【青天を衝け】をより楽しむ為に(8)...【西洋音楽】はどの様にして日本に受け入れられたのか | MarlboroTigerの【Reload the 明治維新】

【青天を衝け】をより楽しむ為に(8)...【西洋音楽】はどの様にして日本に受け入れられたのか

 

NHK大河ドラマ【青天を衝け】より、グラント前合衆国大統領来日レセプションにおけるダンスシーンである。弦楽器が奏でる音色に乗せて、日本側の婦人達も軽やかにステップを踏む...。

 

しかし、西洋音楽など接した事もなかった人々...そう簡単には馴染めなかったのでは無いか...。

 

今日は明治日本において、西洋音楽がどの様に浸透して行ったのかを考察してみたい。

 

 

日本に西洋の音楽が浸透する機会は、大きく分けると三つの時代が存在した。第一波はご存知戦国時代。世界制覇を目論むスペイン、ポルトガルの宣教師によってそれはもたらされた。キリシタンの布教による宗教音楽として、日本人は初めてその音色を聞いた。この時代の西洋音楽は、【ルネサンス】の時代の音楽。オルガンやチェンバロを主体とした賛美歌がメインで、まだ後年の雄大なオーケストラは存在していない。

 

 

ただし日本の五つの音階を上回る七音階の音色は、衝撃的に日本人の心を掴んだ。細川ガラシャやキリシタン大名など、セレブの間で猛烈にキリスト教が支持された理由の一つに、この賛美歌の影響が大きかったのでは無いかと僕は睨んでいる。その布教の庇護者たる織田信長の死をもって、キリシタンの短くも美しい時代は終わってしまった。

 

 

信長の後を継いだ豊臣政権、そして徳川幕府は前時代と異なりキリスト教に対してネガティブな反応を見せた。世界制覇を狙うスペイン、ポルトガルの狙いを看破し、その介入を防ごうとしたのは賢明であったかも知れない。他のアジア各国とは異なり、この時期日本は世界でも稀有な軍事大国と目されており、全世界の小銃の1/3を保有していた。陸戦を挑んで我が国に勝利出来る国は存在しなかったであろう。軍事力を背景に、日本は両国との交流を絶った。新しいパートナーはキリスト教の布教活動に熱心では無い、新興国オランダのみが選ばれた。

 

 

日本に伝えられた賛美歌は、初期のバロックであったと想像するが、それほどポピュラーなナンバーでは無かった。隠れキリシタンが代々伝えた口伝の音楽は、マリア賛歌の一つだが、欧州における流行とは異なっている。チェンバロやオルガンの伴奏によるこれ等の音色は、戦国時代の都市部においては比較的容易に耳にする事が出来のだが、江戸時代の鎖国政策によって完全に姿を消した。

 

ただし例外もある。

 

 

第二波たる長崎出島に伝わった西洋音楽である。限定されたエリア内ではあったが、そこには確かに西洋音楽が存在していた。国交を唯一許されていたオランダから、欧州の流行音楽が絶えず持ち込まれていたのだ。バタヴィア(インドネシア)は東インド会社のアジアにおける拠点であったが、ここから膨大な物資が日本へ持ち込まれる。

 

 

【オランダ商館日記】によると、1820年に長崎奉行の交代式でオペレッタが上演されたという記述が残っている。この公演では、【短気な男】と【二人の漁師とミルク売り娘】が上演された。【小さなオペラ】とも言われるオペレッタは、日本人にも分かりやすい庶民的なユーモアに溢れており、これならばキリスト教とは無縁にエンターテイメントとして提供できる。日本で言えば、歌舞伎や狂言の様な物と捉えられたのだろう。喜劇に対する感性は、万国共通である。また、有名な出島の医官シーボルトが日本滞在中にピアノ作品を書き、そのピアノを長州藩・萩の豪商熊谷五右衛門に寄贈したと言う資料が残されている。

 

この様に、江戸時代も後期になると一部の日本人はその音色を確かに耳にしていた。だが、本格的に一般人がその全貌を知る事になったのは幕末であろう。黒船と共にやって来た西洋音楽こそ、決定的な第三波であった。

 

