今回は神社調査を始めた当初からずっ~~~と謎すぎて、どうやって推理していったらいいか持て余していた件に一つの答えを見いだせたので、ご報告しようと思います。
千葉の神社を調べている方ならば必ず聞いたことがあると思う神社がコチラ。
建市タケシ神社
市原市武士字内神戸205
こちらは現在建市神社が合祀されている鹿島神社です
鳥居の扁額には鹿嶋大明神とありますが・・・
拝殿の扁額は建市神社となっております
現在の鎮座地は「市原市史」によると明治初年に火災の為社殿が焼失したので鹿島神社に遷祀とあります。この出来事の記録が記載されている書物がなんでか少なくて、どういった経緯で合祀されているのか不明だったので是非この情報はいろいろな書物に付け加えてほしいと思いますね。
神社の歴史って有名な神社さんでもない限り、きちんと記録が残されていなくて、元々そこにあったのか遷宮したのか、不明なケースが多いのです。
遷宮した場合、元宮の周辺の情報が非常に重要になってきます。
古墳や遺跡のあるなしや、元宮地の歴史などから新事実が見つかったりもします。
できるだけ移動した経緯もきちんと残しておいてほしいものです。
現建市神社となっている鹿嶋神社ですが、実はとても腑に落ちない点があります。
「千葉県神社名鑑」には建市神社の御祭神は「武甕槌命・大宮姫命・大日孁尊」と記載されています。ですが武甕槌命は鹿嶋神社に祀られていた方ですし、大宮姫命は明治15年に合祀された方で、大日孁尊は明治44年に合祀された方なのです。
そう、建市神社の元々祀られていた方のお名前がないのです!
建市神社の御祭神は「三代実録」にも「建市神」としか記載がなく、神名は不詳です。
遷宮された筈なのに御祭神としてお名前が書かれていないのはなぜなのでしょうか。
神名が不詳であるならば「建市神」として名を連ねればいいと思うのですが、それもしていないのは何か公にはできない事情があるからなんじゃないのか!?(ワクワク)
それなら現地に行くしかねぇっ!!ということで、建市神社の元宮地に突撃してきました。
地図で見ると現建市神社と元宮地の位置関係は下の地図のようになります。
上の赤枠が元宮地
下の赤枠が現在地
割と近いけど地形的には現在地は平坦地で
元宮地は台地上になります
元宮地の正式な住所は不明ですが地元の方に「大明神山」と呼ばれる場所に鎮座していたことがわかります。車で行くなら福増浄水場を目指して行かれるとわかりやすいです。
主要道路から伸びる細い道を入っていきます。
一応舗装はされていましたが小型車一台が通れる狭い道です。反対から車が来たらどうするのかな~(汗)という道なので、浄水場の前の一車線の道路に車を停めて歩いていくのがベストかと。
しかしその小径も両脇草が伸び放題なうえ、歩いている傍から両サイドの草叢からカサコソと何かが動く音が聞こえてきまして。市原在住の方から最近市原もイノシシ被害がすごいという話を聞かされていたので遭遇することに怯えつつ、「イノシシが出たら横に避けてボディにパンチ!」と復習しながら進んでました(実践しないでください)。
そうしてビクビク進んでいると左手に階段を発見!え、ここ?
鳥居も何もない ただの階段ですが
登ったところがフェンスで囲われた建市神社元宮地でした
木が迫力 そしてすごく清地
立派な大木たち なんか場が温か
もののけ姫の森のよう
でも乙事主はカンベンです
柵のほぼ中心に残るこの祠の残骸が元宮ではないかと
グーグルマップで建市神社元宮を検索してもらえると
過去にちゃんとあった祠を見ることができます
2019年の台風被害で壊されちゃったかなぁ
でも現在もどなたかが祀ってくださっているようです
「千葉県神社名鑑」の由緒沿革には
「三代実録」によると、光仁帝の御代の創立で、元慶八年七月一五日、上総国正六位建市神社従五位下を授かる。延喜年中、式外社と定められ、往古班幣の礼に預かる。中古、建市神社と称し、明治元年三月太政官達により建市神社と改称する。同四年七月太政官達により郷社に列せられる。
とあります。この由緒沿革の元となったのが大正5年発行の「市原郡誌」だと思われます。「千葉県神社名鑑」ではカットされた続きには、合祀した神社や取得した土地の面積などが載せられています。
気になるのは明治38年に奥宮再建とあることです。奥宮とは元宮のことだと思うのですが、明治初年に火災で焼失してからずーっとホッタラカシだったということなのでしょうか?
