【青天を衝け】をより楽しむ為に(10)...【伊藤博文暗殺事件】について | MarlboroTigerの【Reload the 明治維新】

【青天を衝け】をより楽しむ為に(10)...【伊藤博文暗殺事件】について

 

 

安重根(アン・ジュングン)である。ハルピン駅構内で伊藤博文を襲撃し、その命を奪った人物として知られている。今週の【青天を衝け】で山崎育三郎演じる伊藤博文が暗殺されるので、これを機に一度【伊藤博文暗殺】に関して言及してみたいと思う。実の所、今まで正面から向き合った事の無い題材だ。僕も勉強しながら書いて行きたいと思う。そこは大目に見てご一読頂きたい。

 

 

【より楽しむ為に】シリーズの前回...【帝国海軍はどの様にして発展して行ったのか】でも言及させて貰ったのだが、僕は右翼でも軍国主義者でもない。韓国に対しては同世代の男性の中では、シンパシーを感じる部分も多く、どちらかと言えば親韓派に属するのかも知れない。バックパッカー上がりの僕は、90年代の初頭に韓国を放浪した事があり、パーソナルな人間関係も現地で築いて来た(ブログのどっかに記事が残っていると思います...。)。だからかな...日韓W杯の前後も、結構微笑ましく韓流ブームを受け入れて来た。実際、KARAの熱烈なファンだったしね。BTSの活躍にしても多少のジェラシーは感じるものの、概ね好意的に受け止めている。

 

 

じゃあ中高年のおっちゃん達の多くに見られる、ある種の【蔑み】の感情が無いのかと問われれば...完全に無いとは言い切れない。これは世代的な問題なのか、育った環境のせいなのかは分からないが、曰く言い難い古い日本人特有の【悪意】の様な物もどこかに残っている。特に僕のような、明治維新をこよなく愛する人間にとって伊藤博文は特別な存在だ。それを殺めた人物など、本来は唾棄すべきテロリストであり、なんら擁護する理由などない。韓国にとっては【義士】なのかも知れないが、僕にとっては永遠の極悪人...。それはこの後も変わる事は無いだろう。

 

自分の中に、【愛すべき韓国】と【憎ったらしい韓国】が共存している事実。これは否定できない。この相矛盾する感情を未だに総括出来ていない事も自覚しているので、そう言う人物が書いているのだと、先ずはご理解頂きたい。かと言って、別に精神分裂症なのではない(笑)。自分自身を納得させる為に、本記事を書く事に意義があると思っているに過ぎない。

 

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それでは始めてみよう。

 

自分の中の内なる【親韓】と内なる【嫌韓】...このバランスに留意しながら、中立的な立場(維持できるかな...笑)で伊藤博文暗殺を考察してみたい。

 

 

先ずは犯人となった安重根がどう言う人物だったのかを見てみよう。彼が生まれたのは現在我々が北朝鮮と呼ぶ黄海道の道都・海州府海州府首陽山だ。韓国ドラマに良く出て来る貴族の家柄【両班(ヤンバン・リャンバン)】の家に三男一女の長男として生まれた。家柄は申し分なしと言う所か。

 

韓国には実名敬避の習慣があり、普段は安應七(アン・ウンチル)と名乗っていたらしい。重根を使い始めたのは暗殺事件の直前の事。

 

 

前述の通り、安の生家は資産家で、小作人を使ってふんぞり返る大地主(地方両班)だ。祖父は鎮海県監を務め、地元では名士として知られていた。父・安泰勲も立派な人物である。幼少から神童と呼ばれ、科挙を受けて進士に合格したと言うから重根もインテリの遺伝子を受け継いでいる。この父は京城(現ソウル)で開化派の海外留学生に選抜されている。前回のレビューでも述べた【甲申政変】(1884年)で開化派のクーデターが三日天下で終わってしまい、これに参加した父・泰勲も当然排斥の対象となってしまった。日本の後ろ盾を受けての清国からの独立の夢は泡と消えた。

 

 

この時、一族は家財を売って青溪洞に移住した様だ。石もて故郷を追われたのだろうか。韓国ドラマの十八番【手のひら返し】で地元の名士は流浪の旅に出る。だが資産は十分に残されていた。この時期父・泰勲は天主教と呼ばれていたカトリックに改宗。

 

