歴史を紐解き、プロパガンダとサヨクを考察する | ヤモリのつぶやき

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日々のニュース解説等をつぶやきます......

 サヨクの攻撃が醜悪な昨今だが、GWに入ると国会もおやすみ、少し静かになっていくだろう。
 左翼がもたらす、あからさまな反日・売国の騒乱を苦々しく見ておられる方々は、あんなの一網打尽に排除できないのか?と思われるはずだ。
 実際の所は、先般取り上げた公安のレポート等をみても解るように、しっかりチェックはされている。
 明解な違法行為でない限り、放置しているというのが実態だ。
 なぜか?

 歴史を紐解くとこの仕組と、我々一般国民が何をしなければならないのかがよく分かる。
 先ず、先般取り上げたこういった話から。
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【防衛省中間報告】統幕3等空佐の小西議員への暴言は「国益を損なう」「ばかなのか」「気持ち悪い」などを使ったが「国民の敵」と言ってない 2018年04月24日
http://hosyusokuhou.jp/archives/48815274.html

 そもそも、自衛隊に入りたい、軍隊に入りたいという方は、国粋主義気味の保守が多い。
 軍オタなども当然いるだろう。
 それでも命をかけて日本を守るんだという気概があるからこそ、過酷な訓練にも耐え、災害時にも身を挺してがんばってくれる存在なわけだ。

 国粋主義
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%B2%8B%E4%B8%BB%E7%BE%A9
国粋主義(こくすいしゅぎ、英: Japanese nationalism)とは、近代の日本における国家主義の一形態で、衆議院議員の志賀重昂が1888年に雑誌『日本人』にて発表した論文「国粋保存旨義」の中で使用された用語。明治維新に始まる極端な西欧文化の流入による近代化に警笛を鳴らし、当時の明治政府の政策を欧化主義として非難したもので、日本人の本来の文化や歴史、その長所を尊ぶことを主張している。即ち天皇を頂点とする日本の国家体制を支持し、その優越性と長久性を強調する国体論が主となっている。
一般論としての国粋主義は、国家に固有の文化・伝統を礼賛して愛国心や愛郷心で意識の発揚をはかる、思想や運動のことで、一般的には保守思想の一つとされる。

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 当然、国民の敵のような存在の人間を見れば、怒りが湧くだろう。
 国益に叶うような話が一個もでてこず、意味不明な誹謗中傷を繰り返す元官僚なんて、怒りの矛先の最たるところだ。
 しかもこれだ。
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【脅迫状】小野寺防衛相に殺害予告「即日辞任しなければGWにこちらから遠慮なく殺させて頂きます」脅迫容疑で捜査 2018年04月24日
http://www.honmotakeshi.com/archives/53372497.html
【民進党】小西洋之「『国民の敵』発言に物証ある」防衛省の調査を「組織的隠ぺい」と批判 2018年04月25日
http://www.honmotakeshi.com/archives/53373766.html

 散々、自衛隊を「恐怖の使徒」呼ばわりの人殺し認定し、安倍政権も強盗殺人犯と強弁しておきながら、この言い草。

 そして、歴史を紐解くと、この件がリスキーな話であることが解る。
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二・二六事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6
二・二六事件(ににろくじけん、にいにいろくじけん)は、1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて、皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官兵を率いて起こした日本のクーデター未遂事件である。
この事件の結果岡田内閣が総辞職し、後継の廣田内閣が思想犯保護観察法を成立させた。
概要
陸軍内の派閥の一つである皇道派の影響を受けた一部青年将校ら(陸軍幼年学校、旧制中学校から陸軍士官学校に進み任官した、20歳代の隊附の現役大尉、中尉、 少尉達)は、かねてから「昭和維新、尊皇斬奸」をスローガンに、武力を以て元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、彼らが政治腐敗と考える政財界の様々な現象や、農村の困窮が収束すると考えていた。彼らはこの考えのもと、1936年(昭和11年)2月26日未明に決起する。
決起将校らは歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、近衛歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊等の部隊中の一部を指揮して、岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監、牧野伸顕前内大臣を襲撃、総理大臣官邸、警視庁、内務大臣官邸、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸、東京朝日新聞を占拠した。
そのうえで、彼らは陸軍首脳部を経由して昭和天皇に昭和維新を訴えたが、天皇はこれを拒否。天皇の意を汲んだ陸軍と政府は彼らを「叛乱軍」として武力鎮圧を決意し、包囲して投降を呼びかけた。叛乱将校たちは下士官兵を原隊に復帰させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。しかし、事件の首謀者達は銃殺刑に処された。
事件後しばらくは「不祥事件(ふしょうじけん)」「帝都不祥事件(ていとふしょうじけん)」とも呼ばれていた。
算用数字で226事件、2・26事件とも書かれる。

