生きていること自体が道楽だと思えたら、どんなに毎日が楽しくなるだろうか。
でも、思うだけなら誰でも可能だ。
仕事も道楽。
子育ても道楽。
介護も道楽。
勉強も道楽。
なかなか難しいかもしれないけれど、毎日そう思うのは難しいかもしれないけれど、僕は極力そう思うようにしている。
こう思うようになったのはいくつかのきっかけがある。
ひとつは、斎藤一人さんの本を読んでいた時だと思う。斎藤一人さんとは銀座まるかんという健康食品などを扱っている会社の社長で、長者番付が発表されていた頃、全国ベスト10の常連だった人だ。
一人さんのある本の中で、「仕事大変ですね」と言われたら「まだまだですよ。こんなの遊びみたいなもんですよ。」と言えというようなことが書いてあった。
そう言い続けていると、脳が勝手に勘違いしていく。「これは遊びなんだ。遊びだったら、楽しんじゃおうかな」と。
また、あるところでは、うるさい上司に怒られたら、滝に打たれていると思え。
「○○部長の滝」と。
わざわざ修行と称して滝に打たれに行くけれど、遠くまで出かけなくても、身近に滝があるじゃないかと。
実際に僕もたまにいた厄介なお客さんと打ち合わせしている時、「滝に打たれている」と思って話を聞いていると、何だか楽しくなってきた。
また、そう考えると損することも怖く無くなってくる。
人は、損したくないと思ってしまう。
損することに恐怖感がある。
でも、この気持ちはどこから出てくるのか?
損をするとカッコ悪いと思っているからか。人にバカにされると思っているからか。それとも何だか負けたような気分になるからか。
さらにその源泉を探っていくと、いずれにしても目に見えないよくわからないものに取り憑かれているのだと思う。
でも、よくよく考えると損ってなんだ。
ディズニーランドで楽しもうと思ったらお金を払う。
映画を観るのにもお金を払う。
ディズニーランドで楽しく1日遊んだら、お金が減るのだ。
それに対して、損したと思う人はいないだろう。
何故か?
それは楽しめたからだと思う。
例えば、何かに投資をして赤字になってしまった。それをお金を支払って、そういう経験をしたと思えばいいのではないか。
お金が減ったというところにだけ執着してしまうと損した気分になる。
でも、それと引き換えに何らかの経験があったはずだ。
その経験から何を学び、何を楽しめるのかは自分次第だ。
うんと広い視野で、自分の周囲、過去未来を見回してみたら必ず得られたものがあるはずだ。何かを経験するにはお金か、時間か、もっと別のものかはわからないけれど、何か大切なものを差し出す必要がある。
僕は、一般的に大変なことがあった時に、よくこんな風に人に言っている。
正確には、人を通して自分に言い聞かせているんだと思う。
「まぁ、この状況を楽しんでいますよ。ディズニーランドに行くのにも、女の子とデートするのにもお金がかかるわけですから。楽しむのにはお金がかかるんですよ。」と。
そして、いろんな状況をどこまで楽しいと思えるのかというゲームをやっていると思うようにしている。
そうやって自分の器を大きくしていくのが人生なんじゃないか。
そういいながら、今の僕はどこまで楽しめるのかわからないところもあるけれど。
僕は今やっているカフェや沖縄でやろうとしている事業について、もちろん成功したいと思っているし、そのためにいろいろ動いている。
その反面、うまくいかなかったら、それはそれで、その経験を本にでもしてやろうと思っている。
だから、仮にうまくいかなかったとしても、カフェという小さな点に執着したら失敗だが、僕の人生からみたら失敗でも成功でもどちらでもないんだ。
だから、
「どちらでもどうぞ。僕はどちらでも楽しみますよ!」
そんな思いで肩の力を抜いて過ごしている。
そうすると、忙しい日は忙しいなりに、暇な日は暇な日なりに楽しいことがたくさんある。
