死のクレバス―アンデス氷壁の遭難 (岩波現代文庫)



本書はイギリス人登山家であるジョー・シンプソンとサイモン・イエイツが、アンデス氷壁を下山中に不慮の事故に遭い、死の瀬戸際に立たされたときの状況を克明に綴ったノンフィクション文学である。

ジョーは手足を骨折しており、ほとんど歩ける状態ではなかった。サイモンはザイルを使って彼を崖から下ろすことを試みる。しかしこの方法は失敗し、ジョーは垂直の氷面に自分の体を固定することも、よじ登って戻ることもできない絶体絶命の状況に追い込まれてしまう。サイモンは彼の全体重を支えた。だが最終的には力の限界がくるだろう。そうなれば二人とも墜落死してしまうのは確実だった。

二人を繋ぐものはザイルだけだった。お互いの姿を視認することはできない。ザイルを引っ張るという行為だけが二人が繋がっているということを証明する唯一の方法だった。
選択の余地はなかった。
サイモンはジョーとの繋がりを断ち切った。ザイルを手繰り寄せると「張り」はなくなった。ジョーは死のクレバスに転落した。

「・・・彼はいなくなったのだ。私は彼を殺したのか。・・・どこか心の奥でたしかにやったんだと迫るものがあったが、私は答えを出さなかった。茫然としていた。寒さに凍え、ショックで麻痺してしまったのか声も出せず、起こったことが信じられない気持ちで足元に渦巻く雪を青ざめた顔で見つめていた。罪の意識はなく、悲しみすらなかった。」

切断したのはサイモンだが、突き詰めれば「状況」がそうさせたのだ。彼に選択の余地はなかった。もしもザイルを切らなければ二人とも死んでいたのだ。生き残るためには仕方のない選択。しかし残酷な選択は、それを下す立場だったサイモンをその後も苦しめた。

「・・・あれは理屈にかなっていたし、適切な処置でもあった。理屈では間違いない。しかし、何かがそうすることを避けようとしていた。たぶん、罪の意識だ。ザイルを切断する以外方法はなかった、と何度自分に言い聞かせても、ほかの考えが私を苦しめていた。そのような行為は冒涜ではないのか。あらゆる衝動、自己保存の本能にも逆らってその思いはわいてくる。」

本書の随所には苛酷な状況であることを連想させる生々しい言葉が数多く散りばめられている。極限下での人間心理の「揺れ」の描写は圧巻の一言だ。体験者だからこそ書けるリアルティに満ちた表現である。危機に直面し、二人の心情は何度も揺れに揺れる。生のわずかな兆しを見つければ希望を、生還の乏しさが頭に過ればたちまちそれは絶望へと変化する。

人生はよく登山に例えられる。
もしも生きている間にどうしても実現したい夢があるのなら、夢をめざすまでの過程を山登りに例えることもできるだろう。

夢を持った瞬間に目の前に登るべき山が現れる。
ミュージシャンになって最高の曲をつくりたい。小説家になって人々に夢を与えたい。プロのイラストレーターになって感動的なイラストを描きたい。山は一つではない。人それぞれ形も違えば大きさも違う。
実現が難しい夢であればあるほど、登るべき山は高く聳える。

道のりは決して平坦ではない。登れば登るほど、斜面は急になり、挙句の果てには垂直の氷壁にも変わりうる。下をみれば闇と冷気を帯びた死のクレバスが広がっている。
困難なことも増えるだろう。それでも、その過程で時折見ることができる景色は美しく、生きているという実感を与えてくれる。夢を追いかけるという行為は「なぜ生きるのか」という問いかけの一つの解答であろう。

誰もが自分の夢を叶えられるわけではない。諦める必要に迫られることもある。あなたが今胸に抱いている夢は諦められる夢だろうか。
いかなる理由があろうと絶対に諦められない。
「文字通り」そう考えている夢追い人に対して、この本から読み取れる一つの教訓を送りたい。すなわち、夢を諦めざるを得ない究極的な状況に陥った場合どうすればよいかだ。その状況は「死のクレバス」への転落として比喩できる。

