『時間降塵を辿って〔上〕』その3・4 | KAJIYANのオープンな密室。

KAJIYANのオープンな密室。

絵画と小説、映画なんかの諸々。割とディープな毎日です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 味は格別だった。

 翌朝ネルラが摂った朝食はトーストにサニーサイドの目玉焼き、それにソテーしたソーセージのマスタード添えだった。直前に口にしたキム歩哨のチョコと水、ましてやトゲナシトゲイナゴモドキトゲトゲとは比較にならない。

 ネルラは警邏歩哨キム・ジ・ローファンと共に(壁の門32)に入城した。固い握手で別れを告げ、キムは第三階層、行政官宿舎に戻って行った。

 ネルラは地下のパーキングに荷車を預けて馴染みの宿を訪ねた。第二階層の手頃な素泊まり宿(フォリー・ベルジェール・バーメイド)は満員御礼。仕方なく四階層までスロープを上り、少々割高になるがミドルのホテル(サン=タドレスのテラス)に部屋を取った。美味いレストランを併設した近年人気のホテルである。

 ネルラはシャワーを浴び、きれいに汚れを落とすと、スプリングの効いたマットレスに飛び込んだ。ルームサービスをオーダーする間もなく泥のように眠った。

 

 午前十時を回った頃、ようやく目覚めたネルラは、どうにかこうにかレストランのモーニングオーダーに間に合った。

 ホテル名が示す通り、ここには眺めのいいテラス席がある。

 向かいのコンコースでは複数店舗が開店準備を始めていた。慌ただしさと活気ある人の動き。心地よい喧騒がネルラを住み慣れた日常へ引き戻した。健康と安寧が約束された地上の楽園。少なくとも危険な荒野から戻った街道渡りには、そう思える。

 ネルラは椅子の背に肘を預け、小さく伸びをした。

 (壁の門32)は数ある城塞中でも大規模なものだった。強力な外壁は厚さ二メートルの石積みだ。内側に鉄、鉛、チタン、カーボンファイバーを織り合わせた複合装甲。六層の地上部、二層の地下からなるモール形式である。中央に吹き抜けがあり、最上部天蓋にはジオデシック構造の明り取りが見て取れる。眩い太陽光が欲しいままに降り注いだ。

 添えられたフルーツカクテルのグラスを平らげたところで、食後のカプチーノが運ばれた。

 ネルラはコーヒーを傾けながら懐具合を確かめた。ざっと八十五万パスカの札束。久々に手にした大金である。金払いでびくびくしないのはいいことだ。心の隅にちらりと支払い期限が過ったが、今はそのことは気にしない。

 ふと視線を移すと、テラス脇から人影が近付くのが見えた。華奢な見掛けの女である。派手な装いは(キモノ)と呼ばれる日本の伝統装束で見事なまでに着崩されている。アップにした髪の毛は(かんざし)で飾り立て、まるでフルーツパフェのようだ。首にはチョーカーが見え、真ん中に小さめの六芒星が下がっている。

 見知りの女だと気付くとネルラは軽く舌打ちした。

 ミサキ・シノ。少女のような(なり)の奥に、したたかな辣腕(らつわん)商人(あきんど)の魂が潜んでいる。戻ったばかりに? ………いやいや、どちらかと言えば会いたい方面の女だが今のタイミングじゃない。ネルラの中でおかしな矛盾がぐるぐる渦を巻いていた。

「何? その顔?」

 ミサキはテーブルに着くなり揶揄した。白塗りの輪郭にマスカラを効かせた花魁(おいらん)化粧。目張りと真っ赤な唇が人目を惹く。ミサキは茶目っ気たっぷりに微笑むと、渋面のネルラに寄り添った。

「そっちこそ。追けてんのか?」と、ネルラ。

 ミサキはうなじのおくれ毛を撫で付けると流し目を送った。

「美人の追っかけなんだから。もっと喜んでくンなきゃ」

 彼女のほっそりとした指先が男の胸板を弄ぶ。女の仕草に苛つくが、そっと手を取りテーブルに収めた。

「つれないわね」

 ミサキは悪びれもせず眉を持ち上げた。「そうね。でも愛してるわよ、ネルラ。お金と同じくらい」

「いつ分かった?」

「何のこと?」

「俺の居場所さ」

 ミサキは目を細めた。

「ああ。あんたの定宿フォリー・ベルジェールのコンシェルジュに頼んであンのよ。昨日寄ったでしょ? 夜に?」

 ネルラは苦虫を噛み潰したように吐き捨てた。

「あの野郎………」

「で、満員だったから他所へ行った、って。大体予想付くじゃない。帰ったばっかのあんたなら、とーっても飢えてるから、行くとしたら断然ご飯の美味しいところ」

 ネルラは、ちぐはぐの目を同時に伏せた。

「ご明察」

 ネルラは懐から札ばさみを取り出した。そして数える。

「幾らだっけ?」

 ミサキは帯揚げの隙間から手帳を取り出すと顧客リストを開いた。

「ネルラ、未払い二回だから………六ね」

 五万パスカ札に二枚上乗せする。彼女は札を透かし見た。

「この一枚は何かしら? 延滞料?」

 ネルラは口の端を捻じ曲げた。

「感謝の気持ち」

 ミサキは嬉しそうに微笑んだ。

「それはそれは。毎度おおきに」

 ミサキ・シノの生業は、その見掛け通り、恋と夢を売っている。下に二人、若い女を連れ立っているが、基本的に個人のエスコートサービスだ。城塞ではかなりの古参になる。一体いつからそうなのだろう? ネルラが十五、六の頃、既に人気のコールガールだったミサキ。女と初めての時もそうだったし、彼女が出来た時、アドバイスを貰ったのもミサキである。その時から今日まで、ずっとミサキはミサキのまんまだ。

