この小説、前職場の福祉施設B型作業所で利用者の方と、企画した小説です。原案は利用者のFu_Aさん。映像作品の企画としてストーリーを練りました。なので、キャラ、舞台設定のイメージボードも考えました。劇場用アニメ映画ってのもありきたりなので、気持ちはハリウッド製・実写映画のつもり(笑)
荒廃した地球、砂漠を渡る旅人、人類VS異形のエイリアンとの戦争。王家もの、姫との出会い、そして異種間の禁じられた恋。アンデルセンの「人魚姫」を内包するロマンチックな原案から、ひねくれた筆者が膨らませて、ピカレスク・異世界SFアドベンチャーになりました。
思ってたのと違ったら、ごめんなさいね(笑)
前半はどうにか。さて。後半、どうしましょう?
『時間降塵を辿って〔上〕』
原案 Fu_A 作 梶原祐二
すべての人間の一生は、神の手によって書かれた童話にすぎない。
ハンス・クリスチャン・アンデルセン
1
東の空に十五夜月が覗いていた。濃紺の階調は地平線の彼方で珊瑚色に落ち着く。天空にひと際明るく、孤高に反射する兄弟星は、清浄さと円満、そして微かな潔白を纏っていた。
この土地には希望がない。
節くれ立った荒野に錆びたパーキングメーターが一つ。あったはずの車列は見る影もなく、野生動物の骸の如く晒されている。
上空の早い気流が巻雲を押すと引っ掻いたような跡が残った。それに男が一人、横目をくれた。薄汚れたトーブを羽織り、心許なく荷車を牽く。
舗装路には遠く海砂が運ばれていた。男はくるぶしまで埋もれ、安全靴を蹴り出しながら前に進んだ。探しているのは城塞の南西門である。そこが街道からの一番の最寄りであり、生活圏への帰還を意味するからだ。通りを外れて随分経つが、未だその手掛かりさえ見付からない。
男は、かじかんだ両手を引きハンドルから離すと湿った呼気を吹き掛けた。陽が落ちるにつれ冷え込み、夜半過ぎには氷点下になるだろう。これは乾燥した酷い土地柄のせいである。
「畜生………」
他人行儀にしゃちこばった己の脚を睨んだ。
このまま南西門が見付からないとなると、ここで一夜を空かすことになる。城塞の傍らとは言え、野営が安全だった試しはない。危険な野生動物に備え、罠を張り、銃で迎え撃つ。男は手持ちの残弾を胸算用した。
荷の大半はエクステリアの道具である。男の生業を平たく言うならばペンキ屋。外壁塗装関係の鳶職人だ。建物の外回りを薬剤で固め、腐食、経年劣化を食い留める。カップガンにコンプレッサー、サイディング資材。それらを動かすための小型発電機まで積んでいる。
後は生き残れるだけのサバイバル道具だ。
街道渡りの職人たちは一様に自衛の術に長けていた。この男も、その手合いである。銃器はもちろん、ナイフ、爆発物もお手の物。街のゴロツキとの違いをあげるなら、請負で人は殺めない。その程度の良心であった。
さて。
どこかに身を隠せる場所はないか。
ぐるり頭を巡らし、東の方角に突起を見付ける。大きな岩場であった。古代建造物のファサードほどあろう大岩の下に僅かな隙間が見えた。幾らか空間もありそうだ。あそこならしばらくの間、身を潜めることも出来るだろう。
男は全身の力を振り絞り、荷車を引いた。滑りやすい坂を一気に上ると隙間に台車を突っ込んだ。完全に隠れるまで押し入れる。
「こん畜生!」
そう叫び、困窮疲弊、尻餅をついた。
息が整うのを待ち、やっとの思いで立ち上がると暗がりに目を凝らした。切れ間は左右に八メートル、奥行きで五メートルほどの広さである。真っすぐ立って少し頭がつかえるくらい。岩肌は薄っすら湿っていて指でなぞると染み出しがあった。数分おきに水が垂れてくる。男は荷を探り、空になった水筒を出して下に据えた。
冷気が寄せてくる。
まずは、火だな。