揺るぎのない信念のもと夢を追いかける人でも、すんなり山頂に到達できる人はほんのわずかだ。たいていはその過程の中にある理想と現実の溝に嵌り、もがき苦しむことになる。前に進もうにも現実がその行く手を阻み、後退しようにも自身の情熱がそれを頑なに拒む。前にも後ろにも進めない状況。足元の土台は崩れ、眼前の希望の光が閉ざされる。待っているのは死のクレバスへの転落だ。

夢をあきらめる自分が想像できない状態で、諦めざるを得ないことを示唆する現実のクレバスに堕ちるということこそ、まさに絶望だと思う。
夢を追い続ける自分を捨て去ること。それは生きる上での原動力となっていたものを放棄する行為だ。考えたくもないことを考えなくてはいけなくなる。抜け出せない負の思考の循環がはじまる。

死のクレバスの底は寒くて暗い世界だ。転落した夢追い人はその場所で孤独の時を過ごす。自身の情熱により心は内側から焼き尽くされており、生気のない灰だけが残っている。それは太陽の届かない山脈の溝で生成された氷のように冷たい。もはや、「信じればいつか夢は叶う」などという平時の言葉を持ち出すのは場違いの状況である。この絶望的な状況においてはなにが必要なのだろう。

僕らは現実を生きている。そしてそれは未来に対して連続でなければならない。死のクレバスの底は深く、時間軸を照らすスポットライトの光は届かない。それは時間軸上の大きな溝であり、将来の時間軸を照らす障害である。自分が生きている時間の少し先にある時間軸を照らすためには、未来の自分の人生に繋がるための何らかの行動が必要だ。

「仲間に救いを求める」というのも一つの解答であろう。しかしもはやザイルは断ち切られている。死のクレバスの底にいる以上、仲間はやってこない。現実の残酷な状況がそうさせているのだ。

生還のための「何か」は自分自身の中にあるものだけで用意しなければならない。まだほんの少しだけ残っている情熱を冷たい灰の中から取り出し、心の違う領域で燃やしていく。
そして、心の中に「迷い」をつくる。

「迷う」という行為は平時においては悪いことのように認識されることが多いが、死のクレバスに堕ちた状況においては希望をもたらすものとなりうる。「迷い」は未来に対しての選択肢を増やすことに貢献する。それは、再び自分の心が未来に対して動き出すチャンスを生み出す。

最初の迷いは次のようなものだ。

夢を追いかけることができないのなら人生はつまらない。死んでいるも同然だ。それならば、このままこの場所に止まり死を待とうか。

それとも、どうせこの場所で死んでるくらいなら、もう少しだけ「違う道」で生きてみようか。

「迷い」により二つの選択肢を心の中に生じさせ、まずは最初の決断をする。このとき未来に対して連続なものを選ぶことができるかどうかが、その後の運命を大きく左右する。むろん生還の為に不可欠なのは後者の選択肢だ。その選択によりつくられた道でしばらく生きてみる。するとまたすぐに行き詰まる。もう一度迷い、新たな選択肢をその都度つくり、未来に続く道を選択していく。これをひたすら繰り返す。

死のクレバスからの生還は並大抵のことではない。

そもそもその場所に転落した時点で精神的なダメージは大きいものであろう。再び動き出したとしても、またもや死のクレバスに滑り落ちることもあるだろう。生還の乏しさに心が折れ、あのときの温かい世界が幻想のように思えるかもしれない。

それでも迷った分だけ道の数は増えていく。
大切なのはその時々に生じる選択において、自分の未来に対して革新をもたらす選択肢を選びとることだ。
それを累積したときにだけ奇跡は起こるのかもしれない。ザイルを切断され、死のクレバスに転落したジョー・シンプソンがこの本の著者だ。