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東日本に始めて西洋音楽がもたらされたのは、嘉永六年(1853年)6月の事である。そう、ご存知【ペリー来航】の時。この時、ペリーは軍楽隊を率いて来日を果たした。日本人は始めて金管楽器が奏でる大音量の西洋音楽を耳にし、腰を抜かす。同年同じく日本に開港を求めたロシアも軍楽隊による演奏を披露。翌年のペリーの二度めの来航の際にも、饗応する日本人は再び西洋音楽を耳にしている。皆、その度に驚かされた筈だ。

 

ここで日本が鎖国している間に西洋音楽がどの様な発展を見せたのか、簡単に振り返ってみたい。

 

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中世の宗教音楽から大衆の物に移行しつつあった西洋音楽...。信長の頃にはポリフォニーが生まれた頃であるから、まさしく西洋音楽が大きく変貌を遂げようとしていた矢先に、日本は鎖国してしまった。その偉大なる進化とは全く無縁に我が国は世界の隅に捨て置かれた...。

 

 

室内楽曲、管弦楽曲、鍵盤楽曲が進化し、ソナタ、シンフォニア、コンチェルト、トッカータ、フーガ...様々な音楽が教会や宮廷で演奏され始め、バロック音楽が完成の域に達する。18世紀になると器楽が声楽を凌ぐようになり、歌詞を持たない楽曲は自由且つ抽象的な表現が可能であるため大いに受けた。もちろん、科学技術の進歩によって楽器そのものが大きく進化した事が何よりも大きい。こうして古典派音楽が確立されて行く。

 

 

19世紀になると、音楽が詩的・絵画的要素と結びつき、事物、事象、思想などを音楽で表現しようとするロマン派音楽が台頭して来る。また票題音楽や交響詩も生み出され、音楽はその領域を大きく広げる事となった。この時代には、管弦四重奏や交響曲、協奏曲、セレナーデ、ピアノソナタやピアノ協奏曲なども生み出されている。1800年代、幕末前の段階で西洋音楽は大きく変貌を遂げていた事が分かるだろう。

 

 

バロック時代は演奏においてはある程度のアドリブが許されていた。作曲家はメロディとコードネームは作るが、実際の演奏では奏者が様々にアドリブを加える。これがお約束...ジャズの様な即興音楽であった。これが古典派の時代になると、作曲家は指示を出し始める。ロマン派の時代においては、演奏者の地位が向上。スタープレイヤーが誕生し、名人芸を披露し始める。ロックスターのギターソロみたいなもんだろう。音楽は一気に大衆化する..。

 

 

現代我々が【クラシック音楽】と呼んでいる物は、これ等バロック音楽、古典派音楽、ロマン派音楽の総称であるが、これは1550年頃から1900年の間に作られた音楽だと考えれば分かりやすい。我が国ではその初期にこの音に触れ、300年近い空白期間を経て、最後の50年に再びこれに出会った...。進化の過程をすっ飛ばして再会したのである。

 

 

文政九年(1826年)にシーボルトがピアノを江戸に持参し、一部西洋音楽を研究しようとする向きもあったのだが、結局発展を見る事は無かった。西洋音楽が本格的に姿を表すのは、やはり幕末の外圧に頼るしか無かったと言う事だ。

 

そして幕末を迎える。

 

先に述べた通り、ペリーの艦隊を筆頭に、この時代の列強国は軍楽隊を伴って来日した。

 

 

決定的だったのは金管楽器がこれら軍楽隊の主役であった事だ。彼らの奏でる吹奏楽こそ、明治維新期を代表する西洋音楽だったと言える。金管楽器の心臓とも言えるバルブは、1814年にハインリッヒ・シュテルツェルによって発明されたのだが、これが様々に改良を加えられ管楽器のスタンダードとなった。今も殆どの管楽器にバルブが装着されている。大音量を可能とする巨大なホーンの響きに、日本人は衝撃を受けた。

 

 