 ネルラは鼻白んで睨んだ。

「相変わらずだねえ、姐さん」

 札を仕舞いながら彼女は不満を漏らした。

「姐さんは余計。お互い変わりないんだし」

「そんなこと、ないっしょ?」

「そうね。あんたは老けたわ。いや………一回老けて、中途半端に若返ったのか。あたしは変わってない」

 ネルラは顎を摩った。「(若返りの庭)とか、まだ行ってンの?」

「まあね。年に一度、みんなで車チャーターして。ここから二時間くらいのところに具合のいいのがある」

「身体が資本だから、ね」と、ネルラ。

「そう言うこと」

 (若返りの庭)とは、白の時間降塵の吹き溜まりである。その場所で何日か過ごし、身体の時計を巻き戻す。いつまでも娘のままは、そのせいだ。

 そこでミサキは対岸のコンコースに目を移すと、急に寂しげな顔をした。

「あたしさあ、最近医者に行って言われちゃったんだけど」

「ウン?」

「あたしの細胞、後一年かそこらが限度だって」

 ネルラは顔を曇らせる。

「えっ? 何、何?」

 ミサキは人差し指を顎に添えた。

「何だっけ? テロメラ? テロメナ?」

「知らねえ」

「何か、それが限界なんだって」

 ミサキは薄笑いで、うやうやしく合掌した。「人間、永遠には生きられません。そう言われちゃいました」

ネルラは興味本位でたずねた。

「いよいよですか。最後は? 死ぬときは、どうなンだよ?」

 ミサキは鼻を鳴らした。

「さあね」

 ネルラは椅子にもたれたまま聞いた。

「女の人になんだけど。………姐さん、幾つになったわけ?」

 ミサキは下顎を突き出し、空々しく呟く。

「百と六十(うん)歳?」

「そりゃまた大往生」

「まだまだよ。まだ死んでないしー。あんたも気を付けなさい。どうやら二倍以上は無理っぽいから」

「そっか」

 ミサキはテーブルに身を乗り出した。

「因みにネルラは?」

 そらんじて指折り数えてみた。

「多分、六十代後半?」

「なーんだ。まだまだ鼻たれ小僧ね」と、ミサキ。

 この女、話題の割に晴れやかにしている。もうすぐ死ぬって時に一体どんな覚悟だろう? ネルラは首を傾げた。

「意外と元気そうで何よりだ」

「そりゃそうよ。お金は回収出来たしね」

 ネルラはうんざりして頬杖を突く。

「金、金、金。いつもそれだ。それしかないかね?」

 するとミサキはパチリと瞬きした。

「そうでもないわよ。あたしは貰った分、本当に恋をするんだから」

「一晩限りの?」

「それはまあね………額によるわ」

 美しい女の所作を見ているうちに、ネルラは身体の一部が俄かに高まるのを感じた。匂いだろうか。麝香に似た気配がした。我慢出来ずに鼻の下を長くすると、ネルラはこう持ち掛けた。

「なんだったらどう? 今夜辺り?」

 ネルラは思わせぶりに懐を叩く。「金ならたんまり」

 ミサキは困った様子で苦笑いを浮かべる。

「ネルラは素敵よ。割とタイプだし」そこでくるりとそっぽを向いた。「お金は天下の回りもの。もっと大事にしなくちゃね」

「俺の有り余る情熱を、どうしてくれる?」

 ミサキは軽蔑したように吐き捨てた。

「いい加減になさい、このスケベジジイ」

 ネルラはにやりと笑った。

「見掛けは三十、心は還暦。どうやら身体は見掛けに正直らしい」

 ミサキは手帳を仕舞いながら愛らしく微笑んだ。

「ネルラ、言ってなかったんだけど、フォリー・ベルジェールのコンシェルジュって、誰にでも口が軽いのよね」

「何だって?」

「あたしが寄った時、ちょうどヘンリー・チャンのとこの下っ端が来てて」

 ヘンリー・チャン。その名を聞き、ネルラの動きが止まった。チャン・ファミリーは城塞の賭場を仕切るギャングである。元締め、親、胴元。それに類する意図的資金獲得活動の相手だ。カードの負けはたっぷり込んでいた。支払期限はとうに過ぎている。呆けたネルラにミサキが追い打ちを掛けた。

「ヒント、あげちゃったかなー、って?」

 そう言ってウィンクした。

 顔を上げると向かいのコンコースをサングラスの二人組が歩いている。こんな時、図ったように会いたくない連中とぶつかるものだ。二人は揃ってネルラを指さした。

「どうして先に言わない!」ネルラは声を荒げた。

「集金は早いもの勝ち。でしょ?」と、涼しい顔のミサキ。

「逃げて」

「くそっ!」

 ネルラは立ち上がるとポケットから小銭を掴み出した。朝飯代、多分足りてるだろう。

 ミサキ・シノが上品に手を振る中、ネルラはバックヤードへ急いだ。

 

 

 全く冗談じゃない。こっそり戻ったつもりが、どいつもこいつも爪を研いで待っていやがる。全ては自分自身の体たらくだが、しかし………。

 ネルラはコンコースに出ると最寄りの階段に走った。

 第五階層、GMS(総合大規模小売)フロア。

 ヘンリー・チャンに、さっさと借金を返すというむきもある。が、八十万パスカ程度では話にならない。だったら使うだけ使って残りを渡し旅に出る。今まではこの繰り返しでやってきたわけだが、いよいよ向こうも堪忍袋の緒が切れたか。ネルラが約束を守った試しはない。どの道、袋叩きにされるなら、もうちょい先の方が良かったかも。せめてミサキと一夜が過ごせるくらい後の方が。

 五階の通路は混雑していた。右に吹き抜けを見ながら足早に進む。

 店先には衣料品のハンガーやワゴン。店頭はどれも捨て値のセール品で、赤や黄色の値下げ札が貼られていた。

 トーブの並んだ衣料品店、降塵計やサバイバルグッズの専門店。乾物、フリーズドライの保存食。焼き菓子の屋台から甘いカスタードの匂いが漂って来る。順番待ちの子供たちを避け、ネルラは陰から背後を覗いた。

 サングラスの二人が小走りに近付いて来た。南国アロハに雪駄(せった)履き。袖から見えるのは(レッド)(ドラゴン)の刺青だった。間違いない。チャンのところの若い衆だ。腰に下げた長い鞘は恐らく青龍刀だろう。

