NHK大河ドラマ【青天を衝け】第四十回を見て | MarlboroTigerの【Reload the 明治維新】

NHK大河ドラマ【青天を衝け】第四十回を見て

 

明治四十二年(1902年)8月、栄一は排日運動が吹き荒れるアメリカに渡った。もう20世紀である。僕が生まれた【クソみたいで最高の世紀】に、時代は違えど彼も生きていた...。そう考えると、遠い歴史上の人物と言う気がしなくなる。妙な親近感が生まれて来るから不思議だ。

 

 

伊藤博文と会談。互いに風雪の日々に思いを馳せ、グラスを傾ける。明治日本の現状を憂い、政界と財界のボスが未来の日本について語り合う。席上、アメリカ行きを決意したと栄一は伊藤に報告する。

 

『天保の老人の最後の勤めと思って、行って参ります。』

 

...そう言って微笑む栄一に対し、伊藤は、

 

『アメリカを頼むぞ。』

 

と呟いた。これが伊藤からの最後のメッセージとなった...。

 

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栄一は合衆国商業会議所の招待に応じ、その視察団の団長に祭り上げられていた。視察団をまとめ、全米62カ所の都市やビジネス施設を見学。今回は、タフト大統領との会見の様子や、その旅の出来事、また伊藤博文暗殺の凶報に接し愕然とする姿、帰国後の篤二の廃嫡、慶喜の逝去などが描かれていた。後半には明治も終わり、時代は大正へと突入(笑)...。物凄いスピードで栄一の後半生が駆け抜けて行く...。

 

 

初回から二十四回までが江戸時代。それに対し、明治は十六回。栄一の人生を各時代の長さで比較すると...江戸時代、明治、大正、昭和の比率は...27:44:14:6となる。江戸時代とそれ以降ならば、27:64だ。本来最も長い期間を占める明治が手抜きになってしまった感は否めない。このドラマを全体を通して見ると、その比率は明らかに江戸時代に重きが置かれていた。後半のスピード感に着いて行けなくなってしまうのは、それが原因である。

 

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志士として、役人として、そして起業家として日本を引っ張る【栄一の青春】は爽やかなサクセス・ストーリーに満ち満ちていた。そのパッションでもって視聴者は引き寄せられ、物語に引き込まれて行った。僕の様な【幕末・明治維新オタ】にとっては、【幕末~明治初期重視】のスタイルはウェルカムなのだが、それ以外の人にはどう映っていたのだろう。気になる所だ。

 

 

時代が進み舞台背景が派手になって行く一方で...【個人の魅力】と言うものは明らかに希薄になって行った気がする。国家や大衆がモンスターの様に巨大化し、個人が活躍出来た幕末世界のロマンの様な物が感じられなくなった。僕がこの明治中期以降の軍国主義の時代に興味を引かれないのは、それが主たる要因となっている。日本はどんどん豊かになって行くのだが、逆に日本人の個性は消失し、顔の無い民族へと変質して行った...それがこの時代の特徴と言えるだろう。

 

さて、今日もウンチクパートから書き始める事にしよう。

 

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今回はアメリカ国内において吹き荒れた【排日】と言う物について考察してみたい。

 

 

アメリカ合衆国において、最も激しい差別を受けた民族こそ...我々日本民族である。合衆国の歴史において、様々な民族が差別されて来たが、日本民族ほど毛嫌いされた人種も他にない。

 

ネイティブアメリカン、アイルランド系、イタリア系、ドイツ系、黒人、中国系...差別されるターゲットは様々に変化して来たが、強制収容所にぶち込まれた民族など、日本民族をおいて他に存在しない。アメリカの事を、ただ単に理想主義に燃え、自由主義を築き上げた偉大なる国家である等と思ったら、大間違いだ。彼等は十分に偽善的で、冷酷な一面を持っている。その事を述べた上で、【日本人排斥】に至る歴史を振り返ってみたい。

 

