創価学会員に「政教分離」や「政教一致」の話をすると、こぞって言われる言葉がある
「『信教の自由』は憲法で保障されているものだし創価学会員として一政党を応援することは、何も問題はないんだよ」
おそらく得意満面な顔で、「そんなことも知らないの?」と冷笑された人もいるかもしれない
憲法二十条にはこう記されている
第二十条
- 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
- 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
- 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
日本国民としての信教の自由が書かれているものだが、国が国民に対してその自由を奪うものでなく、また強制するものない限り何ら問題はないというわけだ
同時に宗教団体に属していようが一人の国民である以上、政治参加することも、一政党を支援することも禁じる意味ではないと捉えられている
参考までに、以下が公明党の「政教分離」についての公式見解である
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公明党と創価学会は現在でも不定期で「連絡協議会」を開催し、協議内容はマスコミ公開されています。
一部週刊誌等で「政教一致だ」とか「憲法20条に違反した関係にある」等の記事が掲載されることがありますが、全く的外れな批判であり、既に国会の論戦の場でも決着済みのことです。
憲法が規制対象としているのは、「国家権力」の側です。 つまり、創価学会という支持団体(宗教法人)が公明党という政党を支援することは、なんら憲法違反になりません。 国家権力が、ある特定の宗教を擁護したり、国民に強制するようなことを禁じているのが「政教分離」原則です。信教の自由、言論の自由、結社の自由--などが定められ、「政教分離の原則」が条文に記載されたのです。
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しかしながら、私はこの政教分離原則は国家と宗教団体の癒着を禁じたものであるが見方を変えれば、政権与党にいる公明党が創価学会と癒着していると思われても仕方ないのではと思っている
私は仕事上、法律を扱うことはあるが、法曹関係の人間ではないし宗教学者でもないので、この第20条や第14条の「法の下の平等」などの解釈の云々をここで誰かと議論するつもりもない
解釈について意義があってもご容赦いただきたい
ただ、今回私がここで述べる「政教分離」の話は単に憲法だけのものではない
創価学会と言う一宗教団体が、会員の意思に関わらず一政党を支援させるだけでなく、政党の応援(人集め、集票など)を強いていることについてだ
うまい言葉がみつからないが、「政教分離」「政教一致」を、あえて違う言葉で「政宗混同」とでも言えばいいのだろうか(政宗の政は「政党」の意味)
強制と言えばまず反論されるだろうが、創価学会員になれば選挙の投票先は公明党にとなるのは常識とされている
公明党を支援する活動は創価学会の「広宣流布」の活動の一環とされているからだ
しかも学会に入会後には「誰かご友人に公明党を頼める人はいませんか?」と当たり前のように聞いてくることは周知の事実だ
一人でも頼んだら、立派な活動家として組織から賞賛される
公明党を支援する理由
それは学会の言い分からすれば「池田先生が作られた党だから」「公明党こそが平和、福祉の党であり唯一、庶民の為の政治を行えるから」などなど…
その理由付けはいくらでもある
しかしながら私が言いたいことは、憲法上守られているからいいということではなく、道義上それがいいことなのかということなのだ
それでも創価、公明は「違憲ではないのだからとやかく言われることはない」と言い放つだろう
〇〇の一つ覚えのように、ふだん憲法などに興味もない人が「憲法において信教の自由は守られているのだ」と得意満面で言うのだからおかしくて仕方ない
以前、別の記事で紹介したが1970年5月3日の第33回本部総会においての池田会長の講演の一部を抜粋して再度引用する
「学会は、公明党の支持団体ということになります。
当然、学会員個人個人の政党支持は、従来通り自由であります。
学会は、日蓮大聖人の仏法、三大秘法の御本尊を信奉する宗教団体であって、政党支持については、会員の自由意思にまかせ、全く干渉するものではありません。」
「また、選挙にさいしても、公明党は党組織を思いきって確立し、選挙活動もあくまで党組織の仕事として、明確に立て分けて行っていただきたい。むろん、創価学会も支持団体として従来どおり地域ごとの応援はとうぜんしていきたい。党員についても、学会の内外を問わず、幅広く募って、確固たる基盤をつくっていただきたいと、公明党に要望したい。また、党がひとり立ちしたことに対し、皆さん方もあたたかく見守っていただき、応援もしていただきたいのであります。」