祖父は教育熱心な人物で、重根も6歳で漢文学校に入れられた。その後普通学校で学ばせたが、14歳の時に祖父が死去。重根は半年間学業中断に追い込まれる。父母と教師は、銃と狩猟に熱を上げる重根を叱責し、一旦は学校には戻ったのだが、【書は以て姓名を記するに足る】と友人に語り、不満を口にしている。父の様に学業で身を立てたくはなかったのだろう。彼は不学を誇り、狩猟、銃、飲酒、歌舞、妓生(朝鮮における遊女・奴婢の一種)、義侠を好む浪費家となった。ここら辺りは、【青天を衝け】のアホボン...篤二を彷彿とされる。

 

 

1894年、16歳の時に結婚(!)、この年には【東学党の乱】が勃発する。彼の思春期は日清両国が朝鮮の利権を奪い合う中で過ぎて行った。重根自身は東学党の暴力に対して否定的で、70名余の私兵を集めて自警団を組織した。暴れ狂う農民に賛同できなかったのは血筋であろう。青溪洞において避難民や宣教師を保護した。東学党・農民軍とも戦闘に及びこれを撃退。この時重傷を負ったというが後に全快した。この事件の際、東学党から奪った軍糧が元々正規の年貢米だったことで、国庫金掠奪の罪に問われた。意思に反し賊徒の汚名を着せられる事となった。父・泰勲は京城に赴き、息子の無実を訴えたが、聞き入れられなかった。判決も無し。その間に敵勢力に襲撃され、安一族はフランス人宣教師のジョゼフ・ウィレム司祭に匿われる事となった。この一件の後、重根も父に倣って 17歳で改宗した。

 

重根はその後熱心な信者になった様だが、主教は頑なな排外思想の人物だったようで、彼も徐々に排外思想に感化されて行く。その頃二つの刑事事件に関与している。韓国人の官吏と軍人に搾取されていた友人を救出しようとして失敗した件が1件。そして病気の父・泰勲を診察した清国人医師が、反清勢力である事を知り父に暴行を加えた事に激昂、殴り込みをかけ相手に短銃を発砲し逃走したという件がもう1件。キレ易い性格の若者だったのだろう。

 

 

日露戦争が勃発すると、重根は日露のどちらが勝っても韓国はその勝者の属国であると、祖国の行く末を悲観した。日本側の宣戦布告の文面にある【東洋の平和を維持し、韓国の独立を強固にする】と言う建前の欺瞞を指摘し、その大義を日本が守らないのは政治家が悪いのであり、これは伊藤博文の策略のせいであると信じ込む様になる。清国の山東半島や上海には朝鮮人が多数居留していると聞き、安一族も外国に亡命、安全を図るべきだと考えた重根は新たな移住先を探し始める。ところが、上海で旧知の郭神父と遭遇。朝鮮民族の危機を諭され、外国に逃げたり、外国の力を借りて民族独立を計ろうというのは間違いであると指摘されてしまう。大韓帝国独立には民族の団結が不可欠であると考える様になる。1905年、避難地にて父が死亡。重根はこの凶報に接し断酒を決意する。うむ...ここまでの所は、韓国版【尊攘の志士】だ。我が国もこう言うタイプの草莽の志士が幕末期には大勢居た...。

 

1906年、私財を投じて三興学校と敦義学校という2つの学校を設立した。1907年、重根はロシアの地で起業する事を考えるようになったが、先に資金を調達すべく平壌で石炭商を営み始めた。だがこの事業に失敗してしまう。数千元という多額の損失を被る。重根はこの頃、国債報償運動にも参加し、大韓帝国が負った日本からの強制的な円借款の返済を目指していたが、日本の密偵であった日本人巡査と議論して殴られ、喧嘩になったと告白している。

 

 

7月、伊藤博文が訪韓し、第三次日韓協約が締結される。ハーグ密使事件は露見し、大韓帝国皇帝・高宗は強制退位となってしまう。王位は皇太子に譲位される事になったが、軍隊解散とそれに伴う義兵闘争が高まり、朝鮮の政情不安は一気に高まった。重根は家族を置いたまま、安多黙と名乗り間島へ渡る。だが、そこにも日本軍が既に進出しており、派手な活動は憚られた。各地方を視察した後、ロシア領に入りウラジオストクに潜伏。ここで彼は青年会に参加していたが、またまた喧嘩をやらかし、耳を負傷した。どうも粗暴の癖がある様だ。