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アメリカにおけるアジア系移民の流入は嘉永元年(1848年)にアメリカ西部で起こったゴールドラッシュに端を発する。多くの中国系肉体労働者がカリフォルニア州の鉱山労働や鉄道建設に従事するため海を渡った。アイルランド系移民や他の白人貧困層との対立・抗争は早くも1870年代には散見されており、黄色人種に対する差別は日本が幕末を迎える頃に北米大陸で始まって行った。

 

 

明治三年(1870年)に制定されたアメリカ連邦移民・帰化法によると、【自由なる白人およびアフリカ人ならびにその子孫たる外国人】が帰化可能であると記されている。ここで言う【自由なる白人 (free white)】とは、【コーカサス人種 (Caucasian)】の事である。中国系移民に関しては、1875年に移民の制限が行われており、1882年には【中国人排斥法】によってその移民が禁止される事となる。

 

さて、日本である。ペリーの来航によって開国した日本は、安政七年(1870年)1月、先に締結された日米修好通商条約の批准書を交換する為、遣米使節団をアメリカへ送り込んだ。目的は批准書を手渡す事だけでは無い。通貨の交換比率の交渉と言う重要なミッションを帯びていた。

 

 

これがその使節団である。正使および副使に、外国奉行と神奈川奉行を兼務していた新見正興と村垣範正が就任。目付としてドラマでも活躍していた小栗忠順の顔も見える。小栗のミッションが、先に述べた通貨の交換比率の交渉である。

 

 

詳細は割愛するが、この使節団は全米各地で熱狂的な歓迎を受けた。アメリカ合衆国としてアジアの国と結ぶ初めての国交であり、侍達が見せる哲学的な雰囲気にアメリカの人々は虜となった。写真はブロードウェイで歓待される一行の写真。短い期間ではあったが、日本ブームがアメリカに巻き起こった時期が確かにあったのだ。

 

 

日本人移民の場合、それは明治時代の初頭...ハワイへの移民から始まった。ハワイからやがてアメリカ大陸本土へと拡大するのだが、日本人移民は先ずはハワイを拠点とし、次いで米国本土を目指すようになった。日本から直接渡航するケースもあったが、多くの場合入国しやすいハワイを経由して西海岸の各都市に渡航して行ったようである。この頃に移民した日系人たちは、低学歴ではあったが、識字率が高く勤勉。各地で粘り強く仕事をこなした。ど根性が実を結び、一定の成功を掴む者も現れ始めた。

 

 

大部分は白人の下働きなど、低賃金の労働に従事していたが、従順に働き過ぎる事で周囲からの反感を買い、日本人漁業禁止令や児童の修学拒否など、数々の排日運動が起こったと言われている。彼らは一般のアメリカ社会からは浮き上がり、日系人だけで閉鎖的共同体を形成している様に受け取られた。地域に溶け込まないと見なされ、稼いだ金は日本の家族に送金してしまうとアメリカ人は考えた。これが差別を助長させた原因だ。とにかく異質と映った。

 

日系移民たちにも言い分はある。言葉の問題や習慣の違いによる不自由、反日感情から身を守るためには寄り添って生きるしか無かったと言う事だ。また、アメリカの市民権取得に関心の無い人も多く、これは合衆国への忠誠を誓わない事につながり、余計に排斥された。

 

 

ただし、日本人はアジア諸民族の中で唯一、連邦移民・帰化法による移民全面停止を食らわなかった民族である。これは日本がアジアで唯一、欧米諸国と対等の外交関係を構築した独立国で、一定の文明国であると見なされていた証拠だ。合衆国政府も日本の体面維持に協力的であった。栄一の1902年の渡米は、その様な空気の中で実施された。働き過ぎの金の亡者...空気を読まぬ日系人は西海岸で毛嫌いされる存在になって行った。

 


 