中古は建市大明神と呼ばれたそうで、元の社地は長方形で鬱蒼とした山林にあったといいます。その林も維新の際に御用材として伐採、大正2年には禿山になるほど大量に切られたようです。現在ある樹木はその後に育ったものなのだと思いますが、往時は高い位置にあった神社の杜が航行の目印とされたそうです。
往古の社殿は広大で元宮の後方にある原生林と化した場所が本殿跡地であり、地中から布目瓦がたくさん発見されたといい、地元では瓦石と呼んだといいます。
ところで建市神社の創建についてですが、光仁天皇時代に創建説と、日本武尊が親祭した説の二つが伝えられています。
①日本武尊の場合
千葉県内ではタケルが神に祈ったり、何かした地が聖跡とされ、後から寺社が建てられるという例が幾つもあります。
もしかしたら当地もその一つかもしれないです。
現に建市神社元宮自体が「人見塚古墳」という前方後円墳上に鎮座しており、当地にはタケルの伝説として「人見塚」というものが残っています。
神社の後方に人見塚といふあり。伝へ曰ふ、人皇第十二代景行天皇の御宇日本武尊東夷征伐の為め此地に御巡臨小高き塚に御着あらせらる。里の良人等尊を警衛し奉る。尊御感浅からずして「此地に到りて良人を見たり」と依つて時人社後の丘阜を人見塚と称べり。
(市原郡誌)
現代語にすると「良人」の訳が上手く伝わらないかなぁと思い、原文を載せました。現代語にするなら「聡明で勇敢な人」という感じでしょうか。この古墳は6世紀初頭の築造と推定されています。
②光仁天皇説の場合
光仁天皇は第49代天皇(709~781)で父は天智天皇の皇子・志貴皇子です。妻の井上内親王は聖武天皇の娘で別称に吉野皇后があることから、彼女は蘇我氏の血を引く人物であったと確信しています。吉野=蘇我氏ですからね。
一方光仁天皇については出自改竄や経歴詐称を疑っています。和風諡号が天宗高紹天皇だしー。これって天の認めた唐の高宗から継いだ天皇って解釈できるしー。
なんでイキナリ唐の高宗かというと、蘇我氏を滅ぼした元凶は唐の高宗と則天武后だと考えているからです。唐のバックアップで大和に侵入した百済の亡命貴族だった藤原不比等が勝手に王を名乗り、蘇我氏を滅ぼして王位を簒奪したのが真の歴史だと思ってます。
アジアの王朝において「高宗」って君主の廟号の一つなのだそうです。唐の高宗も本当の名は李治です。
しかし光仁の場合サカサマに「宗高」です。
おそらく光仁は唐からみれば格下扱いであったか、近隣諸国から王として認められていなかったか、何か理由があって真の廟号をつけられなかったのだと思います。
8世紀は蘇我一族の生き残りや蘇我側の関係者らVS大陸から来た新政権側とその取り巻きの小競り合いがまだまだ続いていて、各地で火種が燻っている時代であったと思います。そんな時代に上総に創建された当神社とは、一体誰が建てたんでしょうか。
「市原郡誌」では神社を奉斎した氏族にも迫っていて、「日本地理志料」で高市縣主に触れていることを挙げています。天津彦根命12世の建許侶命の子孫に高市縣主がおり、「旧事記」には建許侶命の子・大布日意弥命は須恵国造で後の周准郡を治めていたが、高市氏も居住していて祖神を祀ったのが建市神社だと記しています。
高市縣主の本拠地は大和国ですが同族として房総に渡ってきた一団もいたのか?ちなみに馬来田国造の深河意弥命は大布日意弥命と兄弟なので須恵国造は同族となります。
前記事でご紹介しましたが、馬来田国造の祖・天津彦根命は百嶋神社考古学では神沼河耳命であり多氏でもあります。つまり高市縣主も多氏と繋がりがあるということになります。
建市神社が延喜式の式外社に入るほどですから、当時藤原氏側にいた有力氏族が建てた神社であったことは間違いないと思います。
ところで建市神社には、もう一つ有名な伝説があります。
それは盗人神であるという伝説です。
