NHK大河ドラマ【青天を衝け】第三十八回を見て | MarlboroTigerの【Reload the 明治維新】

NHK大河ドラマ【青天を衝け】第三十八回を見て

 

大日本帝国憲法が発布された。

 

時代は大きく動き始めていた。今回は明治中期の日本の姿と、徳川の遺臣達のその後...そして徳川慶喜の去就について描かれていた。栄一を取り巻く環境も激変し、その家族にも綻びが目立ち始める。

 

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大日本帝国憲法。

 

これに関しては、ウンチクを語るまでも無いだろう。それ専門のサイトで各々お調べ頂きたい。餅は餅屋。専門の方の知識をご覧頂いた方が無難だ。僕は語らない。

 

この憲法の施行期間は、明治二十三年(1890年)11月29日から昭和二十二年(1947年)5月2日に至る56年と5ヶ月4日の20,608日間に及ぶ。我々が知る日本国憲法に比べるとずっと短い期間しか存在しなかった。僕も祖父が残した本棚から、同憲法下における六法全書、一般向けの法律に関するハウトゥー本などをチラ見したことがある。

 

現代の法とは、余りに違っており...目が点になった。女性の浮気に対する刑罰とか...相当に違っていて思わず笑ってしまった...。

 

まあいい...

 

とにかく近代的な官僚機構を擁する直接的君主政はこれによって確立された。その第十条において、官制大権が天皇に属すると規定された。導入が検討され始めた明治十三年の時点では、大隈重信より日本国国憲按が提出されたりしたのだが、ベルギーやプロセイン王国色が強過ぎる為、これは岩倉具視や伊藤博文が反対し、日の目を見なかった。自由民権運動が過激化する中、ドラマでも描かれていた様に伊藤のクーデターにより大隈が失脚。これが転機となってドイツを手本とした憲法発布に舵が切り替えられたのだ。

 

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そんな中、旧幕臣達が結集し【東京開始三百年祭】が上野公園にて挙行された。

 

 

これは当時行われた、大名行列復元の風景である。三十年振りとなれば、老人は記憶にあったのだろうが、若者達にとってはノスタルジックなアトラクションとして面白おかしく映ったであろう。

 

 

幕臣達の気持ちも、分からぬ事は無い。敗軍の側に立った者達の鬱積した二十二年間に、一つの区切りが打たれた瞬間である。それぞれの思いを胸に、新生日本の門出を家康の魂と共に祝う...。感無量であったろう。

 

久し振りに聞く【快なり!】は何とも微笑ましくもあった。

 

そうだ...上野の地は、彼らにとっても特別の場所なのだ...。

 

私とは全く逆の感情を持つ人々...。栗本鋤雲が賊将西郷の像が建つ事を揶揄していたが、これが我々の様な薩摩DNAを受け継ぐ者にとっては真逆となる。僕は毎月寛永寺に参拝する際、心の中で『南洲先生万歳!』を叫んでいる(笑)。当然ながら、滅ぼした徳川に対する愛情や同情の念などは欠片も存在していない。(彰義隊士に対する哀れみの情は別だが。)ここら辺り、現代人にも引き継がれる血脈の因縁と言う物は...実に面白い(笑)。

 

寛永寺は徳川家の菩提寺でもあるので、お寺さんは当然親・徳川である。だが、私は違う。門徒としての伝教大師最澄への想い、そして観音信仰者としての想いに関しては明らかに同じ方向を向いているのだが、こと対徳川に関しては全く逆の方向を向いていると言って良いだろう。信仰心と歴史観に大きなズレがあるのだ。

 

その事を常に意識はしているが、この矛盾が不謹慎かも知れないが、僕にとってはまことに面白い。だから寛永寺への参拝は特別な意味を持っているのだ...。

 

関係なかった。話をもとに戻そう。

 

永井尚志が登場。【徳川万歳!】の連呼が上野に木霊する。僕も永井は度々自作の小説の中に登場させて来たので感慨深く見させて貰った。

 

 

そして、彼も久々に姿を現した。

 

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さて、今日のウンチクパートはこの方について取り上げさせて頂こう。

 

パリから帰国後の徳川昭武についてご説明したい。パリ編ではとにかく目立ちまくっていたこの人物。その後パッタリ出なくなり、皆さんも寂しかった筈。この間の昭武ロスを穴埋め...とまでは行かないが、少しばかり語ってみる事にしよう。

 

 

簡単に彼のプロフィールを振り返ってみると...

