アニメの世界から出てきたようなヒーローの通訳が
スポーツ賭博をしたことで所属球団から解雇されたというニュースが突然とびこんできて、
野球ファンでなくても驚いたことだろう。
法律という規律は行動の制御のために使われる。
~をしてはいけない・・・・、そういった行動を明示し、取り締まることは
社会の秩序を保つために必要である。
が、もちろん、社会全体だけのためでなく、
そこに暮らす個人の安心や安全を意識し、維持することにもつながる。
規律によって
してはいけない行動は罰を受けることになるが、ふと思った。
してはいけない行動は、
確かに多くの人が一緒に社会で生きていくうえでコントロールする必要があるのだが、
取り締まると同時に忘れてはならないことがあるように思う。
それは、
なぜ、その行動をやめられなかったか、なぜ、その行動をとる必要があったのか、ということへのまなざしである。
その行動をとる背景に、当該の個人の何らかのニーズがあったのではないか、それはなんだろうというまなざしだ。
学年歴が終わり、新しい学年歴が始まり、
学校生活を新しくはじめる子どもや人たちがたくせんいるだろう。
学校には校則を含めて、いろいろな「してはならない」を取り締まる規律がある。
集団の秩序には必要だと考える大人たちは多い。
だが、あらためて、
「してはならない」の背景に、どのような個人のニーズが潜んでいるかに
耳を傾け、目を向ける姿勢の価値について考えていける心の余裕をもっていたい。
ここで個人のニーズ(個人の困りごと、生きにくさ)というと、まるで個人にだけ責任や原因があるのだと聞こえてしまうかもしれないので、そうではないということも伝えておきたい。
個人のニーズは、環境との相互作用で、消えたり現れたりするものである。
背が低くても、踏み台があれば高いところに届かないということはなくなるし、
視力に障害があっても、音でサインを送ったり、ドットのある歩道があれば、目的地にたどりつけないということはなくなる。
もしも、鳥のように羽をもった人間たちの世界に私が紛れ込んだら、階段のないマンション2階のカウンセリングルームで仕事はできなくなるが、階段を残しておいてくれたら(羽のある人間たちには必要ないけれど)、私は仕事を続けることができる。
規律を多々設けて、取り締まるということをして、人々の生きやすさは増えるのだろうか。
規律の価値は否定しないし、ニーズがあればどんなことも許されるというわけでもないが、
ただ、規律でもって、個別の行動を「させない」「とめる」「なくす」に集中するのではなく、
個別の生きにくさに気づき、その背景にあるニーズに耳を傾け、
ニーズを抱えつつも、多様な人たちとともに安心して生きられる環境を考えていく、
そんな社会が、必要なのだろうと、ふと思った。