麻呂ではないかと。
そう考える理由は袖ケ浦市飯富にある飽富アキトミ神社です。
この神社は多氏の神社といわれていて社号も元は飫富オフ神社でした。多氏は「太」「大」「意富」「飫富」「於保」とも表記されますが、この多彩な表記の如く正史では今一つ不鮮明な氏族です。
百嶋神社考古学では多氏の祖は漢族に追われて雲南省麗江から日本に渡ってきた黎族で九州の阿蘇氏だとしています。阿蘇氏の祖は神八井耳命です。
飽富神社の社伝によれば綏靖天皇の頃に天皇の兄・神八井耳命が創建したと伝えます。この他、多氏の後裔氏族に長狭国造や都祁国造がいるのですが、同族と考えると袖ケ浦市岩井に国勝神社(御祭神:事勝国勝長狭神)がある意味も納得できます。ただし長狭国造は「国造本紀」に記載されていない詳細不明な国造です。同時に上総国山辺郡土気郷も以前記事にしましたが地名由来が謎に包まれており、私は当地には土気国造=都祁国造がいたことから「トケ」という地名が残ったのではないかと考えています。
房総から痕跡を消されている二カ所の国造たちが多氏であったとするなら、飽富神社の多氏とは異なる一派であったと考えます。
なぜなら、当神社周辺は古代の馬来田国造がいた地だといわれていて、後から多氏が当地に移住してきたと考えられているのですが、移住してきた氏族なのに延喜式に神社が載るという破格の扱いなんです。その理由は「埴安姫命姫の監視役であった」としか考えられません。
長狭国造・都祁国造は藤原氏に抵抗した多氏、大安麻呂の方は藤原氏に従属した多氏だと思います。
ところで、蘇我氏の影響力の強かった東国にわざわざ移住させた理由ですが、いまだ蔓延る藤原氏に従わない反乱分子たちを鎮圧させる目的があったのではないかと。
そう、土気の高海親王と同じです。
藤原氏側としては下手に闘って資金や人材を割くよりも、蘇我氏の生き残りを上手く利用する方法を選択したのでしょう。
失敗すれば、それを理由に殺害してしまえばいいですからね(ボソリ)
ところで注連縄っていろいろな形状がありますが奉斎していた一族で異なると思ってまして、袖ケ浦市は坂戸神社から飽富神社までは中央から端に向かって段々細くなっている注連縄で、国勝神社から奥地は真ん中が楕円形状にごん太な注連縄です。
中央から先に向かって段々細くなる注連縄
略して段細注連縄
真ん中が楕円形状にごん太な注連縄
略してごん太注連縄
このごん太注連縄は内陸部に多いです。そして段細注連縄は沿岸部に多いです。海岸線沿いに北に移動していった市原市姉崎の姉埼神社も同じ注連縄です。
注連縄についてもいつか調査をまとめたいと思います。
そうそう、姉埼神社には松禁忌の言い伝えがありますが、飫富神社も祭神が松を嫌うという言い伝えがあるそうです。
ということは同じ神様ってこと???
あ、確かにそうです。飽富神社の御祭神は倉稲魂命で、姉埼神社の公式の主祭神:級長斗弁命の別名です。
百嶋神社考古学では倉稲魂命と級長斗弁命(姉埼神社御祭神)は同一神です。彼女は他にも名がありますが、一番知られている名前は豊受姫命でしょうか。百嶋先生作成の多氏系統図には多氏統領として天児屋根命の名があります。そして天児屋根命の別名は級長津彦命なのです。
さてさて、率土神社には「神納神楽ばやし」という獅子神楽が伝わっていて率土神社祭礼と飽富神社祭礼に奉納されます。飽富神社での祭礼には欠くことのできない重要な行事だそうで、「神納神楽あとが先」という諺があり、神納神楽が到着しないと祭礼が行われず、遅れても常に先頭に立って舞ったといいます。
このことから飽富神社よりも率土神社の方が格が上であったと連想してしまいました。例えるなら飽富神社(大清麻呂=家臣)と率土神社(埴安姫命姫=主人)という事です。
他に特筆事項として率土神社は「耳の神様」としても信仰されています。耳の聞こえない人が竹の錐を頂いて帰り、朝晩耳の中へ揉みこむ真似をすると聞こえが良くなるといわれ、良くなった方は御礼に鉄の錐を奉納します。拝殿内陣の「御錐箱」には数十本の鉄の錐が納めてあるといいます。
耳の神様は全国各地に鎮座されています。
ざっと紹介すると
耳守神社
茨城県小美玉市栗又四ケ2051
御祭神 耳千代姫命
武蔵大六天神社
埼玉県さいたま市岩槻区大戸1752
御祭神 面足尊・吾屋惶根尊
耳神社
岐阜県可児郡御嵩町西洞地内
御祭神 不明
耳明ミミゴ神社
広島県尾道市因島土生町1424-2
大山神社内
御祭神 天児屋根命
耳の神様
熊本県玉名郡和泉町東吉地
御祭神 柳川由宇由布大炊助
由来も御祭神も一貫性はありません。
ですが何故か「錐」という点だけ共通していたりします。
でもって大抵由来に耳の聞こえない方がかかわっています。
率土神社も伝承は残っていませんが、耳の聞こえない方が関係しているのだと思います。神社の御縁起に関係している方なのか、別の時代の方なのかはわかりませんが、どなたかが切欠となり始まった信仰なのは間違いありません。
ところで「率土そっと」という変わった読み方の神社名。
音読みなのが非常に納得いかないのです。
地名だと音読みしている名称は読み方が変異した結果であり、元々の意味とはだいぶ離れてしまっている場合が多々あります。
神社名もそうなんじゃあ・・・と疑って使用されている「率」の字を調べてみました。漢字の成り立ちは「洗った糸の水をしぼる象形」でした。だから糸が入るんだ~。
意味はいろいろあったのですが、中でも
「かしら」「おさ」「統率者」「ソツ・ソチ(昔の太宰府の長官)」
がありました。
大宰府といえば九州、九州といえば隼人、そして蘇我氏です!