 

生まれたのはペリー来航と同じ年。つまり嘉永六年(1853年)と言うから、まさに幕末と共にこの世に誕生した。父は慶喜と同じ水戸の烈公・斉昭。その十八男(笑)として江戸駒込の水戸藩中屋敷にて生まれ、以後幼少期は水戸で過ごす事となる。幼名を余八麿(よはちまろ)と言い、十歳までを水戸で過ごした。

 

幕末の動乱の為、江戸に呼び出され、十歳からは江戸で育てられた。十四代将軍徳川家茂が死去した後、二十年間廃絶していた御三卿の一つ...清水徳川家を復興し、その当主となった。これが慶応二年(1866年)の事で、昭武はまだ十三歳であった。現代なら中学一年生だ。箱の中の鳥として育った彼に、世間の事など分かる筈が無い。この時同時に命じられたのが、パリ万博への派遣であった。

 

 

もしあなたがその様な立場だったら、どうだろう。想像してみて欲しい。中学一年生で、将軍の名代である。母の違う兄は将軍ではあるが、血の通った交流はまったくなく...十六歳も年上である。アラサーの大人と中学一年生では、まともな話など出来なかっただろう。

 

で、ドラマでも描かれていた通り、栄一を従えてフランスに渡った。以降はドラマで描かれていた通りである。明治元年9月4日に英国船ペリューズ号でマルセイユを出航、11月3日に栄一と共に神奈川に帰着した。

 

昭武は栄一にこのまま水戸に着いてきて欲しいと懇願していた。それもそうだろう。新政府から新藩主に任命された故郷でもある水戸藩は、この間佐幕派と勤王派の藩士が分裂。領内で弘道館戦争が勃発していた。戦争の真っ只中に帰国し、これを押さえ込まねばならない。十五歳の少年に、それは無理である。心から信用できる側近が彼には必要であった。

 

栄一はご存知の通り、静岡藩に出仕する事となり昭武とは別れてしまうのだが、これも仕方あるまい。旧主の命令である。更には前述の通り、政情不安の水戸にあっては洋行被れの余所者など、攘夷派の格好のターゲットだ。もし水戸藩に随行していれば、攘夷派によって即座に斬り殺されていただろう。

 

 

明治二年(1869年)、昭武は水戸藩徳川家を相続。藩主に就任した。同年版籍奉還に伴い民部大輔を辞官。藩知事となった。知事となった彼は、北海道の土地割渡しを出願。8月17日、北海道の内、苫前郡、天塩郡、上川郡、中川郡と北見の利尻郡の五郡を与えられ、その支配を命じられた。北海道開拓にその後の活路を見出そうとしていた。

 

ところが明治四年(1871年)になると廃藩置県が言い渡され、彼は藩知事を免じられてしまう。18歳の時の事だ。現代ならば高校一年から高校三年の間、彼は尊王攘夷の聖都とも言うべき水戸でトップに君臨した。それは苦しい時代だっただろう。なまじ西洋の洗練された文化を吸収してしまった身...。天狗党以来、血生臭い内ゲバを繰り返して来た水戸っぽ達とどう向き合ったのか...心労は絶えなかったと想像する。幼少期にその恐怖は刷り込まれていた筈だ。

 

 

