選ぶということ | 内から見る創価学会

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活動停止した創価学会の会員です。
今の組織に対する私の思いを書き記します。
詳しくはプロフィールをご覧下さい。

 

活動から離れて生活している中、どうしてもふとした瞬間に過去の事を考えてしまうことがある

 

過去を振り返る事なんて、今となっては何のためにもならないのだが、これが長い間、自分が「創価」という狭い世界の中で過ごしてきたトラウマというものなのだろう

 

退会された方、非活になられた方でPTSDで苦しんでおられるという方のお話を聞いたことがある

 

私の場合はそこまではないのだが、自分が創価と言うものに注ぎ込んできた時間に対し、少しでも何かいいところを見つけようと模索しては引き返したりしている

 

もちろん悪いことばかりではない

 

少なくとも仏法を学んだことで様々な視点を持てるようになったことは無駄ではなかったとは思っている

 

 

ただ、少なくともこの20年余りは「創価時間」という特殊な時間割が私の生活の基本となっていたことは間違いない

 

そこに従っていくことは、すべて人生にとって価値あることだと思い、自分の情熱を注いできた

 

 

 

かといって、それまで何の疑いもなく過ごしてきたかと言えばそうではない

 

 

 

今になって言えることだが、これまで私には人生の師匠はいなかった

 

いや出来なかったと言った方が正しいかもしれない

 

 

いたとしてもそう思い込んでいただけだ

 

 

 

これは創価1世の多くの方には理解し難いことかもしれない

 

なぜなら1世の方は自らこの信仰を選んだ方達だからだ


 

入会動機は様々かもしれないが、当然ながら師匠のスピーチを聞いたり、書籍も読んだりして何かしら感銘を受けた上での入会なのだと思う

 

しかし2世の私からすれば当然、自分から師匠を求めたわけではない

 

もちろん2世であっても師匠を崇拝している人は数多くいる

 

それはそれで本人がいいと感じ、人生の師と崇めることを私が否定するものでもない

 

 

 

ただ、私はこどもの頃から親に「先生はすごい人だ」と言い聞かされて育ち、その後もできるだけそう思うようにしてきた

(過去のブログでは「人生の師匠と信じている人」と表現している)

 

人生の中で壁にぶち当たればその人の書籍を読み、その中で何とか前向きになれるヒントを見つけるようにして自分を肯定してきた

 

だから少しでもマイナスな事を思っても、すべて自分の中で打ち消し、無理に美化しようとしてきたことは、今じゃなくともよくわかっている

 

 

例えば、中継などでその指導を聞いても特に感動を覚えたことはなく、むしろ癖のある喋り方だとか、失礼ながらその風貌もそんなに好きにはなれなかった

 

会員が称賛し、感動する「お歌」や「メッセージ」などにも特に心に突き刺さるものはなかったし、お世辞にも上手いと言えない写真やピアノ演奏なんて、よく人前で披露できるものだと思ったりもした

 

もらった押印つきの安っぽい色紙や、揮毫、本棚の置場に困る分厚い数十冊に及ぶ記念贈呈書籍も、今も埃をかぶったまま部屋の片隅に置いてある

 

 

しかし、こんな私の考えは1世の方からすればとんでもない「大罰当たり者」で、師匠がどれだけ会員の為に行動され、ご苦労されてきたかというその思いを踏みにじるものだと言われるに違いない

 

 

しかし、それは私に言わせると仕方ない話で、その思いや考えは押しつけでしかないのだ

 

 

興味もない音楽をいきなり聞かされたり、絵を見せられて「どうだ!素晴らしいだろう?」と言われても、何も琴線に触れないのと変わらない

 

それが人であれ「素晴らしい方でしょ?」と同意を求められても生理的に受け付けない人がいるのも同じことだ

 

 

 

だけど信仰は心だ

 

自分の人生の根幹なのだ

 

師匠は尊だ

 

自分の人生の道標なのだ

 

どちらも選ぶのは自分である

 

 

いいと思う物は自分で選択する

 

それはごく当たり前の事なのだ

 

 

なのに、男子部、壮年部と最前線で活動してきた中では必ずその人の素晴らしさを会員に伝えなければならなかった

 

現役時代、何がきつかったかと言えばそれが一番きつかったかもしれない

 

創価を知らない人から見れば、あなたは何て馬鹿な事をと一笑に付されることだろう

 

 

自分をずっと偽って過ごした人生

 

笑われて仕方ない

 

それがふつうの感覚だからだ

 

 

もちろん、私のような人間は創価の中ではそうそう多い方ではないと思うのだが、最近になって同じような思いの人と話す機会もあり、ずいぶん盛り上がってしまったものだ

 

その彼は男子部時代、「人間革命」の感想文を書くことがいちばんきつかったと言っていた(笑)

 

 

 

過ぎた時間はもう戻らないことはわかっている

 

後悔することなど無駄な時間だとも

 

 

けれども不思議なもので、こうして書いていることで、私の長い創価生活の記憶を思い出しつつ、ひとつひとつ、ぼんやりとだがフィルターをかけることができているのだ

 

 

 

これからも信仰というものも祈ることも否定はしない

 

その上でいいものはいい、悪いものは悪いと、自分の心で見つめていきたい

 

そして今後も、困った人、苦しんでいる人にはいつも寄り添える自分でありたいと思っている

 

ずいぶん時間がかかったが、今それが私が選ぶ道だ

 

 

 

いつも私の独りよがりな拙い記事を読んでいただきありがとうございます

 

もうちょっといい?(笑)

↑わかる人にはわかる…かな

 

 

これからもよろしくお願いします

 

 

選ぶということ