(壁の門12)の施工は概ね三月に及んだ。一帯を襲った季節性砂嵐(ドラ・マール)により、天蓋の三分の一にダメージを受けた。(12)は現存する城塞中でも古参のナンバーである。よって程度のほどが危ぶまれた。下手をすれば放棄もあり得る。危険な時間降塵にいつまでも晒されるわけにもいかず、ガウルの襲撃にも備えねばならない。一刻も早い補修を、という連合からの要望に応え、早々に職人が集められた。現場では総勢百十余名の土建業者による大規模工事が始まった。
焚き付ける薪炭の呟きが睡魔を誘う。まどろみに屈しそうになり、男はポケットを探った。求めたのはタバコである。ジッポーライターと紙のパッケージを取り出すと、捻じれた一本を抜いて火を点けた。
ゴーグルを上げた姿は、オアシスを渡るベドウィンのようである。灰色の髪。垢じみた顔色。薄い唇。顔付きは1グラムの贅肉さえ許さぬ精悍なものだ。古代ギリシャの彫像を引き合いに出すならば少々カエサルに似ている。この男、外見はぎりぎり三十を過ぎた辺りだが、生存年齢を指折れば三ダースは上乗せせねばならない。
(白の砂丘)に、はまり込んだのが数年前。かなりの高濃度で抜け出すまで数日を要した。おかげでこの有り様である。見掛けの割に失望をはらんだ瞳。おまけに左右で色が違っている。向かって左が碧眼、右がルビー色であろうか? あやふやで捉えがたい。それが六十余年を生きた男の処世であった。
深々と煙を吸い込み、腹がグウと鳴った。
男は胴周りを探って顔をしかめる。
物を食ったのは何日前だ? 三日? それとも五日か? さすがに辛抱たまらん。煙を食らっても何の足しにもなりゃしない。
今宵は城塞に辿り着き、稼いだ金で人間らしい飯にありつこうと考えていたのだ。暖かい食事とあわよくば酒。気の利いた宿に部屋を取り、柔らかい寝台に潜り込む。そんなことを夢見ていた。まさかこんなところで、つまらぬ足止めを食うとは。
体感的には倍近くも歩いたか。これは拡散崩壊による時間の延長である。今宵の降塵は白の比重が濃厚なのだろう。もしそうならば路上で足踏みするくらいの無意味な行脚となるはず。まさしくフランツ・カフカの不条理である。男がその名を憶えているのは学校でボルツマン重粒子群について教わった時、『城』が引き合いに出されたからである。その後の授業で、実際に小説を読んだかどうか。そこは定かでない。
焚火の先、洞窟の間口に宵闇が迫った。
眺めていると古い蛍光灯のように明滅が起きる。見る間に、ぼやけた景色が浮かんだ。
横長テントの軒先。呼び声が聞こえた。続けて複数回明滅すると、たちまち市場の喧騒に繋がる。
日差しの中に屋台が見える。客引きの節回しの口上。女たちの笑い声。子供が逃げ出した四つ足の食材を追い掛け、狭い通りを駆け抜けて行く。揚げ菓子の匂い。蒸籠蒸しの湯気。テントの隙間から差し込む木漏れ日の下で、老いた露天商が居眠りをしている。
これは白の時間降塵による後退現象だ。昼間の中立交易場の痕跡が時間ループで再現していた。蜃気楼より立体的、夢より鮮明。ボルツマン重粒子群が無機粉塵に影響を与え、気まぐれに結合した薄皮一枚の立体構造物である。砂漠を渡る者にとって、これは甚だ迷惑な障害だった。
男は真っすぐに見据えて、眉間に皺を寄せた。
いい匂いだ。まやかしとわかっていても、これはかなりの拷問である。飢えた狼のような目付きで睨んでいると、漂うように影が現れた。
人間? そんな風に見えた。
影がテントの隙間を進むにつれ、姿がはっきりした。現れたのは奇妙なポリカーボネイト製ヘルメットを被った男である。アヒルのくちばしに似た暗視ゴーグル、揃いのサーチライトが鎌首をもたげる。こいつは城塞の治安行政官の制服である。立派に着飾った制服は深みのある海老茶色。クロームの装飾が目立っている。風よけに巻いたポンチョがウェスタン風だ。背後から軽快に駆け寄る四つ足動物は、案の定、希少な軍用シェパードだった。
ハハン。こいつは間違いなく城塞警邏歩哨である。
紛らわしいぞ。
そう悪態を吐きかけ、気が付いた。シェパードの足並みが速すぎるのだ。幻の分子が再生出来ず、裾からじわりじわりとほつれている。
おやおやおや? こいつはもしかして?
現実、なのか?
