「そろそろ休みますね」
 そう声をかければ、今まで諷雫の詩を聴いていた雅弥はしっぽを一度だけ振り、疲れたのか白猫の姿に戻っていたクーアは戸惑ったように主へ視線を注いだ。
「・・・・・・おやすみ、なさい?」
 可愛い、と一瞬だけ諷雫は思ってしまった。
 稜樹はテンシという存在らしく、人と会話する機会が少なかったらしい。一定の常識も理解力もあるけれど、どうしても知識としてのやりとりしか知らないのだ。
「はい、おやすみなさい」
 最初の頃はわかった、じゃあくらいしか言わなかったのに今では少しだけ不安そうにでも挨拶をしてくれるのだ。そのことが、まるで距離が近づいているようで嬉しい。
 彼に友達という概念があるとは思えない。それでも、少しは諷雫という存在を認めてくれているかもしれない。
 恋人や友人でなくとも、素直な心でやりとりができるならそれだけで幸せだ。稜樹もクーアも雅弥も嘘なんかつかない、傷つける意図で口を開くことはない。カナンは少しだけ他人を怒らせたり困らせたりする意図で話すし、直視したくない部分をわざと表に出すけれど基本的に嘘はつかない。
 そんな彼らとのやりとりは深いものになりにくいけれど、とても穏やかで楽しいと思う。
 彼らの世界と諷雫をつなぐ『扉』を閉める。そうすれば淡い光を放つけれど向こうの映像は見えなくなり、諷雫の部屋に沈黙が降りる。
 明日の仕事の予定を考えながら灯りを消し、カーテンを開ければ藍色の空に赤紫のチェロ月が煌々としていた。明日は稜樹達の住む世界の月とよく似たヴィオラ月が見られるだろう。
 そこまで考えて、少しだけ先日見た夢を思い出す。何かの組織に加わって、旅に参加した夢を。
 夢の中や明け方はしっかりと覚えていたはずなのに、日が経つほどに夢の内容は諷雫の中からこぼれていっている。確か稜樹によく似た青年と仲良くなって、森を探索していたら怪物と出会って、赤い髪の青年に助けられながら家に帰るという夢だったはずだ。
 諷雫はやはり少し特別な種族だったけれどそれで差別されることなく、後ろに引っ込むことなく仲間と共に前へ出て戦った気がする。
 その時のことを思い出せば、諷雫は不思議な感動を味わう。稜樹達との穏やかなやりとりで感じる感情に似ているけれど、高揚感と躍動感は夢の方がずっと大きかった。
 けれど、諷雫はため息を吐く。
 もう同じ夢を見ることはできないとわかっていて、それなのに夢の記憶を必死に刻もうとする自分は寂しい人間か贅沢者なのかもしれない。
(昔よりは絶対に幸せなはずなのにな) 
 そこまで考えて、思い出したくないことが脳裏を掠める前に諷雫は寝具に横たわった。寝付きは良い方なので、眠気はすぐに訪れた。


Wee ki ra chs mea yor en en chs yor mea


 稜樹は顔を上げた。カナンは今日は訪ねてこないようで、余ってしまった一人分の食事を片づけるようとした所だった。
 部屋の中を見る。パソコンで情報を集めていたクーアは日付を越えた頃からうつらうつらして、雅弥はコタツの半分を占拠して眠っている。
 何も問題なんてない。それなのに、何か違和感がある。
「美味しそうですね、食べられないのが本当に残念です」
 不意に思考を掠めたのは、画面越しにしか会わない少女。画面越しなのに、たぶんクーアや雅弥、カナンなどの職場の人間と同じくらい稜樹を知っているだろうその人で。
 彼女の世界にある『扉』と空間を越えて繋がっているタブレット端末が、僅かだが空よりも澄んだ色の光を帯びていた。