 

 

ウラジオストクには反清、反日の同志も多く、日露戦争中にはロシアに協力していた人物も居た。重根は大韓独立のために兵を起こし伊藤を倒そうと議論したが、財政的に無理であると申し出を拒否された。しかし中には彼と結ぼうと言う義侠も居り、二人の男と義兄弟の契りを結んだ。(ヤクザか?この辺りの韓国人の風習・風俗については良く分からん...。)厳と言う男を長兄、重根が次兄、金と言う男が末弟になったのだと言う。3人は韓国人を相手に義を挙げる演説を各地で行った。日露開戦以来の日本の欺瞞と、大韓独立を妨げる様々な施策を糾弾し、日本の対韓政策がこのように残虐であるのは『日本の大政治家で老賊の伊藤博文にその原因がある。伊藤は韓国民は日本の保護を受けて平和に過ごしていると吹聴し、天皇と外国列強を欺いている。よってこの賊を誅殺しなければ、韓国は必ず滅び、東洋もまさに亡びる。』と演説して伊藤暗殺の同志を募った。これに応じる者、資金を提供しようという者が続々と現れ、300名程度の義兵団を組織することとなった。1908年6月、この義兵と共に日本軍と交戦したと自伝には書かれている。この戦闘において日本の軍人と民間人を捕虜としたが、万国法で捕虜の殺戮は禁止されているから釈放すべしという重根と、日本人を殺しに来たのにそれをしないのはおかしいという仲間が口論となり分裂。別行動をとった所に日本軍に襲撃され、組織は解消してしまったのだと言う。その後、再集結するも構成員は60~70名程度にとどまり、村落で残飯を恵んでもらう有様となった。

 

 

1909年正月、同志12名と共に【断指同盟】を結成し、薬指を切断。指詰めの血で大極旗の前面に【大韓獨立】の文字を書き染め決起した。上はその手形である。(ヤクザか!?)3月21日大東共報紙面に安應七名義で寄稿、大韓帝国の国権回復のために同胞に団結を訴える。国内外に同志を派して情勢を探り、この年の9月、伊藤博文の暗殺に動き出す事となる。

 

 

これが伊藤博文を暗殺した犯人...安重根の大まかな来歴である。ざっと見た感じ、両家のボンボンに生まれたが、学問に身が入らずドロップアウトして行った感が強い。学問よりは政治運動に興味を示し、過激化して行った。傷害事件も繰り返しているので、粗暴な一面もある男だったと言える。現代なら高校一年生の時に妻を娶り、酒と女と遊興三昧...。現代人的感覚からは、あまり好ましい人物とは思えない。政治運動に名を借りて喧嘩に明け暮れたセレブ崩れ...正直そんな印象だ。

 

イメージ的には学生運動の闘士に近いのかも知れない。我が国においては【全共闘崩れ】や【学生運動上がり】の者達が、いかにいい加減な連中であったかが染み付いているのだが、韓国では違う。文在寅政権にとっては、この手の人物は政治運動の模範の様に映るのであろう。闘士様上がりの政権なのだから、神格化されるのも必然と言えば必然かも知れない。とことん、我々と感性が異なる。

 

少なくとも万国の人々が【偉人である】と讃える程の美しさは、彼の人生には感じられない。

 

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対する伊藤博文について、考えてみよう。

 

彼がいかなる人物であったかは、細かくは言及しない。各自それなりのサイトや書籍でお調べ頂きたい。

 

 

重根とは正反対の極貧の中から彼は成り上がった。元々は長州藩の農民の子であったが、父の仕事の都合で足軽となった。一応は武士であったが、赤貧に変わりはない。寺子屋代わりに松下村塾に通い始め、松陰の薫陶を受けた。そこからの立身出世は皆さんご存知であろう。兄弟子高杉晋作、そして盟友井上聞多(馨)と共に幕末の風雲をくぐり抜けた。

 

 

桂小五郎の従者となり、長州のエージェントとなり、更には長州ファイブとして海を渡ってイギリスに留学した。長州の危機を知るや急遽帰国し、命懸けで藩論を尊王攘夷から開国倒幕へ切り替えようとした。藩政府打倒に立ち上がった高杉晋作を一番最初にサポートしたのは彼だ。その後の活躍は【青天を衝け】で描かれていた通り。軽妙洒脱と評された人柄を武器に、天性の明るさと人心掌握術によって初代内閣総理大臣にまで上り詰めた。重根とは、失礼ながら人間としての器が違う。彼は我が国が誇るべき【偉人】であった事は間違いない。

