パラサイト ② | 内から見る創価学会

内から見る創価学会

活動停止した創価学会の会員です。
今の組織に対する私の思いを書き記します。
詳しくはプロフィールをご覧下さい。

 

なぜか創価学会が嫌いなはずの週刊誌に掲載された佐藤優氏の寄稿文が、会員へ「転載可」として拡散されている

 

 

これは「カリスマ去りて、沈む創価学会/池田大作の光と影」との見出しで12/2.9合併号「週刊現代」で特集が組まれた中でのものである

 

 

私も週刊誌などは滅多に買わないが、タイトルに釣られ(笑)購入して読んでみることにした

 

(以下、私が気になった箇所は赤字にしている)

 

 

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◆池田大作は死してなお生き続ける◆ 佐藤優

 

 

創価学会の池田大作名誉会長が亡くなった。

私は直接会ったことはないが、彼が書いた「テキスト」には長年向きあってきた。

「池田大作研究〜世界宗教への道を追う」(朝日新聞出版)を書いたこともあり、一つの時代を画することになったという感慨がある。

 

注目すべきは原田稔会長と池田博正主任副会長が談話を発表した際、喪服を着ていなかったことだ。

死をことさら悲劇と捉えない、これは池田の死生観に通じている。

池田は生前、臨終を「山頂」に警えてこう述べている。

「人生という山登りを終えた、その地点から振り返って、初めて自分の一生が見渡せる。⋯⋯自分は、この一生で何をしたのか。何を残したのか」(『法華経の智慧――二十一世紀の宗教を語る」)

裏を返せば、死ではなく、どう生きてきたかが重要なのだ。

 

かくいう池田大作の人生はどのようなものであったか。

海苔屋の子として生まれ、もともとは軍国少年であった。

それが出征した兄は戦死し、自分も病弱で長く生きられないと言われて、夜間中学に通いながら猛烈な勢いで読書をし、創価学会第2代会長・戸田城聖の教えを請うた。

苦難の連続だった時代の池田にとって、創価学会の根本教義である「宿命転換」は救いだったに違いない。

過去世(前世)の行いを原因とする宿命も、現世で正しい行いをすることで変えられる。

宿命は不変なものではないところが、「希望の宗教」たる所以である。

池田は生涯を通じて、この教義を最重視した。此岸で宿命を転換し幸福にならずして、彼岸での幸福について話しても説得力がない。

まずこの世界の貧困、病気、家庭不和などの現実的問題を解決しなくてはならない。

そのためには、平和主義によって戦争のない社会を築くことが必要だ。この思いから政治にも積極的に関与した。

池田には、初代会長牧口常三郎を獄中死させ、戸田城聖にも獄中生活を送らせ早逝の原因となった軍国主義への強い怒りがあった。

池田が創設した公明党は、いまは政権の一翼を担っている。

自民党に対して一定の歯止めとなり、安保法制における集団的自衛権についても制限を課し、平和を現実的に強化できた。

あえて権力側に入ることによって、教義に基づいた民衆のための社会を作る道を選んだ。

創価学会は池田大作に次ぐカリスマ的な後継者を育てられなかったので、これから会員数は減少していくと言う人がいるが、全くの見当違いである。

 

創価学会インタナショナル(SGI)の会員数はすでに全世界に280万人。

私は創価学会こそ、キリスト教やイスラームに匹敵する世界宗教となると考えている。

池田により世界宗教としての創価学会は完成している。

 

池田に代わるカリスマを創価学会は作れなかったのではない。あえて作らなかったのだ。

属人的な組織は、個人のカリスマに頼るがゆえに永続的たりえない。

 

牧口常三郎、戸田城聖、池田大作という三代会長によって創価学会の教えはすべて体現される。

創価学会において「先生」と呼ばれるのはこの3人だけであり、今後は池田が残した、信仰と教団の規範となる「正典」をその根拠として、この先も数百年、千年と続いていく。

 

その正典こそが、池田が書き残した小説「人間革命」「新・人間革命」ならびに、池田監修の「日蓮大聖人御書全集』である。

正典の必須条件は、常人が読了しうる分量でかつ、変更がない閉じたテキストであることだ。

それにより、正典を参照することで森羅万象を説明することが可能になる。

 

この正典がすでに完成しているのだから、池田が死去したことによる動揺はなかったのである。

 

創価学会は10年以上前から池田が亡くなった後のための準備を着々と進めてきた。

池田が表舞台から姿を消すことで、すでに正典による信仰を開始していたわけだ。

創価学会が作り出す世界のあり方について、池田は23世紀までのプランを描いている。今の日本の宗教指導者や政治家で、200年先の計画を立てられる人がいるだろうか。

 