廃藩置県が転機となり、彼は東京府向島の小梅邸(旧水戸藩下屋敷)に起居する事となる。ようやく虎穴を脱した気分がしたのでは無いか...。明治七年(1875年)、陸軍に少尉として任官する。創成期の陸軍戸山学校において、教官として生徒に軍事教養を教授。明治八年(1875年)、中院通富(なかのいんみちとみ)の娘・盛子と結婚した。22歳の時であった。この年、明治天皇の行幸を小梅邸に受ける。

 

明治九年(1875年)にフィラデルフィア万博の御用掛となり渡米。その後、兄弟と共に渡仏。再びフランスに留学する事となる。八年ぶりのパリは、彼の目にはどう映ったのだろう。前回の留学から8年...フランスはナポレオン3世による第二帝政が終わり、第三共和制に移行している。番組でも異彩を放っていたナポレオン3世は、亡命先のイギリスで既に死去しており、フランスは全く別物として生まれ変わってしまっていた。その姿に、昭武は愕然としたのでは無いだろうか。

 

激動の季節を迎えたヨーロッパにおいて、彼は19世紀末の世界のリアルを目に焼き付ける事となる。留学は四年間に及び、明治十三年(1880年)にエコール・モンジュを退学、甥の徳川篤敬を呼び寄せ、ドイツ、オーストリア、スイス、イタリア、ベルギーを歴訪した。最後はロンドンに半年間滞在し、帰国したのは明治十四年の六月の事である。その外遊は五年間に及ぶ。下世話な話だが、新婚直後から五年間も妻を放ったらかしとは...いいのか、悪いのか...。帰国すると彼は28歳になっていた。

 

 

明治十六年(1883年)1月に長女・昭子が誕生。しかし産後の肥立ちが悪く妻・盛子は死んでしまう。可哀想な嫁だ。5月に昭武は隠居願を提出し、甥の篤敬に家督を譲る。三十歳で隠居と言うのもすごいが...翌年には、生母秋庭を伴って戸定邸に移った。

 

今回ドラマで描かれていた【徳川家康江戸入府300年記念祭】が挙行されたのは明治二十二年の事。この時昭武は36歳。まだまだ男盛りの年齢だ。彼はやはり兄・慶喜とよく似た資質の人物だった様だ。隠居後は自転車や狩猟、写真、園芸など多様な趣味を楽しんだ。盛んに静岡と往来し、慶喜と共に写真撮影や狩猟に出掛けた。撮影した写真は自ら現像し、その多くが保管されている。千葉大学園芸部の用地にあった区画に西洋庭園を築き、これは与謝野晶子によって【松戸の丘】の和歌となり、現代に伝えられている。私も千葉県民の一人として、誇りに思いたい。明治二十五年(1892年)に次男の武定が子爵に叙せられ、松戸徳川家が創設された。

 

 

これが我が千葉が誇る、関東富士見百景の名勝にして国指定重要文化財...【戸定邸(とじょうてい)】である!!

 

正式名称を【旧徳川家住宅松戸戸定邸】と言う。庭園は【旧徳川昭武庭園】。そのものズバリであろう。

 

昭武の日記によれば、彼がこの地を訪問したのは明治八年((1875年)の正月の事。狩猟のため松戸を訪問したのだが、この時彼は松戸の大自然に魅入られたらしい。以後頻繁に松戸を訪ねる様になり、ついに明治十五年三月、松戸に専用の別邸を構えようと建設を始める。前述した通り、翌十六年には水戸家の家督を甥に譲って隠居する事になるので、これを見越した老後(と言うには早すぎるが...笑)の備えだったのだろう。明治十七年四月に、この戸定邸を完成させた。

 

眼下に江戸川、そして遠くに富士を望む松戸の高台に建つ戸定邸は、明治期の旧大名家の和様の邸宅としては全国的にも非常に希少だ。意図的に装飾を廃し、最高級の杉の柾目材がこれでもかと使用された戸定邸は、まさに質実剛健。客間の前には和洋折衷式の庭園が広がり、見る者を圧倒する。

 

