いすみ市の地名由来 | 未知の駅 總フサ

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千葉県=東国は蘇我氏に縁の地であったという痕跡を探し、伝承・神社・古墳など諸々を調べています。

百嶋神社考古学にご興味を持たれた方はブックマークの「新ひぼろぎ逍遥」さんを訪ねてみてください。

平成の市町村合併によって同17年(2005年)に夷隅郡夷隅町、大原町、岬町が合併し起立。
市名は「夷隅」をひらがな表記したもの。夷隅の地名は古代からみえ、【和名抄】上総国11郡のひとつで、夷灊(いしみ)と記した。大化前代の伊甚(いじみ)国で伊甚国造がいたことから、その名が受け継がれている。
地名は「い(接頭語)・すみ(隅)」で「上総の隅の地方」という説、鰒玉(あわびに出来る真珠)を「いしみの珠」ということに由来という説、古代の伊寺水門いじのみなと のイ(現勝浦)と隅はその奥の意で勝浦の奥に位置する郡という説がある。「いし(石)・み(接尾語)」で石の多い所という意味。
大原町は「おお(美称)・はら(原)」で新しい集落を指したものか。
岬町は太東崎があることにちなむ。
特色:合併した内、旧岬町地域のみ地名に「岬町」を冠している。地名を伝えていく良い方法であるので推奨していきたい。


【あ行】
●今関いまぜき
元夷隅町。飯馬関とも書く。江戸期は今関村。江戸初期に国吉村が4つに分村した内のひとつで国吉を冠称。地名は「うも(埋)・せ(狭)・き(処)」の転訛で、土砂崩れで埋もれ地形が狭くなった所という意味か。

●岩船いわふね
元大原町。江戸期は岩船村。地名は海岸にある船形の岩によるとも、蝦夷防御のための磐船柵があったことによるとも、豊漁の場にちなんだ「祝船」によるともいう。「いわ(岩)・はな(端)」の転訛で石の多い土地の端という意味。

●小池おいけ
元大原町。江戸期は小池村。「お(接頭語)・いけ(水のある所)」で沼沢地を指したもの。

●大野おおの
元夷隅町。江戸期は大野村。里伝によれば寛永20年(1643)に上下大野村に分れ、のちに1村になったという。「おお(美称)・の(野)」で山麓の傾斜地という意味。古代の大野牧とする説もある。

●大原おおはら
元大原町。明治32年(1899)に中魚落(なかいおち)村が改称し成立。江戸期は中魚落郷で寄瀬・小浜・大井谷の3地域に分れていた。もとは寄瀬村の新田で次第に発展、大原宿・大原町と俗称された。地名は「おお(美称)・はら(原)」で平らな広い土地を指したもの。「中魚落」は「なか(間)・い(川)・おと(崩壊地形)」の転訛で山間の川沿いの地辷り地を指したもの。

●大原台おおはらだい
元大原町。昭和56年(1981)に起立。もと小池の一部で山間開発地。地名については大原を参照。

●荻原おぎわら
元夷隅町。戦国期は荻原郷、江戸期は荻原村。地名は「うぎ(浸食)・はら(原)」の転訛で浸食した崖の麓の広い土地という意味。

●小沢おざわ
元大原町。江戸期は小沢村。地名は当地で生産された茣蓙(ござ)が県下に知られていたため、ゴザが転訛したものとの説もある。「お(接頭語)・さわ(沢)」で浅く水が溜まった湿地という意味。当村の世襲名主吉野家は幕末に大多喜藩の窮乏を助けたため、明治維新後同藩の小佐部陣屋の長屋門を礼として貰い移築した。

●小高おだか
元夷隅町。江戸期は小高村。地名は高市皇子の随臣・小高清忠が当地の豪族片岡氏と縁組し土着したことに由来するとの伝承がある。地名は「お(接頭語)・たか(高所)」で高くなっている所という意味。