 

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さて、朝鮮半島と伊藤の関わりだ...。

 

 

伊藤は明治二十五年から二度目の首相を務めていたのだが、明治二十七年(1894年)朝鮮半島で東学党の乱が起こると、7月には清軍との衝突と言う重要問題に直面する。朝鮮の主権をめぐって意見が対立し、8月には日清戦争が勃発する。近代日本が初めて経験する国外での戦争。この時期彼は首相の座にあったのだと覚えておこう。翌年の明治二十八年(1895年)4月、戦争勝利後にカミソリ外相と言われた陸奥宗光を伴って全権大使となり、李鴻章との間に下関条約(馬関条約)を締結した。

 

朝鮮の独立(第一条)と遼東半島の割譲などが明記された条約であったが、露・独・仏による三国干渉によって遼東半島の放棄を認めざるを得なかった。国民から総スカンを食らった伊藤は、翌明治二十九年8月末に辞職に追い込まれた。

 

 

伊藤は明治三十一年の1月から半年、更には明治三十三年の10月から7ヶ月間、三度目と四度目の首相になっている。しかし内閣発足後に新党結成を試みては失敗する。同じ長州出身で松下村塾の同門であった山県有朋との対立が明確になるのもこの頃からだ。第三次伊藤内閣を辞任後の明治三十一年8月には長崎を出発し、朝鮮の漢城で大韓帝国皇帝・高宗と会見。9月には清の北京で慶親王、康有為と面談、光緒帝にも拝謁している。大陸のリアルを知る第一人者であったと言える。大陸に活路を求めたと言う事か...。

 

 

それまでの経験を活かし、明治三十三年(1900年)の9月には立憲政友会を創設し、その初代総裁を務めたのだが、政友会メンバーで固めた第四次伊藤内閣も結局は空中分解。新政党も草創段階ではそれを取り纏めるのは極めて難しい。分裂の責任を取り、翌年に辞任。政友会は伊藤の手を離れた。伊藤は貴族院議員として貴族院議長に就任する事となる。

 

 

日露戦争期間はどうだったかと言うと、伊藤は対露宥和姿勢を貫いた。陸奥宗光・井上馨らとともに日露協商論、満韓交換論を唱えロシアとの不戦を主張し続けた。桂太郎、山縣有朋、小村寿太郎らが提唱する日英同盟にも反対。自ら単身ロシアに乗り込み満韓交換論を提案するも、ロシア側から拒否されてしまう。

 

 

明治三十七年(1904年)から始まる日露戦争においては、金子堅太郎をアメリカに派遣し、セオドア・ルーズベルト大統領に講和の斡旋を依頼。ポーツマス条約の下地を作り上げた。講和後は、勝利を手にした日本とロシアとの間で戦後処理に奔走する事となる。

 

 

その一方で朝鮮半島に対しては明治三十八年(1905年)11月の第二次日韓協約の特派大使に任命され、林権助在韓大使と共に交渉に当たった。韓国から外交権を取り上げる保護国化の過程において、その言動は終始強圧的で、哀訴する皇帝・高宗に対しても容赦しなかったとされている。この事が朝鮮人民の怒りに火を点けた事は言うまでも無い。のちに高宗が列強に日本による条約強制を訴えたハーグ密使事件とは、この時の交渉経緯が発端となっている。結果、高宗の思いは届かず皇帝退位へと押し込まれ、第三次日韓協約に繋がってしまうのだが、この事が韓国における排日感情の激化を招いてしまった。義兵闘争は一気に燃え上がる。

 

 

伊藤は明治三十八年(1905年)11月、第二次日韓協約に基づき韓国統監府が設置されるとその初代統監に就任した。以後日本は実質的な朝鮮統治権を掌握する事になる。伊藤が朝鮮人民から恨みを買ったのは以上の様な変遷を見れば理解出来るであろう。ちなみに儒教国家は血の繋がりには異常にうるさい。今でも【伊藤】さんと【加藤】さんは韓国では非常に憎まれる姓なので、そちらのお名前を持つ人は肝に銘じておいた方が良い。理由は伊藤博文と加藤清正の血族であると判断されるからだ。韓国人は姓が同じなら同族と見なして来るので、注意が必要だ。(僕は違うんで関係無いけどね...笑。)

 

まあ、韓国人の思い込みはどうあれ...