 パチ、と諷雫は目を開いた。
 闇夜のように暗くはないが、日光の下の明るさとは違う。各所に照明が適度にはめ込まれているそこは諷雫にとっては珍しい、塔内部のようなのに、何故かそんなに違和感がない。
 かなり広いそこには結構な人間が行き交い、黒に碧の線で文様のようなものが描かれている床には靴音が絶え間なく刻まれている。
 アークスゲートロビー。アークスとして活動する者達が宇宙間を移動する際に必ず通る場所だ。
 場所を理解した瞬間に周囲の音が耳朶に届き始め、ついで耳に付けていた通信機の回線がどこかと繋がった。
『新人のアークスの方ね?』
 何を言われたかわからなかった諷雫だが、しかしすぐに理解した。
 アークス候補生だった諷雫は、先の惑星ナベリウスの事件から生還したことで修了試験をクリアしたと見なされ、アークスとして認められたのだ。
『私はクエストカウンターの受付担当、レベッカよ。さっそくだけど、ゲート横にあるクエストカウンターまで来てもらえるかしら?』
 周囲を見回す。ゲートとはおそらく背後にある、マザーシップとキャンプシップをつなぐ大きな通路のことだろう。ゲートに向かって大人数が移動しても良いようにか空間が収束する形で、端は空間を生かすためかベンチが埋め込まれていた。その為、ゲートにほど近い場所に立つ諷雫が横を向いてもゲート横はベンチと壁しか見えない。
 おそるおそる、ロビーへ進み出る。そうすればゲートの横にずらりと並ぶカウンターが目に入った。
「諷雫さん、こっちよ」
 それを待っていたかのように通信機越しではない声。
 諷雫を呼んだのは、ゲートを背にして左手側のロビーに立つ黒い髪を肩で切りそろえた、ちょっときつめの顔つきの女性だった。
「ここがクエストカウンター。クエストの受注はここで行うからしっかり覚えておいてね」
 ――クエスト?
 一瞬疑問が過ぎるが、やはりすぐに理解できた。
 アークスは無目的に惑星にいくわけではない。そこで目的として組織が用意するのがクエスト(依頼)であり、アークス達は自分の実力に合ったクエストの中から一つを選択して宇宙へ旅立つのである。
「ゲートを挟んで向こう側にいるアンネリーゼも同じクエスト受注を担当しているから、ここが混んでいる時はそちらを利用すれば良いわ。それと」
 言葉が途切れ、怪訝に思った諷雫がレベッカの視線を追いかける。
(あ・・・・・・) 
 少し離れた場所にある十人ほどが入れそうな筒ーー昇降機に向かう赤い髪の青年。
 アークスの戦士の一人、ゼノだ。
「ショップエリアへはあそこから行くことができるわ。冒険前の物資準備に活用して」
 返事をするのも忘れて、諷雫は別のエリアに移動するゼノを見送った。
 アークス、クエスト、ゼノ。どうして忘れていたのか分からないほど、情報がどんどんと形を成し、アフィンやエコーはと更に情報と疑問を付与していく。
 諷雫の見た夢は、終わっていなかった。