男は首を捻った。
「どうしましたか?」
唐突に若い声が届いた。それが意外に若すぎて拍子抜けした。男は視線を泳がせ、慎重にたずねた。
「あんた………本物?」
一瞬の間があった。
どっちだよ? 息苦しい沈黙のあと、歩哨が口を開く。
「あ………はい」と、ぶっきらぼうな物言い。そして言葉が続いた。「いますよ。ここに」
歩哨はゴーグルを上げ、サーチライトに切り替える。探るように動かし、男の横顔を照らした。男は声を荒げた。
「ちょっと、ちょっと!」
歩哨は慌ててライトを下げる。
「これは失礼」
むすっとした表情で歩哨を見返し、問うた。
「手、出してくれるか?」
差し出された海老茶の手袋を握る。しっかりした握力がぎゅっと握り返した。鼻先にシェパードが近付き、思わずぎょっとなる。
歩哨は警戒を解かせるよう穏やかに告げた。
「大丈夫ですよ」
目前の一人と一頭は紛れもない現実である。歩哨がヘッドランプを点けたので顔立ちがはっきりした。歳の頃は十七、八。アフロアメリカン由来の風貌だ。胸元に(wall colony 32)。そのエンブレムが見て取れる。
男は薄笑いを浮かべた。
「すまねえ。道に迷っちまって。………悪いけど兄ちゃん、助けてくれるかい?」
歩哨は、ぎこちなくジェスチャーした。
「あ、ええ。はい。………もちろんですよ。………安心してください。僕は南西門の城塞警邏歩哨ですから」
そうか。けっこう近くまで、来てたか。
男はポケットを探り、勝手知ったる手順でパスとIDを提示した。歩哨は写真と登録証をチェックする。
「結構です」と、歩哨。
犬のリードを引き寄せ、埃まみれの男に告げた。
「あの………ここって城塞のすぐ傍なんですよ」
男は眉を持ち上げた。
「だよな。かなり、近い?」
「ええ」
男は慇懃に呟いた。
「歩き回ったんだけど、どうにもこうにも………見つかンなくてさ」
歩哨は咳払いした。
「降塵計はお持ちで?」
男は身体のあちこちを叩いて見せ、肩をすくめた。
「どこかで落としたらしい」
歩哨は納得してバイメタル式アナログ降塵計を取り出した。革ケースから探針を出すと、宙に持ち上げ掻き混ぜる。
「そいつは災難でしたね」目盛りを読んだ。「0.3ppmの六対四。こりゃあ結構な濃さですよ」
「迷うのは当然か?」
「目くらましが始まる濃度です」
男は鼻先を擦り、「あんたも、そうかと」
前かがみになると、恨めしそうな顔でシェパードの頭を撫でた。「こういうのがいると、いいんだけど」
歩哨はくすっと笑い、シェパードを見降ろした。
「官給品ですよ。………なんたって馬鹿高いんですから。僕らも預かってるだけですけどね」
話題が途切れ、歩哨は咳払いした。
「どうします? ご一緒しましょうか。………南西門でよろしい?」
「すまねえな」
そう言うと男は両膝に手を掛け、立ち上がろうとした。が、中腰になったところでへなへな崩れてしまう。慌てて歩哨が手を貸すと男はあきらめたように照れ笑いを浮かべた。
「力が出なくて。………何か、ない?」
男は口元で食べる仕草をした。歩哨は顔をしかめた。
「水ですか? それとも食べ物?」
察しが悪い。「どっちも、ってわけには?」
「ああ、はいはい………もちろん」
歩哨は犬にお座りを命じ、傍にしゃがんだ。それからポーチの中身を検める。
「大したものはないんですけど、チョコと水。………そんなんでいいですか?」
歩哨は水筒と赤い包みを差し出した。
男は奪うようにむしり取ると、まずは喉を潤した。それから板チョコに取り掛かる。包装を剥がし銀紙をむくと柔らかくなった板状のモノを二つ折りにして口にねじ込んだ。感動してるのか、呆けているのか、薄目を閉じて咀嚼する。
「ウーム………」
歩哨は男の食いっぷりに押されて尻込みした。
無言でうなずき飲み下す。続いて男は水筒を空にした。
「数日、食ってなくて」
歩哨は不承不承うなずくと、渡した食料について呟いた。
「不味いでしょ? これでも官給品なんですよ」そう弁解した。それから一つ付け加えた。「ロウソクみたいじゃないですか?」
男は口周りを拭った。
「ウーン、どうかな。ロウソクには手出したことなくて。俺は精々、虫止まりだ」
すると歩哨の背がびくっとなった。
「えっ? 虫ですか?」声が裏返り、子供じみた反応になる。「虫を、食べるので?」
「ああ」と、男。
「どんな虫ですか?」
男は薄目を閉じた。
「まあ、そりゃあ………なんでも」
「ええっ?」
動揺する歩哨を他所に、何食わぬ様子で呟いた。
「食わなきゃ死んじまうし。で、一番手軽なのが虫ってこと。そこらをウロウロしてるやつ」
歩哨は眉を顰めた。「毒とか、そう言うのは大丈夫なので?」
男はにっと口元を歪めると、「そこは気を付けてるよ。経験と知識が身を助けるのさ」
歩哨は首を縮めると、こわばった顔で両手を振った。
「僕には無理っすねえ」