 

我々日本人としては...伊藤はむしろ国際協調重視派で、【鳩派】と目されていた人物であった事を忘れてはならない。彼は中国大陸への膨張を企図し韓国の直轄を急ぐ山縣有朋や桂太郎らの陸軍閥としばしば対立した。韓国併合に関しては保護国化による実質的な統治で充分であると唱え、当初は併合に反対する立場を取っていた。近年発見された伊藤の明治三十八年(1905年)11月のメモには【韓国の富強の実を認むるに至る迄】という記述があり、これについて京都大学の伊藤之雄教授は『伊藤博文は、韓国を保護国とするのは韓国の国力がつくまでであり、日韓併合には否定的な考えを持っていた事を裏付けるものだ』と述べている。実際に、この文言は第二次日韓協約に盛り込まれおり、協約はその上で調印された。

 

 

伊藤は韓国民の素養を認め韓国の国力・自治力が高まることを期待し、文盲率が94%にも上った韓国での教育にも力を注いだ。韓国に赴任する日本人教師たちの前で『徹頭徹尾誠実と親切とをもって児童を教育し裏表があってはならない。宗教は韓国民の自由でありあれこれ評論してはいけない。日本人教師は余暇を用いて朝鮮語を学ばねばならない。』と訓示を垂れている。また明治四十年7月、京城(ソウル)にて新聞記者達に対しても『日本は韓国を合併するの必要なし。韓国は自治を要す。』と演説している。恐らくは、日韓併合について懐疑的な見方を持っていたのであろう。多分にリップサービスの面もあったかと思うが、日本国内のタカ派に比べれば相当に韓国寄りであったのは確かだ。

 

 

伊藤にしてみれば損な役回りであったかも知れない。大陸に対して融和的な態度を取り続けた為に、山県を中心とするタカ派からは疎ましがられたであろうし、朝鮮半島に伊藤を追い出した後は、タカ派にとってもっけの幸いだったかも知れない。伊藤は伊藤で晩年にもう一花と言う思いはあったであろうし、実績を叩き出そうと無理をした側面があったかも知れない。だが、焦れば焦るほど朝鮮人民の心は離れて行き...彼の言動もますます高圧的な物になって行く。両班儒生を集めて行った集会では、一人の若者が壇上の伊藤に詰め寄り伊藤を糾弾した。これに対し伊藤も『来るなら来い!』と挑発に乗る場面も見受けられた。この時伊藤は68歳。そろそろ老害の悪癖が芽生えつつある年齢である。かつてのように軽妙洒脱とは行かなくなっていた。負のスパイラルが巻き起こっていたと言う事だ。

 

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以上の様な経緯を経て、伊藤博文と安重根はハルピン駅で合間見えるのである。

 

 

では事件の経過を見て行こう。

 

明治四十二年(1909年)10月10日から15日の間、大東共報社を安重根・禹徳淳(医師)・曹道先の3名が訪問した。ここで伊藤暗殺が議論され、活動資金を募る事となる。ロシア人の社長・ミハイルロップ は若干の金子を渡し、寄稿文に共感していた編集長の李剛から軍資金の100円 を受け取ると、安重根は禹徳淳とウラジオストクを出発し、10月22日ハルピン市に到着した。両名はそれぞれブローニング社製の拳銃を携行。途中ロシア語の通訳を雇ったが、彼には計画は伝えられていない。この日、ハルピン駅周辺を下見して記念撮影。列車の到着時刻などを確認した。

 

 

ハルビンで曹道先と合流。同志の家に泊まる。10月23日、妻子を迎えにいくと部外者に告げ、3名は出立した。24日、重根は単独行動を開始。電報で大東共報の李剛に借金50円の返済を依頼し、さらに1,000円送金してくれるように頼んだ。同じく電報でハルビンの劉に伊藤の動向を問い合わせたが、その動きは掴めなかった。禹徳淳と曹道先を蔡家溝駅で見張りとして残し、25日に重根だけがハルビンに戻る。重根はロシアで発行されていた漢字新聞【遠東報】 を見て翌日に伊藤が列車で来ることを察知。一人で暗殺を決行する事を決意する。重根と劉はこの日は停車場に泊まった。重根は劉から6円と金時計を貰い、逃走時に備えて、劉を500メートル程離れた場所に馬車で待機させた。朝7時に停車場に姿を現すと、重根は2時間喫茶店で時間を潰して列車の到着時刻を待つ。

