「空」という漢字を「そら」と読んでも「くう」と読んでも、引き込まれるけど手が届かない、そんな魅力を双方に感じてしまいます。


単に空(そら)と言った時にはなんとなく夜空よりも青空をイメージしてしまうのですが、すると、明け方には空がだんだん増えていって、夕暮れ時には空がだんだん減っていったりする気がしないでもありません。特に冬の朝ランや夕暮れ時には、そんなことを思いがちです。


日が沈むことで空が減っていき、日が昇ることで空が増していくとすると、一日の間に空(そら)が増えては減っていき、天を空が埋め尽くしては空っぽになっていきます。


空が増えていくのが昼。空が空っぽになっていくのが夜。昼は「空(そら)」で夜が「空っぽ(からっぽ)」、どちらが「空」なのかわからなくなってきます。というか、そんな気がしてくるように思いこみます。


そう思い込めればなんとなくいい感じです。空が増えていくとワクワクするし、逆に空が空っぽになっていくとちょっとドキドキしてくるからです。


もちろん、昼間の空も、夜中の夜空も、「空は空なのだ」と思えばなんてことはなくなる話ですが・・・そこらへんをうやむやにすると、昼も夜も、空は空。


するってぇと、夏空も冬空も、空は空。もう、わけがわかりませんが、思春期以降毎年のように訪れる学生時代の夏休みの空虚感と、同じく思春期以降毎年のように訪れる初冬の空虚感も、同じものなのかなぁと、ふと思ってみたりします。


土曜も日曜も休まず働いていた江戸時代に、盆暮れ正月にまとまった休みがあったのは、なんとなくわかるようなわからないような・・・


えっ??ホント??


相変わらず際限なくぼんやりした話ですが、ひとしきり文章にしてみると、「空虚感」というちょっとお世話になりたくない言葉に、なんとなくちょっと引き込まれてしまう魅力的な言霊が吹き込まれた感じがしてこないでもないので、やっぱりちょっといい感じがしてきます。

Podcastの番組で、「Meditation Podcast」というのがありまして、20~25分間くらいのプログラムが12コくらい配信されています。

(日本語で「瞑想」と聞くと難しそうですが、横文字で「メディテーション」と聞くと身近に感じてしまうのはなんだか不思議です。)


プログラムの内容は、イヤホンでi Podから流れてくる番組に合わせて、ベッドに横たわりながら深呼吸を繰り返しているうちに、ちょっとしたリラクゼーション体験ができるという感じです。


からだの調子が悪い時には、なかなか入り込めなかったり、どうしても途中で止めたくなってしまったりするのですが、昨夜は腰を据えて、丸々1時間がっつり入り込んでみました。


からだ、ぽかぽか&ゆるゆる。こころ、ルンルン&ゆるゆる。


ここ1ヶ月くらいで一番からだの調子がよくなった感じがして、体幹もココイチしなやかに動いてくれる気がしてみたり・・・きもちも少し上向き気味で、ちょっと行けるかもしれないと思ってみたりして・・・その勢いで久々に朝ラン@皇居行って来れました。


本当に、呼吸というのは、すごい力を持っているなぁと改めて思いました。


なんせ呼吸っていう運動はこころとからだの中に空気が出たり入ったりするわけで、空気と言ってしまうと「なんだ空気か・・・」って感じだけど、これを「空」と「気」に分けてみたりすると、呼吸という動作は、こころの中を「空」が通り、からだの中を「気」が通っていく作業なんだなぁなんて思えてくるわけで、するってぇとなんとなくありがたい雰囲気が漂ってまいります。


行って還ってくるから意味があるとすれば、トンネルを通り抜けることに意味があるとすれば、「空」と「気」がこころとからだの中をうまく通り抜けて、きっちりと行って還ってきてくれるように、うまく呼吸をしながら生活できるようになりたいと思いました。


めでたしめでたし・・・


あけましておめでとうございます。


初日の出を拝んだら、途端にお正月の気分が出てきました。


圧倒的にまっすぐで、圧倒的にまんまるで、圧倒的にかわらないものに心身をゆだねる。


少しだけ何かが動いてくれた気もするし、少しだけ何かが止まってくれた気もしました。


日の丸を背負って立つ男にはなれないけれど、日の丸に背かないで立っていられる男にはなれるように、何かにつけて元気を分けてもらいながら、今年も生きていければいいなと思います。


まずは今年も天使たちの走りに元気をもらいながら、新年を迎えさせていただきますか!!


