献食菜集 -140ページ目

かつお 入手

千葉(港不明)かつお一本1200円で購入し、刺身とアラ煮と漬けにした。アラ煮は先日仕入れた山椒と一緒に煮る。そのアラ煮を食べているときになにやらモヤモヤと懐かしい感じがよみがえる。
かつおのアラ煮は今まであまり食べた記憶がないのにとても懐かしい味がする。それで山椒が口の中で香った瞬間ぱっと思い出した。子供のときの記憶だ。関西ではたけのことかつおを一緒に煮て、山椒の葉を飾りにのせて食べる。それを思い出した。
たけのこや山椒の葉と一緒なので、関西ではかつおがもう少し早いのかも知れない。

もうずいぶん昔のことだが、NHKの番組でかつお一本釣りの漁船の映像を見たことがあった。
船がかつおの群れと遭遇すると海も船上も沸き立つ。
無心にかつおを釣り上げる船員たち。昼飯の時間なのだがもちろん持ち場を離れることができないので交代で食事をとる。その食事がすばらしい。
ベージュ色のプラスチックのどんぶりにめしを盛り、今釣り上げたばかりのかつおのブツギリをばらばらとのせ、醤油をぐるりと一周かけて「いただきまあす。」
2分そこそこでたいらげてどんぶりにやかんの茶をいれてのんで、「ごちそうさま。」
憧れのご飯。

「アリダ」

この季節になると梅と山椒とかつおにそわそわする。梅はではじめた。かつおは近くに大きな鮮魚店があるのだが本拠地が日本海側ということでかつおが店頭ににぎやかに並ばないし、あっても高い。近くのスーパーでは30センチくらいのサクが400円くらいで売ってるが、やっぱり自分で食べる直前におろすほうが断然美味しいのでいつも躊躇して結局買わない。
山椒のみを仕入れた。和歌山の有田の産。恥ずかしいおはなしですがわたしは今までずっと「アリタ」だと思っていました。「アリタミカン」と思っていました。
今日を境に知識を入れ替えました。「アリダ」「アリダ」「アリダ」「アリダ」「アリダ」「アリダ」
「アリダ」

ぼんさんがへをこいた

フランシス ベーコン展で上映されていた土方巽の動画がとても良かった。
舞台の上には肉の塊としか見えないような物体が少しづつ形をかえていた。
人体があのような形をとることは日常ではあまりない。あるとしたら人体を物体として扱われるときか。
自然というときには穏やかな形態を思い浮かべやすいがどちらかというと驚くような「不自然」な形態こそ自然にはたくさんある。「自然」というイメージを勝手に作り上げて固まってしまっていることに気がつかない。
ベーコンの絵も土方巽の映画も、人体は肛門と口の付近で成長速度が変化して内外ができてしまった肉の管だという視点があることを教えてくれる。
肉の塊にいったいどれだけの思い込みを貼り付けて「ヒト」という観念にしたてあげ生活していることだろう。そうやって一枚一枚自分を固定している思い込みから自由になっていけることは楽しいことだ。
そういう点では良い仕事をする芸術家は確かに僧のようだ。
迷える衆生に迷いの元を示唆する。
フランシス ベーコンや土方巽は自分の作品が経典のようになってあまりに大勢の人間からたたえられてはたして怖くなかったのだろうか。
自分の一挙手一投足がひとに影響を与えるようになった自分の立場に恐怖しなかったのだろうか。
「ぼんさんがへをこいた」 で関西の子供は10を数えた。
「むらじゅうくさかった」までとなえて20。
「だるまさんがころんだ」のつづきは「みんなまねをした」とかだっだりしたのか。


画眉鳥のパフォーマンス

画眉鳥が裏山に棲息していて日中は住宅街にきてさえずっているのだが、どうもその声が聞こえてくる方向がいつも同じであるような気がする。そして何よりヒヨドリがいない間(これは私の思い込み)にさっとあらわれてさえずるのだが、いまだにあのさえずりのパターンが解読できない。
単純な繰り返しがないように聞こえるし、あったとしてもフーガ形式みたいに少しずつ変化してるようなきがする。なんと不可思議なさえずりであることか。おしゃべりでうるさい鳥だな、と思っていたがだんだん興味がわいてきている。どうしてあんな複雑なさえずりになったのかぜひ知りたい気になってきた。

今まで知っている鳥はもっと単純な繰り返しが多い。いやまて、単純だと思ってるのは私だけかもしれない。もっと絶妙なニュアンスの違いが単純に聞こえるパターンに隠されているのかもしれない。0と1の組み合わせでコンピューターが動くように、「かーかー」や「ちゅんちゅん」は単純化されてるだけで実は複雑な組み合わせでさえずっているのかもしれない。
となれば画眉鳥(これ以降はガビと記す)のさえずりは複雑そうであるが実は結構伝達の効率が悪いのかもしれない。あれだけ長々さえずっておいて実は「おはよう」という挨拶だとか。

効率はさておいても、あのさえずりのなかにパターンが読み取れないのがなんとも悔しいので録音して分析することに決めた。早速実行に移す。
午後3時ころパネルに画用紙を水張りしていたらいつもの方向からガビのさえずりが聞こえてきた。
窓からマイクを突き出したがどうも遠くてさえずりが小さい。
そこでマイクを持ってガビに接近することにした。
するとガビがいそうなところまでの半分くらい近づいたところでさえずりがぴたっと止まる。
なんとそれいこう30分後くらいまで沈黙。私に気がついたのだろうか、まさか。

またさえずりが同じ方向から聞こえるのでコースをかえて近づくことにする。ところがやはり半分くらいのところまで接近するとぴたっとさえずりが止まる。しかし今度はそのまま少しづつ接近していったところ頭上をやや尾の長いとりが掠めてとんできて私の目の前にある木の枝に止まった。なんかぼろぼろの尾羽だが、これはひよどりか。今日はそれ以降さえずらなくなった。

まったく先の読めないさえずりのガビのパフォーマンスは私の楽器演奏の参考になりそうだ。
繰り返しがない、あってもわからない、いったいどうなってんだかわからないさえずり方。
録音できた部分だけでもちょっと聞いてみることにする。

人の一生を海に注ぐ川の流れにたとえたのは老子だ。人生80年とすれば私は半分より下流の地点といいたいところだが、じつはさにあらず。ほとんど汽水域のあたりまで来てるのではないかと思う。私より12歳上のひとたちやさらには20歳くらい上の人たちの背中がやけに近い感じがするからだ。水の流れはどんどん遅くなり海に注げば皆が混ざり合ってしまう。
話をきけば意外に同じようなことで頭を悩ましていたりする。
つまらん。まだわかりあいたくなどない。

中身はまったく変わらないのに 額が禿げ上がったり 小さな字が見にくくなったり 外見がどんどん風化していく。これは本人より周りのほうがより強くそう思っているだろう。
過去がどんどん今の自分に近づいてきている。これはいったいどうしたことか。

汽水域とはどちらでもないところ、海水と淡水まざりあうところ。
なるほど、私、凡淡水が凡海水にもなれるのか
それは楽しみ