「逆にいえば、いかなる政党支持の人であろうと、いかなるイデオロギーをもつ人であろうと、この妙法の旗のもとには、全く、なんの差別もなく、平等に包容されるべきであることを、明確にしておきたいのであります。」
この発言が「言論・出版問題」を受け、世間の批判をかわす目的だったかどうかはわからない(私自身はそう感じている)
しかし、この発言がその後の学会と公明党のトレードオフ関係においてボトルネックになっていることは間違いない
いくら正当化しても、当時の会長自身がこうして明確に会員個人の政党支持は自由だと発言していた事実は消すことはできないからだ
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さて、創価学会では本部から選挙支援の合図が送られれば、一気に組織の活動は選挙支援一色となる
各方面の長を主とし、あらゆる支援の為の打ち出しが下ろされる
例えばまず友人台帳と称し、自分が頼める友人(?)をまず10人、100人と書いて「対話拡大運動」を拡げながら、選挙が近まると頼んだ人(F)の人数の目標を各地域ごとに掲げさせ、組織末端の会員まで定期的に報告をさせ目標完遂を命とする
支援の旗振り役も、末端であれ組織の役職者になれば本人の自由意思とはならない
公示(告示)になればポスター貼り、期日前投票の推進、連れ出し等にまわることも今や当たり前になっている
さらに街頭演説、講演会の結集ももちろん、支援の要請があれば「交流」と称し、知人友人のいる遠く離れた県外まで、手弁当で応援に向かわせる
これでは支持母体どころか運営母体そのものである
最近、統一教会と自民党の関係が取り沙汰されているが、統一教会信者は主に選挙事務所のボランティア(法定ハガキ作成、電話作戦、その他)で協力していたと言う
もちろん集会に政治家も呼んだりしてはいたが、集票に関して言えば創価のそれと比べてまだ、ましなのかもしれない
さらに思うのが、選挙前の支援の会合などは全国の各会館で行われているが、そこの公明党の候補者が参加することがよくある
ただし、これはさすがにバツが悪いのか、事前に告知されることなどはなく、基本的に内部会員だけの会合に限られる
タスキをかけた候補者はエリアのいくつかの会館をかけもちし、会合の途中や最後のあたりで登壇し「必ず勝利し師匠にお応えします!」「師匠の仇討をさせて下さい!」などと涙ながらに訴え、感動のステージを演出する
ここで思うことが、街頭演説や地域のホールなどで公明党が主催者となって開催するものに人を集めることはわかる
しかし、学会の会館に公明党候補を呼び、選挙活動を行うのはいかがなものかという事だ
会長はじめ全国幹部が来るときなどもそうだ
建前は「総県地区部長女性部長会」としながら、候補者をずらっと登壇させたりするが、もちろんそのシーンは翌日の聖教新聞や公明新聞に載ることもない
おかしくないと言うのなら堂々と事前に告知し公表すればいい
その上で、さらに私が問題としているのは宗教法人が税優遇措置を受けているということ
つまりこの会館は、宗教法人の施設であるがゆえに固定資産税は非課税なのである
そんな税優遇措置を受けた施設で堂々と支援活動を行っていいのかということだ
もっと言えば、選挙期間中はその場所において、あらゆる選挙関連資料を輪転機によって印刷したり、公示(告示)後となれば、各候補のチラシなどを常備し、全国から来る支援者の拠点となっている
こうした行為はどう考えても政治と宗教の混同を否定できないのではないか
そもそもなぜ宗教法人が税優遇措置を受けているのか(収益事業は除く)
その理由はいくつかあり、主に「宗教は、信仰をとおして、信者の精神の安定と向上を図るとともに、その人格を陶冶し、そこから得られる全人格的成果は、広く社会の発展や安寧に寄与する」という、いわば「公益性」が認められるとの判断をされているからである
つまり学校法人や社会福祉法人、独立行政法人などとおなじく公益法人なのだ
しかしながら活動の大半を選挙とし、一政党を支援している宗教法人に、果たして「公益性」が認められるのだろうか
もっと言うなら、宗教法人の税制改訂は各方面から多くの反発もあり難しい問題ではあるが、所轄庁である都道府県や文科省は収支報告や活動の内容などをしっかりチェックし、その上で、その活動に「公益性」が認められないと思われる活動がある場合については、税制優遇を取り消すなど、厳しい対応をしていくべきなのではないか
しかし、何よりもこの政治と宗教を混同した活動を会員に強いることを一日も早く止め、真の「政教分離」がなされることを切に願うばかりである
本当の民主主義とは誰人にも強制されない
国民一人一人が自分で考え選択するものだ
いや、考えさせねばならない時期にきているのだ
長文になってしまい申し訳ありません
最後までお読みいただきありがとうございました
私が思う「政教分離」