三鷹事件の「2輛目」 | 書斎の汽車・電車

書斎の汽車・電車

インドア派鉄道趣味人のブログです。
鉄道書、鉄道模型の話題等、つれづれに記していきます。

 先日、東京高裁が、三鷹事件の再審をしない決定をしたとのニュースがありました。

 当ブログでは、事件の真相であるとか、高裁決定の是非を云々することはしません。そうした内容は、やはりこのようなお気楽ブログにはそぐわないでしょうから。

 しかし、この事件に関わった車輛のうち1輛の「その後」については、今一度振り返ってみてもいいかもしれません。

 

 三鷹事件といえば、昭和24(1949)年7月15日、三鷹電車区から無人の電車が暴走し、脱線転覆、多数の死傷者を出した事件です。(その詳細についてはこれ以上は深入りしません)暴走した4輛編成の「2輛目」が今回のお話の主役ということになります。

 その電車は、モハ63057、モハ63形の一員でした。国鉄はこの車輛を昭和26(1951)年1月7日付で廃車しています。まだ裁判が続いていたはずなのに、刑事事件の証拠品として保全されなかったのかなと思いましたが、先頭車のみがそのような扱いを受けたのだそうです。そして実車は、早くも事件の翌年には西武鉄道が入手していました。西武鉄道といえば、この頃国電の戦災車、事故車の類を盛んに入手し、復旧、整備して戦後混乱期の輸送にあたっていましたので、何ら不思議はないのですが、廃車になった経緯が経緯だけに、色々勘ぐられてしまいます。

 

 モハ63057は、書類上は昭和28(1953)年3月、西武鉄道クハ1421形1421として竣工していますが、実際には、昭和26(1951)年4月には運用に入っていたといいます。国が認可していない車輛が堂々と営業運転に入るなど、随分といい加減な話と思われるかもしれませんが、当時の私鉄車輛ではよくある話でした。

 西武クハ1421のその後ですが、昭和30(1955)年4月、クハ1451形1451に変更、翌年9月にはクハ1401形1401となっています。台車は当初TR11、昭和36(1961)年にTR23、昭和44(1969)年にはTR11Aへと2回変更しました。また、連結相手が当初のクモハ402から、クモハ401に変わったことにより、偶数向きに方向転換しています。(通常このような場合には、車番も偶数に変更するところですが、なぜか改番はされませんでした)クハ1401は、老朽化のため昭和46(1971)年4月に廃車となりました。

 

 クハ1401を含む、20m級4扉車のグループは、401系と称されますが、モハ、クハとも2輛ずつという少数派でした。西武鉄道では長らく20m級3扉車が主力を占めており、当初は新宿線で使用されていた401系も次第に持て余され、晩年は多摩湖線などの支線区が活躍の場でした。

 実はこの401系、クハ1401以外の車輛も、なかなか「濃い」経歴の持ち主が多いのです。クハ1402(クハ1422→1452→1402)は、火災で損傷したモハ63470を譲り受けた車輛です。モハ63の火災損傷車といえば、桜木町事故を連想させますが、本車は関西で漏電事故を起こした車輛です。しかしながら本車の経歴の特異さはこれだけではありません。元々はモハ63046として製造され、東武鉄道の輸送力増強用として割り当てられ、東武のモハ6303となりましたが、溶接不良のため台枠損傷事故を起こし、メーカーに返還された曰くつきの車輛でした。メーカーは同車を再度整備の上、国鉄で使用していたわけです。

 クモハ402は、元モハ63024で、こちらは横浜線で土砂に乗り上げ事故廃車となった車輛でした。そしてクモハ401は、旧モハ63が3輛しかなく使い勝手が悪いことから、わざわざモハ63スタイルで新造したものでした。

 

 西武鉄道401系は、新造車のクモハ401が昭和48(1973)年に廃車され、全て姿を消しました。西武鉄道における4扉車はここで一旦全滅したことになります。その後、昭和52(1977)年から2000系の量産が始まり、本格的な4扉車の時代が到来します。