【か行】
●柿和田かきわだ
元夷隅町。江戸期は柿和田村。地名は「かき(欠き)・わだ(曲処)」で丘陵が崩壊している夷隅川が曲流している地を指したもの。

●神置かみおき
元夷隅町。小高を間に地域が分れており、上を上神置、下を峰谷と呼ぶ。江戸期は神置村。地名は「かみ(噛み)・うぎ(崩壊地形)」の転訛で2重に崩壊地という意味。

●上布施かみぶせ
元大原町。昭和30年(1955)に起立。もとは御宿町上布施。江戸期は上布施村。慶安年間頃(1648~1652)布施村が当村と下布施村に分村して成立。里伝によれば上総権介広常が寿永2年(1183)に源頼朝の嫌疑を受け非命により没した。のちに頼朝は僧徒に命じて追福を行った。その時に当地を布施料としたことから布施郷の名が付いたという。「ふせ(臥せ)」で傾斜地という意味。

●苅谷かりや
元夷隅町。江戸期は苅谷村。江戸初期に国吉村が4村に分村して成立、江戸期は国吉を冠称。年月不明だが苅谷・苅谷中・苅谷下に分れていたという。里伝によれば安閑天皇の時(6世紀前半)春日皇后が行幸されたことから幸野と称したという。これが転訛して刈谷となったという。明治8年(1875)に小刈谷村を合併、字獅子谷に伊甚屯倉跡がある。地名は「かり(刈)・や(谷)」で崩崖になっている谷という意味。

●国府台こうのだい
元夷隅町。江戸期は国府台村。地名は地内の字北細廓が伊甚国造の居址であったことに由来するという。

●小又井こまたい
元夷隅町。古真台・駒台・小俣井とも書いた。江戸期は小又井村。里伝によれば須賀谷村より分村という。地名は「こま(屈む、疲労する)だい(台)」の転訛で崩落地にある高台を指したものか。または「ふる(古)ま(間)だい(台)」の転訛で崖の間の高台という意味か。

【さ行】
●作田さくだ
元夷隅町。江戸期は作田村。地名は「さこ(狭処)・た(処)」の転訛で丘陵で狭まった土地を指したもの。

●札森さつもり
元夷隅町。江戸期は札森村。地名は山神社に山の幸を祈る幸森によるとも、荒木根山地の高札場のあったところによるともいう。「さき(前)・もり(捥ぎ)」の転訛で崩壊地沿いの地という意味。

●佐室さむろ
元大原町。明治初年(1868)に長志郷より分村して成立。一説には宝永2年(1705)同郷より分村したといわれ、江戸期より存在したと思われる。「さ(接頭語)・むろ(室)」で河谷に囲まれた小盆地を指したもの。

●沢部さわべ
元大原町。沢辺とも書いた。明治初年(1868)に長志郷より分村して成立。一説には宝永2年(1705)同郷より分村したといわれ、江戸期より存在したと思われる。地名は沢沿いの地という意味。

●島しま
元夷隅町。江戸期は島村。江戸初期に国吉村が4村に分村して成立。江戸期は国吉を冠称。地名は集落という意味。

●下原しもはら
元大原町。江戸期は下原村。慶長年間(1596~1615)に新田野村から分村し、元禄年間頃(1688~1704)枝郷となったという。地域は細尾に分断された形になっている。地名は親村からみて下に位置する広い土地という意味。

●下布施しもぶせ
元大原町。江戸期は下布施村。慶安年間頃(1648~1652)布施村が分村して成立。江戸後期頃、硯・谷堀・町台・大寺・名熊の5村に分村、明治初年に再び合併。里伝によれば上総権介広常が寿永2年(1183)に源頼朝の嫌疑を受け非命により没した。のちに頼朝は僧徒に命じて追福を行った。その時に当地を布施料としたことから布施郷の名が付いたという。「ふせ(臥せ)」で傾斜地という意味。

●釈迦谷しゃかやつ
元大原町。「しゃくのや」ともいう。江戸期は釈迦谷村。地名は大同2年(807)当地に空海が来て清地の山腹を穿ち釈迦如来像を安置したという伝説があり、そこから地名がついたという。「しゃく(崩れ)・の(接続詞・や(谷津)」で崩落した崖のある湿地という意味。

