②瀬野先生と私~本当に考えていてくれた人 | HSP✖️不登校サポーターaikoᵕ̈*親と子を繋ぐ居場所作りをしています‍‍

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集団の場が苦手、人と話したいのに緊張して上手く話せない、場面緘黙症、共感性の高いHSPの気質をもつaikoだからこそ不登校になる子供の気持ちをくみとってきました。これから不登校の子と親を繋ぐ居場所を作ります ̖́-‬

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実は、中学2年生の頃
友達と一緒に野瀬先生の家へ会いに行ったことがありました。



その時の先生の様子は、学校時代の先生とは違って
明るくて陽気でまるで別人のようでした。


その後も一度、地元のお店で偶然、野瀬先生と会ったことがありました。


そのあとは、手紙を出しても戻ってきて
先生が今、どこにいるのか分かりません。


先生、生きてるのかな?


なんとなく野瀬先生は、波乱万丈の人生だったんじゃないか。


今ではそう思っています。


野瀬先生は、テストが悪かった生徒を昼休みに集めて個人的に勉強を見てくれていました。


それが私にとってかなりのストレスになり
勉強嫌いに拍車をかけることになりました。



でも、中学生になり野瀬先生に手紙を書いたお返事に


『中村さんは、平仮名ばかりだったから心配してたんだけど漢字を書けるようになったんだね』

と書かれてあってとても嬉しかったんです。


どの先生も私が宿題をやってこなくても何も言わなかった。


でも野瀬先生だけは違った。
宿題をやってこないことをいけない事として
怒った。


そこから宿題をやる習慣がつくようになりました。


野瀬先生がいなかったら
私は漢字を書けない大人になっていたかもしれない。


今でも漢字は苦手だけど、なんとか書けます。


野瀬先生には、恐怖とトラウマもうえつけられたけど
先生なりの愛情で見てくれていました。


野瀬先生だけが私の事を考えていてくれたのかもと今では思っています。


行動の方法は、よくなかったかもしれない。

でも先生の中には先生なりの愛がありました。



そこが分かっただけでも本当に幸せです。


大人になってから分かることってありますよね。
あの時って実はこうだったんだって。


野瀬先生、もう一度会いたいです。
そしてお礼を伝えたい。

もし生きていたら70歳くらいだと思います。



先生、ありがとう。