平野馨著「房総の伝説」に「どろぼう神」として紹介されています。
市原市の武士というところに建市神社がある。この神様は盗賊を守ってくれると伝えられ、盗人が逃げてきてこの社の山にかくれると、外からはその姿が見えず、追手につかまることはないという。古くからどとぼう神として広く知られている。
この伝説が不思議なのは、これ以上の情報が何も伝わっていない点です。時代も盗人の名前も何を盗んだのかも、すべてが漠然としているのに「泥棒を守護してくれる」という事だけが明確なのです。
「房総の古社」には承和十五年(848)二月に上総俘囚丸子廻毛が反乱を起こし、貞観十七年(865)五月には下総国俘囚が官寺を放火し良民を刹略し、元慶七年(883)二月に上総国俘囚が再度反乱を起こしたことを挙げ、この反乱の翌年に上総国の諸神に昇叙があったことから俘囚の追討に何らかの功があったのではないかとしています。
思うに神頼みはあったんだと思います。
なぜなら元慶七年の反乱では、三十余人の俘囚に対して朝廷側は数千の兵を投入しているんですよ。
三十数名に対して数千ですよ!!
ビックリ!
当時の朝廷の兵士が無能だったのか、俘囚とされた方達が精鋭だったのかはわかりませんが、俘囚扱いされた東国の秦氏・物部氏・隼人の方達は、蘇我一族が王権を奪われた後は執拗に迫害されています。奴隷扱いされ住む地を移動させられ物の様に扱われました。
そりゃブチ切れるわ!
その時に山に潜んでゲリラ戦法で戦ったことが「山に隠れると追手につかまらない」という話になったのでしょうか。
しかし不明なのは守る対象が「盗人」に限定されている点です。
他にも盗人神はあるのだったら、そこからヒントを得られないかと調べてみたら全国に幾つかありました。
■青木明神社
神奈川県横浜市港南区大久保2-1-11
■苅野神社
兵庫県丹波市柏原町上小倉字カツラ山270-1
■盗人神
長野県大町市
■戸隠宮(石門別神社)
岡山県岡山市北区大供表町3-30
■加茂神社
岐阜県高山市松本町78-1
シチュエーションに違いはあれど、すべての神社には「盗人が捕まらなかった」という伝承が伝わっています。ですが御祭神はバラバラで共通点は見出せませんでした。
ネット上では犯罪人や奴隷などが過酷な侵害や報復から免れるために逃げ込んで保護を受ける場所としてアジールが紹介されていました。聖域に入った者に害を加えることを禁ずる宗教的な観念のことで聖庇ともいうそうです。日本では江戸時代に離縁したい女性が逃げ込む駆け込み寺がありましたが、アジールの名残だとの解釈でした。
一種の治外法権ですね。
確かに旧建市神社の鎮座地の側からは武士廃寺跡も発見されており、元宮周辺は古代には宗教的な建造物が建ち並ぶ一角で、治外法権が認められるような力のある寺社であったのかもしれません。
個人的には建市神社に関しては、多氏が関係しているのではないかと思うのです。多氏の出身地といえば九州の阿蘇です。阿蘇といえば阿蘇神社です。
「阿蘇神社祭祀の研究」によれば阿蘇神社の祭神・健磐龍命が南郷谷草部の土地の主・草部吉見神の娘・阿蘇津姫命を嫁盗みしたと伝承にあり、その故事になぞらえた祭礼も続いています。
阿蘇津姫は百嶋神社考古学では懿徳天皇の妃・天豊津姫です。
その妃を強奪した故事が九州では習俗となっていたのか、それとも古代に九州に大陸から渡ってきた民族的にその風習が一般的であったというベースがあったのか、鹿児島の大隅半島周辺には「おっとい嫁じょ」という略奪婚が認められていたといいます。
また健磐龍が阿蘇津姫と別れたのが2月だったので2月の婚姻を禁忌としていた氏子地域もあったようで、一部の地域では2月にどうしても結婚したい場合は嫁盗み(嫁担ぎとも)が認められていたそうです。
もしかしたら盗人神とは嫁盗みをした健磐龍のことなのかもしれません。では建市神社の御祭神は健磐龍だったのでしょうか。
