理解というのは簡単ではないですね。

 

でも、誰かの力になるには理解したいと思います。

だけど、理解の近道を通ると、

理解したつもりでしかなくて、

時にはそうした態度が相手を傷つけてしまう場合があります。

むずかしいですね。

 

また、実は理解されるということも

かならずしも心地よいものとは限らないことがあります。

 

昔、中高生に調査をしたことがあります。

「理解できるよ」といわれる体験ってどんな感じですか?

どんな気持ちになったり、

どんな思いを抱いたり、

どんなことをしたくなったり、

どんな状態になったりするでしょう。

 

過去の実際の体験を思い出してもらって、

できるだけたくさん答えてもらいました。

 

はじめのうちは、

「うれしい」「ほっとする」

「ありがとうと思う」「もうちょっとがんばろうと思う」

「力が湧いてきてチャレンジしてみたくなる」「自分も相手を理解したくなる」

「食欲がわく」「よく練られそう」・・・・

 

理解という体験は、人間にさまざまな肯定的なエネルギーを与えるのがわかります。

 

ところが、中高生からはまだまだ回答がでてきました。

「本当にわかっているんだろうか」

「嫌わてはしないだろうかと不安になる」

「支配されるようで息苦しい」

「簡単にわかってほしくない」

「決めつけられてはいないだろうか」

「離れたくなる」・・・・

 

あらら。

同じ人が、両方の体験を教えてくれる場合もありました。

 

理解は、とても複雑で、ともすると両価的な意味合いのある体験なのです。

 

だからこそ、急ぐことはないのです。

近道など見つける必要ありません。

理解できていないことがあることをまずは理解し、

相手から教わり、

理解できたかどうか、相手と対話を繰り返し、

どうしても、理解しきれないことがあることを受け入れ、

そんな過程が、理解できたという体験そのものよりも、

尊重すべき支援の道中なのだろうと思います。

 

If I were in your shoes, とか

Put yourself in their shoes, といった英語表現があります。

はじめ耳にしたとき、

なんだか気持ち悪いはって思ったのは私だけかしら?

 

特に、誰かがはきなれた靴っていうのは

足を入れた瞬間、「なんかちがう」って感じませんか?

(そんな間違いをしたことのない方がほとんどかもしれませんが、

私、ときどき、おっちょこちょいであるのです)

 

この「なんかちがう」という感覚、

私はこれを感じることも大切にしたいと思うのです。

 

だって、ひとりひとり違うのですから。

 

いそいで同じになることはないのです。

違うからこそ、あらためて、理解してみようと、

理解してみたいと対話がはじまるのが、

すてきなことだなといつも思っています。