組織とは人では成し遂げられない目標を達成するための、複数の人々による協働・手段・システム(体系)をいう。
人間等の集団あるいは共同体が、一定の目的または意思を達成するために、指揮管理と役割分担が定められ継続的な結合が維持されているとき、その集団は組織あるいは団体と呼ばれる。集団の活動を組織化するためには何らかの管理の方法が存在せねばならない。管理は少数者の強力なリーダシップによる場合もあるし、集団の合議による場合もあるが、構成要素に変動があっても組織の自律的な活動を維持するためには、代表選出や総会運営などの組織運営のための諸規範を備えることが不可欠となる。
組織には、組織に属するメンバー間で共有される、共通の目標が必要である。共通の目標がなければ、同じ時刻・同じ場所に居て同じ行動をとる人々の集まりも、組織とは言わない。
組織には、複数人で共通の目標を達成するにあたって必要な組織全体の仕事やタスクの分業と調整を行うメカニズムが必要である。共通の目標が人々によって共有されていても、個々人が個別的に仕事を遂行するならば、それは組織とは言わない。
・分業:組織全体の仕事を分割し、個々人に割り当てること
・調整:分割され個々人に割り当てられた仕事を統合し、組織全体の仕事として完成させること
人の出入りがあっても同じものであり続けるという組織が成り立つためには、共有された記憶(歴史、履歴)への依存部分を、明文化された規則(規範)に置きかえることが必要であることが確認され組織とは、知らない人との間で即座に協働が可能になるものです。互いに承認し調整の軸となる予期が、過去の体験の共有からではなく、新参者にでも理解し受容できるものになっていることで、人が入れ替わっても、互いに協働が可能になるわけです。
通常は、組織のメンバーであることを希望するということでもって、この明文化された予期を受入れたものとみなします。組織は人の出入りがあるということは、緩やかなものであるにせよ、その組織に関わる人とそうでない人の区別を付けることが必要ですから、メンバーというものがはっきりとしてくるわけです。そしてメンバーであることは、メンバーであることを望んでいる人であるということですから、その人は、通常は、組織の中心的な予期(たとえば目的)を了解し受容しているとみなしうるわけです。
しかしながら、本当に中心的な予期を受入れているのかどうか?という問いを立てると、ここでも内面に踏み込まないかぎり本当のことは分からないという問題にぶつかります。この点を解決するのが公式組織というものです。
公式組織とは、その組織の中心的な予期を明文化し(公式化し)、それの承認をメンバーに加わるための条件とする、という組織です。メンバーであるための資格(成員資格といいます)として、中心的な予期の承認や、一定のルール等に従う(たとえば立場が上の人の指示・命令には従うといったもの)ことが要求されます。
この仕組みのポイントは、メンバーであるということは、当然のことながら、中心的な予期やルールを受入れているとみなせるということ、つまりそのようなものとして扱って良い、ということにあります。本人がどのように考えていようと、メンバーである以上は、一定の予期にしたがって行動するはずとして扱える。このように、互いの内面に立ち入ることなく、メンバーであるという点だけを基準にして最低限の行動の調整が可能になるということです。そして、もし中心的な予期に反する行動をとったり、ルールに従わないということがあった場合には、成員資格に背いたとしてメンバーから排除されることになります。それによって、メンバーということと、中心的な予期に従うということの繋がりがかならず保たれるようにするわけです。
このように、特定の予期を公式のものとして、その公式的な予期(と諸規則)の承認・受容をメンバーであるための条件とするという仕組みをもっている組織のことを公式組織といいます。私たちの周りにあるほとんどの組織は、公式組織になっています。
メンバーというものについて、少し考えてみたいと思います。
まず当たり前のことですが、メンバーであるということ事態は、何らの具体的な役割の担い手であることを意味しません。メンバーであることは、組織において具体的な役割を引き受ける前提です。そのことは、言い方を変えると、メンバーであることによって要求されることを引き受けることが、どんな具体的な役割を担う場合でも前提となるということです。このように、何かのメンバーであるということは、メンバーという一種の役割のレベルにおいて、皆が同質のものとして扱われるということになります。
同質として扱われるということは、個人的なものを消去する(無いことにする)ということではありません。メンバーとして関わりを持つべき組織上の役割(公式的な事柄)と、個人的な事柄が区別されるということです。個人的な人間関係と、仕事上の関係が明確に区別されるということです。そして、たとえば規則に違反するなど、メンバーとしての資格が問題になったときには、その違反を行った個人の人間的な側面が問題として取り上げられます。つまり、普段は社会的な行為と、個人的な行為は分離されるのですが、限界的な状況においては、この区別は取り払われるわけです。
いかなる理由であれメンバーになることを希望し、公式的な予期などを承認した時点で、メンバーであることの背後にある個人的な事情は「背景にしまい込まれ」、互いにメンバーであるということを手掛かりとして相互作用を行えるわけです。
もちろん、具体的な行為の場面においては、目の前にいる個人との関わりが生じ、人間関係が生まれてくるわけですが、それにしたって、あくまでも互いにメンバーであることを背景として成り立ってくるものになります。このように、公式組織においては、あらゆる社会的な関係が、メンバーであるということを土台として築かれるものになるわけです。
最後に重要な点を確認しておきます。それは、公式組織のメンバーとして行動する場合に関係するすべての予期が公式的な予期なのではない、ということです。つまり、公式的な予期というのは、あくまでもその場での協働を調整する主要な予期だけであって、具体的な行動=協働の場面では、公式化されてない様々な予期が関わってくるということです。具体的な協働を可能にする秩序化作用は様々なものが担っているのであって、公式組織だけが担っているわけではない。多重的な秩序化の作用が交錯する中に、公式組織が成り立っているわけです。
必要な予期をすべて公式化して成員(メンバー)資格で縛る組織など存在しえません。メンバーとして特定の役割を引き受けて協働する場合でも、実際の協働においては、具体的な個人の人格的な側面などは当然のことながら関わります。どのような場面だっても、行為とはかならず自己表現を含むものですから、当然のことながらメンバーとして振舞いながら自己をどう表現し他者とすり合わせていくかといった問題は生じるわけです。公式組織とは、すべての予期や行動を規則で縛りつけて人間を機械の部品のように扱う組織などではない、ということは確認しておくことにします。現場で起こっているのは、常に、対人行為(相互行為)です。