●正立寺しょうりゅうじ
元夷隅町。江戸期は正立寺村。正竜寺・青竜寺とも書いた。地名は地内の青竜寺の寺名による。

●須賀谷すがや
元夷隅町。菅谷・須ヶ谷とも書く。江戸期は須賀谷村。建久年間(1190~1199)に当地を開いた京都から移住した6名が出雲国氷上川須賀より産土神を遷祀したため、須賀を冠して地名としたと伝えられる。日の子坂は庁南武田軍と万木土岐軍の古戦場といわれている。「すか(砂処)・や(谷津)」で水流により浸食された地形の意味で低湿地。

【た行】
●高谷たかだに
元大原町。江戸期は高谷村。延宝8年(1680)または元禄9年(1696)に山田村より分村。地名は「たき(滝)・やつ(谷津)」の転訛で崖地・急傾斜地・浸食地のある湿地という意味。

【な行】
●長志ながし
元大原町。永志とも書く。鎌倉期は永志郷、江戸期は長志郷。長志村、沢部村、佐室村の3地域に分れていた。明治初年(1868)沢部村・佐室村を分村。地名は「長狭」の転訛だという。「なぎ(薙ぎ)・し(石)」の転訛で岩石の多い崩壊地という意味。

●行川なめがわ
元夷隅町。江戸期は行川村。地名は「なめ(滑)・かわ(川)」で川底が滑る川という意味。

●新田にった
元大原町。江戸期は新田村。江戸中期に内野村が当村と若山村・深堀村に分村して成立。地名は「しんでん」の変化したもので新たに開墾した土地に命名するもの。元和元年(1615)万木城主・土岐頼春の遺子が鶴岡家に代を継ぎ内野村名主となり、分村後は当村の世襲名主をつとめた。

●新田野にったの
元大原町。江戸期は新田野村。当村枝郷として下原村・細尾村・柳戸村があった。地名は「あら(荒)・た(処)・の(野)」の転訛で荒野であった山麓の傾斜地という意味。または「しんでんの」で新たに開墾した傾斜地という意味か。和名抄の荒田郷の遺称地とも。

●新田若山深堀入会地にったわかやまふかほりいりあいち
成立年代不明。地名は3地区の入会地という意味。

●能実のうじつ
元夷隅町。江戸期は能実村。地名は「よく実る土地」の意で夢窓国師の命名とも伝えられる。推測だが「のうじつ」→「よしざね」→「あしざね」と変化したもので、「あし(崩崖)さね(狭根)」で崩れやすい丘陵の狭い谷を指したものか。

【は行】
●日在ひあり
元大原町。戦国期にヒヤリの地名があった。江戸期は日在村。日有村とも。地名は紀伊国日高の字体くずれで、紀伊・和泉などの上方漁民の移住を裏付けるものとの説がある。また昔貴人がこの地を通った時、まだ太陽が在ると言ったことが地名由来となったという。暮れに近い時間に通過した地は薄日(うすひ)と名付け、後に転訛して臼井となった。現在の三門という。日暮という地は惜日といい現在の押日だという。「ひび(皹)・あり(有)」で亀裂(浸食による谷)のある土地という意味か。

●引田ひきだ
元夷隅町。江戸期は引田村。地名は「ひく(低)・た(処)」の転訛で低地という意味。

●深堀ふかほり
元大原町。江戸期は深堀村。江戸中期に内野村が当村と若山村・新田村に分村して成立。地名は当地が承久の乱(1221)に活躍した深堀氏の出所であることによるという説がある。深く浸食された丘陵の崩壊地を指したもの。

●深谷ふかや
元夷隅町。江戸期は深谷村。地名は「ふか(泓)・や(谷津)」で両方とも湿地という意味。

●細尾ほそお
元大原町。江戸期は細尾村。慶長年間(1596~1615)に新田野村から分村し、元禄年間頃(1688~1704)同村の枝郷となったという。地名は尾根の間の細い土地を指したもの。

