信心したからといっても、人生に平坦な道などありません。
むしろ、苦楽の起伏があり、波浪も逆巻くのが、人間社会の実相です。
苦しいこと、辛いこと、悲しいことがあって当然です。その時こそ、ただひたすら、題目を唱え抜いていくんです。
そうすれば、仏法の法理に照らして、必ずや打開できることは間違いない。
それを生涯にわたって繰り返し、広宣流布のために戦い続けていくなかに、人間革命があり、絶対的幸福境涯を築き上げていくことができる。
それが信仰の道です。
だから、何があっても、信心から離れるようなことがあってはならない。
上記は「新・人間革命22巻 潮流」から抜粋したものだ
「信心の要諦」、そして何としてもこの信心から離れてはいけないと、山本伸一が熱く会員に語ったシーンである
「人間革命」
私も初めてこの言葉を聞いたときは、強烈なインパクトを受けたことを覚えているし、意味も子供ながらそれなりに理解したつもりだった
だからこそ大人になって初めて「人間革命」という書籍を手にした時は、背筋にそれなりの緊張感を覚えながら読んだことが思い出される
ご存じの方もいらっしゃると思うが、この言葉は決して創価学会独自の言葉ではなかった
実は私もずいぶん後になって知ったことだが、元々、東京帝国大学(現東京大学)の第15代総長でもあり政治学者でもある南原繁氏が、おそらく最初に使った言葉と言われている
実際、同じく小説「新・人間革命」には下記のような記述がある
第14巻 「智勇」
「人間革命」という言葉は、日本の敗戦から二年後の一九四七年(昭和二十二年)秋に行われた東大の卒業式で、南原繁総長が、その必要性を語り、社会の注目を浴びるようになった。
この時、南原総長は、時代は政治革命、社会革命、特に第二産業革命の時を迎えているが、この革命は人間のためのものであり、人間に奉仕するものでなければならないと述べている。
そして、人間への奉仕のためには「人間そのものの革命『人間革命』を成し遂げねばならぬ」と強調したのである。
中略
戸田城聖は、南原総長が「人間革命」の大切さを述べたことを知ると、喜びを隠せなかった。
それは、学会の再建を開始した戸田が、法華経や御書の講義の折などに、訴え続けてきたことであったからだ。
人間の幸福も、社会の繁栄も、世界の平和も、根本である人間の変革から始まるというのが、彼と初代会長であった牧口常三郎の、思索の結論であった。
また、別の時に池田氏はこうも語っている
「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)
“人間革命”ということばは、日本では、第二次大戦後まもないころ、東京大学の総長であった南原繁氏が使ったのが最初であると記憶しています。
それとほとんど同じころから、私の恩師である創価学会第二代会長戸田城聖氏も、“人間革命”ということばをもって、仏教実践の意義を説明されていました。
何せ「小説・人間革命」の中の話なので信用性は薄いが、南原氏が言った「人間革命」は戸田城聖も同時期に使っていた言葉だと言いたいようだ
決して南原氏の「パクリ」ではないと
いずれにしても「人間革命」という言葉は、創価学会の急激な拡大と戸田の書籍により、いつのまにか創価学会の「専売特許」と言われるくらいのワードとなったことは間違いない
あくまで私見だが、策士であった戸田城聖にとって、是が非でも我が物にしなければならない魅力的なワードだったのではないかと思われる
布教拡大を進めていくにあたって、これほどがっちり嵌るパワーワードはないからだ
その証拠に「人間革命」はその後、池田大作氏が小説として引継ぎ大ベストセラーとなったことや、映画化されたことなどにより人間革命=創価学会として日本中、いや世界中に認知された
Wikipediaで「人間革命」を検索してみると「創価学会の宗教思想」となっていることからも、それが見事に成功したことがわかる
ところで、戸田城聖が南原繁氏に共感したと書きながら、面白いことに一方で池田氏は学生部の会合でこの南原氏をこき下ろしている
1964.11.10 「会長講演集」第12巻
いろいろ有名な学者等がおりますが、なんと低いことか、なんと観念的なことか、なんと知識の技術の操作だけのことか。
本末転倒の世の中でありますから、なかなか真実の大哲学の指導者を認めようとしない。
そんなことは、現在においては、またかまわないことです。