朝飯が逆流してくるのを覚えながらネルラは人波に紛れた。さすがのギャングも通りでは仕掛けて来ない。そう考えた矢先だった。

「ネルラ、待ちな!」

 光ったのは刃渡り三十センチの諸刃の剣だ。抜身を構えた瞬間、通りに悲鳴が上がった。人影が散り散りに遠ざかる。二人は刀を振りかざし走り出した。ネルラは一閃弾かれたように反応した。

 歩行器を押す老婆を避け、値切りの客の背を突き飛ばす。突然、割り込んで来た搬入台車を飛び越えると、蹴り出したネルラの爪先が荷をかすめた。たちまち冷凍フライが辺りに散らばり、足を取られた通行人が転んだ。

「おい………な、なんだよ?」

 口々に文句が上がった。ネルラは抜群の反射神経で人込みを擦り抜けた。

 日本そばの屋台から、かつお出汁の香りが。点心を蒸かす、もくもくとした真っ白い水蒸気。色とりどりの(のぼり)がネルラのダッシュに逆巻いた。

 眼下で石畳が流れていく。

 目の前に階段が現れた。上に行けば第六階層だ。ネルラは落書きに耽る子供たちを飛び越え、二段抜かしで駆け上った。

 フロアに顔を出そうとした途端、鋭い金属板が空を切って頭上をかすめた。咄嗟に首を縮めると遅れた毛先が千切れ飛ぶ。

 おっと。待ち伏せギャングがもう一人いた。浅黒い巨漢である。二刀流で(えん)(げつ)(とう)を構えた。ネルラは足元にあった空き缶を踵に引っ掛け、軸足で相手の顔に蹴りつけた。刀が空を切り缶は真っ二つに。その隙を狙って脇を擦り抜けようとするネルラだが、鼻先に刀身が落下した。

 巨漢は忌々しい笑みを浮かべた。もう一振り。今度は足元を狙ってくる。ネルラは軽快にかわした。石壁に金属が触れると眩い火花が散った。

「観念しろっ!」

巨漢が怒鳴った。

 ネルラは身をかがめ、低い体勢から男の膝下に突き蹴りをくらわした。短く、しかし強烈な一撃。パキリと乾いた音がして、その後、長い悲鳴が続いた。

「グウァァァァァ!」

 屈強な男にも鍛えられぬところは幾つかある。膝下と、因みにもう一つは肛門。巨漢は自重を支えきれず、どうと倒れた。偃月刀がカタカタと音を立て階段を滑り落ちていく。

 背後に追手が現れた。

「ご免な!」

 ネルラは巨漢を踏み付けにして階上に躍り出た。

 第六階層、行政区画と高所得者向け居住層。

 いわゆる特権階級のスペースである。落書きのない落ち着いた佇まい。普段は閑散としているフロアだが今日はどういうわけだか賑わっていた。集会か、あるいはイベント? 辺りを伺っていると正面から司法治安官が近付いた。

「どうしましたか?」

 声を掛けられ、一瞬ネルラは足を止めた。が、二人の治安官の手には三段警棒が握られている。にこりとも笑わないこの輩、狙いは間違いなくネルラである。

 行政にもたっぷり裏金が回っている城塞内では、治世は完全なマフィア統治だ。前からは司法治安官、後ろはギャングが。通路はごった返して進むに進めない。ネルラは焦った。まごまごしていると挟み討ちにされる。

 ふと見上げると頭上に天蓋が見えた。太陽を余すことなく摂り入れるジオデシック構造の天窓。そこから作業用ゴンドラが下がって、目と鼻の先で揺れている。

 ネルラは瞬時に目測した。これは鳶職人の勘である。当て推量で手摺からおよそ三メートル、地上まで三十メートルと見た。助走を付ければなんとか。キャッチ出来そうな気がする。

 落ちたら即死だ。いや………どうにかなるか。

 根拠のない自信は、ネルラの悪い癖である。

「てめえ!………」

 ギャングの呼び声を合図に身体が勝手に動いた。

 ネルラは身軽に柵に飛び乗ると間髪入れず走り出した。柔らかいゴム底がうまい具合に手摺を捉える。緩いカーブに沿って加速し、通行人の見守る中、ゴンドラに向かってジャンプした。

「そうりゃあ!」

 差し込む日差しに影が躍る。

 地上三十メートル。宙を舞うネルラ。コンコース全体が息を呑んだ。

 ゴンドラが目の前に。

 行けるか? 

 そう思いきや、指が滑った。

 そのまま身体は放物線を描いて落ちていく。万有引力は全ての物体に、もれなく。

 お終いか? 

 次の瞬間、僅かな差で空を掻く手が作業用ロープを捕まえた。

 ナイスキャッチ! 

 自重でロックが外れる。滑車が回転を始めるとゴンドラは滑るように一階に運ばれた。見物人のまばらな拍手も届いたようだ。

(おっと?)

 安堵も束の間、ネルラを待ち構えていたのは、エントランスにずらり並んだ司法治安官の群れであった。

 

 

 ネルラは騒乱罪で逮捕された。にもかかわらず、なぜだか最上階のスター・ルームに通された。

 ここは言わずと知れたチャン・ファミリーのアジトである。派手に一階までダイブしたというのに、戻りは高所得者向けエレベーターでスムーズに。

 チャンの事務所がスター・ルームと呼ばれているのには訳があった。最も太陽に近い最上階にあって一つも窓がない。漆黒で距離感のない部屋に、小さなパイロットランプが瞬いている。シンプルで前衛芸術めいている分、不気味でもあった。そんな外連味たっぷりの舞台装置に、手下らしき五人のアロハ軍団が横一列に並んでいた。

 ネルラは黒檀の椅子に縛られ、顔に三発、腹五発、拳を食らった。後からゆっくり効いて来る重たい拳骨である。しかし、折檻にしては少々手ぬるい。みるみる腫れあがってくる瞼を持ち上げ、ネルラは精一杯のはったりをかました。