ペリー来航のニ年後、安政ニ年(1855年)、徳川幕府は長崎に海軍伝習所を開設し、精鋭を選抜して送り込む。その地で彼らはドラムとラッパによる洋式軍楽に出くわす事となった。オランダ式で伝授される西洋の音楽であったが、一方で軍楽隊は戦争と直結している。後の突撃ラッパでは無いが、爆音がこだまする戦場において進退を指示する貴重な連絡ツールとして機能していた。この為、諸藩は争って軍の再編と共に軍楽隊を導入し始める。

 

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抑えておいて欲しいのは、西洋音楽もまた...軍隊から導入されたと言う事実だ。他の文物もそうだったが、音楽もまた軍事から我が国に導入された。

 

 

文久三年(1863年)から明治八年(1875年)にかけて、イギリスとフランスの軍隊が横浜に駐屯していた事も大きかっただろう。外国人居留地では禁教が解禁される前から、賛美歌や聖歌が鳴り響いていた。リアルな西洋音楽に触れようと思えば、触れられる環境が明治以前に既に整っていた。

 

 

西洋式軍隊を見様見真似で導入した幕府と諸藩であったが、幕長戦争、鳥羽伏見の戦いを経て戊辰戦争に雪崩れ込む。この時兵士達は否応無しに西洋式のリズムに同調する事を強制された。近代軍隊における軍事行動の基本は、歩行訓練から始まる。上の写真は戊辰戦争に出征する信州上田藩兵の軍楽隊。この様にドラマーを随行させ、移動の際に歩行訓練を行った。

 

 

当時日本人は現代人の様に手と足を交互に繰り出す現代歩行が出来なかった。【ナンバ歩き】と言って、右手が前なら右足も前、左手が前なら左足も前と言う...何とも奇妙な歩き方で歩行していた。西洋式軍隊は、これを修正する所から始まる。体を捻り、手足を交差させる事によって歩行速度と距離を伸ばす。

 

オランダ式軍事訓練によると、1分間の歩行距離は53m弱、1時間では3k強が【常歩】とされている。歩幅は約70cmで、1分間に76歩が適正と決められていた。スピードを上げた【急歩】の場合、歩幅は同じながら1分間に108歩となりピッチが上がる。この時の歩行距離は1時間で4.5kmだ。これを幕末の兵士は日夜繰り返し体に叩き込んだ。ナンバ歩きを矯正するシーンは、幕末の時代劇や映画でもたまに描かれている。皆さんもどこかで見た記憶があるのでは無いか...。

 

 

この軍隊の歩行訓練に関しては、本ブログで発表した小説【開闢の光芒】で何度も登場させている。戊辰戦争に従軍する兵士達が、移動する際に歩行訓練を繰り返す。雇われドラマーの太鼓の音に合わせて、『右!左!右!左!』と前進して行くのだが、従軍こそ現代歩行を習得する絶好の機会だった事は言うまでも無い。一糸乱れぬ行進など、日本人は全く知らなかった。だから強制的にそれを叩き込むしか無かったと言う事だ。

 

 

特に面白い逸話を残したのは官軍側で鳥取藩配下に配属された山国隊の存在だろう。甲州勝沼で甲陽鎮撫隊と激突し、近藤勇の本陣を急襲した伝説の部隊として知られている。安塚村の激闘、宇都宮城奪還戦、上野戦争における山王台場攻略戦と、武士のお株を奪う大戦果を挙げた彼らだが、今日では【山国隊軍楽】を生み出した者達として知られている。(関心のある方は、最下部に山国隊の登場シーンを貼付させて貰った。お暇なら、ご一読頂きたい。)ドラムと篠笛と言う和洋折衷スタイルながら、彼らは新時代の到来を音楽でもって日本各地に知らしめた。明治維新は、彼らのドラムの響きによってもたらされたのだ。これも西洋音楽の亜種と言えるだろう。

 

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そして忘れてならないのが、宗教音楽だ。キリスト教によって、新しいサウンドが一般民衆に向け発信される様になる。

 

 

横浜のイギリス軍、フランス軍が維新期に軍楽マーチを奏でるその一方で、居留地内のキリスト教勢力は新政府による【解禁の日】を、一日千秋の思いで待ち続けていた。そしてそれらの者達は、禁教令が解除される事を見越し、準備万端で布教の準備を整えていたのだ。

 