男はからかい半分に続けた。
「最後に口にしたのは何だったけか? 確かイナゴみたいな奴だ。学名で言うとトゲナシトゲイナゴモドキトゲトゲ」
歩哨はぽかんとした。
「何です? トゲがどうしたんです?」
「つまり、トゲなしのトゲイナゴモドキトゲトゲってこと、だな」
「それってイナゴですか?」
「いやいやいや。見掛けがイナゴに似たトゲハムシの亜種」
焦った歩哨は繰り返した。
「あるんですか、それともないんですか? つまり………トゲですよ?」
男は真面目腐った歩哨の問いに、吹き出しそうになった。
「だからトゲナシだよ。トゲなんかあったら喉につっかえてしょうがねえだろ」
「マジ、ですか?」
「マジマジ」
歩哨はごくりと唾を飲んだ。
「ちなみに、お味は?」
男は腕組みすると、うそぶいた。
「まあ甘みがあって少しほろ苦? そうそう、言われてみればちょっとこのチョコレートにも似てるような?」
「………」
歩哨は目を瞑り黙り込むと、想像した味覚に身震いした。しばらくの間、複雑な表情で犬の背を撫で、気持ちを鎮めた。
振り返った時、歩哨は落ち着きを取り戻していた。歩哨は話題を変えた。
「それはさておき、失礼ですがあなた、旅の途中とお見受けしますが?」
「そうだけど」
「かなり旅慣れていらっしゃる?」
「ま、そうね。………仕事柄出歩くことはちょくちょくだ」
するとこれ幸いと、歩哨は身を乗り出した。
「察しますところ、街道渡りの施工師さんですよね? ひょっとして(壁の門12)の公共事業ですか?」
男はうなずいた。
「すごい被害だったねえ」
「大勢集まったって聞いてます」
「近場の鳶は大方集まったんじゃねえか。行政絡みで払いもいいし」
「あなたは何を?」
「俺は塗装工だ」
「天蓋ですか?」
「ああ」
同意して男は砂の付いた掌を払った。
「とりあえず破損部分の修理からだったな。その辺は職種そっちのけで。総掛かりって感じ? で、外塗りの仕事を三十人で割った。それでも広すぎで途中膠がなくなっちまって。近場からわざわざ取り寄せたくらいさ」
男は珍道中をざっくばらんと話したのだが、歩哨は暗い顔をした。歩哨は男に詰め寄った。
「それで? どうだったんです? ちゃんと直るんですよね? 城塞放棄みたくはならんのでしょう?」と、深刻顔になる。
男は僅かに身を引くと顎を擦った。
「ひょっとして、ご家族が?」
歩哨はうなだれた。
「両親と妹が一人です」
なるほど。事情は呑み込めた。
男は若い歩哨の横顔を見詰めた。さもありなん。(壁の門32)と(12)では、徒歩でひと月、離れてる。そうそう行き来出来る距離ではない。便りもままならんとなると恐らく新卒で赴任してそれっきり。痛々しいばかりの苦悶は、母を求める少年のそれであった。
男は控えめに言った。
「故郷か。そいつは心配だな」
「ひょっとして知りませんか? ウチの家族、東の3区におりまして」
(12)の東側と言えば天蓋の支柱が崩落した場所である。正に今回一番手痛い被害の現場だ。3区がどうのというより東エリア全体が潰された。生存の可能性は絶望的。作業中片付けは見たが、救急搬送のサイレンは聞いていない。
男は作り笑いを浮かべ、タバコを寄越した。
歩哨は差し出すライターに顔を近付けた。二人して煙を吸い込み、深々とくゆらせる。シェパードが迷惑そうに身じろぎした。
「ま、作業は順調だったし、妙な噂も聞いてない。多分大丈夫じゃねえかな? 詳しいことはわからんけど」
男はあやふやに呟いた。歩哨は神経質に吹かした。
「そう………ですか」
言えない。言えないよな。こいつの顔を見たら。
一時の安寧を嘘で叶えて何が悪い。生きとし生けるもの、いずれは死ぬのである。家族との別れも遅いか早いか。少年歩哨は少しばかり早めに大人の階段を上る。
男は腕組みすると胸を張って答えた。
「安心しな。俺たち職人が精一杯腕を振るったんだぜ。百年経っても大丈夫だ」
歩哨の顔に僅かに赤味が戻る。
男は小さく伸びをした。
「さて。それじゃ、連れてってもらいますか。お犬様に」
男は身をかがめ、もう一度シェパードの頭を撫でた。犬は迷惑そうにそっぽを向く。どうやらヤニ臭い臭いがお気に召さないらしい。
歩哨は素早く立ち上がった。
「今日は城塞で宿ですか? それとも家族持ち?」
男は乾いた声で笑った。
「ハハハッ、そんな風に見えるかな? 残念ながら一人もンの根無し草さ」
そこで胸ポケットをポンと叩いた。
「とりあえず金ならたんまり。………今のところは、な」
二人は焚火に砂を掛けて火を消した。少年歩哨は荷車を引き出す手伝いをした。
辺りはとっぷり暮れて、歩哨のビームライトが闇を退ける。男はハンドルを引きながらたずねた。
「………それで? どっちだ?」
シェパードは耳をピンと立てると鼻をクンクンさせた。数秒間伺い、迷いのない足取りで歩み出す。歩哨は降塵計を手に促した。