「何だよ? そんだけか?」

 唇が切れ、歯茎に血が滲んでいる。一旦下がった手下がもう一度近付いてきてネルラの髪を掴んだ。目を瞑ったところで待ったが掛かった。

「イーライ、そのくらいで」

 薄目を開くと、ワインレッドのチャイナシャツ男が立っていた。まるで暗がりから沸いて出たようだ。小柄で神経質そうな男である。胸に金糸で龍の図柄が刺されている。ヘンリー・チャン。四十代前半、賭場を仕切る新興勢力の若きドン。色白でアジア人らしいきめ細やかな素肌。黒々とたっぷりした髪はオールバックに纏めてある。サングラスを掛け、ガラス製爪ヤスリでネイルを磨いていた。

「久しぶりですね、ネルラ」

 張りのある美声が辺りに響いた。

「いきなりの離れ業で。派手な登場。ひょっとしてあなた、死ぬ気でしたか?」

 そう言ったヘンリー・チャンの声音は、どこか茶化した口振りである。ネルラは椅子の上でどうにか楽な姿勢を取ろうとしたものの、挙句、憎まれ口を叩いた。

「その黒眼鏡、ちゃんと見えてんのか?」

 ヘンリー・チャンはヤスリを持つ手を休め、サングラスを鼻先に下ろした。

「見たくないものだってあるでしょう? 例えば血まみれの多重債務者、とかね?」

 そう言うと手下に目配せした。イーライのセメントのような拳骨がネルラの鼻先に炸裂する。

「ングゥッ! ………グゥゥゥム………参った、参った。………もう、ご勘弁」

 ネルラはあっさり白旗を上げた。男の沽券? タフネスの証? そんな言葉がちらりと過るが我慢したところで一銭の値打ちもなさそうだ。

 ヘンリーは唇を尖らせると不満そうに吐き捨てた。

「天文学とまでは言いませんが、あなたへの貸付、不動産単位にはなってますからねえ。働いた分は、ぼちぼち返してもらわないと」

 ネルラは絶え絶えに息を吸った。

「丁度寄ろうと、思ってたところさ」

「別口に先、払ったでしょう?」ヘンリーは華奢な人差し指を左右に振る。「まずはウチが優先です」

「そっちはもう、終わったんだ」

「あなたにもあなたの付き合いがあるでしょうから。全部とは言いませんよ」

 ヘンリーは近付くと、ネルラの上着から札ばさみを抜き取った。

「おいおいおい………」顎を出したネルラを他所にヘンリーは札を数える。

「フーム、八十万とちょっと。全然ですね」

「悪りぃね」

「なんだったら駐車場にあるあなたの道具、全部売り払ったっていいんですよ」

「となると、次の稼ぎはなしだぜ」

 ヘンリーはトカゲのように目を細め、五枚だけ札を残しネルラに返した。暗がりに戻り、簡素な折り畳み椅子に腰掛ける。

「(12)は、どうでした?」

 ネルラは血の混じった唾を吐き出し、言った。

「工事か?………ああ、まだ続いてるよ。大体は終わったけどな」

「あなたは一陣で?」

「ああいうのは、早い者勝ちだから」

 ヘンリーはこめかみを掻いて思案した。

「向こうは大層、物不足なんでしょうね?」

 ネルラは小さくうなずいた。

「食料も生活品も何もかもさ。(ドラ・マール)、あの砂嵐は尋常じゃねえな。天蓋が落ちたからって、どこに避難出来るわけでもねえし」

「住民の生き死に関わる」

そこでヘンリーは意外な含み笑いを浮かべた。

「つまりそれは、ビジネスチャンスですね」

 ネルラは煙たい顔をした。

「普通そこはボランティアって来るんじゃねえの?」

 ヘンリーは首を左右に振った。

「ギブ&テイク、通常の経済学ですよ。あなた、(32)が何で稼いでるか、わかってますか?」

 ネルラは視線を泳がせた。

「確か加工の商い、だったか?」

「そうですね。つまり(32)は他所から材料を買っている。それを加工して誰かに売りつけて儲けを出す。中で消費しているだけじゃ、外貨が稼げないんですよ」

 確かに。(壁の門32)の地下二層は縫製、プラスチック製品の手工業プラントであった。子供たちが過酷な労働環境で働いている。GMSエリアや賭場の上がりなどは、全体からすれば些細なものなのだ。チャン・ファミリーは当然、この城塞間貿易から利鞘(りざや)を得ている。

 ヘンリーは意味深に眉を持ち上げると、ネルラに話を持ち掛けた。

「ところでネルラ。あなたにいい儲け話がある」

 ネルラは引き攣る口元を歪め、無理に笑った。

「そう、おいでなすった?」

「支払いは行政連合から。だから貰いっぱぐれはなしですよ」

 ネルラは返事を渋る。どの道、断る手立てはないのだろうが。

 冷血なトカゲ野郎。

 ヘンリー・チャンは立ち上がると、身振り手振りで説明を始めた。

「一週間後、ここから輸送隊商が出ます。大型タンクローリー四台と護衛のコンボイ。最終目的地は(壁の門24)で、リサイクルペレットと縫製原料を買い付ける。その前に(12)に立ち寄って食料と衣料品、生活用品を捌こうと思います。空のタンクを引いてくのは、もったいないですから。今ならこっちの言い値で通るでしょう」

 ネルラは吐き捨てるように言った。

「被災地相手に、足元を見ンのか?」

 ヘンリーは意に介さず続けた。

「(12)には昔から塩とタバコで振り回されて来たんですよ。あそこはインゴ・ヴァーンのシマだ。あの強欲シジイ相手なら、このくらい許容範囲ですよ」

ヘンリーの穏やかな言葉の裏に、ねじくれた底意地の悪さが滲んでいる。

「完売を見込んで荷が軽くなった分(24)まではスピードを上げる。帰りは街道を外れて近道で戻る。往復でおよそ三日の行程です」

 ネルラはため息を吐くと、わかりきったことをたずねた。

「それで? 俺に何しろって?」

 ヘンリーは乾いた声で笑った。

「他にないでしょう?」

「そうか?」

「コンボイをガウルの襲撃から守るんです。あなたは用心棒。銃は得意でしたよね?」

 ガウルは人類の敵だ。隊商など通ろうものなら確実に襲ってくるだろう。人の殲滅こそ、奴らの悲願なのだから。

 ネルラは呆れた様子でたずねた。

「この話、あんたばかりが得するみたいだけど?」

 するとヘンリーは渋い顔で手を振った。

「いやいや。そうでもないですよ。あなたたちへの支払いは連合ですが、隊商のガソリン代、銃、弾薬はウチ持ちなのでね。それに(12)の交渉云々によっては買い付けで赤になるかもしれません。保険としてあなたみたいな多重債務者をメンバーに入れて、その回収に励んでもらおうかとね。もちろん、支払いは連合です」

