SNSで友人がシェアしてくれていた投稿を当ブログでもシェアさせていただきます。
 

珠洲市で被災された奥佐さんが発災からの様子を自身の投稿欄でシェアしてくださっていました。発災直後からどういった様子だったのか、どのように避難所に辿り着き、その後の避難所での様子など書かれています。

 

現状を多くの人に知ってもらい、何ができるか何をすべきかをともに考えることで道は開いていくものだと思います。何よりまず現実や現状を知るということは、最も大切なことだと思います。

SNSの投稿と同じ形にするために、今に近い投稿(1月5日の投稿かと思います)を先に、その下にその前の投稿(1月3日の投稿だと思います)を載せています。
 

発災から5日目の1月5日に投稿されたものだ思います。

まずは、多くの方に関心を持っていただき、またシェアをしていただき、本当にありがとうございました!皆様のその行動力が、力と影響になって珠洲市に還ってきていることを実感しています。

発災4日目、大きな変化がありました。外部からのレスキューによる救出作業が本格化すると同時に、いたる所の道を封鎖していた多くの全壊家屋瓦礫の撤去に、すでに疲労困憊のはずの町民消防団員が着手し、またブルドーザによる瓦礫撤去が始まり、街中の動線が確保されました。
そしてなんと、北陸電力と関西電力の協力のもと高圧電機が避難所に配置され(感電リスク管理のため関西電力職員が24 時間管理体制)19時頃に電気がつきました。点灯した瞬間、避難者の多くが思わず大きな歓声をあげたことが、その感動を表していると思いました。
炊き出しが安定してできるようになったことで、近隣避難所への炊き出しの提供(おすそわけ)もできるようになりました。

本当に多くの皆さんが様々な形で支援をしてくれ、特に情報の共有の影響は大きく、みなさんのおかげで、外部支援が少しずつ入り目下の不安がほんの少し緩んだ傾向が見えたため、次は長期化するであろう避難生活を見越して、組織としての運営に目を向けることになりました。

発災直後より、避難住民が自ら「正院小学校地震災害対策委員会」を立ち上げ、朝夕のミーティングをしてきました。3日目の深夜からの4日目明け方まで、ロウソクの灯火下、各メンバー同士の話し合いを共有し、現状と今後と課題をピックアップしました。それらを本部長(公民館長)がまとめて、4日目朝のミーティングでは、早期の3日間を経て次のフェーズの課題に対してよりスムーズに働きかけるべく、今後の班体制を提案されました。
連絡班をトップに据え、以下に、医療介護班、炊き出し班、掲示班、物資班、ゴミ班、見回り班を配置することとし、各班の役割を明確にすると共に班リーダーを決め、その日に行う事を共有しました。このことにより、日によって関われるメンバーやリーダーが変わっても、避難所の安全と生活を守る組織の礎ができたように感じました。

特に、元・現役教員の方が提案された、掲示班のリーダーを中学生とし、子どもたちの頭と体を使わせる役割の提供(ルールや案内などの内容の原本を大人が書き、コピー機が使えないためそれを複製したりイラストを添えること。また食べ物の配布や配膳、高齢者と共に運動するなど)は、さすがだなと思いました。 他にも多くの方が自ら役割を見出し、それぞれができること(些細なことから専門的なことまで)を率先していく。その上、今日のテーマは「お互いに感謝しありがとうと褒め合おう」と。
まさに“自治”の力を実感し、地域住民のたくましさと優しさ、万能さを目の当たりにしています。

しかしながら、これで全てが思うように進むわけではありません。
本日、ここの避難所の屋外にいる方を除き、建物内に滞在する避難者約300人のうち、75才以上の方は54.4%です。まさに珠洲市の現状そのままが避難所に移行している。これがどんなことになるか想像できますか?
通常、主に地域や社会資源で対応している医療福祉を被災者同士の避難所でどこまで対応できるでしょうか?
深刻な問題は、特に深夜に多発します。ここは避難所であり、高齢者施設ではありませんが、求められることは高齢者施設(しかも150名以上の)相応なことです。
バルーンカテーテル留置などの医療的ケア管理、深夜の徘徊、オムツ交換、尿便失禁、不穏、食事介助、認知症の対応、排泄や移動介助、加えて精神科関連の諸問題(処方薬切れによる症状悪化)、各禁断症状、など、山積する医療介護福祉問題。