連邦政府の庇護下ではある程度保護されていた日系人だが、これが州レベルとなるとそうは行かない。その排斥運動の典型例は1906年のサンフランシスコで起こった日本人学童隔離問題である。同年の大地震で多くの校舎が損傷を受け、学校が過密化していたのだが、市当局は公立学校に通学する日本人学童(総数100人程度)に、東洋人学校への転校を命じた。この隔離命令はセオドア・ルーズベルト大統領の異例とも言える干渉により翌1907年に撤回されたのだが、その交換条件としてハワイ経由での米本土移民は全面的に禁止される事となった。

 

 

背景にあるのは、日露戦争時アメリカが外債消化や平和交渉に協力したにも関わらず、日本が約束していた【満州における門戸開放政策】を実施しない事に対する苛立ちであった。日本政府も危機感を持っていなかった訳では無い。アジア各地ほどに米国を重視してはいなかったが、日本人移住者を守る事は文明国としての面子にかかわる。他のアジア系民族と差別化する為にも、連邦移民・帰化法規の適用は絶対に避けたいと考えていた。栄一の派遣もそのストーリーの上に実施されていたし、1908年の林薫外務大臣とオブライエン駐日大使との間で締結された【日米紳士協約】はそれに先立って実施された、ある意味【落とし所】の折衷案だった。

 

 

協定提携の結果、米国への移民は日本政府によって自主的制限が為される事となった。この協定によって労働を目的とした渡航者への旅券発行が停止され、渡航の可能が維持されたのは一般観光客と学生、米国既在留者の家族に限定される事となった。以後10年、日本人移民の純増数はほぼ横ばいに転じる事となる。

 

だが抜け道もある。【米国既在留者の家族】と言うのがそれだ。【写真結婚】による日本人女性の渡米と言う抜け道があった。米国における日系移民は男性独身者比率が高く、若い女性の需要が高かった。彼らは出身地の親戚や縁者との間で写真や手紙をやり取りし、縁談を成立させる。花嫁は旅券発給を受けて渡米し結婚する。これは【見合結婚】の習慣がないアメリカ人にとっては理解不能な行為であり、この仕組自体が非道徳的だと攻撃対象にされてしまった。とにかく地域の白人社会は日本人のやる事なす事が気に入らない。独身日系人男性が妻帯すれば、子供を授かる事で日系人コミュニティーが益々巨大化する。この偏見と危機感が更なる差別を呼び寄せてしまった。日系移民は負のスパイラルに陥ってしまった。写真結婚による渡米は日本政府によって1920年代に禁止されてしまう。

 

 

では【単純労働者からの脱却】を目指す現地の日系人はどうだったかと言うと、その風当たりは当然の如く強かった。1913年に成立したカリフォルニア州の【外国人土地法】はその最たるものであろう。移民・帰化法でいうところの【帰化不能外国人】に対する土地所有が禁止された。日系人もその対象となる。これに対しは法人組織を通じて土地を購入したり、あるいは米国で誕生した子供(二世)であれば市民権を得ているので、これに土地を所有させ、自らは後見人となって子供と賃貸契約を結ぶなど...脱法的土地利用方法が駆使された。だがこれも、1921年の土地法改正により、すべて否定される事になる。アメリカの日系人はとことんイジメ抜かれたのだと言う事を知っておこう。特筆すべきは、それを煽った中心は同じ被差別層に属して居たイタリア系移民が、猛烈にこれを後押ししたと言う事実である。

 

そんな圧迫の中ではあったが、1920年には全米で約12万人、カリフォルニア州で7万人(州総人口の2%)を日系人が占める様になった。日本側の自主規制そして州レベルでの排斥活動によって日系人の人口は均衡を保ち始めたが、1924年の【排日移民法】の成立によって、全ての努力は無に帰す事となる。

 

 

元々は【排日】といった要素が含まれていなかった同法だが、反東洋色の強いカリフォルニア州選出下院議員の手によって【帰化不能外国人の移民全面禁止】を定める第13条C項が追加された。これは【帰化不能外国人種】でありながらこの当時移民を行っていた大部分が日本人であったため、それを狙い撃ちにした事は明白である。

