
帽子デザイナー原田美砂さんの記事です。
『2人の母が理解者で支え
2人の母からの影響なくして今の私はありません。1人は大学を出てすぐ名古屋で不動産業を営む父と結婚したクリエーティブで英語が堪能な生みの母。絵を描き、洋服を作り、ネクタイ教室を開くほど出先が器用。いつも洋楽を聴き私と二歳下の弟に英語の絵本も読んでくれて。英語は自然に私の耳に入りました。 ただ毎日のように父とケンカして泣いていて、仲裁するのが私。 五歳のある日、母は突然いなくなりました。「語学の勉強がしたい」と留学してしまったのです。ショックでした。私は「体が弱い弟を守らなくちゃ」と必死。遊びに行く時はいつも自転車の後ろに弟を乗せ、家族の食事や弁当を作る“小さいお母さん”。今思い出しても涙ポロリです。父子家庭だからと友達や先生に気を使われるのが嫌で、小学生の時には「いつか海外に出る」と決めました。 母は大卒後、一度も社会に出ることなくお嫁にいって、結婚して初めて自由と自立を求めたくなったのでしょう。私が「高校卒業後はファッションを学びに英国留学したい」と言い出した時、判断した父を陰で説得してくれたのはこの母でした。中3の時に父が再婚。新しい母は大企業で管理職も務めたキャリアウーマンで、自立したオープンな人。弟はすぐ馴染んだのに私は受け入れることができず、父や弟に内緒で会っていた実母への配慮から「母さん」ではなく、名前で「理恵さん」と呼んでいました。理恵さんにとって当時の私はエイリアンだったと思います。手づくりの装飾を施した奇妙キテレツな格好で夜な夜な遊びにくり出していましたから。でも批判もおもねりもしない。人の悪口は言わず、大きな優しさで包んでくれる薬師如来のような人でした。英国で1人頑張る私に欠かさずクリスマスカードや誕生日カードをくれ、活躍すると「良かったよ」とほめてくれて。一番の理解者、大きな心の支えになりました。 その考え方は柔軟で飛んでいました。私が大学院を修了する間際に父が倒れ、帰国して就職しようと心が揺らいだとき。「英国で立派な帽子デザイナーにならなきゃダメじゃない」とカツを入れてくれたのは理恵さんです。おかげで気持ちが固まり一歩が踏み出せました。2000年に私が離婚した時も「ダンナがいなくても子どもだけ産んじゃったら?私が育ててあげる」と言い出したり。独立したばかりの私は頭の中が帽子がいっぱいで実現しませんでしたが。理恵さんは7年前壮絶ながん闘病を経て亡くなりましたが、強さからくるあの優しさは今う私を支えてくれています。英国でいじめや人種差別に遭ってもへこたれてないのはまだ働く女性が少な時代、ウィットで男性社会を軽やかに乗り切ってきた理恵さんの影響もあると思うのです。
幼児期に私と似た体験をしてきたみたいで同感して読み始めましたが、ちょっと違う………自分達を置いて勝手に生きる母に対しての気持ちは理解できません。自分で産んだ子を育てたら絶対置いて出て行くなんて事許せないはず。もっと人間として大きくなれるのにもったいないと感じた記事でした。