今後、避難者も徐々に自分たちの仕事に復帰していきます。つまり、発災後付き添い家族間である程度対応していた事を、避難所に任せられると思っている方がでてきます(います)。ここに高齢者家族を残しておけば何とかなる、ケアマネに伝えればなんとかなる、避難所には震災前と同様に通常利用していたヘルパーが派遣されご自分たちは介護から手が離れると思い込んでいる避難者も多くいます。避難者の一般高齢者が、自身も被災者なのに医療介護福祉に協力されようとしていますが、限界があります。リクスもあります。
医療や福祉の「あたり前」を十分実施することは不可能になり、必要最低限と思われることでも今後長く持続可能か否か、優先順位を判断していく、できないこと無理なことは無理!と行政や国に訴えていかなければいけません。

明後日以降、外部から医療や福祉支援団体が入るとも聞きました。私も明後日には平常の業務に戻ることになります。さて、24時間にわたり(特に夜間帯)、この高齢者率の避難所を誰がどのように運営するのでしょうか?医療のあたり前、福祉のあたり前をそのまま実現するのは外部支援団体は、この高齢者率の高い被災地に何ができるのでしょうか?地方行政は何をすべきなのでしょうか?

福祉避難所が早急に求められるフェーズにすでに突入しています。
一方、それをすぐに可能にできる人材も社会資源も環境も、平時はもちろんこの被災状況で叶えることは困難を極める現実。外部支援から入る多くの方にとって、おそらく未だ経験されたことがない「2040年問題」が、ここは珠洲ではデフォルトで真っ只中(それ以上の悪化状況)であり、現状は甚大な災害後が加わります。圧倒的な高齢者数とマンパワー不足、加えて被災真っ只中…

さてさて、みなさんならどうしますか?
何が考えられますでしょうか?

 

 