今年もよろしくお願いします。

なんとも年末感の欠落した年末。ムリヤリにでもと思い、少しずつ一年を振り返ってみることにしました。いろんな側面から、ちょっとずつ。まずはこころの振り返り。


総じて、感情の起伏が少なく、というよりもなだらかで、大きな喜怒哀楽が少なかったような気がします。思いっきり感情をあらわにしたというシーンがあまりなく、心の底から楽しめたということが少なかったかわりに、ズーンと落ち込むことも少なかった。人から見てれば落ち込んでいるように見えるシーンも、自分としてはあまり気にしていなかったり、そのうちなんとかなると思っていたり、逆に人から見ればはしゃいでいるように見えるシーンでも、自分としてはノリきれない感じとか、どっぷりハマってトランスしているわけではなかったり。


一般的には感情の変化というものは、その大小で語られがちですが、ぼくの中では、変化率の方が大事で、つまり、「どれだけの期間に」どれだけの感情の変化があったかということが本質だと思っています。一瞬の感情の変化であれば心を突き動かされる体験でも、1ヶ月かかってジワジワ同じ量の感動を得たところで、なかなか人の心は動きません。要するに、こころが慣れてくる、あるいは緩衝作用が働いて変化に対応できるようになるということだと思います。


10代の頃から感情の起伏が激しく、社会に出る前にとにかくこころを落ち着けたい落ち着けたいと、いろいろなことを考えてきた学生生活でしたが、今のところの暫定的な対応としては、とにかく時間を稼ぐ、という方法です。タイム・コントロールをして感情の変化に時間をかけさせることで、体感(心感??)の変化率はなだらかになる。それによって大きな落ち込みや大きな喜びも感じにくくなり、不動心につながっていく。そんなことを今は考えています。


もちろん、このこと自身がいいことか悪いことかはわかりません。ハメを外してふざけすぎて失敗したり、大きく落ち込んだりはしにくい半面、心が突き動かされる感動も味わいづらくはなります。そして実際、そんな一年だったように思います。ある意味では社会や世間、あるいは人間に対するあきらめのようなものでもあって、何に対しても素直に喜怒哀楽を表現できる子供たちやアスリートたちを見たりすると、まだまだ違うなぁという感じがします。


ただ、タイム・コントロールという考え方は間違っているわけではないと思うので、「体感時間」をコントロールすることで、時間をぎゅっと短縮して同じ感情の変化をいつも以上に感じたり、時間をびろーんと引き延ばすことで同じ感情の変化でも何気なくふるまったり、そんなことができればいいなぁと思うようになったことは確かなようです。


やはり、タイム・コントロールこそがとりあえずの人生の目標だと確認いたしましそうろう。

やはり、「時をかけるランナー」がとりあえずのなりたい自分だと確認いたしましそうろう。

間に合ったような間に合わなかったような、ロバート・ゼメキス最新作「クリスマス・キャロル」観てきました。


バック・トゥ・ザ・フューチャーに少年心をロックされ、フォレスト・ガンプを観て校庭を走り回っていたぼくとしては、夏くらいから楽しみにしていた作品。


そういえば、ロバートって名前の方は、ボブとも呼ばれますよねぇ♪そうそう、実はそうなんです。ボブ・ディランからでもなく、ボブ・マーリーからでもなく、「ボブ」は、ロバート・ゼメキスさんから取ったんです☆(もちろんそれだけではないけれど・・・)


正直、ストーリーとしてはあんまりよくわからなかったんですが、随所に「ゼメキスゼメキスしたカット」が散りばめられていて、いろんな作品を通してゼメキス監督が一貫して伝えたいメッセージみたいなものがあるんだなぁ・・・みたいな感じでした。


「過去・現在・未来」のサーガの中、真っ白な未来に向かって今を走り続ける、

Don't stop till you get enough... Keep on Rock'n'Roll... Show must go on... Party never ends...


走って走って「ただいまぁ!!」


やっぱりこれだけ続けいければ、サイコーってことでぇっ(!?)