「ほんとに目の前なんですよ」
二人と一匹は岩場の反対側へ、ほんの五メートルほど移動した。その僅かな距離で何にぶつかったわけでもないのだが空中にクラゲのような構造物が揺らいでいた。ロゼ色の岩肌を模した薄皮の障壁。迷わずそこを突き抜けると、唐突に視界が開けた。
「アブラカタブラ」と、歩哨。
石積みの壁が現れる。身の丈を越える分厚い扉。不導体被膜を生成する金属に降塵塗装が仕上げてあった。吹付タイル仕上げだ。剥げ落ちては塗りを繰り返し、膠の分厚い層がひび割れている。中央に(wall colony 32 South West Gate) と読めた。
男は感嘆を漏らした。
「こりゃホントに。灯台下暗しだな」
大気境界層と自由大気の狭間から降り注ぐ、ボルツマン重粒子群が付着した無機粉塵。時間降塵はエントロピーの可逆と不可逆を行き来する。早送りは赤、巻き戻しは白い物質だった。この二つの配合により時空間が歪むのである。あるべきものが、あるように存在しない。
白と赤。それが混ざり合ってロゼとなる。この世はロゼ色の薄膜に覆われている。女の肢体を隠す甘美なベールのように。
歩哨は壁に付いたボタンを操作し、城塞内に合図した。短くブザーが鳴り、ゆっくり扉が開いた。オレンジ色の光が溢れ出すと湿った空気が鼻腔をくすぐる。
ゲートをくぐりながら男はたずねた。
「そう言えばあんた、名前、聞いてなかったな?」
少年歩哨はポケットから褒美を取り出し、犬に与えながら答えた。
「僕はキム。キム・ジ・ローファンです。キムで構いません。………あ、だったら僕も。お名前は?」
男は薄い唇を歪めた。
「俺はネルラ」
キムは聞き返した。
「ネルラさん。………ネルラ、何です?」
男は照れ臭そうに右手を振った。
「ただの、ネルラだよ」
2
「全く、いけ好かない顔よね」
作業台のまな板に乗ったガウルの頭部は、黒っぽい外骨格に覆われていた。昆虫然とした複眼が飛び出し、にもかかわらず深海魚に似た巨大な顎が付いている。びっしりと並んだ細かい歯牙には乾いた粘液が絡まり、まさに凶悪な容貌と言えるだろう。頭から爪先まで、全体を合わせると大型バイクほどのサイズになる。四足と翅をもって空を飛ぶ。そして歩く。実に不愉快極まりない生き物だ。
黒い前掛けを着けたスヌードは刃渡り一六〇ミリの中華包丁で上顎を持ち上げた。前掛けの裾で刃を拭うと頭蓋の解体に取り掛かった。固い外殻は銃弾さえ弾き返す強靭なもので、なので継ぎ目から筋肉組織に沿って刃先を入れる。頭頂背後から差し込んで殻を剥ぐと大後頭孔を開いた。不思議と中身は人体と似ている。指先を使って慎重に前頭骨まで取り去ると、黄土色の脳髄が顕わになった。スヌードは皮肉に眉を持ち上げた。
「まるでタイプじゃない」
隣りの解剖台には腹を上にした首無し遺骸が載せてある。三日月形の鉤爪の付いた四足、二対の翅は外してあった。腹部外殻を外し、はらわたを熱心に掻き混ぜている男はハミー博士である。髭面、太鼓腹、アラブ的な浅黒い顔立ちで目だけがぎょろりと飛び出している。ガウルとどっこいどっこいの容貌のハミーは、目もくれずにスヌードを窘めた。
「文句言ったところで、急にお前さん好みにはならんだろ?」
そう呟き、顎で壁を指した。部屋の片隅にスヌードが貼り付けたピンナップが見て取れる。飽食の時代、アメリカ大陸にあったとされる(ハリウッド)と呼ばれた芸人組合の男の子たちだ。どの子もすらりと背が高く、セクシーでハンサム。
スヌード自身、フランス風味の黒髪色白高身長と言う三拍子揃った外見なのだが、行き過ぎた手入れが裏付けているのはそれ。ストレートでないセクシャリティである。
「馬鹿ね。もしもそんなだったら、俺がここに居着くわけないじゃない」そう言って含み笑いを浮かべる。刃先の穴から博士を覗いた。「素敵な楽しい子は、どこ?」
ハミーは目尻に笑い皺を作った。
「近頃のデート事情はどうなんだ?」
スヌードは中華包丁を下ろした。
「何? センセー、興味あるんですか?」
ハミーはこくりとうなずき、「そのくらいの向学心はある」
スヌードは品定めでもするようにハミーを眺めた。一見して五十代、初老に見えるハミーだったが、その生存年齢は聞いていない。長い付き合いなのに知らないことは意外に多い。別に興味がないから仕方ないけど。
スヌード自身は外を知らないコロニー生まれのコロニー育ちで、(壁の門)からは、ほぼ離れずでやってきた。心身ともに違和感のない、二十五歳の若者である。
「それは前向きですこと、センセー。そういうところ、尊敬してますよ」
ハミーは言った。
「ま、休む時は先に言っといてくれ」
スヌードは大仰に驚いて見せた。
「あらあら? その時はごめんなさいでしょ?」
ハミーは腰をさすりながら伸びをした。