きのうも南原繁さんの「国家と宗教」という論文を読みました。
ほとんど宗教といえば、しょせんは、キリスト教に帰着している。
また、キリスト思想から出発している。他の宗教は、ほとんど論外です。
そしてまた、そうとうな学者が、世界的学者が、宗教に関する論文等を、今日までずいぶん残してきたし、論じてもきた。
いっさい、ほとんどがキリスト思想が根底、宗教イコール・キリスト教といわれるぐらいです。
たまに日本においても三木さんや西田さんや、その他、仏法的なことを論じている学者もおります。
鈴木大拙などもそうであります。
しかし真実の仏法の真髄に対しては一歩もまだふれていないのです。
実は南原繁氏も仏教者ではなくプロテスタント信者である
当時はこのプロテスタント信者は学者の中にも多くいる
しかし「しょせんはキリスト教に帰着している。」という言い方は、池田氏が南原氏に対し、決して好意的でないのが窺える
むしろ消し去りたい人物だったかもしれない
現在、「人間革命」について創価学会の公式ホームページには、以下のように書いてある
創価の思想は「人間革命」という言葉に凝縮されています。
「人間革命」とは、自分自身の生命や境涯をよりよく変革し、人間として成長・向上していくことをいいます。
第2代会長・戸田城聖先生が理念として示し、第3代会長・池田大作先生が人生と信仰の指標として展開しました。
池田先生の代表的な著作である、小説『人間革命』『新・人間革命』の主題には、「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」とあります。
「人間革命」とは、現在の自分自身とかけ離れた特別な存在になることでもなければ、画一的な人格を目指すことでもありません。万人の生命に等しく内在する、智慧と慈悲と勇気に満ちた仏の生命を最大に発揮することで、あらゆる困難や苦悩を乗り越えていく生き方です。
日蓮大聖人は、「冬は必ず春となる」「大悪が起これば必ず大善がくる」(趣意)などと、人生において直面するいかなる困難をも前向きにとらえ前進のバネとしていく変革の生き方を説いています。この哲学を根本に、会員は人間革命の実践に日々取り組んでいます。
しっかりと、日蓮の御書には一言も書かれていない「人間革命」という言葉を実に巧みに使って創価学会の教義の1つとしている
そう、この言葉に会員たちはずっと操られてきたのだ
冒頭の山本伸一の言葉に戻るが、世の中には仏法者でなくても、ましてや創価学会員でなくとも当然素晴らしい人格者はたくさんいる
この信仰でしか、その理想とする人格形成をできないなどあり得ない
なのに、この仏法を実践する中で仏の境涯を開くことにこそ、最高の人格形成があると会員は思い込んでいるのだ
そして、その根底にあるのがこの「人間革命」というワードに他ならない
しかし、10年20年と創価の中で信仰を続けていけば、誰しもちょっとは気づくことがある
それは、ふと周りを見回してみると口では皆、偉そうなことを言うわりに本当に幸せそうな学会員があまりいないということに…
ただ、そう感じつつもその心の声は「信」の1文字でかき消されてしまう
そして、気が付けば組織の歯車となって意味もない公明支援活動などにせっせと励んでいる
ちなみに、私も長い信仰生活の中で多くの創価学会員に出会ってきたが、人間革命された思われる方、絶対的幸福境涯をお持ちだなと思わせるような方に出会ったことはただの一度もない
いったい、いつになったらその境涯をつかむことができるのか
人間革命のその先には何があるのか
池田氏の指導でも「人生の勝ち負けは死ぬときにわかる」と聞いた記憶がある
青春対話の中にも「戸田先生は『人生の最後の数年間に、どういう幸福感をもったかで人生は決まる』と厳しく言っておられた」ともある
このように、人生の最期が勝利の姿であるというような過去の指導は、探せばいくらでも出てくる
死ぬときに「ああいい人生だった」と思えることがこの仏法の醍醐味だとしたら、それはずいぶん気の長い話だ
改めて池田氏ご自身の最期はどうであったのだろうか
その姿こそが創価信仰の真髄を語るものではなかったのか
残念なことに会員であってもそれを知ることはできなかった
そして、それを証明しうる者は今後おそらくもう誰も出てこない
なぜならそれが、創価における「人間革命」の答えのはずだったのだから
人間革命のその先に