 

下院で同法案が可決され審議は上院に移る。この時点で、地域利害に影響されにくい上院では同法案は否決か、あるいは大幅に修正されると目されていた。日本は現状の紳士協定方式が維持され、悪くとも割当移民方式の対象国になる筈だと楽観論を決め込んでいた。米連邦政府国務省、在ワシントン日本大使館も同様であった。しかし上院でも、日本からの移民流入は米連邦政府のコントロール下にはなく、内容の曖昧な紳士協定に基づいて継続されていると指摘され、問題化する。

 

結果、紳士協定の内容とその運用の解明が叫ばれる様になり、二転三転の後に紳士協定の破棄が圧倒的多数で可決されてしまった。これにより日系人は【帰化不能外国人】に指定され、移民・帰化が完全否定される事となった。

 

 

この結果、何が引き起こされたのか...。簡単である。大きな移民先を失った日本は、その代替地として満州を重視せざるを得なくなったと言う事だ。満州事変とは雪崩式に引き起こされた移民先確保の政策の末にたどり着いた悲劇であったと言える。昭和天皇が敗戦後、日米開戦の遠因として『加州(カリフォルニア)移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである(中略)かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がつた時に之を抑へることは容易な業ではない。』と述べているのが好例であろう。そしてこの【排日移民法】の成立が当時の日本人の体面を傷つけ、反米感情を育み、太平洋戦争勃発に至る【鬼畜米英】思想の根源となって行く。新渡戸稲造などは、この法案成立を機に、『二度と米国の地は踏まない。』と宣言したほどだ。日本が反米となったのは、これがきっかけであった。

 

 

そこからの歴史はご存知の通りだ。太平洋戦争勃発に伴い、我々の同胞は強制収容所に送り込まれた。

 

現代、コロナ禍で黄色人種に対するリンチ事件が頻発するアメリカだが、根底には黄色人種に対する見えざる偏見がある事を忘れてはならない。僕はバックパッカー上がりで、90年代初頭にアメリカ各地を放浪した。いい思い出だらけの旅であったが、数少ない【嫌な思い出】も確かに存在した。

 

それは【人種差別】である。『JAP!』と言う言葉を二度ほど聞いた。日本国内に居てはそれは気付かないだろうが、それは厳然として現代のアメリカ国内にも残っている。余りに腹立たしい記憶なのでそれ以上は言及しないが、アメリカには夢だけがある等と考えるのはナイーブに過ぎる。彼らの本音と建前は違う。にこやかな握手の中に、どんな悪意が隠されているのか...それを読み取る知恵も必要だ。アングロサクソンは外面はいいが、腹黒い連中だと言う事も覚えておいて欲しい。

 

以上...今日のウンチクは、【日本人排斥】について言及させて貰った。話をドラマに戻すとしよう...。

 

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明治四十二年(1909年)栄一は全米各地を訪問し、ビジネスのリアルを目に焼き付けた。ミネソタではタフト大統領に面会し、日本に融和的な態度を見せる大統領に【平和の戦争】を約束する。

 

 

 

栄一も69歳である。列車の旅は身体にはさぞかし堪えた事だろう。

 

スピーチに臨んだ栄一は、万感の思いを込めて暗殺された伊藤博文について語る。

 

 

『お互いが知ろうとする心があれば、無益な憎しみ合いは生まれない。日本には、【己の欲せざる所、人に施すなかれ】という忠恕の教えが広く知れ渡っています。互いが心を開き手を結び、皆にとって嬉しい世の中を作る。それを世界の信条にしたい。』

 

 

このスピーチはアメリカ人の心を打つ事となった。

 