----------以下ソースにて

 熟読にすごく時間がかかるのが難点だが、この前後で起きた事件も併せて見てみると、流れがよくわかってくる。
 簡単に言うと、皇道派に属する陸軍の将校が昭和維新を狙って失敗した、という流れ。
 クーデターを起こして大失敗したのも、大きな勘違いがあるからに他ならない。
 ただし、当時の世相としては、暴挙に対して理解を示し、同情する向きも多かった。
 ここがポイント。

 先ず、皇道派とはこういった存在だ。
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 皇道派
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E9%81%93%E6%B4%BE
皇道派(こうどうは)は、大日本帝国陸軍内にかつて存在した派閥。北一輝らの影響を受けて、天皇親政の下での国家改造(昭和維新)を目指し、対外的にはソビエト連邦との対決を志向した。
名称と概説
名前の由来は、理論的な指導者と目される荒木貞夫が日本軍を「皇軍」と呼び、政財界(皇道派の理屈では「君側の奸」)を排除して天皇親政による国家改造を説いたことによる。
皇道派は統制派と対立していたとされるが、統制派の中心人物であった永田鉄山によれば、陸軍には荒木貞夫と真崎を頭首とする「皇道派」があるのみで「統制派」なる派閥は存在しなかった、と主張している。
皇道派が全盛期の時代、つまり荒木が陸軍大臣に就任した犬養内閣時に陸軍内の主導権を握ると、三月事件、十月事件の首謀者、皇道派に反する者に対して露骨な派閥人事を行い、左遷されたり疎外された者らが団結したグループは反皇道派として中央から退けられたが、この処置が露骨な皇道派優遇人事として多くの中堅幕僚層の反発を招いた。同じく皇道派に敵対する永田が、自らの意志と関わりなく、周囲の人間から勝手に皇道派に対する統制派なる派閥の頭領にさせられていたのである。これら非皇道派の中堅幕僚層は、後に永田鉄山や東條英機を中心に統制派として纏まり、陸軍中枢部から皇道派は排除されていくことになる。
両派の路線対立はこの後も続くが、軍中央を押さえた統制派に対して、皇道派は若手将校による過激な暴発事件(相沢事件や二・二六事件など)を引き起こして衰退していくことになる。
皇道派のメンバーを上原勇作が支援していた経緯から、旧薩摩閥も多かったとされる。

------------以下ソース

 そして彼らが目指した「昭和維新」とはこちらだ。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E7%B6%AD%E6%96%B0
昭和維新(しょうわいしん)とは、1930年代(昭和戦前期)の日本で起こった国家革新の標語。
概要
1920年代から1930年代前半にかけては、戦後恐慌や世界恐慌による経済の悪化、排日移民法や張作霖爆殺事件などによる国際社会の不安定化などから、軍部急進派や右翼団体を中心に、明治維新の精神の復興、天皇親政を求める声が急速に高まった。特に政争を繰り返す政党政治への敵愾心が激しく、また天皇を外界と遮断して国を誤っている(と彼らには見えた)元老・重臣ら側近達への憎しみも凄まじい。代表的な事件としては五・一五事件、二・二六事件が挙げられる。
『昭和維新実現』を唱えて数々の事件が起こされたが、そのどれもが『昭和維新実現』のための『討伐』であったり『天誅』であったりで、「彼を暗殺してからどうするのか、その後誰が何をするのか」という部分においては甚だ具体性に欠けていたのが特徴である(「天皇親政」を唱えたことで、「今の指導者を排除した後どうするか」について論じることは天皇の統治大権を犯す「大権私議」にあたるということにもなった。たとえば「昭和維新実現の為荒木貞夫を首相に」と考えていても、「天皇に強要して荒木に大命降下させる」ことはそれ自体が謀反になってしまう、という論理)。日本の政治システムを4日間に渡り空白に陥れた二・二六事件でさえ、実行者達は、皇居を占領し天皇に親政を迫った後の計画を持っていなかった(新国家の指導者として、事件の黒幕の1人とされる真崎甚三郎に期待していた者もいたが、彼が動かなかったことで梯子を外された格好となった)。
数々の事件の実行者達は皆「吾は維新回天の捨て石にならん」と唱えるのみであり、見方によっては無責任ともいえる態度であった。結局のところ、連続殺人テロが繰り返されただけだったともいえる。
片山杜秀は、昭和維新的な思想を持ちながらついに直接行動に出ることはなかった安岡正篤について「安岡の『錦旗革命論』はその論理においてなかなかに過激だし、彼は最後まで『錦旗革命論』を裏切ってはいない。しかしその革命論は、現実に対して厳格に適用されれば、日本では天皇ただ一人を除いて革命を起こせなくなるという結論に帰結し、それ以外の下々の者が勝手に革命を起こそうとするなどあってはならないということになる」と述べている(「近代日本の右翼思想」講談社、P90~92、136)。
戦後においては「右からの変革」を主張する民族派の右翼の基本路線でありスローガンとなった。

