【山城跡を訪ねるシリーズ】(その4)基肄城・山が丸ごと城になった? | 仮装ランナー★ボバランナー

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いや~久しぶりにいい物を見せてもらいました。

 

 

徳勝龍ですよ。

 

 

全然知らないそんな人いたの?

くらいの力士が、

 

あの大一番を寄り切りで勝って泣き崩れた姿が、
ロッキーのラストシーンと被って、心揺さぶられました。

 

キレイな嫁さんが、怖くて見れないからと言って通路にいたというのも、

ロッキーの中で、同じように控室にいたエイドリアンのようです。

 

体調不良で自信がなくなりかけていたところに、

あんなシーンを見るとイヤでも気持ちが奮い立ちますw

 

 

山城シリーズ第4弾は、

 

基肄城 (きいじょう)

 

今から1350年前の665年に築城された朝鮮式山城です。

 

みなさんご存じの662年の白村江の戦いで大敗した後、唐の侵攻を恐れて、

大宰府を守るために築かれた城です。

 

教科書には出てきても、一体どんな城なのか知らない人が多いと思いますが、

これがまたとんでもなく巨大な城なんです。

 

ここが駐車場ですが、現在去年の大雨で道路の一部が崩れていたため、

500mくらい手前の道路脇に停めて歩いてきました。

 

山の周囲は、散策コースとして整備されています。

 

城の説明です。

 

史跡の中でも特に重要な特別史跡となっています。

 

朝鮮式山城は、戦国期の山城のように本丸があって二の丸三の丸というような曲輪があるわけではなく、

山の稜線に沿ってぐるっと土塁が築かれていて、その中に建物群があるという構造になっています。

 

その土塁の延長は、4キロもあるという長大さです。

 

 

赤い線が土塁を示しています。

 

現在森林に覆われていて、土塁はよくわかりませんが、

一部それと確認できるところもあります。

 

通行不可となっている個所は、大雨で土砂崩れを起こしている個所のようです。

 

 

大宰府を挟んで向こう側の山には、大野城という同じ朝鮮式山城があります。

 

さらにその間の平地を分断するように、水城という巨大な土塁が築かれているという、

念の入れようです。

 

どれだけ唐の侵攻を恐れていたのか?

ハンパない土木工事の量ですよ。

 

この斜面は、草スキー場になっています。

 

スキーと言っても、ソリを借りて上から滑るだけです。

リフトとかないので、結構体力を使います。

 

で、その斜面を登ると頂上です。

 

頂上から続く尾根をぐるっと囲むように、巨大な土塁が築かれていました。

いまでも土塁の名残を確認できます。

 

向こうに見えるのが、姉妹城?の大野城です。

 

頂上に建っている、天智天皇欽仰の碑

この展望台は、廃墟になっていました。

 

城内には、礎石群が40ほど確認されているそうです。

 

ここが礎石群の一つです。

 

こんな巨大な礎石が20個ほど並んでいます。

相当大きな建物があったと想像できます。

 

しかもその建物が、40ほどあったということです。

これは、大正13年に建てられた石碑です。

 

礎石群を巡ると、こんな山道を数キロくらいは、歩きます。

アップダウンもかなりあり、ほとんど登山をしている感じです。

 

途中で、見かけた看板にハッとさせられます。

まったくその通りです。

 

この城の最大の見どころは、この水門です。

この水門は、城の南端にあります。

 

3時間くらい礎石群を巡ったり、自分の位置が分からなくなって彷徨ったりしながら、

登ったり下りたりしてやっとたどり着きました。

 

 

これは1350年前の石垣です。

8.5メートルの高さがあるということです。

 

戦国期の城の野面積みに近い積み方ですが、

長方形の石を横にして積んでいくという特徴があります。

 

下の石が大きく上に行くにしたがって小さくなっているのがわかりますね。

 

実は、去年の大雨でこの水門の石垣も一部崩れています。

 

文化財なので、調査してからでないと修理ができないのか、

未だに手付かずの状態でした。

 

帰りは、城を横切らずに集落の中をラン&ウォーク(8割ウォーク)で、

駐車しているところまで戻りましたが、いや~疲れたw

 

城に行ってきたというよりほとんど山登りをしてきた気分。

 

それほど広大な城だということです。

 

今度は、大野城の方にも行ってみたいと思います。