戸定邸は、徳川慶喜を筆頭に徳川一門に連なる人々、東宮時代の大正天皇などが訪れた華族の交流の場として機能した。明治時代のスーパーセレブ達の憩いの場だったのだ。

 

 

昭武は、なんと晩年に自動車にも乗っている...。これは昭武の晩年、明治四十年(1907年)に開発された我が国最初の国産自動車...吉田式自動車に搭乗する昭武の写真だ。 水冷・水平2気筒、12hp、1837cc、16km/h のプロトタイプで、オートモビール商会が製造した。 運転席には有栖川宮威仁が着座し、昭武は助手席に乗っている。ハット姿が何とも優雅だ。

 

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と、言う事で...その晩年は、なんとも羨ましい日々を送った昭武であった(笑)。

 

慶喜はドラマでも描かれていた通り、明治三十年(1897年)に東京の巣鴨に移る事となるのだが、翌明治三十一年(1898年)には水戸家を継いだ甥の篤敬が44歳で死亡してしまった。遺児が11歳と幼少であったため、昭武はその当主の後見となった。

 

昭武が死亡したのは明治四十三年(1910年)の7月3日、小梅邸にて死去している。享年58歳であった。

 

今日のウンチクはここまで(笑)。

 

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話をドラマに戻す。

 

 

行き詰った東京養育院であったが、運営資金への寄付を募るため慈善会立ち上げた。その会長には妻・兼子が就任。寄付を目的としたバザーを開催する事となる。

 

 

日本の慈善事業の曙の姿である。恐らくは、こんな感じだったのだろう。欧米のセレブを手本に、立身出世を遂げた者がその利益を還元する...。たどたどしい振る舞いではあったが、続々と身銭を切る名士達の姿は微笑ましくもあった。

 

妾のくには時代の流れを感じ取り、身を引く。妾としての身の引き際と言うのは、あんな物だったのだろうか...。現代からは考えられないドライさだ。彼女の役回りと言うのは、最後まで良く分からなかった。本ドラマにおいて残念な点である。

 

 

川村恵十郎がやすと共にバザーに姿を現した。彼は職を辞した後は東照宮の宮司になるのだと言う。浪岡一喜氏の真骨頂とも言えるシーンであった。陰鬱な表情のまま、涙を流す。風雪の頃を思い、彼は何を伝えたかったのか...。

 

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そして、バカ息子の暴走が始まる(笑)。

 

長男・篤二がダメ人間の道をまっしぐら!!うむ...やはり、これくらいあった方が良い...。敵が次々に消え去り、栄一は棚ボタ式に財界のドンとして絶対的な権力を築き始めた。利左衛門や弥太郎亡き後、もはや彼に太刀打ち出来る古狸はこの世に存在しない。このまま順風満帆だと、流石に憎たらしくなる。せめて子供がアホな奴でなければ...不公平だ(笑)。ええぞ、篤二!!かき回してやれ!!

 

 

遊興三昧の不良息子を改心させるべく、熊本に生活拠点を移させるのだが...

 

 

またもやらかす(笑)。

 

熊本でも問題を起こし、女と出奔(笑)。どら息子の暴走は止まらない...。だいぶ前にも言及していたのだが、彼についての記事を再掲してみよう。

 

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幼くして母・千代を失った篤二はドラマで描かれていた通り、思った様な人物には育たなかった。不自由のない暮らし、周囲のプレッシャー、姉達の小言...セレブ然とした暮らしに飽き飽きした彼は、学生時代になると学校に行かず遊女と遊び始めた。父に対する反抗の意味もあったのかも知れない。

 

この後の篤二に言及すると...明治三十年(1897年)には何とか実業界に入り、澁澤倉庫部の倉庫部長に就任。倉庫部が改組され澁澤倉庫株式会社になると初代取締役会長となった。

 