「また私に助手探しの手間を掛けろって、か? 君には悪いけど………そうならない方に二千パスカだ」
スヌードは煙たげに顔の前を払った。
「人の恋路で賭け事なんてサイテーね。どの道、うまくいったら俺はいないんだから、チャラでしょ。そこんとこ、わかってます、センセー?」
ハミーはわざとらしく、膝を叩く素振りで同意した。
「なるほど。ハハハッ、そりゃそうだ」
スヌードは首を振り、上機嫌なハミーを揶揄した。
「計算弱いんだから、センセー。賭け事なんて無理無理」
ハミーは薄笑いを浮かべ、うそぶいた。「良く言うだろ? 人は見掛けによらずってな。 こう見えて私、理科系じゃないんだよ」
ハミー博士の研究所、というべきか、その触れ込みの掘立小屋は(壁の門32)から七百メートルほど離れた位置にあった。モンゴルのゲル、あるいは中国名でのパオと呼ばれるテント式の住居だ。屋根や外壁に防塵処理が施してあるせいで移動は不可。言うに及ばす、これは時間降塵への対策である。
軒先を潜ると中は意外に広く、七十平米ほどあった。丁度3LDKが収まるくらいであろうか。居室と実験棟と称した流し場が間仕切りで二分されている。全体に染み付いた生臭い悪臭は魚市場と似ている。水道、ガス、電気、その他、ライフラインに関わる導線は(壁の門)の共同溝からこっそり拝借していた。
多少の罪悪感もあるが、この情勢で綺麗事を言ってる馬鹿もおるまい。人間が避けられないものの例えとして出される死と税金。真っ当なサラリーを貰わなくなって、そっち方面はすっかりご無沙汰していたが、それに関する当面の方針転換はなしである。
ハミーは昨今の石油危機に乗じた有機石油生成を目指す山師の一人であった。ハミー・ヘムレン・ニジンスキー・ジュニアは、前職を問えば図書館の司書であった。西アジアの中心部がまだペルシャ湾南端に存在していた頃の話である。数年間蔓延した伝染性ウイルス疾患の猛威で妻子を失う。ハミーは土地の荒廃に追われ、逃げるようクウェートに辿り着いた。
廃人同然で彷徨うハミーは、しばらくの間、湾岸地区の空き倉庫で過ごしていた。頼る当ても仕事もなく、食うに困って裏家業に手を染めた。生来、荒事に向かぬハミーだったが背に腹は代えられず、地元の組織暴力が仕切る交易場の用心棒、自警団、長距離の人足さえやった。どれもこれもが歩合の日雇いで、時に不払いさえあった。あからさまに城塞内の安定職からは遠ざけられた。限られた仕事に何万もの人が群がるのだから致し方ない。(壁の門32)の場内は、一言さんお断りの格式だった。
当時のクウェートには(壁の門)が四十あまり存在して、人類文明の存続に奮励していた。それもこれも石油あればこそである。三百年前から稼働を続けるボーリング施設が存続し、精製設備も整っている。技術伝承が途絶える中、どうにかこうにかメンテを続けて来た。つまるところ人類は社会インフラ継承において、エネルギーを化石燃料から脱却出来ぬまま終焉を迎えたのである。
五十年前、突如ガウルが人類史に登場し、共存共栄の歩み寄りを図った。環境破壊による自然の猛威は厳しく、苦戦を強いられた人類は共に進む同志を得たと極めて楽観的に協調したのである。四十年ばかりはどうにか。が、ここに来て我々人類はそれをご和算にしようとしていた。ガウルに恨みはない。が、どちらか一方が生き残るとなれば当然、己を立てるが尋常である。
識者の知見によると地域一帯の石油残存量はおよそ二十億万バレルと分かった。全コロニー(壁の門)での使用を鑑みて、およそ五年分。そのタイムリミットが見えたのだ。これを部外のエーリアンと分け合って、など、土台無理な相談である。
ガウルは生きては帰れぬ土地から現れた、この世界の新参者である。協定が非常時に覆ること。それは世の常である。言い伝えにあるように、どの民族もそれぞれ他より己ありきと考えている。これが愛国心を生み、その結果、世界戦争さえ引き起こす。互いに憎み合い、一方がいなくなるまで諍いは続くだろう。淘汰を勝ち抜いた生物と言うのは、そもそも了見が狭いのである。
スヌードはガウルの頭蓋から脳髄をスプーンで掻き出した。調理用の耐熱ボウルに二杯。容積とグラムを記載する。ハミーはハミーで選り分けた臓物をチェックし、ステンレスバットに取り分けた。
流し場奥に目をやると巨大な冷蔵庫に実験用ガウルの遺骸が積まれていた。なじみの自警団員から一山三万パスカで買い入れている。カチコチに凍った複眼の頭部が揃ってこちらを睨んでいた。ぱっと見、フローズン・ミートの食糧庫? そんな風にも見える。
「どうします? 挽き具合は?」
脳髄をミキサーに投入したスヌードは両手を拭き拭きハミーにたずねた。ハミーは臓物を肉挽き機上部のホッパーに移し替えながら答えた。
「中速で三分かな」
「歯磨きチューブくらいですね?」
「そうそう」