伊藤博文の暗殺については、実は先日【青天を衝けをより楽しむ為に(10)】で特集記事をアップさせて頂いた。かなりハイボリュームで、がっつり思う所を書き込ませて貰ったので、未読の人は是非読んでみて欲しい。最下部にリンクを貼っておくので、ここでの言及は差し控える。ご容赦頂きたい。

 

 

しかし、この旅は栄一にとって実りある物となったのであろうか...。列車の車窓から現地の日系人に花を渡されるシーンがあったが、結果としてこの後も日系人排斥は続き、日本人はアメリカを憎悪し、三十数年後には戦争に突入してしまうのだ。結果だけみれば、何の実績も叩き出せていない。

 

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帰国後は、アホボン篤二がまたまたやらかす(笑)。

 

この時期、次男の篤二が渋沢家の当主とされていたのだが、篤二は何とか実業界に入り、澁澤倉庫部の倉庫部長に就任していた。倉庫部が改組され澁澤倉庫株式会社になると初代取締役会長となった。

 

しかし篤二は経営よりも趣味の世界に没頭(笑)。日々...義太夫、小唄、謡曲、写真、乗馬、日本画、ハンティング三昧。明治四十四年(1911年)にはドラマでも描かれていた通り、芸者と不倫問題を起こし新聞誌上にて酷評される。当時の文春砲でもってトドメを刺された。

 

 

栄一の逆鱗に触れた篤二は、大正二年(1913年)に廃嫡されてしまう。ああしてドラマで描かれると、中々に生々しくてリアルであった。

 

恐らくは息苦しかったのだろう。気持は分からなくも無い。渋沢一族に生まれる事を、彼が望んだわけでは無いのだから...。玄人の女に熱を上げてしまう男子は、一定の割合で必ず生まれて来る。貧富や生活環境に別なく、それで身を持ち崩すダメンズの何と多い事か!

 

 

【渋沢四代】揃い踏みの、貴重な一枚。向かって左が栄一。廃嫡された篤二は赤ん坊を抱く中央の人物。右に立つ恰幅の良い人物が篤二の子で渋沢家を継いだ渋沢敬三。そして赤ん坊が四代目の渋沢雅英。篤二だけ...ルックスが貧弱に見えるのは気のせいか...。

 

 

三代目渋沢敬三氏は、中々に立派な人物だ。篤二を廃嫡した祖父・栄一が第一銀行を引き継がせるべく、土下座するシーンが描かれていたが、実際あんな感じだったのだろう。

 

 

東京帝国大学経済学部を卒業後、横浜正金銀行(旧東京銀行・現三菱UFJ銀行)で修行。大正十五年(1926年)第一銀行取締役に就任。同行副頭取を経て、昭和十九年(1944年)日本銀行第16代総裁に就任した人物だ。第二次大戦直後には大蔵大臣にも就任した。

 

一方でGHQによる財閥解体の対象者となり、公職を追放された。昭和二十六年(1951年)の追放解除後は、経団連の相談役や国際電信電話(現KDDI)の初代会長、文化放送の初代会長を歴任。昭和三十八年(1963年)病没した。こうして見ると、祖父栄一の面影を良く引き継いでいる。父親の様な瘦せぎすのルックスにはならなかった。

 

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慶喜はその最晩年、ようやく自伝である【徳川慶喜公伝】の原稿に修正を加え終わる。

 

ここからの草なぎ剛氏の演技は、今後伝説となるであろう...。

 

凄い。いや、その言葉しか浮かばない。

 

 

彼ほど、ストイックに...不明瞭に...それでいてリアルに最後の将軍を演じ切った俳優がいたであろうか!?

 

いなかった。一人もいなかった。その事は断言する。ここまでリアルな慶喜像を作り上げる事が出来たのは、大森美香の原作の力もさることながら、それを高い知性で汲み取り、画面の中で再現して見せた草なぎ氏の力量に負う所が大きい。

 

 

なんと言う役者であろう...。

 

この味は、彼にしか出せなかったのでは無いか...。それほどまでにベストマッチしていた。

 

昔日を偲ぶシーンでは、過去の栄一との思い出がフラッシュバックし、胸がキュンキュンさせられた(笑)。雄々しく馬上から栄一を見下ろし、『言いたいことは、それだけか?』と言い放った声音と...『楽しかったな?』と微笑みながら呟いたシーンの声の落差...。完璧である!