「土」の方も調べてみたら意外でした!漢字の成り立ちが「土の神を祀る為に柱状に固めた土の象形」なのです。全然知らなかった!土という漢字自体が神様を祀ることを表す文字だったんですね。
漢字の成り立ち、おもしろいなぁ。真剣に取り組もうかなぁ。
千葉県には「率」の字が付く神社って他にないので、どこかにないかと思い調べてみたら、ありました。
率川神社イサガワジンジャ
奈良県奈良市本子守町18
主祭神は媛蹈鞴五十鈴姫(子)・狭井大神(父神)・玉櫛姫命(母神)です。この神社は593年に勅命を受けた大三輪君白堤によって創建されました。
593年といえば正史では聖徳太子が推古天皇の摂政になった年なんですよね~。
摂政か~。摂政ね~。
大三輪君白堤は誰の勅命で神社を建てたんでしょうね~。
率川神社では「率」の字を「イサ」と読んでいます。
「イサ」はヘブライ語「イェシュア」の転訛だという説があり、意味は「守り給え」です。
日本の神様関係だと「イサ」はよく見かける単語ですよね。
国造りの神である伊邪那美と伊邪那岐は「イェシュア・ナミ(守り給え、ナミの血筋)」「イェシュア・ナギ(守り給え、ダビデの王統)」という意味で、「ナミ」というのはダビデの祖母の名前だといいます。
聖武天皇がどれだけの思いを込めて「率土神社」と名付けたのか、当時の国際的な情勢もあっただろうし簡単には想像できませんが、特別に神聖な意味を込めたであろう当神社の御祭神である埴安姫命姫(天豊媛命)は、かなりの身分の方であったということは間違いないと思います。
おっと、忘れるところでした(汗)古墳のことも少し。
実は率土神社周辺は古墳地帯で、神社に向かって立った参道の右側に古墳が2基あります。
率土神社南古墳と中辻台古墳です。
柵があって近づけないんだな
でもほら、もっこりしているでしょ?
看板もあります
率土神社南古墳の看板
う~ん、ちょっと劣化が激しいですね・・・
いつかこういう表示もデジタル化になったらいいのになぁ
QRコード化すればいいと思うんですが
率土神社を背に立つと参道の左手に古墳があります。
率土神社南古墳も中辻台古墳も出土物から6世紀初頭の築造と考えられています。
そして中辻台古墳の側には弥生時代後期から奈良・平安時代にかけての住居跡が発見されているのです!
率土神社の御縁起と時代が合っちゃいましたね~(ウキウキ)
埴安姫命姫の墓が発見されれば神社の御縁起も史実だと確定するのですがね~、残念だ。
余談ですがこの古墳から東方にある「お紬塚古墳」には機織りの音が聞こえるという伝承があります。この伝承が残っていたので古墳の名称に「紬つむぎ」の字を使用したといいます。
千葉県内の古墳には幾つか「機織りの音が聞こえる」の他、「金の鶏が埋まっている」という伝承が伝わっています。
これって何の暗喩なのかな~と考えているのですが、被葬者の出自のヒントかなぁと最近思いつきました。
またえらい長い記事になってしまいましたが、今回はいろいろと調べることが多くて手間取ってしまい、更新が遅くなってしまいました。
袖ケ浦は古墳や遺跡も多く、古代はかなり発展した土地であったので古代氏族について、もっと勉強しなくちゃなぁ~と思いました(汗)
ホントウニネ!
鎮座している神社からみても特殊な地域で記事にするのは難しいなーと感じていたのですが、な ん と か まとめられて一息ついています。
最後に境内社のご紹介。
青面さま
御神木を植栽したことが刻まれている石碑と石祠
率土神社宮司家の祖・岡本安重の墓
日吉大神
天満宮
日枝神社
石祠
石祠たち
大山咋命
六社神社
疱瘡神社・稲荷神社・大杉神社・金毘羅神社・淡島神社・愛宕神社を合祀
本当にそろそろ蘇我氏に係る大発見とか千葉県であったらいいのになぁ。きっと関係地は馬牧にされて踏み均されて跡形もなくなってるんだろうなー。
コツコツ手掛かりを探して妄想がんばります!