【ま行】
●増田ますだ
元夷隅町。江戸期は増田村。夷隅川が迂曲して対岸の柿和田地先を長年にわたり削り、それが当地に堆積し2町歩あまりの水田となったという。このことから地名は曲田あるいは真砂田に由来するという。「ます(高くなった所)・た(処)」で微高地を指したものか。

●松丸まつまる
元夷隅町。松磨・松郭とも書く。江戸期は松丸村。地名は万木城の一郭を意味するとも考えられている。「まつ(曲)・まろ(転ぶ)」の転訛で川の曲流部の崩壊地を指したもの。

●万木まんぎ
万騎・万喜とも書く。戦国期に万喜の地名があった、江戸期は万木村。地名は「まき(巻き)」で川の蛇行を指したものか。

●岬町井沢みさきちょういざわ
元岬町。江戸期は井沢村。江戸中期に臼井村が三門村・長者町と当村に分村して成立。地名は「い(川)・さわ(湿地)」で川沿いの湿地という意味。

●岬町和泉みさきちょういずみ
元岬町。江戸期は和泉村。古くは夷隅郡に属していたと伝えられ往古は海に突き出ていたため出海と称していたが、文安年間(1444~1449)に伊豆見村に改め、和泉村と改称。元禄16年(1703)の大津波後、住人が荻原村に移住したとの伝承がある。地名は「いで(出)・み(海)」で海に突き出た地という意味。

●岬町市野々みさきちょういちのの
元岬町。江戸期は市野々村。「いつ(巌)・の(接続詞)・の(野)」の転訛で険しい山の麓にある傾斜地という意味。

●岬町岩熊みさきちょういわくま
元岬町。戦国期は岩熊郷、江戸期は岩熊村。明治10年(1877)に勝間村を合併。地名は「いわ(岩)・くま(曲)」で岩の多い川の流れが曲っている地という意味。

●岬町榎沢みさきちょうえのきさわ
元岬町。「えんさわ」ともいう。室町期は榎沢郷、江戸期は榎沢村。地名は「えのき(湿地)・さわ(騒)」で背後の山が崩れやすい湿地という意味か。または「え(手)・のき(除き)」で地辷りという意味もある。

●岬町江場土みさきちょうえばど
元岬町。古くは江波土と書いたが元禄16年(1703)の大津波で甚大な被害を受けたため、波の字を忌んで改称したと伝えられる。江戸期は江場土村。村内は江の組・宮の組(宮前)に分れていた。地名は「え(川)・はた(端)」の転訛で夷隅川の側という意味。

●岬町押日みさきちょうおしび
元岬町。江戸期は押日村。押樋村とも。惜原(おしみはら)とも呼ぶ。地名は押海部(おしうみべ)という上代に堰や池を作った部民がいた土地という説がある。「おし(押)・み(水)」の転訛で洪水災害にあった地を指したもの。

●岬町鴨根みさきちょうかもね
元岬町。戦国期は鴨根郷。江戸期は鴨根村。平忠常の孫の一人として鴨根三郎常房がみえ、当郷は平安末期に両総平氏一族の開発によって成立した中世的郷に由来するものと考えられている。里伝によれば往古加茂と称していたが、鴨が多く生息したため鴨根に変じたという。地名は「かも(河岸浸食)・ね(根)」で山麓の河川氾濫の際に流河道となる土地やその恐れのある地を指す地名。

●岬町嘉谷みさきちょうかや
元岬町。江戸期は嘉谷村。元禄8年(1695)中滝村が当村ほか3村に分村して成立。もとは鹿谷であった。地名は「かや(曲)」で河川の蛇行を指したもの。

●岬町桑田みさきちょうくわだ
元岬町。江戸期は桑田村。里伝によれば矢嶽村(矢竹村)を合併という。地名は「くわ(崩)・だ(処)」で豪雨などで崩れやすい脆い土地を指したもの。

●岬町椎木みさきちょうしいぎ
元岬町。戦国期は椎木郷、江戸期は椎木村。当郷は中世初期、一宮の神的権威を背景に大武士団を形成した上総氏一族・椎木氏の本貫地。地名は「しい(浸食地形)・き(処)」で降雨により浸食された丘陵のある地という意味。