 

ここで、全てのピースが僕の中でカチンと音を立ててハマった。全てが氷解した瞬間である。恐らく、大森美香は、これを描きたかったのだろう。心が揺さぶられる名シーンであった。

 

 

今回ばかりは、アンチ慶喜の僕も...『快なり!快なり!快なり!じゃっ(笑)!!』...と...

 

 

それを見つめる栄一同様、心の中で喝采を上げてしまった。染み渡る様な笑顔を残し、サキ様もあの世に旅立たれてしまった。

 

草なぎ氏には、この場を借りて感謝申し上げたい。

 

素晴らしい物を見させて頂いた。この【青天を衝け】における演技は、恐らく今後長く語り継がれるであろう伝説の【神演技】であった。それは明治維新オタである、この僕が保証する(笑)。歴代の慶喜の中で、ぶっち切りのNo.1だ。誇りに思って頂きたい。オタとして、お墨付きを与えざるを得ない。

 

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栄一は孫文とも会談。資金援助を依頼され、それに協力する姿勢を示す。

 

 

だが、孫文も内紛に巻き込まれ身動きが取れなくなってしまう。

 

時代はもう...大正時代だ(笑)。瞬く間に明治も過ぎ去ってしまった...。

 

第一次大戦も勃発。もう、これに関しては書かない(笑)。とてもでないが、着いて行けない。日本はドイツに宣戦布告し、青島要塞攻略で血を流すのだが...詳細はそれなりのサイトで調べて頂きたい(笑)。

 

軍国主義が蔓延する現状を憂い、大隈を糾弾する栄一であったが、歯牙にも掛けられない。

 

 

『大体...八十に近い年寄りになってまで、何故まだ首相などやっておるのかっ!!』

 

『せからしかーーっ!誰も、首相などやりたかモンが居らんからであるっ!!』

 

...ここのやり取り、実に良かった。両者の緊迫感がハンパなく...吉沢亮の眼光も凄まじい光を放っていた。

 

 

『こんな事では、日本は...日本はっ!!』

 

栄一が引き摺り出されるシーンは圧巻であった。

 

井上馨も八十歳で病没...。

 

残される栄一は、ご意見番となるのか...はたまた老害となるのか...。

 

 

そして、華麗なる一族は三代目・渋沢敬三に引き継がれる。フィナーレに向け、この一族の行く末も気になって仕方がない。最後はどう描かれるのだろう...。

 

そして...

 

 

竹馬の友も鬼籍に入った...。喜作も死去。

 

高良健吾氏も、今にして思えば実に良くこの頑固親父の役がハマっていた。彼の新しい芸風が確立されたのでは無いか...。どちらかと言うと、小綺麗でストイック...繊細なイケメンの役が多かった彼...。ここまで泥臭いオヤジがピッタリ来るとは思ってもいなかった...。

 

いや、本当に見直した。このドラマで新境地を開拓したのでは無いか?

 

高良健吾は、間違いなくこの喜作役は【肥やし】になったと自覚している筈。新たな引き出しが確実に増えたと思う。

 

名演であった。

 

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さあ...

 

次週はいよいよ最終回(笑)。

 

寂しさは禁じ得ないが、期待したいと思う。ここまで懸命にレビューを書いて来たが、僕自身も得る物が非常に多い大河ドラマであった。

 

最高のフィナーレに期待したい!!!

 

☆☆☆☆☆!!!

 

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伊藤博文暗殺事件に関して、思うところを述べた【より楽しむ為に】シリーズ第10段はこちらから!!是非ともご一読頂きたい!!!

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