しかし篤二は経営よりも趣味の世界に没頭(笑)。日々...義太夫、小唄、謡曲、写真、乗馬、日本画、ハンティング三昧。これでは経営者としての資質が問われるのも仕方がない。明治四十四年(1911年)には芸者と不倫問題を起こし、新聞誌上にて酷評される様になる。当時の【文春砲】だ。ゴシップでもってトドメを刺される事となった。

 

栄一の逆鱗に触れた篤二は、大正二年(1913年)に廃嫡されてしまう。

 

 

いわゆる【渋沢四代】揃い踏みの、貴重な一枚である。向かって左が栄一。廃嫡された篤二は赤ん坊を抱く中央の人物。右に立つ恰幅の良い人物が篤二の子で渋沢家を継いだ渋沢敬三。そして赤ん坊が四代目の渋沢雅英。どう言う訳か、篤二だけ風貌が違う。一人だけ瘦せぎすだ。

 

 

三代目渋沢敬三氏。やはり祖父栄一に良く似ている。彼は中々に立派な人物だ。元々動物学者を志していたのだが、篤二を廃嫡した祖父・栄一が第一銀行を引き継がせるべく、土下座してその進路を変更させたのは有名な話し。

 

東京帝国大学経済学部を卒業後、横浜正金銀行(旧東京銀行・現三菱UFJ銀行)で修行し、大正十五年(1926年)第一銀行取締役に就任。同行副頭取を経て、昭和十九年(1944年)日本銀行第16代総裁に就任した人物だ。第二次大戦直後には大蔵大臣にも就任した。

 

一方でGHQによる財閥解体の対象者となり、公職を追放された。昭和二十六年(1951年)の追放解除後は、経団連の相談役や国際電信電話(現KDDI)の初代会長、文化放送の初代会長を歴任。昭和三十八年(1963年)病没した。

 

ちなみに、彼の母は...あの三菱財閥のドン、岩崎弥太郎の次女である。明治時代の閨閥は、複雑に入り組んでいて面白い(笑)。なんとあの弥太郎の血が、渋沢家にも混じっているのだ。二人の因縁を考えれば、何とも不思議な気持ちになる...。

 

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サキ様ご登場。

 

慶喜復権を目論む栄一は、慶喜の伝記を出版したいと申し出る。だが慶喜の反応は鈍い。

 

『何が偉業だ。私は誰に忘れ去られようが...例えただの趣味に生きる世捨て人と思われようが、構わぬ。』

 

この辺りの草なぎ剛氏の演技は見事であった。徳川慶喜の茫洋とした佇まいと、諦めを通り越し...達観したかの様な眼差し...。あの【味】は中々出せたものでは無い。これは全編通して言える事であるが、彼は慶喜の生き方と言う物を、非常に高いレベルで咀嚼している。

 

 

だからこの表情が出来るのだ。

 

 

妻と子供達に囲まれての幸せな日々...。

 

 

美賀君を演じた川栄李奈は味のあるバイプレイヤーだっただけに、もっと登場シーンを見てみたかった。乳癌のため、ナレ死。現像室で浮かび上がる遺影は、中々の演出であった。享年58歳。

 

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あっという間に時間が過ぎ去り...日清戦争も終結(笑)。最終回に向け、ラストスパートが始まっているのだが、流石に速すぎる...。ここからキャストをどうやって老けさせるのか...。

 

伊藤博文は白髪頭になりつつある...。清に賠償金を支払わせ、アジアを代表する一等国にのし上がろうと、怪気炎をあげる。

 

 

そして、慶喜上京の機は熟した。巣鴨に、慶喜は帰って来た...。時代はもう...

 

明治三十年になってしまった(笑)...。

 

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そんなこんな(笑)。

 

今回は...まあ、ボチボチですかな。栄一も命を狙われ始め、世間の風当たりも強くなる。

 

さあ、残りもあと三回!!どんな往生を遂げるのか...期待しましょう♪

 

☆☆☆!

 

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先日、副読記事として下記の記事を投稿しました。西洋音楽の導入について書いてみました。未読の方は、是非ご一読あれ♪

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