 その事象をヒニンとカナンが共に気づいたのは本当に偶然だった。
「おかえりなさいだぞ!」
「ただいま」
「お風呂沸いてるし、ご飯もヒニン君とカナンちゃんが作ってくれたぞ!」
「そっか、所でその話し方はどうしたんだい?」
「義兄さんがこういう話し方が最近の可愛い女の子の話し方だって教えてくれたんだぞ!!」
「君の家は相変わらず僕に心労を負わせるのが好きだね」
 ごめんなさいごめんなさい、とパソコンに向かいながらも無言で謝るのはヒニン。父からの伝言を持ってきたカナンはエプロンをつけて笑っている。怒るより疲労を見せるヒニンの父の感情は美味くくないが、ヒニンの母の願いを断る気にはならなかったのだ。
「だってきっと可愛い。カナンちゃんは可愛い子だもの」
 実際は叔母さんの方が可愛いとカナンは思っている。母と似た柔らかさ、そして年齢を感じさせない純真さ。
 悪魔はかつて人間の欲望を叶える形で感情を食べていた。しかし人間は疑心と警戒心、信仰心や罪悪感を覚え、悪魔の企みに乗らなくなった。結果悪魔はより狡猾で人間の心の機微に聡くなるように進化を遂げた。
 叔母はそうした進化を持たずに産まれ育った。現在の悪魔として致命的な欠陥、満足に狩りも出来ない女性。だが、彼女は恨まれることも少なかった。
 悪魔は罪悪感はなくともやりすぎたらいけないことはわかっている。それで人間に恨まれすぎて殺される悪魔は多いから。しかしその時の怒りや悲しみの味はとても甘美だとも分かるのでどこかで衝動のままに動きたいと考える。
 そんな悪魔にとって叔母は意図はせずともやりたいようにやれてしかも恨まれにくい為、まるで子どもがヒーローを見るような気分になるらしいのだ。
 が、ヒニンからしたらそんな幼すぎる母親は目の上のタンコブにしかならないらしい。特に被害が父親に行くのが我慢ならないのだ。
「おふくろ、いい加減口調直せ。すみません親父さん」
 とうとう我慢ならなくなったのか、ヒニンがパソコンから両親へと視線を向けた。
「ヒニンくん、どうしてなのだ!?」
「かまわないよ、先にお風呂で良いかな?」
「はい」
 ヒニンは父に頭が上がらない。こんな母親と結婚することになって、しかもハーフのヒニンの養育義務まで生じてしまった。だからヒニンは父に対して敬語で話し、罪悪感を覚える。
 カナンにはそれは我慢ならない。結局夫婦間の問題であり、また彼の感情は腐るばかりでまったく美味くならないのだから。
 母親を怒っても無駄、何せ悪魔としても欠陥である彼女に常識を知るヒニンの言葉は届かないから。
 父親を哀れむことも出来ない、何せ父に見捨てられたら半端な生き物であるヒニンは生きていけないから。
 そうつまりヒニンが半端なのだ。だからカナンはヒニンの相手をずっと前にやめた。稜樹達との交流でいじる方法は分かってきたがやはり家族関係でのつきあいは、とくに父親に関わる件では控えめな方が良いかもしれない。
「は・・・・・・?」
 風呂場に向かったヒニンの父を見送りエプロンを取ったカナンの耳に、ヒニンの間抜けな声が届いた。
 今時珍しく、ヒニンは自室にパソコンがない。おそらく父親に気を遣って自費で買ったものしか部屋に置かないのだ。ただ今時の学生らしくパソコンゲームには興じる。
 カナンが来てからずっとやっていたゲームは、オンラインゲーム。ネット上のゲームで、同時間にプレイしている他のプレイヤーとも交流できるタイプだ。
「おい、こいつ」
 生憎カナンはオンラインゲームはやらない。他の者と自分の好きなタイミングで関わるのは良いが、ネット回線越しでは感情を上手に捕食出来ないからだ。
 そうなると面倒くささが先立ち、稜樹の家にいるクーアを使ったり相手する方がまだおもしろい。思考感情はぎこちないがリアクションが秀逸だからだ。
「おい!!」
「ヒニン君、おいじゃなくてカナンちゃんでしょ!」
 おお、母親っぽい。そんな感動を覚えつつようやくカナンはヒニンが自分を呼んでると気づいた。
「どしたのヒニン君」
「こいつ、このキャラ」
 珍しくまっすぐに向けられる怒りと焦りに驚きと舌鼓を打ちつつ、画面をのぞき込む。
 最近のオンラインゲームは3Dグラフィックが基本らしい、カナンはわかりやすい昔なつかしの2Dか3D寄りの2Dの方が好みだ。
 閑話休題。オンラインゲームの画面には複数のキャラクター、その頭上にはおそらくプレイヤーの名前がある。問題はヒニンが示した少女、彼女の頭上にある名前は『諷雫』。
「んん?」
 どう考えても初見では読めない名前、しかしカナンもヒニンもそれがどう読むか分かった。
「フーちゃん?」
 何せ、そのキャラクターは二人の知る少女と瓜二つだったのだから。


 ≪2≫

≪Eine Phantasieの項へ≫ ≪トップへ≫