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いかがだろう

 

「池田先生がいなくなっても私たち創価学会は何も変わりません!」などと嘯きながら、実は少なからず不安を抱えていた学会員もこれを読んできっとほっとしたはずだ

 

 

 

しかし、この寄稿文を読んで私は不思議な感じがした

 

 

いきなり冒頭から、先日原田稔会長と池田博正主任副会長が逝去の発表をした際、喪服を着ていなかったことの批判について書いているのだ

 

 

そもそも喪服でなかった批判の多くはSNS上で話題になったものであり、わざわざその弁明ともとれるものを佐藤氏が、ここで最初に言う必要はあるのだろうか

 

 

それとも学会内部からも多くの質問や苦情でもあがったのか?

 

 

とにかく喪服でないことを批判されようが、一般人は特に気にすることでもなくスルーしておけばいい話である

 

 

これはまさに私が11月29日に書いた

 

 

「感じた違和感」の中にちょうど答える内容にもなっているが、喪服を着ていなかったことを「死をことさら悲劇と捉えない、これは池田の死生観に通じている」と書いているのだ

 

 

「いや佐藤さん、これはさすがに無理がありますって」と思わず言いたくなった

 

 

佐藤氏らしくない、とってつけたような苦しい弁明のようである

 

 

学会側からそこについて言ってくれと頼まれたのか、とさえ言いたくなる

 

 

以前も書いたが、家族葬が行われたその数時間後に、わざわざスーツネクタイを着替える意味をそう言うのであれば、学会葬も平服で行えばよかったはずである

 

 

また、「裏を返せば死ではなく、どう生きてきたかが重要なのだ」と言っているが、このことは特に仏法に関係なく、一般的に死生観として語られる話である

 

 

それよりもむしろ、学会では昔から「臨終の相」などにやたら拘り、池田氏自身も「宇宙と仏法を語る」の中で、『「臨終の相」こそ人生の総決算』と語っていたが、果たして池田氏のその「相」はどうだったのかなど、参加したはずの会長、主任副会長、女性部長

 

誰も話す人はいない

 

 

 

さらに「SGIの会員数はすでに全世界に280万人。私は創価学会こそ、キリスト教やイスラームに匹敵する世界宗教となると考えている」とまで言い放つ

 

 

海外の会員は確かに徐々に増えているのかもしれないが、肝心の日本国内の会員数が毎年、右肩下がりなのはどう説明するのだろうか(公称827万世帯は20年以上ずっと変わっていないが)

 

 

その上で、あえて後継者を作らず「聖書」や「コーラン」に匹敵する「正典」を作り上げたことで世界宗教の礎は完成していると豪語する

 

その「正典」とは「日蓮大聖人御書・創価学会版」と「人間革命」「新・人間革命」という事だ

 

また「正典」の必須条件は、常人が読了しうる分量でかつ、変更がない閉じたテキストであると書いているが、「人間革命」各巻が、都合の悪い部分の内容の書き換えや削除が、過去どれだけ行われてきたか知っているのであろうか

 

 

あれだけ頭がいい人が知らないはずはないし、そもそも「人間革命」自体を本人が書いておらず、内容もかなり脚色されたものである事などわかっているはずである

 

また文筆家でもある彼ならば、小説としてもどれだけ「人間革命」が稚拙なものかも

 

 

 

とにかくこのように「無条件的絶賛」とも言えるようなものを、あちこちで提供し続け、創価の「智の代弁者」にでもなったつもりかもしれないが、私から言わせれば彼の今のその姿は学会に吸い付いたパラサイトである

 

 

いくらどれだけすごい言葉を並べても、その内容の薄さはいずれ見破られてしまう

 

 

それはやはり彼が創価の表面的な部分しか見ていない、いや見ようとしていないからだ

 

 

暫くは妄信な信者を誤魔化すことはできるだろうがそれも長くは続かない

 

 

もしかしたら、彼もそのことはわかっているのかもしれない

 

 

 

いずれ時が来たら、つまり彼にとって極めて高かった利用価値を創価学会に見出せなくなくなった時には、逆の立場にもなりうる危うさを私は否定できない

 

 

それは、ここまで「池田大作」や「創価学会」を大絶賛してきた彼が、自らの信仰を捨て創価学会に入ろうとしないことにも答えはあるのかもしれない

 

 

つまり、彼にとっての「創価学会」は、信仰の対象ではなく「世界宗教ビジネス」なのだ

 

 

 

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