思想性・国家像
その苛烈な行動性とは裏腹に、思想自体は不可思議さを感じさせるほどの進歩性がある。二・二六事件における精神的指導者である北一輝の著した『日本改造法案大綱』は、男女平等・男女政治参画・華族制度廃止(当然、貴族院も廃止)・所得累進課税の強調あるいは私有財産制限・大資本国有化(財閥解体)・皇室財産削減など、まるで社会主義者の主張と見間違うほどの政策が並んでいる。また、この事件の主犯である磯部浅一によれば、日本の国体を「天皇の独裁国家ではなく天皇を中心とした近代的民主国家」と定義でき、「現在は天皇の取り巻きによる独裁状態にある」とする。日露戦争や大逆事件(治安維持法が制定されるきっかけとなった)以前の日本を社会の閉塞感・国家と国民との隔たりを感じさせない理想国家として捉えるなど、戦後の知識人(司馬遼太郎や幾人かの親米保守系評論家など)にも通じる心情が見てとれる。
北や磯部が実際に思い描いていた「天皇親政」とは、天皇の元に権力が一元化される、すなわち天皇の元に議会があり、議会から内閣が発生する、と解釈することが出来る。磯部は「天皇の取り巻きである重臣や軍閥、政党や財閥などが独裁を行っている」と言っていることから、彼らから権力を取り上げ、国民の手に権力を戻すことが必要と考えていたと考えられる。彼らの思想は国家社会主義と分類・紹介される事が多い。しかし、治安維持法廃止までも掲げられていた事により、むしろ軍部単独による階級闘争・暴力革命・非合法手段・強権行使に頼った日本式社会民主主義とも言える。更には反特権階級・反財閥・果ては社会主義や日蓮宗の思想までもが混然としていたとされる。
二・二六事件の鎮圧の後に、思想犯保護観察法が制定され、昭和維新を掲げる政治団体や皇道派と密接な繋がりがあった宗教団体(大本など)への取締りが強化された。但し、経済政策については、統制派と緊密な関係を築き満州国で実務の第一線に立っていた革新官僚・岸信介が北一輝を評価していた事もあり、外地で幾つか参考とされた。

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 後半が独自研究状態だと指弾されているが、これは『日本改造法案大綱』や磯部浅一が残したものを見れば明らかである。
 (念の為に記すが、筆者が書いたわけじゃない)
 
磯部浅一
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%AF%E9%83%A8%E6%B5%85%E4%B8%80
以下抜粋
手記
獄中において「行動記」「獄中日記」「獄中手記」等を記した。「行動記」は相沢事件以後の回想が描かれている。「獄中日記」は共犯13名の処刑直後の11年7月31日から、8月31日までに至る。これらは磯部の刑死後に、東京陸軍衛戍刑務所看守の平石光久が密かに持ち出し『文芸』1967年3月号において発表された。
磯部はその手記において、昭和維新の正当性と、自らを理解しない世間・軍部首脳・天皇に対する罵詈雑言を書き連ねている。自身を「日本第一の忠義者」であると誇り「今の日本人は性根がくさりきっていますから、真実の忠義がわからない」「つくづくと日本という大馬鹿な国がいやになる」と批判している。
渡辺錠太郎教育総監が殺害目標に選ばれたことについて「渡辺は同志将校を断圧(弾圧)したばかりでなく 三長官の一人として 吾人の行動に反対して断圧しそうな人物の筆頭だ、天皇機関説の軍部に於ける本尊だ」と獄中で『行動記』に記している。特に『獄中日記』[注釈 1:1936年(昭和11年)8月31日分までが現存しており、以降の1年分は所在不明。三島由紀夫は「ことごとく湮滅され」たのではないかと述べている]には昭和天皇に対する叱責すら含まれている。