キリスト教の布教の自由が許されるのは、明治六年(1873年)の2月の事だが、この直前の段階で列強諸国はプロテスタントの各派が画策、賛美歌の日本語訳が着々と進められていた。解禁後は一気に賛美歌を普及させようと言う狙いであった。解禁の翌年...明治七年には日本語訳された賛美歌集が大量に発刊されている。

 

こうして軍隊が先行する形で浸透させた西洋音楽に、少し遅れて宗教サイドからも進撃が始まった。

 

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日本の西洋化と言えば伊藤博文、福沢諭吉が代表格だが、彼らは海外に視察に出かけ、どの国からどの様な文物を導入すべきか様々に検討した。当時は後進国の立場である。様々なものが無秩序に採用されて行った。発電器をフランスとイギリスから、議会制のシステムはイギリスから、憲法はドイツから、近代軍隊はドイツから導入した。何でもありの時代であった。部分部分で日本にベストマッチする文化を、ツギハギ的に導入して行ったのだ。

音楽もまた然り。当然その源泉となったオランダ軍から当初は強い影響を受けていたが、やがてこれも変貌の時を迎える。

 

歩行訓練を通じてリズムを体得する様になった日本人だが、元来【ビート】と言う概念を持たなかった。日本の音楽には、一定時間で単調に繰り返されるリズムと言う物が存在していなかった。もちろん打楽器としての太鼓は存在してたが、歌舞伎や、能、祭囃子を見ても、それはリズムを刻んでいると言うよりは場を盛り上げるための効果音として機能していた。

 

 

太鼓がドンと鳴り、三味がベベン!とそれを追いかけ、盛り上がって来ると『いよーーーっ!』と掛け声が入る。厳密に小節が設定されていた訳では無いのである。外国人教官はそこを修正する必要性を痛感した筈だ。どうやって日本人に【リズム感】を植え付けるべきなのか...。

 

 

明治ニ年、先ず尖兵となるべく選抜されたのが薩摩藩の伝習兵達であった。彼等に音楽を教えたのが、イギリス陸軍・第10連隊軍楽隊隊長フェントンである。フェントンに師事し、薩摩藩兵は吹奏楽の伝習に第一歩を踏み出す。そしてフェントンスクールで西洋軍楽のいろはを伝授された彼等が、明治四年に陸海軍の軍楽隊を立ち上げた。

 

 

フェントンは明治十年に解雇されるのだが、その後を引き継いだのがドイツ人エッケルであった為、陸軍はドイツ式音楽が主流となり、海軍は同様にフランス式音楽が主流となって行く。ドイツ人教師となれば、中期ロマン派、いわゆるドイツ・ウィーンスタイルこそがNo.1と考えていたのは間違いない。『音楽は、ドイツだ!』そう自負していたであろうし、イギリススタイルは瞬く間に一掃されてしまった。こうして軍隊に【音楽がある日常】が浸透して行った...。

 

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こう言った西洋の文化を導入するに当たっては、当然それを推進しようとした開明的な日本人が居た筈で、渋沢栄一などはその筆頭であったと言える。ここまでの【より楽しむために】シリーズで紹介した...蒸気機関、算術、簿記、ヘアスタイル、洋食、洋服...その全てを初期段階で受け入れて来た栄一...。音楽に対しても当然この導入を支持していた筈だ。何故なら彼こそは日本人として初めて本格的なオーケストラのサウンドを聞いた人物だからだ。

 

 

ドラマでも徳川昭武に随行し、パリ万博に日本の代表として出席するシーンが描かれていた。この万博で圧倒的な人気を誇って居た音楽エキシビジョンと言えば...オーストリア館のヨハン・シュトラウス2世の指揮による、ウィンナ・ワルツを奏でるオーケストラ。当然見に行った筈だ。何と言っても一番人気である。ワルツ王シュトラウスが指揮する【美しき青きドナウ】を、見なかった筈が無い。栄一は派遣団の御勘定格陸軍付調役。会計係として忙しく立ち働きながらも、空いた時間は西洋の文物をくまなく見て歩いたのはドラマで描かれていた通り。

 

 

ポトフを愛する栄一が、オーケストラに興味を抱かなかった筈は無いと...僕は思う。

 