 

 

午前9時、伊藤博文はハルピン駅に到着。この時点で韓国統監を退任していたが、満州・朝鮮問題に関してロシアの蔵相・ウラジミール・ココツェフと列車内で会談する予定であった。周囲には外交団を伴っている。

 

ハルビン駅はロシアが利権を持つ東清鉄道の駅で、多数の路線が乗り入れするハブ・ステーションであった。南満洲鉄道の特別列車も運行されていた。この時点で満洲はまだ清国領で、日露戦争後に路線と駅構内はロシアの管轄権が認められていた。東清鉄道民生部部長アファナーシエフ少将や同営業部長ギンツェらのロシア側の接待員も同乗、伊藤を出迎える。伊藤・ココツェフの会談が市内では無く、列車内に設定されたのは同地の治安の悪さが理由であった。

 

 

ココツェフはロシア側の列車で先着していた。伊藤は日本側の列車内を訪れたココツェフの挨拶を受ける。車内で20分ほど歓談した後、ココツェフがロシア側の列車に宴の席を設けていると招待したので、伊藤はこの招待を受ける。列車を移る際、ココツェフは伊藤に敬意を表すためにロシア兵を整列させたので閲兵してもらいたいと申し出、伊藤はこれを受ける。一行はホームに出て、整列したロシア兵を閲兵する。構内には清国兵もおり、外国領事や在留日本人の歓迎団なども控えていた。伊藤らが列になってロシア要人らと握手を交わしていると、群衆を装って近づいて来た安重根が、ロシア兵の隊列の脇から手を伸ばし、10歩ほどの至近距離から拳銃を発砲した。

 

 

7連発銃の全弾を乱射。自伝によれば、重根は伊藤の顔を知らなかった。【顔が黄ばんだ白髭の背の低い老人】を伊藤博文と判断。その人物に向けて4発を発砲した。しかし人違いもあり得る事から【その後ろにいた人物の中で最も威厳のあった人物】にもさらに3発連射した。暗殺者としては中々冷静な判断だ。肝は座っている。伊藤には3発が命中。伊藤を先導して前に立っていたハルピン総領事の川上俊彦は、身を翻した際に銃弾が右腕から腹部に入り重傷を負う。伊藤のすぐ後ろにいて多くの弾丸を受けた室田義文は奇跡的に軽傷であったが、紳士然としていた室田は重根の言うところの【保険の人物】だろう。

 

 

ロシアの捜査記録によると、最初2連射があって、安重根は3発目を左手を右肘に添えて冷静に狙い撃ったとされる。直後にロシア鉄道警察の署長代理ニキホルホ騎兵大尉が捕えようと飛びかかったが、重根はこれを力づくで振り払って、銃撃を続けようとした。周りにいたロシア兵が大慌てで重根を地面に引き倒し、その際に拳銃が手から落ちた。ロシア兵の証言では重根は最後の銃弾で自殺を試みた様だが、失敗したと思われる。約30-40秒ほどの凶行であった。

 

 

重根はすぐにロシア官憲に逮捕される。停車場の一室に連行される際に、重根はロシア語で『コレヤ! ウラー! コレヤ! ウラー! コレヤ! ウラー!(韓国万歳)』と三度連呼したとされる。ロシア語で叫んだのは、世界の人々に理解しやすい様にそれを選んだらしい。

 

伊藤は胸・腹部に被弾して『三発貰った、誰だ。』と言って倒れた。中村是公がすぐに駆け寄って伊藤を抱きかかえ、ロシア軍の将校と兵士の介助で列車内に運び込む。宮内庁御用係で伊藤の主治医であった小山善が治療にあたって止血を試みた。歓迎のために駅に来ていた日本人医師2名、ロシア人医師1名もこれを手伝う。古谷秘書官は本国に電報で凶報を伝える。桂総理と伊藤夫人に向けそれは発せられている。伊藤は僅かな間だが、ブランデーを口にして、意識があった。犯人は誰かと聞き、朝鮮人だと聞いて『そうか、馬鹿な奴だ。』と一言呟いた。3ヵ所の盲管銃創が認められ、内2つが致命傷。胸内に出血が多く、恐らく弾は左肺の内部にあると想定された。伊藤は次第に衰弱して昏睡状態に陥り、約30分後に死亡した。