一、天皇陛下 陛下の側近は国民を圧する奸漢で一杯でありますゾ、御気付キ遊バサヌデハ日本が大変になりますゾ、今に今に大変なことになりますゾ
ニ、明治陛下も皇大神宮様も何をしておられるのでありますか、天皇陛下をなぜ御助けなさらぬのですか
三、日本の神神はどれもこれも皆ねむっておられるのですか、この日本の大事をよそにしているほどのなまけものなら日本の神様ではない、磯部菱海はソンナ下らぬナマケ神とは縁を切る、そんな下らぬ神ならば日本の天地から追いはらってしまうのだ、よくよく菱海の云うことを胸にきぎんでおくがいい、今にみろ、今にみろッ

—磯部浅一、八月六日
さらに「日本もロシアの様になりましたね」と昭和天皇が側近に語ったとの新聞記事を読んで磯部は激怒し次のように記した。

今の私は怒髪天をつくの怒りにもえています、私は今は 陛下をお叱り申上げるところに迄 精神が高まりました、だから毎日朝から晩迄 陛下をお叱り申しております、天皇陛下 何と云ふ御失政でありますか 何と云ふザマです、皇祖皇宗に御あやまりなされませ、

—磯部浅一、八月廿八日
遺書は現在に至るまで見つかっていないが、2011年に看守に託した「正気」と書いた書が発見・公開されている。

磯部、北らによると、日本は明治維新革命以来「天皇の独裁国家ではなく」「重臣の独裁国家でもなく」「天皇を中心とした近代的民主国」であったのだが、「今の日本は重臣と財閥の独裁国家」としている。そしてその大義を理解しなかった昭和天皇を獄中から「御叱り申して」いた。
磯部・村中・北・西田は、銃殺時に「天皇陛下万歳」は唱えなかった。

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 ものすごく簡単に言うと、当時の政治が混乱していた。
 経済悪化で地方経済が崩壊し、実娘を売る・餓死するなど悲惨な状態があるにもかかわらず、政争を繰り返し、問題解決がなされなかったことが根底にある。
 そしてそれらを当時の政治家や財閥達が巻き起こし、彼らが天皇陛下をだまくらかして国家の命運を悪い方へ導いていると思い込んでいたわけだ。
 その前提があるところへ、皇道派という天皇陛下を中心としたマトモな政治をしましょう的な組織があり、昭和維新を訴えたわけだ。
 なぜ、当時の世相的に同情論があったのかは、この荒れた世相が世の中の認知するところであったことからわかる。

 つまり、こういった行動をとった人達は、極めて真面目に日本のことを考え、少しでも良くなるはずという見込みを持って、行動していたわけだ。
 ところが、そこにささやくのが左巻き。
 取って付けたような理想を標榜し、現状の悲惨な問題を起こしている首魁を全部排除すれば、うまくいくはずと真面目な連中を騙すわけだ。
 そして、きっと天皇陛下も憂いてるはず、行動を起こせば喜んでくれるはず、と後押しする。

 根本的な問題は、この荒れた世相を巻き起こしている理由が、まるっきり嘘である点だ。
 例えば、ダルマ大臣として世界に先駆けて日本を恐慌から離脱させた高橋是清翁が殺害された理由は、2.26事件の高橋是清蔵相の記事によると以下だ。
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元総理の高橋是清大蔵大臣は陸軍省所管予算の削減を図っていたために恨みを買っており、襲撃の対象となる。
積極財政により不況からの脱出を図った高橋だが、その結果インフレの兆候が出始め、緊縮政策に取りかかった。高橋は軍部予算を海軍陸軍問わず一律に削減する案を実行しようとしたが、これは平素から陸軍に対する予算規模の小ささ(対海軍比十分の一)に不平不満を募らせていた陸軍軍人の恨みに火を付ける形となっていた。

