正しい投げ方を覚えましょう。
正しい打ち方を覚えましょう。
正しい蹴り方を覚えましょう。
正しい走り方を覚えましょう。
正しい姿勢を覚えましょう。
正しいフォームを覚えましょう。
正しいフォームでトレーニングしましょう。
僕はいろんな競技のいろんなカテゴリーの選手を指導していますが、あらゆるところでこの表現が使われるのシーンに出くわします。
また、出版物やネット媒体などでもこの表現はものすごく多いです。
あらゆるところで、選手は「正しい」を要求されてます。
僕は、この「正しい」を要求する風潮に以前からものすごく違和感を持ち続けています。
あまりにも「正しい」が多くないか。
あまりにも、選手に「正しい」を要求しすぎではないか。
そもそも「正しい」って何を基準に誰が決めたんだ。
「正しい」以外、つまり正しくない動きは、本当に否定されるべきか。
スポーツの動きに、正しいという価値観を入れてしまうと、必ず同時に「正しくない」という価値観が発生します。
そうなると何が起こるか。
正しい以外、つまり正しくないことは”ダメ”という扱いになってしまう。
あらゆる局面がある中で、正解がない中で、「正しい」が一つに決まってしまうのはおかしくないか。
そもそも「正しい動き」だけで、サッカーができるか?
正しいを決めようとする風潮。
正しいを求める風潮。
正しいを要求する風潮。
もちろん、本来目指したいところや意味しているところはわかる。
それは「最適」であったり「最も有効」であるということですよね。
でも、なぜかその表現が「正しい」になってきている。
価値観も「正しいか正しくないか」になってきている。
これって選手たちの、いろんな可能性を奪っていないか。
常に正しいかどうかの指標で評価されるのってものすごく窮屈。
正しいかどうかじゃなくて、「使えるかどうか」「有効かどうか」を指標にした時に生まれる「余白」に”工夫する面白さ”があるんじゃないのかな。
選手自身が「工夫をできる余地」の重要性を親や指導者はもっと考えるべきではなかろうか。
「正しいか、正しくないか」という価値観には、余白がない。
余白がないところには、新たなものは生まれないでしょ。。
余白がない”娯楽”に、魅力なんてない、と僕は思う。
僕が選手だったら、正しいかどうかを求められたら一気に冷めてしまう。
興味があるのは、その動きは”使えるかどうか”、だけだ。
お読みいただき、ありがとうございました。
全てはパフォーマンスアップのために。
中野 崇
追伸
そもそも、誰かが決めた「正しい」は、何をもって正しいと定義してるんだろうか。
専門家という衣をまとった”自称”でないことを切に願う。。
https://ameblo.jp/bodysync/entry-12269110011.html
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