 

以上が事件の顛末である。

 

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ホストたるロシア側の狼狽は大変なものだったらしい。ココツェフは取り乱し、伊藤の亡骸の前に崩れ落ちた。無理もない。日露戦争が終結してから四年しか経っていない。ようやく友好を取り戻しつつあった矢先に、相手国の代表が殺されてしまった。それも元内閣総理大臣である。

 

日本側はできるだけ早くハルビンから脱出しようと、ロシア側と交渉して列車をそのまま長春に向けて出発させた。11時40分にはハルビンを発車、午後4時頃長春に到着した。そこから満鉄で大連に向かい、10月28日の午前11時には伊藤の亡骸は大連港から、軍艦に乗せられ、横須賀に向け送り出された。

 

 

ロシア官憲はすぐに背後関係を調べ、8名を新たに拘束した。犯人グループは全員韓国国籍者である事から、日韓協約により即座に日本当局への送致が決定された。安重根ら9名はロシア公館に2日間拘留された後、日本領事館に移送され形式的な取り調べを受けた。そこからさらに旅順にある日本の司法当局に引き渡された。

 

 

安重根は旅順の関東都督府地方法院で裁判にかけられた。判決が下されたのは、翌年の2月14日。ロシア法学士ヤブゼンスキー夫人、韓国人弁護士安秉瓚、ロシア弁護士ミカエローフおよびロシア領事館員、安の従弟、そして多数の日本の新聞記者が傍聴する中で、真鍋裁判長によって判決が言い渡された。安と共犯3名は全員が有罪。ただし死刑が宣告されたのは重根のみであった。この判決には朝鮮や欧米でも予想外に軽かった為、驚きの声が上がったらしい。

 

 

重根は獄中でも様々な逸話を残しているのだが、ここでは割愛する。日本人看守とのハートウォーミングな交流など、是非ご自分で調べてみて欲しい。中々に面白い。使えるウンチクとしては、重根の死刑を執行した関東都督府の当時の都督大島義昌は、後の総理大臣の安倍晋三の高祖父であったと言う事実。執念深い儒教国家にとっては、この因縁も断ち難い物なのだろう。安倍が何故に憎まれたのか、その理由の一端がここにもある。今後は【安倍】さんも韓国訪問時は気を付けた方がいいかも知れない...。

 

1910年3月26日、死刑執行。

 

絞首刑であった。享年30歳。安重根の思いも虚しく、それから5ヶ月後...大韓帝国は消滅。朝鮮は日本によって併合されてしまった。

 

これが、現代韓国で【義士】、北朝鮮で【烈士】と讃えられる男の最期である。

 

重根の遺骨に関しては、その後の歴史の中で忘れ去られ、35年後には葬られた場所の位置すら特定出来なくなっていた。旅順監獄の共同墓地のどこかなのだが、管理されなくなって正確な場所が分からなくなっているらしい。1992年、韓国が中国と国交を回復した際、一部関連資料が発見された。韓国と北朝鮮は2005年から2007年にかけて文献調査をした後、共同調査団を構成して旅順監獄の現地調査をしたが、特に成果は得られなかった。

 

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以上が【伊藤博文暗殺事件】の顛末である。

 

この事件がその後の日韓両国にどの様な影響を及ぼしたのかは、正直な所良く分からない。当時の朝鮮民族にとって壮挙であったとしても、果たして有効なダメージを日本に与えられたのかどうか...。ハト派の象徴を暗殺したからと言って、タカ派の陸軍閥にとってみれば痛くも痒くも無いわけで...朝鮮半島の統治を更に締め上げる格好の口実が出来た様な物だ。この事件以後、日本国内ではナショナリズムが沸騰し、韓国併合論がヒステリックに喚き立てられる様になった。安重根による伊藤の暗殺は、更に強圧的な支配を呼び込むトリガーになってしまったと言う事だ。結果としてこの一挙は韓国併合を加速させてしまった。それがリアルである。

 