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 なお、これを高橋是清翁の記事で見てみよう。
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その後、高橋は政友会総裁を田中義一に譲り政界を引退するが、1927年(昭和2年)に昭和金融恐慌が発生し、瓦解した第1次若槻内閣に代わって組閣した田中に請われ自身3度目の蔵相に就任した。高橋は日銀総裁となった井上準之助と協力し、支払猶予措置(モラトリアム)を行うと共に、片面だけ印刷した急造の200円札を大量に発行して銀行の店頭に積み上げて見せて、預金者を安心させて金融恐慌を沈静化させた。
1931年(昭和6年)、政友会総裁・犬養毅が組閣した際も、犬養に請われ4度目の蔵相に就任し、金輸出再禁止(12月13日)・日銀引き受けによる政府支出(軍事予算)の増額、時局匡救事業で、世界恐慌により混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させた(リフレーション政策)。五・一五事件で犬養が暗殺された際に総理大臣を臨時兼任している。続いて親友である斎藤実が組閣した際も留任(5度目)。また1934年(昭和9年)に、共立学校出身に当たる岡田啓介首班の内閣にて6度目の大蔵大臣に就任。当時、リフレーション政策はほぼ所期の目的を達していたが、これに伴い高率のインフレーションの発生が予見されたため、これを抑えるべく(出口戦略参照)軍事予算の縮小を図ったところ軍部の恨みを買い、二・二六事件において、赤坂の自宅二階で反乱軍の青年将校らに胸を6発撃たれ、暗殺された。享年82(満81歳没)。葬儀は陸軍の統制によって、1か月後に築地本願寺で営まれた。

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出口戦略
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E5%8F%A3%E6%88%A6%E7%95%A5#%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%AD%E7%B5%8C%E6%B8%88%E6%94%BF%E7%AD%96
昭和金融恐慌
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E9%87%91%E8%9E%8D%E6%81%90%E6%85%8C
昭和恐慌
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E6%81%90%E6%85%8C
 ↑これら2つは、当時抱えていた経済問題をよく理解できる。

 当時の政界は皇族や財閥、軍部出身者で構成されていたため、基本的に政策への理解が乏しい状態だったと言えるだろう。
 そこへ、インフレ抑制策を打ち出した事が逆恨みの理由になっているわけだ。

 欧米から忌避される日本の拡張に対し、インフレ抑制として軍事費を削減すれば、対外的にも縮小をアピールできて槍玉に挙がりにくくなるという一石二鳥の手法だったのだ。

 これが日本を弱体化させていると取られたわけだ。

 余談だが、当時もマスコミというのはゴミ扱いでろくでもなかったのは、あちこちの政治家等が蛇蝎のごとく嫌っていたことからも解りやすい。
 
 当時の脆弱な経済システムや、世界的に日本が置かれたポジション・外交問題などから類推するに、荒波を小舟で乗り切るがごとく大変だったことだろう。
 この大変な問題を、あいつが悪い!こいつの責任だ!となすりつけ、誰も根本原因を理解してないという状態で、メディアが嘘八百を並び立てる。
 そこへ、左巻きが、天皇陛下は騙されてるんだよ、あの奸賊を排除すれば喜んでくれるよ、昭和維新をやろうよ、とささやくんだから、真面目な将校はころりと騙されたことだろう。
 
 しかし実際は、昭和天皇の大事な部下たちを無下に殺されたことから、天皇陛下は大変なお怒りだった。
 だからこそ、暗殺で排除すれば天皇陛下は喜んでくれるはずという見込みが外れ、クーデターは大失敗に終わったわけだ。
 さらに腹立たしいのは、こういった事件が元で厭戦派の主軸も暗殺され、軍部の発言力が増大して戦争へとひた走るハメになったこと。
 くわえて、天皇陛下を始めとする方々が戦争を企図したと、当時、嘘を付き煽った連中が、戦後に批判している。

 
 これらの歴史から学べることは、以下だ。
 1:経済の悪化は絶対に避けるべきということ
 2:国民の経済や政策への不理解は、安易な工作に騙され、的を撃ち間違えるということ
 3:サヨクの目的は政権転覆だから、どの流れからでも首相が悪い・大臣が悪いと責任論を持ち出し、難癖をつけ、真面目な国民を騙すということ
 4:情報の断絶や少なさが疑心暗鬼を生み、魔の手が入り込みやすくなること
 5:騒乱屋のような、トラブルが起きるとお祭りみたいで嬉しいという輩も実在すること。記者が陥りやすい
 6:サヨクは責任を追求する割に、絶対に解決策は提示しない、あるいは提示しても状況が悪化するものだけであること