 要するに借金持ちの用心棒は、連合からの稼ぎを、根こそぎチャン・ファミリーに吸い上げられる、ということである。命懸けの只働き。そう言うことなのだ。

 ネルラの表情を読んでか読まずか、ヘンリーは人差し指を振った。

「只働き、とか思いました?」

 ヘンリーは続けた。

「大丈夫ですよ。用心棒の代金は総額が決まってますから、最終的に生きて戻った人数で割るんです。つまり仲間が死ねば死ぬほど、あなたの取り分は大きくなる。ひょっとしたら負債を返し終えるかもしれません。もしかしてお釣りが来るかもしれない」

 ネルラは首を捻った。

「死んじまった奴の借金は? どうなるんだ? それでチャラなのか?」

 ヘンリーは肩をすくめた。

「まさか。それは契約不履行ですから請求先が変わるだけです。相続人、あるいは連帯保証人に。それで足りなければ親兄弟、親族、知人に友人、関係者。取り立てはどこまでも。そして期間はいつまでも、ね」

 ネルラは首を左右に振った。

「鬼だね、あんた」

 ヘンリーは軽く目を伏せ、言った。

「ま、そういうのが得意なんで、ギャングとかやってるわけで」

 ヘンリーはにやにや笑った。

「ネルラさん………死んだ方がマシなんて。そういうのはナシです」

「………笑える」

 ヘンリーは頃合いを見て合図した。手下二人が近付き、ネルラの縛りをほどいた。腹と顎を摩りながらネルラは呻き声を漏らした。

ヘンリーは憐れんだように見降ろし、付け足した。

「ま、私を家族と思って。しっかり孝行してくださいな。………ギャンブルなだけに()孝行(・・)、みたいな?」

 

 

 

 

 北東、南南西の砦で使役カースト、合わせて百二十三体の損失。

 バンダレ・エマームの小競り合いにより戦闘カースト五十二体損失。補填の受精卵二百六十個を産卵。内、二百二十六個が羽化。預言カーストの誕生、三体。

 

 七十二代新生ガウル女王アルセアは、頭頂前部に密集した銀色の知覚繊毛を撫でつけた。ここ数日、こめかみの奥に不快な圧迫を感じてしょうがない。

 生産個体数は赤字だ。

 女王アルセアは共感覚により交換される最新の帳尻を計算した。使役のカーストから伝わる意識の伝播に複雑な心象は含まれない。彼らのシナプスからは行動を制限する伝達物質や受容体(レセプター)が注意深く排除されているからだ。前提はそうなのだが微かに届く予感や戸惑い、幻滅。そうしたどす黒い動揺が折り重なると、彼女の胸中にマイナスの転移感情が生まれる。人間で言うところのメランコリアであろうか。

 アルセアは形の良い鼻先を神経質に触った。長い睫毛が頬骨に繊細な陰影を落としている。グリーンの瞳、チェリーピンクの唇。色白、細おもて。顎から首に繋がる美しい曲線は類稀なる美貌の持ち主と言える。

 彼女にとって実際的でない感情は全て面倒ごとに思えた。同時に数世代に渡る人間化にともない、彼女の意識に不明の不合理を残している。これは脆弱な感覚のもつれに他ならない。ヒトに求めたのは強い生命力であり内省的な傾向ではない。近いうちに分離の目途が立てば良いのだが。アルセアは先行きに思いを馳せ、顔を曇らせた。

 純白のドレスを引き擦り、女王は席を立った。放物線を描くゴチック様の王座も同様に、白い透かし模様が織りなす四段ほどの長楕円の雛壇から成っている。正面に位置する巨大なモザイク窓が、半円に広がった大広間を照らしている。

 アルセアは窓辺に近付くと無意識に手を添え、広大な荒野を見渡した。

 

 地球というこの天体に時空転移して数世紀。我々は苦渋の選択を余儀なくされた。本来のカタチを捨て、環境適応を第一としたのである。この選択が群れの絶滅を防いだのだ。

ガウルは偶然の巡り合わせでこちら側へ迷い込んだ部外者に過ぎない。ワームホールで連結された二つの世界。時空トンネルは二つの宇宙を繋ぎ合わせ、間口を大気層の中に漂わせている。そこから日々、不可知の物理現象が侵入してくるのだ。留まることを知らぬ嵐、降り注ぐ時間降塵。地軸はさらに傾き、生態系に危機的影響を及ぼしている。

 アルセアの記憶は前任のそれを余すことなく受け継いでいた。が、惑星到達以前の知見はない。そもそも己の出生もわからなぬままに、群れの生存を願っている。我々は何処から来て何処へ行くのか? 

 アジアの東、タクラマカン砂漠に到達した二十万の民は分散し、個々に生き残りを図った。後に届いた思念から、その半数が死滅したことを知った。残りはあちらこちらに定住して、どうにかコロニーを形成したようだ。

 アルセアが束ねるのは現在の群れ、この居城と数か所の隠し砦だけである。課せられた終わりのない旅路は、暗中模索の行軍であった。

 アルセアは皮肉な笑みを浮かべた。

 それで? 我々は一体、何を手に入れたっていうの? 長寿命? それとも地球型生命の進化の多様性? 

