国鉄時代に約3500両が製造された103系通勤形電車。前期に製造された低運転台先頭車のうち、1972(昭和47)年と73年に登場した89両はシールドビーム2灯のヘッドライトにユニット窓の姿でした。これらの多くは関西圏で活躍しました。

 

103系基本番台で最後まで残り、和田岬線を走っていたJR西日本R1編成のクハ103-247と254も含まれるこのタイプを振り返ってみました。

 

 

大阪環状線で多く見られた103系量産冷房車グループの低運転台先頭車。この写真の頃は側面の戸袋窓を埋めた編成が増えていました=桜ノ宮駅、1993年

 

 

 

103系は64年から約20年間にわたって量産され、その間何度かモデルチェンジが行われました。72年に登場したのは「1次改良型」と呼ばれるグループで、非冷房ながら外観はシールドビーム2灯、ユニット窓に変わりました。

 

さらに翌73年には「量産冷房車」のグループとなり、前面のグリルが廃止されるなど、103系低運転台車として完成された姿になりました。

 

 

東海道・山陽緩行線で親しまれたスカイブルーの低運転台車。1次改良型のクハ103形も冷房化改造と前面グリルを埋めたことで、量産冷房車と同じような外観になりました(この写真の車両もどちらかはっきりしません)=大阪駅、1991年

 

 

 

1次改良型は主に東海道・山陽緩行線用として明石電車区に送られ、首都圏に配置された先頭車はクハ103-188のみでした。

 

量産冷房車の方は、当初は中央快速線や山手線にも配置されましたが、首都圏では翌74年からATC対応の高運転台クハ103形と差し替えが進められました。そのため量産冷房車グループの先頭車の多くは関西圏に移りました。

 

結果的に「低運転台・シールドビーム2灯・ユニット窓」の姿は、主に関西圏で親しまれることになりました。

 

 

当初首都圏に配置された103系量産冷房車グループの低運転台先頭車は、多くが関西圏に転出しました。ただ、冷房化推進と冷房車の運用上の制約があり一部は首都圏に残留しました。写真は後年、中央・総武緩行線で活躍したクハ103-259=飯田橋駅、1994年

 

 

 

103系といえば、山手線や京浜東北線などを走った、前面にステンレスの飾り帯が付いた高運転台車を思い出す方が多いと思います。

 

私も幼少期を東京で過ごしたのでそうだったのですが、後に地元・山口県に低運転台車が転入してきた時、均整の取れた顔を好むようになりました。

 

101系よりやや細長い前面窓は引き締まっていて、それでいて高運転台車のような「いかつさ」がないのです。特に前面グリルがなくなった量産冷房車のデザインは、シンプルな101系顔の完成形だったように感じます。

 

 

103系量産冷房車グループの低運転台先頭車は、のちに広島地区でも瀬戸内色の姿で活躍しました。写真はクハ103-219で、当初は中央快速線用として豊田電車区に在籍していました=岩国駅、1993年

 

 

 

前述の103系R1編成は吹田総合車両所(大阪府)に回送され、基本番台は消滅となりそうです。約3500両の大所帯だった全盛期を思うと、正直信じられない思いです。

 

しかし登場から60年、JRになってからも35年以上が過ぎていることを思うと、むしろよくここまで残ってくれたなという印象です。

 

特に新製冷房車グループは、首都圏各線のATC化と冷房化に絡み東京、関西の広域転配が行われた、103系の長い歴史を語る上では欠かせない存在でした。




※1992年に下関運転所に配置され話題となった103系は以下にまとめています