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この様に、西洋文化の洗礼を受けた先人が居たからこそ、明治日本はすんなりと文明開化を受け入れる事が出来た。幕末期に西洋を知った人々が導火線となり、あらゆる文物に西洋文明が注入されて行く...。

 

 

西洋音楽の導入は、学校現場からも浸透して行った。ハーバード大学で音楽学科が評判を得始めていた頃、その近郊で、日本の音楽教育史に大きな足跡を残す二人の人物が知り合った。伊澤修二とルーサー・メーソンである。明治十二年(1879年)、日本の音楽教育に関する調査研究・教員養成を目的として、文部省に音楽取調掛が設立された。伊澤修二はその二年前...明治十年(1877年)にアメリカのニューイングランド・ノーマル・ミュージカル・インスティチュートの夏期学校に参加していた。そこで音楽教育家であったメーソンと知り合い、後に彼を日本政府雇外国人教師として取調掛に迎えいれることになるのだ。明治十六年(1883年)、取調掛では専門教育および師範教育のための伝習生を募集した。創設当時の伝習期間は1年間。前半はピアノと唱歌、後半は音楽教育実習に充てられた。更に欧米の音楽学校制度を研究した結果、4年制のカリキュラムへと移行。修身、唱歌、洋琴、風琴、胡弓、専門楽器、和声学、音楽論、音楽史、音楽享受法の科目履修が義務付けられた。

 

 

特に比重が置かれたのがピアノの教育だ。4年間、全学期を通してピアノ実習が行われた。1年次にはバイエルを、2~4年次には【ウルバヒ】が教則本として使われた。ウルバヒ教則本を日本に紹介したのは、ヴァッサー女子大学音楽科に留学経験を持ち、後に日本初の本格的なピアノ教授となった瓜生繁。内容は、ハノンの指訓練から、民謡、クラーマーなどの小品、クーラウ、クレメンティなどのソナチネ、和声学の簡単な解説と用例、カデンツの形成法、コラールの楽節、シューベルトの歌曲、モーツァルトやウェーバーのオペラからの編曲、連弾などが含まれていた。

 

瓜生が病欠となった後は、その代講を務めた奥好義がこれを引き継ぐ。奥はのちに【洋琴教則本】を上梓、後に東京音楽学校初期の教材として採用された。これが契機となり、その後長らくバイエルがピアノ教則本の中軸をなすことになった。

 

 

1887年に音楽取調掛は東京音楽学校へ改組。伊澤が初代校長に就任する。東京音楽学校は本科・師範科に分かれ、本科は修業年限3年。ピアノを含む器楽部は、修身、器楽、唱歌、器楽合奏、音楽理論、音楽史、国語、英語または独語、体操で科目構成されていた。師範科は全国小学校の音楽教員を養成すべく、唱歌教育に特に力を入れ、その伴奏として使われたのがオルガンやピアノであった。現代の学校の音楽教室にも、その名残りが残っているだろう。本科での入学試験では、ピアノ専修受験生はソナチネまたは簡易的なソナタが、師範科ではバイエルが課されていた。

 

 

東京音楽学校の校舎は、現存している。老朽化に伴い、1970年代に愛知県の明治村に移設される事が決まっていたが、猛烈な反対運動が巻き起こりこれは阻止された。現在は私の東京における聖地...上野公園内に移転されている。国指定重要文化財。日本最初のコンサートホールがこの建物だ。瀧廉太郎も山田耕筰もここの卒業生。まさに日本の西洋音楽の故郷と言って良いだろう。上野公園を散策する際、是非覗いて見て欲しい。

 


この音楽学校で幸田延に師事し、日本人女流ピアニスト第一号と称賛されたのが久野久である。1918年にベートーヴェンの演奏会を開いて成功を収め、その後国費留学生としてウィーンへ派遣されたが、エミール・フォン・ザゥアー教授に基礎をやり直すよう指摘され、これを恥じて自殺した。

 

明治時代の欧化政策と、それを引き継いだ大正時代の自由主義的雰囲気の中で、西洋音楽は一般人も親しむ日本の最先端文化へと昇華して行ったのである。教材の入手先は、米国からドイツ流へとシフトして行った。西洋音楽が導入されて50年も経つと、私立音楽学校も開校され、学生も増え始めた。