 この惑星で生き残るためには地球型生命体のゲノム解析が必要だった。原生ガウルのライフサイクルは脆弱で、降塵の拡散崩壊の前ではひとたまりもない。生命としての根本的な耐性向上が必要だったのである。

 目を付けたのはヒトだった。この世界の食物連鎖、頂点にいる種である。共生もしくは競合において対等であることは不可欠だ。ヒトのゲノムは原始的で、かつ強靭であった。入手したサンプルから生命起源と進化、生物多様性のメカニズムを獲得した。 (労働単位として単純使役するカーストには、より実際的な機能特化・社会統率性を持たせてある)数百年のタイムスケールをもって、我々はこの惑星にゆっくりと順応していったのである。

 今から五十年前、ようやく人類との接触に至った。和平を協議し交渉の末、双方納得のいく共生が始まった。だが数十年を待たずして、協定は人類側からの一方的な反故で頓挫している。

 

「ハニー、呼んだかい?」

 鼻に掛かったバリトンの声。背後から呼ばれてアルセアは振り返った。視線の先、広間の入口に細身のラテン男が立っていた。豊かな黒髪、謎めいた微笑み。浅黒いエキゾチックな美男子は、ヒト基準において最上品位を体現している。

 アルセアは短く舌打ちした。今はそういう気分じゃないのよ、お馬鹿さん。

 彼女は知覚繊毛に触れ、人差し指を持ち上げた。

「ああ、アンヘル。………それともヴィクトルだったかしら?」呟いたと同時に、もう一つ影が現れた。

「ハニー、呼んだかい?」

 まるで木霊だ。姿かたち、寸分違わぬ二人の男が並んでいた。追い掛けるようにさらに二人、オリアルとサムエル? ま、なんだって構わないが。四人の相似形が勢揃いした。同様の容姿、同様の甘い微笑みを湛えている。彼らは群れ総体の遺伝学上の父であった。

つまり、アルセアの夫である。

 現在、生殖雄は合わせて十二人いた。遺伝子の近似における破局に備えるため、数で揺らぎを与えている。アルセアの繊毛を通じて放出される生殖オーダーを選別し、受胎チェンバーに繋げる。

 (生産個体数は赤)、その共感覚が夫たちの生理を促したのだろう。人類の生殖サイクルにおいて一番の優位は発情期の不在にある。いつ何時、ところかまわずの衝動は特筆すべき強みと言える。

 アルセアは頭を切り替え、四人の生殖雄を見た。難しい組織運営はすっぱり忘れて夫たちの献身的なサービスを受けるとしよう。彼女は飼い犬に合図するよう指を鳴らした。

アンヘル、ヴィクトル、オリアル、サムエルは、たちまちアルセアを抱きかかえると、片隅の寝台へうやうやしく運んだ。

「ハニー、待ちきれない!」

 血走った目で鼻息を荒くする夫たち。アルセアはされるがままに飽きるほど繰り返されてきた儀式に付き合った。雄は競うよう彼女にむしゃぶりついた。全身をくまなく愛撫する。オキシトシンの発生でアルセアの瞳がわずかに潤んだ。気分を揺さぶられるのは本意じゃない。が、それがヒトのオーガズムである以上致し方ない。アルセアにとってはエクササイズのようなものであり、日々の鬱憤を払拭する気晴らしとも言えた。頭は空っぽ。だが情熱だけは飽和状態の生殖雄を見栄えだけ良くしたのは、彼女の中に生まれた人間的な価値基準だったやもしれん。アルセアは愚かしいほど熱心な夫の働き振りを、じっと眺めた。

「焦らない、焦らない」

 じゃないとオーダーが正確に伝わらないから。

 雄たちは代わる代わるにアルセアに接吻した。うなじから額、鼻先を辿って顎の先まで。湿り気で艶めく彼女の素肌が雄の興奮を一層に(いざな)う。獣めいた(うめ)きを上げ、まとわり付く四人。彼女の知覚繊毛にはより一層丁重に接した。頭頂前部から生え出す銀色のそれは毛髪より太く、撫でつけると勢いよく立ち上って蠕動運動を始める。しばらくすると濃く白い粘液が流れ出した。これはオーダーを内包した伝達物質である。押さえが効かなくなった雄たちは口々に奇声を上げた。それがエクスタシーなのか、単なる苦痛なのか。傍目に判断は難しい。

 アルセアは頃合いを見て知覚繊毛を拡張した。鞭のようにしなやかに、そして蛇の如く蠢くそれ(・・)は、それぞれ雄の頭部に巻き付いた。順次、先端部分を涙腺、鼻腔、外耳道から侵入させる。粘膜を破って脳髄深部に潜り込む。雄たちは代わる代わるに悲鳴を上げると、泡を吹いて悶絶した。

 生殖オーダーを全て放出し終わり、アルセアは虚無感に襲われた。このやるせない脱力感。これもまたヒト由来のものであろうか。不合理だし原始的でもある。不思議なことにどこかで満足している自分もいる。そんな気がするのだから余計に後味が悪かった。

 寝台から転がり落ちた四人の雄は目、鼻、耳から鮮血を流していた。もちろん死ぬようなことはしてない。生殖雄には役目があり、そのために設計されている。五分もしないうちに回復しておもむろに受胎室へ向かうだろう。チェンバーを作動させ、ジーンリッチな精子を放出するために。

 アルセアはゆっくりと身を起こすと寝乱れた着衣を整えた。

 今回のオーダーに取り立てた変更はない。使役カーストの補充が優先されているからだ。(壁の門)に送り込んだ密偵によると、近々人間たちの隊商が街道渡りするらしい。言うまでもないが、その動きは叩いておかねばならない。

 

「お母様、お母様………いるの?」

 声と共に固いヒールの音が近付いた。バタンと大扉が開き、若い女が顔を覗かせる。

「お母様?」

 アーモンド形の目をした小顔の少女が立っていた。痩せた体躯で歳の頃は十七、八。(これはヒトの基準よるものだ)短く切り詰めたボブカットに特徴的な知覚繊毛が覗いている。光沢のある白のタンクトップにフリンジ付きジャケット。ストレッチ素材のぴったりしたボトムと革のブーツが若々しい。

 その様子から垣間見えるのは活発な気性である。痩せっぽちな見掛けとは裏腹に、中身は好奇心で一杯だった。彼女もまたヒトの優位特性を備えたガウルである。女王の血統、支配的カースト。少女は第三王女パウラであった。

