久しぶりのブログ。
11月2日から6日までベトナム、ホーチミンに行ってきた。
その時感じたことを何回かにわけて書いてみたい。
ベトナムに行った目的は、日本の実習生制度の視察だった。
そのことについては、改めて書くことにして、
今日は、ベトナムの道路事情について。
ベトナムの道路はめちゃくちゃだ。
まず、バイクが異様に多い。
そして、逆走するバイクや歩道を走るバイクがたくさんいる。
そしてそして、自動車も含めた交通量がやたらと多い。
そしてそしてそして、信号が少ない。
そしてそしてそしてそして、信号があるところでも無視して突っ込んでくるバイクがたくさんいる。
そうすると、どうなるか。
車やバイクがひっきりなしに通り、道を歩いて横断することができない。
横断歩道に立っていても、止まってくれるバイクなどは全くない。
交差点ごとにバイクや自動車が集中する。
そして、クラクションの嵐となる。
交差点を曲がりたい車は、直進車が来ていても強引に曲がる。
そもそもバイク同士なんかは、10センチぐらいの車間で走っている。
こんな感じで、まぁ日本の常識がここでは全く通用しない。
しかし、びっくりすることがある。
事故が起きない。交通渋滞が少ない。
もちろん、事故が全くないわけではない。渋滞がゼロなわけではない。
しかし、交通量と比べたら、明らかに日本より少ないと思う。
(日本は、信号が多すぎて、それが渋滞を作る原因になっていることが多いのではないか。)
なぜだろう?と思うが、よくよく観察しているとハッとする。
一見、無秩序そうに見えるこの交通システム。
実は、日本より秩序だっており、全体が調和していることに気がつく。
確かにバイクや車が多く、それなりのスピードを出しているが、
みんながほぼ同じ速度で走っている。
日本のように遅い車がいたり、やたら早い車がいたり、など自分勝手な走りをしていない。
そして、人や車が自分の前に出てきたら必ず止まる。
中にはこちらを見ていなくて止まれない人はいるけれど、意地悪で止まらなかったり、自分の方が優先なんだからとスピードを緩めない人はいない。
曲がるときもそう。
曲がる車に道を譲る対向車はいないが、かといって、自分の前に曲がってきた車がいたら、その車に道を譲る。
車線変更も同じだ。
少しでも間隔が空いたらすかさず入るという阿吽の呼吸がここには存在している。
そして、ウィンカーで自分の意思は必ず示している。(沖縄の人は見習ってもらいたい。沖縄はウィンカー出さなすぎ(笑))
こうやって考えると、実はとても皆が調和しているのだ。
このことに気がつくと、道を歩くのも怖くなくなる。
車も運転できるようになる。(実際には運転しなかったが、僕は多分運転できると思った。)
で、何が言いたかったのかというと、
ここの人たちは、頭で考えた「正しい、正しくない」ではなく、心で感じた「自然、不自然」という感覚を大切にしているということだ。
つまり、日本だったら、信号が「青」なんだからこちらが進むのが当然。対向車が曲がってきたら、「ルールを無視しやがって!」と相手に対して怒り、クラクッションならしまくる。
人が横断してきたら、「横断歩道でもないのに、渡ってきやがって、絶対に渡らせないぞ!」とあえてアクセルを踏み込んだりする。
そして、時には喧嘩になる。
これは、頭で考えた「正しい、正しくない」という理屈の世界が判断の軸になっている。
それに対して、ベトナムの人は、「前から車が曲がってきた。危ないからスピード緩めておこう」「人が渡ってきた。このままではぶつかってしまうから、止まろう」となる。
これは、心で感じた「自然、不自然」が判断の軸になっていることだと思う。
だって、前に人が出てきたら、危ないから止まるのが自然だよね。
どちらがいい悪いではないと思う。しかし、人の心の中から湧き上がる自然感覚を大切にすると、信号がなくても交通安全が保たれ、そして、より多くの交通量が捌けるのだということを実感したのだった。
伝統の森の森本喜久男さんが言っていた。
「頭で考えるとわからないことはたくさんあるけれど、心で感じるとわからないことはないんだよね」と。
今、自分がやっていること、やろうとしていることは、
人間として自然なことか?不自然なことか?
地球で共に暮らす生命として自然なことか?不自然なことか?
そんなことを問うてみると、わかることがたくさんあるのだと思う。
社会の常識、組織の理屈、そんなことに捉われて、「正しい、正しくない」を判断しようとすると、わからなくなってしまうことがたくさんある。
わかったように、なんとか自分に言い聞かせても、なんだか、心がぎこちなくなる。
身体のバランスが崩れてしまう。
心の自然感覚を信じて生きてみたい。