そのヒントが地名の「タケシ」にあると思うのです。
「房総志料」は地名の「武士」は当神社の「建市」の誤りだとしています。地名として考えると「タケシ」という音に当てはめる漢字は本来なら「武石」だと思います。
建市神社の創建が日本武尊であったなら「タケ」は日本武尊の「武」に由来しているのかもしれません。付近にはタケルが訪れたことで名づけられたという「武の郷」や「武峯山」の伝承もあります。
ですが御祭神が健磐龍命であったならタケイワタツという音に「武・建」をあてはめたり、「イワ磐・岩」は「大きな石」という意味ですが当地には巨石はなかったので「石」を用いたということも想像できます。
「タケシ」は元は「健石」であったかもしれません。
他に上総の国司であったという説のある高市皇子にちなむという話も
あります。地名の「タケシ」が神社名の「建市タケチ」が由来なのであれば「タケチ」が正当な音で「建市=高市」だったんじゃないかと考えられます。
「武士」を「タケシ」に当てた理由としては、当地は長柄町にも近いですし前に記事にした物部の王・山座王のいた山倉にも近い立地です。ということは物部氏が居住していたと考えるのが自然だし、モノノベ=モノノフ=武士です。政権に強くは言えないけれど、ここは我らの土地だという意味を込めて「武士」にしたとも考えられます。
高市皇子に関しては、あちこち縁の神社を調べてて、この方は本当に千葉県と関係あったに違いない!と確信を持ってきたので、当地の建市神社の建市神とは、隠されているけど高市皇子を祀ってたんじゃないのかとさえ思えてきます。土気の高海親王の存在もあるし、私が妄想したように高海親王の父が高市皇子ならば、上総国司であったというのも真実味を帯びてきます。
今回のフィールドワークを通して感じたこととしては、やっぱり現地に行かないとわからない事が多いということですね。
建市神社の不可思議な点も現地調査を通して理解できることがありましたし、何よりも元宮の場の空気感を感じたりすることは絶対に必要だと感じました。
元宮地は古墳上にあったので残っていますが、武士廃寺跡はすぐ近くまで造成地となっています。個人的に蘇我氏と関係があったと目している寺社は現在尋ねると失われて公園や地域の公的な施設の敷地になってしまっていることが多いです。同じ市原市門前の姥神社とかね。
建市神社も蘇我氏となんらかの結びつきがあったとするならば、神社名の「建市」の「市」は大和の高市氏だったけど高市皇子と同じ名前だということで信仰を集めたとも考えられます。
そして疑問が一つ。
6世紀初頭の築造とされている人見塚古墳に上った日本武尊はいつ頃来て登ったのかですね。
このタケルは間違いなく神話のタケルとは別人だと思います。
タケルの陵も幾つかありますが、全部日本武尊で数人いるそれぞれのタケルの墓なのではないかと思います。
千葉にきたタケルの正体は一体どなただったんでしょうね。
東京湾で亡くなったことになっている弟橘姫も死んではいなくて常陸に伝説残してますし、伝説に隠された史実を探るなら鵜呑みにしていては先に進めませんね。
さて、今回は元宮地の石祠たちの画像で終わります。
石祠が無数にありました
日宮大権現
金毘羅大権現
「山」だけ読めるので山神社かなぁ
道祖神
妙正明神
武士廃寺跡にいこうとしたら閉ざされていた門
この先に廃寺跡があるんですよ
冬になったら道なき道をいくしかないかな
猪怖いな(汗)
最後に整理すると
・日本武尊が来た時に上った聖跡として神社を創建
・高市皇子が上総国司となって武士廃寺と建市神社神社に寄進したか造営したか、何かあったことから神社名が「建市」となる
・光仁天皇の頃には荒れていたからか再建されたのが創建と伝わっている
こんな流れではないかと思われます。
暑いので神社調査に行かれる方々、
虫と虻と蝮には気を付けましょう。