 身繕いする母を見付け、パウラは快活に声を掛けた。

「あら、お母様、いたのね。………」そこで床に転がる四人の生殖雄に気付き、目を丸くする。「あらあらあら、お父様たちまで」

 パウラは茶目っ気たっぷりに眉を持ち上げると、「タイミング、悪かった?」と、一言。

アルセアは一瞥して優雅に立ち上がった。

「生産個体数が落ちてるのよ。わかってるでしょう? その穴埋め」

アルセアが言い終わらぬうちに生殖雄たちが息を吹き返した。ふらふら立ち上がると血走った目でパウラに微笑む。

「やあ、パウラ。元気かい?」

「やあ、パウラ。元気かい?」

「やあ、パウラ………」

 パウラは引き攣った微笑みで返した。

「ええ。………お父様たちもお元気そう」

 四人の生殖雄は娘に気安く挨拶すると受胎室に向かって歩き始めた。

 夫、あるいは父親を見送る母娘の姿。その佇まいを一瞥したところで、しかし年齢差がつかめない。親子であるが見掛けはまるで姉妹のようだ。彼らの代謝は成体に進むにつれ遅滞し、成人初期の形態に留まる。そこから外見上のめぼしい変化は訪れない。

 パウラは小首を傾げ、母にたずねた。

「それで? 支配的カーストは如何ほど?」

 アルセアは窓辺に近付くと屈折する光を浴びながら答えた。「今回は使役だけよ。主に戦闘カーストね」

 パウラは広間を歩き、不満を漏らした。

「何だ、怪物君だけか」

 残念そうに呟くパウラをアルセアは(いさ)めた。

「やめなさい。私たちは同胞なのよ」

「まあね。………でも友達にはなれないわ。そうでしょ?」

 パウラは母親の苦言を察知し、面倒くさそうに右手を振った。

「はいはいはい。わかってまーす」

 アルセアは無邪気な娘に渋い顔をした。控えめに言って厄介娘だ。天真爛漫と言えばそうだが、しかし十分に分別の付く年頃である。パウラは賢い。だがその賢さがヒトに偏るのが鼻に付いた。ま、いずれにせよ、女王の血統を継ぐ者が同じ種を小馬鹿にするとは言語道断である。

 パウラは物心ついてから、ヒトの文化に無批判な憧れを抱いている。

 自身の後継者として三つ子をオーダーしたのが十八年前のこと。運悪く上の二人は精神遅滞で生まれた。何が影響したかはわからない。時間降塵や厳しい土地柄のせいかもしれない。女王の遺伝子を持つ子たちなので、簡単に切り捨てるわけにも行かないが、恐らく王位継承は無理であろう。そうなると残るはパウラなのだが、これがまた制御不能の変わり種と来ている。

 母として、王として、行く末が危ぶまれる。アルセアは頭を過る数々の頭痛の種に目をつぶった。

「それで? 何の用?」

 パウラは母の問いには答えず、寝台に近付くとちょこんと座った。意味深な含み笑いを浮かべる。

「お父様たちってお母様のこと。大好きみたいね」

「それはそうよ。それが彼らの仕事だもの。そういう風に作られてるの」

「それもお母様が?」

「その辺は何代か前の女王ね。私は正しく継承してる」

「正しく、ねえ。………お母様ってさあ、実際のところ、お父様たちのこと、どう思ってるの?」

「どうって?」

 パウラは人差し指を顎に添えた。

「お父様たちは受胎室の装備品。それはわかってるのよ」

 さあ、おいでなすった。最近のパウラのお気に入りの話題である。生殖絡みの厄介な質問。私を困らせようと面白がっているに相違ない。ヒトにあてはめたところの反抗期だろうか? アルセアは冷静に娘を観察した。

「他に何があるっていうの?」

パウラはシーツを人差し指でかき回した。

「愛情とか、そういうのは? 感じたことない?」

「それは人間みたいにってことかしら?」

「そうね」

パウラは僅かに身を乗り出したが、母はそこで切って捨てた。

「馬鹿馬鹿しい」

「どうして?」

「あなたが言いたいのは下級生命体の発情行動のことね」

 母の否定的な言葉に不満を表すと、パウラは言い直しを求めた。

「オーガズムと言って頂戴」

 アルセアは淡々と答えた。

「生殖を促すシステムとしては大仰で必要のない衝動ね。人間の不毛な闘争には大抵、そのオーガズムとやらが関係している」

 パウラは面白くなさそうに肩を揺すった。

「人類学の講釈? 私、興味ないんですけど」

「じゃ一体、何に興味があるのかしら?」

 パウラは上目遣いに考えた。

「そうね、どちらかと言うと心理学とか、文学?」

アルセアは鼻を鳴らした。

「フン。それってヒトの書物のことかしら? 事実検証があやふやな、不毛な考察論よね。そんなもの読んだって時間の無駄よ」

 パウラは反論した。

「そうかなあ、敵を知るにはまず気持ちから、って。言うでしょ?」

「言い回しが間違ってる」

「そう?」

アルセアは目を細めた。

「まあいい。………敵。今あなた、敵って言ったわね。そう。それでいいのよ。人類は私たちの敵」

「だから?」

「あなたがヒトと仲良くしたいって。そんなことを言いだしそうで。………私は正直、不安よ」

 パウラは口を尖らせ、視線を逸らすと曖昧に呟いた。

「そんなこと………ないわよ」

 王座に戻ったアルセアは、濡れた知覚繊毛をコットンで拭いながら娘の服装を品定めした。

「ところでパウラ、その恰好は何? どこで手に入れたの?」

指摘され、娘はバツの悪そうな顔をした。パウラの恰好は見るからにヒトの手によるものである。パウラは大きな眼をぱちくりさせた。

「外の市よ。ミリジャのプレゼント」

「ミリジャが?」

 外の市、と言うのは(壁の門)の周辺で時間降塵が収まる間、行商人によって設けられる中立交易場のことである。規制は緩く監視もされていない。現金、或いは現物さえ持って行けばば誰もが参加出来る。