タイマーをセットするとスヌードは評した。
「腸詰めにして燻製、ボイルしたら正統派ドイツソーセージですよ。俺は粗挽きの方が好きだけど」
「料理は関係ないだろ?」と、ハミー。
スヌードはミキサーの蓋を押さえスイッチした。モーターの唸りを聞きながらハミーはカットプレートを3.2ミリに交換すると肉挽き機を正転させた。たちまち排出口から臓物細挽きスープが練り出して来た。バケツで受けている間にハミーは棚からバルブキャップの付いたカプセルを複数個取り出し、作業台に並べた。
「比率はこれで、な」
ハミーはそう言ってスヌードにリストを手渡した。ガウルのすり身の配合分量である。カプセルごとにバランスが変えてある。
この状態で配合すり身を投入し、カプセルの空気を抜いた状態で高濃度の赤の時間降塵タンクに入れ、およそ一週間。ほど良く寝かせる。言った通り、これは料理の話ではない。有機石油生成利権の一攫千金が掛かっているのだ。
理屈は至って簡単だ。石油の生成には幾つか学説があって、当時(三百年前、崩壊以前の我らが文明社会のことである)概ね、地質学者は生物由来説を支持していた。石炭や天然ガスのように石油は太古の生物遺骸が地質学的タイムスケールで圧縮された結果出来た、そう見ていた。この説によると石油は有史以前(古生代から中生代)の海洋生物や陸上の植物遺骸から形成されている。 百万年以上の長期にわたり厚い土砂の堆積層の下に埋没した生物遺骸は高温と高圧力によって化学変化を起こす。それが原油となった、という説である。
この世の中で、ある程度科学に関心がある者ならばこぞってこの実証に取り組んでいる。大量の生物遺骸と地質学的タイムスケールなど夢のまた夢。そう思いがちだが、人類の敵、ガウルの亡骸は幾らでも手に入るし、時間降塵の濃度を調整すれば膨大なタイムスケールすら手中に収まる。後はその成分の微細なバランス調整なのだが生化学的検証が過去のものとなった今、統計が全てということになっている。偶然か、はたまた奇跡か。そんな状態が続いていた。ハミーがやっていることも科学と呼ぶにはほど遠い代物で、根拠のなさをあげるなら十二世紀の錬金術師にも劣った。
ただ一つハミーに強みがあるとするならば、大半の似非研究者よりも過去の資料に精通しているという点であろう。図書館司書を生業としていたハミーは二十一世紀初頭の学術論文に触れる機会があったのだ。
ペルシャ湾南端の首都圏、最大級の図書館では当時、最新の科学論文写本のプロジェクトが進んでいた。後世に繋げることを目的に三十人の司書が手分けして臨んだ。結局、感染症の蔓延で全て中断してしまい、首都そのものが放棄された。そして妻子の死で傷心したハミーは投げやりになって、無断で写本の一部を持ち帰ったのである。旅立ちの荷物に放り込み、今なお手元に存在した。誇るべき仕事の痕跡を残したかっただけかもしれない。クウェートに来て長い間放っていたが数年前、石油枯渇の話が持ち上がった折、気になって読み返したのである。
九〇年代から二〇〇〇年初頭に掛けての写しの中、日本の学術機関で石油分解菌の研究が行われていたことを知った。
研究室内の無酸素実験装置において、 相良油田から採取した石油分解菌オレオモナス・サガラネンシス(Oleomonas sagaranensis)HDー1株が、通常状態では石油を分解する能力を持ちながら無酸素状態におかれると、媒体から化学組成を取り込み、細胞内に油母(ケロジェン)とよく似た代謝物を作り出す、とあった。その後研究は進み、HDー1株の変種、石油生成菌は第十三変種まで作られたらしい。文献は研究の光明へ賛辞を送り、締めくくられていた。
ハミーはそこで閃いたのである。ガウルの生体スープを時間降塵で経年加速させても石油にならない。直観だがそう感じた。何の学識もないハミーの思い付きだが、研究というものは概ね宛て推量から始まるのである。きっかけはオレオモナス・サガラネンシスHDー1株、その第十三変種。このサンプルが必要だと感じた。奇跡を待つか、答えを知るか。ハミーは答えが知りたかった。
一昨年、ハミーは文献の残りを読むため、もう一度首都へ戻った。万全の装備で南下し、人っ子一人いない巨大建築のゴーストタウンへ赴いた。感染症はとっくに治まっていた。思い出の詰まった市中をうろつき、少しばかり感傷に耽った後、図書館へ戻った。残された資料は手つかずだった。一週間ほど腰を据え読み耽り、答えを見付けた。第十三変種のサンプルは日本国内の研究室に一つ。そして株分けしたもう一つを中華人民共和国湖北省武漢にあるウイルス学研究所で保管している。
アジアの最東端。現在、日本は国家として存続しておらず。となれば残るは武漢であろう。こちらはセーフティレベルの高い国家レベルの研究施設である。
果たしてどうやったら、そんな遠くまで行けるのか?
