わたしのカラダと、つながる。社会と、つながる。by pilates teacher Natsumi -3ページ目
私がボディーワーカーとして
「からだ」をみる仕事をしているのは
おそらく
自分の「からだ」しか
信じられなかったからで
10年以上前
ピアニストを目指していた高校生の私は
ストレスから体調不良になり
そんなとき
自分の発した「ことば」によって
まわりの大人が「こころ」から
助けてくれようとしたが
他人が介入したことで
たくさんの誤解が起き
いろんなものを失った
みんな良心や心配からの行動だったのに
結果的にすべての関係が
壊れてしまった
という事実を理解できず
それから私は
「こころ」と「ことば」をつなぐ
回路が切れてしまい
言葉というものを信頼できなくなった
自分が
自分の感じることや考えることから
なんとなく
一歩引いた感じ
自分の人生に対して
傍観者のように
なってしまった
演奏もやめた
そんなとき
ボディーワークに出会い
心で感じていることや
頭で考えていることは
言葉になるよりもずっと前に
身体を物理的に変化させていることを
自分の「からだ」で知り
少しずつ
「からだ」に共感しながら
感覚を取り戻した
実はピアノは
やめたかったということも
わかった
さらにクライアントを見れば見るほど
「からだ」と「こころ」には
つながりがある
なんてレベルの話じゃなくて
身体はそのひとの
人生・生きざまそのものなのだとわかり
いまでは
身体は正直だから
「とりあえずからだに聞いてみよう」と
思うまでになった
身体には
そのひとがどんな価値観をもって
まわりに対してどんな反応をし
どんなふうに行動してきたのかが
ぜんぶ
姿勢や動きの特徴となって
現れる
そして逆に
姿勢や動きにアプローチすることで
価値観や反応・行動を
変えられることも
わかってきた
先週土曜日
MYコンパスアカデミー4期の修了式で
私ははじめて
自分の原点に
立ち返ることができた
いままでは
振り返ったら
もう前を向けなくなるような気がして
ひたすら
走り続けてきたが
原点からいまを眺めてみたら
思ったよりもずっと
素晴らしい景色だった
そこには
「からだ」の奥深さについて
熱く語っている自分がいて
そんな私の話を
もっと聞きたいと
言ってくれるひともいて
つらい経験から失ったものより
得たものの方がずっと大きいことに
いまさら気づかされた
MYコンパスアカデミーで
仲間とともに自分と向き合うなかで
私は
自分の「ことば」と
ひとの「こころ」への信頼を
取り戻し
言葉に
真実でないからこその
クリエイティブな可能性
を見いだせた
これから少しずつ
アカデミーで得たものを
書き綴ってみたい
女性が身心ともに
とても生き生きとしているとき
子宮・卵巣のあたりから
生命力があふれ出るように感じるが
それは意外にも
妊娠・出産・育児とは
さほど関係は深くなく
なにかをつくり出しているときや
心の底からわくわくしているとき
心と心が
深く影響を与えあっている
環境にいるようなときに
エネルギーが多くなるようだ
「自己の生存」のステージをクリアして
「種の存続」のステージに進めるとき
つまり
子宮・卵巣の機能が開花するときは
「じぶんもまわりも幸せにしながら
生きているとき」
なのだろう
だから
遠慮がちで我慢強く
不平不満など全く言わない人より
明るく愚痴や文句を言える人のほうが
子宮・卵巣はずっと元気なのだ
不平不満を自覚し声に出せば
自分で解決しようと動くこともできるし
たとえ解決できなくても
共感して気持ちが楽になる人がいたり
誰かの行動の背中を押したりと
人のためになる可能性もあるが
自分だけが我慢するというのは
結局誰のためにもならない
ということなのだろう
私はいま
女性のキャリアや働き方について
関心を持っているが
それは
身心の健康になにも問題がなくても
子宮・卵巣の機能が
いまいち開花しない現実に直面し
また一方で
妊娠・出産・育児の経験はなくても
身体の内側から生命力があふれる方々に
たくさん出会った経験から
自身の生きづらさを表現し
仲間と共感しながら
周りを巻き込んで
試行錯誤を繰り返し
自身と仲間
そして
のちに続く人たちのために
道なき道をひらき
歩み続ける
そういうあり方が
いのちを全うする
働き方・生き方なのではないかと
考えるようになったからである
じぶんを育てることと
いのちをつなぐこと
実は
からだにとって
このふたつはイコールだ
私はこれから
そのような生き方とは
どんなものなのか
探求し体現していきたいと思う
セッションの前後で
クライアントが
よくなっているかどうかは
おなかのあたりを
ぼんやりみて