パウラが言い訳に出したミリジャは、姫君たちの侍女である。特別オーダーされた能力ゆえ、敵陣に潜入する密偵でもあった。なので言うまでもないがヒトの似姿をしている。ガウルの女スパイ、ミリジャ。(壁の門)を行き来する行商人の噂話こそ、恰好の情報源であるからだ。

「お母様、ミリジャを責めないで。私が無理言って頼んだんだから」

 パウラがうそぶくので、アルセアは共感覚で真偽を探った。が、案の定、思考はガードされている。ああ、なんて抜け目のない()だろう。

「そうね。ミリジャは関係ない。非はあなたにあるわ」と、アルセア。

 パウラはあっさり謝罪した。

「ごめんなさい」

 アルセアは拍子抜けして、長い爪を噛むと改めてパウラに問うた。

「パウラ、聞くけど。一体人間のどこがいいの? 人間に肩入れしたって何にもならないわよ」

 パウラは寝台に寝そべった。

「なるとか、ならないとか? そういうんじゃないのよね。わからないことって興味深い。でしょ?」

「いいえ」と、アルセア。

 パウラは首を振った。

「また、そんなこと言って。まるで昔気質の母親みたい」

「私はヒトじゃない」

「その通りよ。だったらもう少し人間を研究対象として見なくちゃ」

「十分そうしてきたでしょ」

「そうかな? わかってるのは身体のことだけよね?」

「頭の中まで知りたいなんて思わない」

「それじゃ片手落ちじゃない。ヒトはそこが一番面白いのに」

 アルセアは眉をしかめた。

「何が?」

「そうね。………気まぐれ、バイタリティ、それと、負けを認めない愚かな情熱?」

 アルセアは人差し指を持ち上げた。

「それって単に馬鹿って言ってるようにしか聞こえないけど?」

 パウラはシーツに包まるよう転がった。

「私たちの身体の中にも人間の遺伝子は流れてるんでしょ? それがうずく、って言うのかな。だから私はこんな格好をしてるの。………いつくらい前からだっけ?」

「歴史の勉強をなさい、パウラ。………それとヒトの遺伝子は私たちには一つも含まれていなくてよ。ただ似通った風に作り替えただけ。この星の環境に適応するためにね」

そう母に言わせたところでパウラは意地悪く笑って、自分の下腹部を擦って見せた。

「おかげで、あたしたちには人間のあれ(・・)が、付いてるんでしょ?」

パウラは勝ち誇ったように顎を上げる。アルセアは嫌悪も顕わに顔をしかめた。

「必要のない生殖器官? それと生理ね。ま、長寿を獲得したついでの副産物かしら。そんなものがなくったって私たちには洗練された受胎システムがあるわ」

パウラは自分の頭に生えた銀色の巻き毛をいじった。

「知覚繊毛と十二人のお父様のこと?」

「受胎室を使えば効率的に産卵を促せる」アルセアはちらりと視線を落とした。「生体内受精なんかに頼ってたら、私たちはとっくに滅んでるわ」

 パウラは嫌味ったらしく吐き捨てた。

「ま、預言カーストについては思ったようでもないけど………」

「黙りなさい」

 アルセアの頬が微かに紅潮した。瞳に怒りが宿っている。パウラは身体にシーツをぎゅっと巻き付けると寝台に起き直った。

「お母様、ヒトの生殖行動って単に子孫繁栄ってだけじゃないのよ。そこには快楽とか………苦痛が伴うの」

 アルセアは乾いた声で笑った。「知った風なことを」そこでふと不安に駆られ、娘にたずねた。「もしかしてあなた………試したり、してないわよね?」

 パウラの読めない表情がこっちを見ている。

一瞬の間があり、パウラは目の前で右手を振った。

「まさか。ここに生殖雄はお父様しかいないでしょ?」

 アルセアは無言で娘の顔を凝視した。パウラは悪戯っぽく微笑んだ。それから問うた。

「お母様は試してないの? 一度も?」

 母は目を見開いた。

「馬鹿な事言わないの。私は女王なのよ」

強く否定するアルセアを娘は面白がった。

「どうだか」

パウラはシーツに顔をうずめると、そっと嗅いでみた。「そんな匂いがしてるもの」

 アルセアは視線を逸らし、パウラはケタケタ笑った。

なんて娘。

どこで育て間違えたか。それともこれがヒト特有の………思春期ってことなのか? 

アルセアは柄にもなく狼狽した。一瞬のことだがパウラに対し、敵意を感じたのである。

 このコとは、反りが合わない。

 悟られぬよう素早く打ち消すと、アルセアは話題を変えた。

「パウラ、何か用事があって来たんじゃなくて? 早く言って頂戴。私も忙しいんだから」

 どう見ても多忙でない母だったが、パウラはしおらしく望みを告げた。

「鍵を頂戴」

「鍵?」

「車の鍵よ。お姉さまたちにご飯をあげなきゃ」

 アルセアは眉を顰めた。

「今日って偶数日だった?」

「そうよ」

 パウラに指摘され、アルセアは顔をしかめた。

「やだ。すっかり忘れてた」

 アルセアは壁に埋設した小さなキャビネットから本革のキーホルダーを取り出した。Jeepと刻印が読める。パウラは歩み寄ると、うやうやしく受け取った。

「ちゃんと食べさせてあげてね。ケイラとミイナに」

「ガソリン、満タンにしといて」

「使役カーストに伝えとくわ」

 アルセアは微かな罪悪感を覚えた。この世に生まれて来たのに、何の役にも立たない二人の姫君。こんな時、ヒトだったら何て言うかしら? 

アルセアは思い立ったようにパウラに告げた。

「二人に会ったら………大事ない、と伝えて」

 戸口に向かいながらパウラは失笑した。

「愛してるってこと? それ、自分で言ったらどうかな? それとも頭のアンテナを使うとか?」

 アルセアは、それが二人には届かないことを知っていた。面と向かって言ったところで、きっと。

 パウラの後ろ手に振った右の袖が、フリンジを揺らしながら闇に消えた。

 

 

 

 

 

 

『時間降塵を辿って〔上〕』ブログページリスト

https://ameblo.jp/bonno108br/theme-10119085541.html