●岬町長者みさきちょうちょうじゃ
元岬町。江戸期は長者村。もとは臼井村北部にあった柴胡原と呼ばれていた秼場で寛永年間頃(1624~1644)に開発、万治年間頃(1658~1661)には柴胡町と呼ばれていた。地名の由来は祝言によるとする説、領主の江戸屋敷が下谷長者町にあったことによるとする説がある。「しば(土砂堆積地)・こ(処)・はら(原)」で川の流れで運ばれた土砂が堆積する広い平地という意味。「ちょうじゃ」は富むことを祈念して命名した瑞祥地名か。または「ちょう(崩壊)や(谷津)」の転訛で浸食地・崩壊地という意味か。

●岬町中滝みさきちょうなかだき
元岬町。明治12年(1879)部田(へた)村が改称し成立。もとは元禄8年(1695)中滝郷が押日・嘉谷・部田(中滝)・福原の4村に分村したうちの一つ。宝暦4年(1754)から文化6年(1809)まで中滝村、文化7年(1810)から部田村と称し、文政3(1820)から4年(1821)にかけて村内で村名をめぐる争論が起きている。地名は「なか(中央)・たき(急傾斜地)」で急傾斜の丘陵地という意味。また「へた(辺処)」で山沿いの地という意味。

●岬町中原みさきちょうなかはら
元岬町。江戸期は中原村。古くは夷隅郡に属していたと伝えられる。地名は「なぎ(薙)はら(原)」の転訛で崩壊しやすい丘陵の麓の広い平地を指したもの。

●岬町東小高みさきちょうひがしおだか
元岬町。明治12年(1879)に元夷隅町の小高と区別する為に改称して成立。「お(接頭語)・たか(急傾斜地・崖地)」で急傾斜な崖のある地という意味。「東」は元夷隅町小高に対し冠称したもの。

●岬町東中滝みさきちょうひがしなかだき
元岬町。明治4年(1871)に福原村と小福原(こぶくはら)村が合併して成立。福原村は元禄8年(1695)中滝郷が当村ほか3村に分村して成立。小福原村は延宝5年(1677)に臼井村から分村して成立。地名については岬町中滝を参照。「ふく(膨)・はら(原)」で膨らんだ河川沿岸の広い平地という意味。

●岬町三門みさきちょうみかど
元岬町。江戸期は三門村。江戸中期に臼井村が井沢村・長者村と当村に分村して成立。地名は「み(水)・か(接続詞)・と(処)」で水辺という意味。

●岬町谷上みさきちょうやがみ
元岬町。江戸期は谷上村。地名は「や(谷津)・かみ(上)」で高い丘陵の麓の湿地を指したもの。

【や行】
●八乙女やおとめ
元夷隅町。江戸期は八乙女村。地名は「や(湿地)・おと(落)」の転訛で湿地の崩壊地形を指したもの。

●弥正やまさ
元夷隅町。岩将・岩間狭・岩正とも書いた。江戸期は弥正村。地名は「いわ(岩)・ま(間)・さ(狭)で」岩の多い狭い土地という意味。

●山田やまだ
元大原町。江戸期は山田村。寛保3年(1743)の高谷村明細帳には延宝8年(1680)の検地帳に当村より高谷村が分村したとあり、【上総国町村誌】には元禄9年(1696)に同村が分村したとある。地名はの「やま(山)・た(処)」で山のある地という意味。

【ら行】
●楽町らくまち
元夷隅町。江戸期は楽町。江戸初期に国吉村が4村に分村して成立、江戸期は国吉を冠称。地名は「がく(川の曲がった所)・まち(町)」の転訛で川の曲流部にある町という意味。

【わ行】
●若山わかやま
元大原町。江戸期は若山村。江戸中期に内野村が当村と新田村・深堀村に分村して成立。地名は世襲名主・藍野家家譜に、応安2年(1395)主計伯長の弟・形部次郎直政が別居。その地名を分山というとあり、それが転訛したものと思われる。