スヌードはきっちり指定通りの仕事をした。バルブ付きのカプセルが合わせて十二個。後は真空ポンプで空気を抜くだけである。
「出来ましたよ、センセー」
目を上げるとハミーは物思いに耽っていた。
「センセー?」
「おおっ?」と、我に返り、咳払いするハミー。
「良さそうだな。じゃ、次。ポンプ」
スヌードはポンプの管をバルブに繋ぎ一つずつスイッチした。やかましいモーター音と共にカプセル表面が僅かに引けた。
「先生、この間のやつはどうだったんです?」と、スヌード。
ハミーはタバコに火を点け、渋い顔でくゆらせた。
「ウーム、全くだ。全くもっての全然だったなあ。加熱炉で三五〇度に熱したけど、うまい具合に分離しない。見掛けはいかにもなんだけどね。若いって言うのかな? ちょっと醸造が足りない?」
「ワインじゃないですよ」
順繰りにカプセルを繋ぎながらスヌードはたずねた。
「やっぱりあれですか、決め手は? 先生が文献で見たっていう石油分解菌? 生成菌でしたっけ?」
ハミーは人差し指を持ち上げた。
「オレオモナス・サガラネンシスHDー1株。その第十三変種だ」
スヌードは鼻白んで眉を顰める。「それって本気で信じてます?」
ハミーは右手をひらひらさせた。
「私が信じないで、どうするよ?」
「そりゃそうだけど………」スヌードは人差し指を回しながら意味深に付け足した。
「あっちはどうなんです? ガウル王家、女王の血統、って話?」
「いや………」と、首を振るハミー。
「その血を持って望みを得んとする。女王の血統により世界は再生される」
そらんじたようにスヌードが続けた。
ハミーは鼻白んで首を振った。
「いやー、都市伝説だろう? ………大体、血の一滴で望みが叶うだなんて、それこそ漫画」
「ううん、民間伝承」と、スヌードが訂正する。
「ランプの精じゃないんだから。ただのお伽噺さ」
ハミーはそう言って肩をすくめた。
スヌードは口を尖らせ、反目した。
「俺はロマンがあって好きですけどねー。いずれにせよ、あてずっぽうはどっちも一緒。でしょ?」
そう揶揄され、ハミーは不貞腐れた。
「科学の進歩ってやつはだな、いつだって思い込みから始まるものなの」
「かもね。だけど………ロストテクノロジーの存在した三百年前でもわかんなかったんでしょ? 俺たちなんかでわかると思う?」
ハミーは言い返した。
「昔は時間降塵なんてなかったんだ。それだけでも有利だろ?」
この件を持ち出すと二人の意見はいつも平行線を辿る。
ハミーは上目遣いに呟いた。
「どの道どうにかしないと、俺たちの文明はここで終わるんだ」
スヌードは出来上がったカプセルを棚に仕舞いながら、投げやりにあくびを漏らした。
「俺は別に。構いませんけどね………」
ハミーは言葉を遮った。「馬鹿言うな。駄目だろ? もっと自分のやってることの意義を考えなさい」
「意義ねえ。………はいはいはい」
一段落付いてスヌードもタバコを欲した。近くに見当たらないのでハミーにおねだりする。ハミーは箱ごと投げて寄越した。一本取ると上品に火を点け、上向きに吹き上げた。
「そこまでこだわるのはやっぱり………奥さんと子供のせい?」
ハミーは返事をしない。ただ力のない薄笑いを浮かべただけだった。察してスヌードは小声で詫びた。
「………ごめんなさいね」
ハミーは吸いさしを床に叩き、テーブルに尻を据えた。額の皺を深めながらハミーは呟く。
「ま、どうかな? 過去との決別と言うか。………男のけじめだな」
スヌードは満面の笑みを浮かべると、真面目な空気を茶化した。
「そうは言ってもセンセー。アジアの端っこなんですよ。湖北省でしたっけ?」
「武漢だよ」
「飛んでいくか、船便か。はたまた陸路を渡るのか?」
ハミーは軽口で乗った。
「何時のチケットだよ?」
二人は顔を見合わせ、眉を持ち上げる。
スヌードは咥えタバコで中華包丁を構えると、目の前に横たわる首なしガウルを検めた。
「で? こいつ。どうシメてやりますか?」
ハミーはテーブルの角でタバコを揉み消した。
「安い豚肉と混ぜてな。ソーセージにでもするか? 粗挽きがいいんだっけ?」
「喜んで」
決して冗談ではなかった。ガウルの正肉は上質で癖がなく、シンケンクラカワと似た食感を誇る。無論、聞いた話ではあるが。ハミーもスヌードも試したことはなかった。これは精肉市場でも内緒の話だ。この加工肉卸しこそ、ハミー研究所の主要な資金源なのである。
スヌードは遺骸の開口部を検めると、横隔膜切除に取り掛かった。
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