発災から3日目の夜。1月3日の夜に投稿されたものだと思います。

ご心配いただいた方本当にありがとうございます。ようやくスマホがつながり始めたので、とりあえずご報告を。私と家族は発災直後に机の下に入り、倒壊してくる壁や天井の下、足が一本折れる机の下で過ごしました。幸いにも救助され、大きなケガはなく避難所に向かいました。
外部支援が全く無い状況で2日間、ライフラインが全く途絶えたまま3日目の夜を迎えようとしています。
初日は日が暮れ始める中、津波の予報を受けて、余震で倒壊家屋が増え続け、道路が大きく亀裂したり陥没し、ほぼ全ての倒壊した電柱から垂れ下がる電線などを避けながら、暗闇の中を、歩行に介助が必要な高齢者や障害者、土地勘がなくどこに避難すれば分からない帰省者の方たちと共に声を掛け合いながら、手を取り合いながら、最寄りの小学校に避難しました。
発災直後からの詳細は、改めて伝えるとして、まずは珠洲市は多くの家屋が倒壊し、また津波の影響も受け、壊滅的な状況です。
今日、初めて聞くところによると、珠洲市や能登町の被災状況はほとんど報道されていないと。
しかしながら、岸田総理は気にかけてくれ、市長とリモートで話し合ってくださっているそうです。
珠洲市や能登町は、道路も寸断され、報道機関が来れないこともあるのでしょう。現状がほとんど世に知らされていないとも聞きました。
今朝の情報では金沢から道が開通したともありましたが、1日の中で土砂や橋の崩落、重なる余震で道路の陥没が生じ、道路交通情報も刻々と変化をするため、陸路での移動は非常に困難を極めています。
本日ようやく通信機器が使え、この避難所でできる重症患者対応に限界が来ていること、2日目には小さな町の一つの避難所(正院小学校)の避難者がすでに500名を超えていること、特に高齢者の身体機能や能力に著しい低下が生じトイレ移動のリスクや介助量が日毎に増えていること、これらの24時間の対応が3日目以降厳しくなること、特に夜間の不穏症状者が増えて管理ができないこと、などを行政に伝えることができ、初めて医師が避難所に来てくれました。派遣されたのは愛知のさくら病院の方、奥能登広域消防署の方、町医者の方です。
正直な話、発災直後から避難所で、たまたま集まった看護師2名、保健師2名、そして理学療法士の私で医療処置に当たっていました(帰省者を含め)。
夕方4時頃の発災後は、間もなく暗闇となり被災状況の把握が困難、かつ、市内のほぼ全住民が被災者となった(珠洲市の高齢者率はすでに51%超)ため、発災直後の医療機関や消防署のレスキュー活動は困難となりました。
そのため、まず早々にしたことの一つは、この場所の避難者の全数把握(485名)と、まだ倒壊家屋に残されている家族や近所の方の把握でした。町の消防団員の方や地域の方は、ご自身や家族も被災しているにも関わらず、町に戻り瓦礫の下からの救助に向かいました。 
避難所には、住民や家族が完全倒壊した一階下から引きずり出して救出した骨折(疑い)の方、裸足で逃げ出したり倒れる壁や家具で裂傷された方、気胸の疑いの方、脳梗塞などの障害者の方、退院間もない外科術後1ヶ月や整形外科術後数ヶ月の方、その他糖尿病などの基礎疾患のある方、生後数カ月のお子さんなどもいて、様々なリスク管理と判断および処置を医師がいない状況でやらなくてはいけない環境でした。病院には早々に連絡をしましたが、広範かつ甚大な震災であること、元旦であることの影響もあり、医療機関も十分に機能できない中、これらの方を避難所で対応してほしいとの指示が病院からありました。
本来は、医師ではない私たちがやってはいけないことなのでしょうが、医療者の自分たちの専門知識内でできることをやらない、という選択はできませんでした。
必要な処置用具になりそうな物は、保健室やその他の校内から集めました。足りないものはカーテンを引きちぎって代用しました。骨折疑いの方は受傷部位に応じて、段ボールをカットし形状をシーネ固定様にして対処し、ポジショニングや全身状態管理、保健室にあった市販薬を使っての鎮痛を図るなどの対応をしました。呼吸状態等は測定や聴診できる物がないため医療者の経験値と知識でできる限りの判断と対応をせざるをえませんでした。食料がなく、限られた水分をどの様に使うかということにも十分配慮が必要でした。が、いずれも医師がいない中、ほんの僅かな医療者で判断するには責任が重く、緊張感も甚だしく、正直なところ恐怖と不安でたまりませんでした。
今日、ようやく避難所に来てくれた医師や消防隊に、元旦からの経過を伝え、重症者は全て搬送となりました。処置に誤りや重篤な問題もなく、よく頑張ってくれたと言われ、元旦の日から、もうすぐ搬送してくれるはず、もうすぐ医師に診てもらえるはず、と、“はずはず詐欺”を働いてしまっていたことがずっと申し訳なく、かなりの痛みや苦痛の中耐えて頑張ってくれた方々をようやくストレッチャーに乗せられた時、それをみて安堵したご家族のお顔を見た時には、溢れる涙を止められませんでした。
自分の家の倒壊や明日からのことは、何も分かりません。
市内の避難所によっては、まだまだ大変なところもあるでしょう。すでに電気や支援物資が届いている所もあるでしょう。
こちらは、今現在も電気水はありません。
対応すべき問題は刻々と変化しています。
今晩は、避難者の中に金沢医科歯科大学病院の看護師さんを見つけ協力してもらえ、医療者は彼女と珠洲市総合病院あわせて3人となりました。
支援物資がほぼない中、被災者が自ら倒壊した家屋に戻り、灯油や余っていた正月料理・食材、残薬、日常用品などを持ち寄り過ごしてます。
夜に向けて、とくに高齢者のトイレ問題が大きくなってきました(様々な要因により身体機能能力の悪化、オムツ替えや介助問題、着替の不足、など)。
物資も人も足りません。

すでに届いている支援物資もあるようですが、こうして現場が状況を発信していかないと、適切な支援がまわってきません。なにしろ、判断および対応する人材も足りていないと思われます。 被災者自身が、被災者を支援するには限界があります。まずは初期段階に必要な人材が足りていません。
どうか、珠洲市の重大かつ深刻な状況を知ってほしい。地域住民みんなが被災者なのに、被災者どうしがやれること、できることにはもう限界があります。
何も解決していなければ、この先この町が、ここに住む人たちが、どうやってどこに向かって行けるのかさえ想像できません。
人口がたった11700人程度の市において、この推計前回家屋の数が、いったいどれほどの被害なのか想像できますでしょうか?
町が、市が、無くなってしまう。
助けてほしいです。

 

 

 

 

 

 

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