 
 百年も前から今と同じなのだ。
 政治家というのは、国民が直面している問題を速やかに解決することが求められる反面、さまざまな都合で形にできないだけで、自責が少なくとも、糾弾される憂き目に合う。
 しかも、能力はないのに政治家になりたい政治屋も混じるから、政策に対する理解が乏しいと、誰が悪いのか理解できないのだ。

 問題を無理にでも発生させ、「あ~~~!!」と大騒ぎし、みなさんが焦っている所に全然関係ない所から「いやホント大問題だ!」と騒ぎ、さらに違う所から「あいつが犯人だ!」と叫んで、犯人捏造完成、という仕組み。
 ベースに経済問題などがあれば、なお一層効果が増す。
 この手法を使って成功させたのが、かつての民主党政権擁立である。

 したがって、今、真面目な自衛隊のみなさんや国民のみなさんが、問題意識はしっかり持っているのに、トラブルの理由や仕組みについて理解が乏しいと、容易に危険度が増すということになる。
 幸い、ネットの恩恵でマスゴミの嘘が明解だから救いがあるものの、それでも騙される人間がたくさん出るのだ。
 これで国論が二分されるようなことになれば、国民のメリットは乏しく、サヨクのみがほくそ笑むという事態になる。
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【英国王立協会:調査結果】共産主義が国家をより貧しく、より不健康にすることを科学が証明 2018/4/14
https://www.newshonyaku.com/+Communism/20180414

 くれぐれもご注意願いたいのが、こういったバカ連中の強制排除だ。
 過去の例でも、無理な左翼の封じ込め策がさらなる悪化を招き、混乱を呼んでいることが解る。
 これがそのまんま戦争へつながっている。

 大事なのは排除ではなく、正しい情報の流布と正しい理解なのだ。
 それにより、バカは勝手に消えていく。
 排除すると「なにか都合が悪かったに違いない」とまた嘘を付き、それを膨らませて大きな組織や活動へと変貌させてしまうのだ。
 「組織の陰謀」「国家の謀略」などと、妄想の巨悪の存在を政策が解っていない人間にささやく革マル派みたいな状態だ。

 今でも、全く関係ないアイドルのスキャンダルを政権陰謀だと叫んで、安倍無双ネタが増えているはずだ。

 

 異端児と言われた石原莞爾は面白い言葉を残している。
 「予は東条個人に恩怨なし、但し彼が戦争中言論抑圧を極度にしたるを悪む。これが日本を亡ぼした。後に来る者はこれに鑑むべきだ。」
 最後の海軍大将である井上成美も同様なことを述べる。
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 井上成美
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%88%90%E7%BE%8E
以下抜粋
1925年(大正14年)、榎本重治海軍書記官に「治安維持法が近く成立するが、共産党を封じ込めずに自由に活動させる方がよいと思うが」と問われた井上は無言であった。それから二十数年が経った戦後のある日、横須賀市長井の井上宅を初めて訪ねてきた榎本の手を握って、井上は「今でも悔やまれるのは、共産党を治安維持法で押さえつけたことだ。いまのように自由にしておくべきではなかったか。そうすれば戦争が起きなかったのではあるまいか」と語った。
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 政情不安→厭戦派の暗殺→皇道派の排除→統制派の台頭→言論弾圧→戦争反対意見の抑圧→戦争→戦後にも大暴れ→現代に至るまで混乱、という流れだ。
 元々は統制派が左翼的、皇道派が右翼的なのに、皇道派がサヨク工作で潰され、好戦的な統制派が権力を握った構図だ。

 統制派の厭戦的な人間は皇道派に殺されて歯止めがかからなくなったのだ。
 
 近代史の理解は大変であるが、現代世相と重なる部分もあり、我々に大きな知恵を与えてくれる。
 ご先祖様が味わった苦難の荒波を振り返りつつ、羅針盤としていくことが、英霊の菩提を弔うことにもなろう。

 了

ガンバレ!日本!!
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