感じとる
なぜなら
生物が生物たるゆえんは
腸
そして
生殖機能
にあり
おなかのあたりのエネルギーが
その人の生命力を
あらわしているから
生命力があふれるのは
いったい
どんなときなのか
それを
毎日まいにち
みてきて
それはやはり
自己肯定感が高まったとき
のようだ
だから
自己肯定感が上がると
子宮・卵巣の働きが
活発になる
その理由は
わたしたちは
ひとつの生命として
腸は「自己の生存」
生殖機能は「種の存続」
をつかさどっていて
「自己の生存」のステージを
クリアしないと
「種の存続」のステージに
進めないからではないか
と思う
いまの日本は
食糧に困ることは少ないが
「種の存続」のステージに
進むには
物理的に満たされること以上に
心理的に満たされること
つまり
自分で「自分OK!」と思えること
が必要なのだろう
客観的に
あの人は誰がみても
満たされているよね
という状態であっても
生命力が
あふれている人と
そうでない人がいて
他人と関係なく
自分で自分のことを
心からそう思えるかが
大事なようだ
国際的にみても
日本人
とくに若い人たちの
自己肯定感が低いという
それは
この国が
「いのちのつながりにくい社会」
であることを
示しているのではないだろうか
自分が心地よいと感じるふれ方で
いとおしさをもって
子どもにたくさんふれることが
子どもの自己肯定感を育む
一番確かな方法ではないか
と思っている
たくさん褒めて育てましょう
みたいな記事を
よく見かけるが
私は両親から
たくさん褒められて
育ったけれど
それが私にもたらしたのは
自己肯定感というより
承認欲求とか
優越感のような
他人基準で条件付きの
肯定感だったから
いつそれがなくなるのかが不安で
荒れたり反発したりしていたような
気がする
でも
両親が本当は
私の存在を
無条件に肯定していること
大切に思ってくれていることを
むぎゅーっとされたり
なでなでされたり
ときには
くしゃくしゃにされながら
身体全体で感じていたから
自分が粗末に扱われるような場面からは
きちんと逃げられたし
支配的な環境や攻撃的な人からは
身を守ることができた
夫に出会ったときも
このひとは大丈夫
と直感でわかった
両親が育ててくれた
この身体感覚が
ずっと私を守ってくれている
ことばは
どんなに気をつけていても
多かれ少なかれ
ジャッジを含んでしまうものだ
だからこれから
子供たちと
毎日話すなかで
ことばで傷つけてしまうことは
きっとあるだろう
でも
からだはジャッジを含まない
ただそこにあるだけ
だから
日々ふれあう中で
この
ありのままの自分が
まるごと受け容れてもらえる感覚
そして
いとおしいという感情で
ふれられる感覚を
身体全体で感じられていたら
きっと大丈夫だと
信じている
実は
クライアントにも
伝えたいことは同じで
たとえ
どんな育てられ方をしていても
たとえ
いま身体でなにも感じられなくても
自分が心地よいと感じるふれ方を
自分にいとおしさをもって
ていねいに感じて見つけ
感覚を育てていくと
不思議と
支配的な両親や
暴力的なパートナーと
自然に離れて
自分にとって心地よい
新しいつながりができる
そういうクライアントを
何人もみてきた
だからやはり
皮膚感覚を育てることは
幸せへの近道になる
と思う
皮膚感覚を育て
自分の身体の声を聞くために
私がクライアントに
まずやってもらうこと
それは
自分で自分の身体に
ふれること
たったこれだけの動作から
自分の身体との関係を知ること
そして変えることができる
ふれる手と
ふれられる身体は
どのように
関わっているのか……
いま身体は
あなたの
道具?
奴隷?
それとも
友達?
最初は
手が主役で
さわられる身体
というスタンスになりがちだけれど
少しずつ
身体を主役に
身体がどのように手を感じているか
に集中していく
「さわる感覚」でなく
「さわられる感覚」に
意識を向けていく感じだろうか
「さわられる感覚」を
受けとり続けるのは
最初はとてもむずかしいが
身体は決して
脳からの命令を受けて動く
受動的な存在ではなく
「心そのもの」だから
続けて練習すれば
やがて
身体がいま
どう感じているのかを
受けとれるように
誰でもなれる
世の中には
いろんなボディワークがあるが
それが
ヨガなのかピラティスなのか
とか
正しいかとか
平均的なのかとか
そんなことは身体にとっては
どうでもよいことで
大事なことは
いままさにこの瞬間
自分で自分をどう扱っているのか
自分がいまなにを感じているか
それに自分で気づき
自分にとってより心地のよいものを
その都度選んでいくこと
それに尽きるのでは
ないかと思う