 

 

昭和になると原智恵子の様な世界的ピアニストが誕生する。原はパリ国立高等音楽院を首席で卒業し、昭和八年(1933年)に帰国後初のピアノ独奏会を開催。四年後のショパン国際コンクールで日本人発の入賞を果たしている。その後日本はドイツとともに国際連盟から脱退。戦時下の文化統制により、西洋文化排斥運動の槍玉にも挙げられた。クラシック音楽は同盟国ドイツのものが主流であったため、英米文化ほどには排除の対象にはならなかったが、自粛を強制される事も多かった。

 

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そこからの日本の音楽シーンは、皆さんご存知の通りであろう。

 

焼け野原から日本を復興させる時も...

 

 

新たなサウンドへの熱狂も...

 

 

スーパースターの登場も...

 

 

西洋音楽は常に私達の周りにあった。

 

 

電子楽器は無限の可能性をミュージシャンに与え、ジャンルを超えた前衛的な音楽も次々に作られて行った。映画音楽、ゲーム音楽...様々な音楽が私達を包み込む...。

 

ポピュラー音楽は国境を超え...

 

 

今や東洋から世界へ逆流して行くご時勢である。時代によって音楽はその姿を変え、様々な試行錯誤を繰り返しながらその歴史を紡ぐ。【歌は世につれ世は歌につれ】とは良く言ったものだ。だが、我々が今日のミュージックシーンを楽しめるのは、糊代となった様々な先人達の苦労があった事を忘れてはならない。

 

手に持つ簡単な楽器を考案した者、音階を解読し、それを記録する方法やルールを生み出した者、工業部品を楽器に取り付けた者、それらを発展させた者、職人技にこだわり一点物作の楽器を作り続けた者、楽器を大量生産したメーカー...音楽に携わったこれら全ての音楽家、演奏家、職人、プロモーター、メーカー...その堆積したノウハウがあって今日がある。彼らの全てをリスペクトすべきだ。

 

そして我々日本人にとっての西洋音楽の原点は...

 

明治維新期にある。我々のご先祖は突如西洋音楽に出会った。そしてその音色に衝撃を受け、魅了された。軍隊と、宗教と、教育現場からそれは国民に浸透し...

 

 

数世代の間にスタンダードなものとなった。

 

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これが、幕末以来我々日本人が憧れ続けて来た西洋音楽の歴史である。

 

我々が死んだ後も、その次の世代が死に絶えた後も...人々は音楽を愛し続けるだろう。100年後...未来の人々は、一体どの様なサウンドに体を揺らすのだろうか...。

 

No music, no life...

 

新しい音楽の奇跡に期待しよう!

 

 

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僕の小説から、数少ないミュージックシーンをお届け(笑)。音楽の事は良く分からんので、微妙だが...興味があればご一読頂きたい。厳選の四編なり♪

 

(1)戊辰戦争に従軍した京都の民間精鋭部隊・山国隊が軍楽隊を結成するシーンを描いた【開闢の光芒 激突(63)】はこちら♪

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(2)鶴ヶ城を包囲する官軍の隙を衝き、官軍の軍楽隊に偽装して城下を突破する会津軍!見事帰城を果たした山川大蔵の決死の作戦を描いた【開闢の光芒 落日(24)】はこちら♪

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(3)馬関海峡に出現した四カ国連合艦隊の威容を前に震え上がる長州奇兵隊。攻撃前夜、艦隊から鳴り響く吹奏楽。決死の交渉に艦隊へと向かう伊藤博文の前に、時間は無情にも過ぎ去って行く...。白熱する下関を描いた【ベテルギウス 神々の宴(28)】はこちら♪
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(4)高杉晋作が天に召され、残された愛人おうのは一人下関の海岸に佇む。天に向けて彼女が弾くバチ捌きは、無き恋人に手向けられたレクイエムだ。お涙頂戴でお恥ずかしいのだが...バカップル達の最後の連弾を見届けてやって欲しい。【ベテルギウス 覚醒波動(81)】はこちら♪

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