では殺された伊藤はピエロだったのだろうか?それもまた違う。彼は維新を成就させた重要なピースであり、明治日本を築き上げた功労者だ。悲運にして銃弾に倒れたが、その功績は讃えられて然るべしである。

 

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以上の記事をまとめながら...僕のこの事件に関する考え方も固まって来た。

 

最後に、僕個人の見解を結論として述べておく。

 

 

現在韓国は安重根の神格化に躍起になっている。当然それは伊藤博文を貶める事とワンセットだ。両者を共に讃えるストーリーは絶対に成立しない。この事件に関しての日韓の和解は、永遠に訪れないだろう。

 

ならば我が国はどうすべきか...。

 

僕は中高年には珍しい親韓派ではあるが、この問題に関してだけは絶対に日本政府には折れて欲しく無い。韓国がどの様に安重根を神格化しようが、日本においては【偉人を殺害したテロリスト】、【初代内閣総理大臣を殺したクソ野郎】なのであり、それ以外の何者でもない。妙な妥協は不要である。日韓関係がこじれようが、未来志向が妨げられようが...守らねばならぬプライドと言う物がある。向こうが歴史を変えようと言うのなら、こちらも資料を揃えて徹底抗戦で迎え撃って欲しい。

 

 

韓国国内では、上の写真の様な伊藤博文暗殺現場を再現したオモチャが販売されている。幼少期からの思想教育は徹底されていると言う事だ。これを見れば、どんな歴史観を持った人間が育って行くのか、想像できるだろう。彼の国に『いつかは真の親日が芽生える日が来るだろう』などと期待してはならない。それは幻想に過ぎない。我々日本人は未来永劫、悪としてのみ存在する。それがリアルだ。それとどう向き合うべきなのか...。

 

その為には、発信力が必要だ。国力が弱体化した今、ネットを含め我が国のメディアの発信力はもう韓国には勝てなくなっていると言う事を自覚すべきだ。懐古主義と、妙な優越感の幻想を為政者達が垂れ流し続けたこの30年。蓋を開けばどうだったか?我が国は、すっかり第三国の仲間入りだ。先人達の積み上げて来た栄光の歴史も今や昔...。IT後進国の化けの皮は剥がれた。そろそろ我々も目覚めねばならないのでは無いか?【安重根こそ正義、伊藤は絶対悪】などと言う共通通念が世界に蔓延してしまう事を、僕は真剣に危惧している。日本人としてはそんな物は絶対に認められない。

 

 

これからも日韓関係は修羅場が続くだろう。だが、我々はそんな中でも折り合いをつけて上手くやって行くしか無い。反日の時代において、これとどう向き合い、どう戦って行くべきか...真剣に考える必要がある。【国力】が物を言うのだ。妙なレッテル貼られ、戦後の功績を全て無にされる様な事だけは絶対に避けたい。政治家、公務員、経営者の諸氏はその事を肝に銘じ、日本国の国力増大を念頭に置いて精進して貰いたい。国力が無ければ、発言力は与えられないのだ。良きにつけ悪しきにつけ...伊藤博文の存在はそれを教えてくれる。

 

 

明日の渋沢栄一をどうやって生み出すか...今一度、みんなで知恵を絞って考えてみよう...。このままでは、ダメだ...。

 

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今日は【伊藤博文暗殺事件】について私見を述べさせて貰った。どう考えるかは貴方(貴女)次第(笑)。明後日オンエアされる【青天を衝け】で伊藤博文殺害がどう描かれるのかは分からないが、皆さんも色々と考えて...家族や友人と語り合って貰いたい。答えは一つでは無い。僕の意見が正解だとも思っていない。ゴリゴリ家族内でこの事件に関して論戦を繰り広げるのも一興だろう。僕の場合、幕末オタとして、どうしても伊藤寄りになってしまった。でもそれは僕の個性だ。本項には、ある種の【悪意】が介在している。その事は皆さんにもお見通しであろう。本記事を鵜呑みにして貰う必要は全く無い。

 

本項が、少しでも日本の近代史を考えるヒントになって貰えれば、僕としては十分に嬉しく思う。

 

明後日の第四十話【栄一、海を越えて】に期待しよう。

 

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【青天を衝け】をより楽しむ為に(9)...【帝国海軍】はどの様にして発展して行ったのか...は下記のから。

 

未読の方は、是非ご一読あれ♪

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