母の旅立ち | さつき日和

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好きなことや日々の出来事を楽しく書いていきたいと思います。

母が亡くなりました。


脳出血で倒れて以来約17年間寝たきりの生活でした。

左半身に強い麻痺で身体が動かず、言葉も喋れず、食事も出来ないので胃ろうから注入食で栄養を摂っておりました。

コロナ禍になり、施設に預けて3年と数ヶ月。

その前から少し体力も落ちてきていたのか、肺炎になる回数も増えていたので、母の担当のケアマネジャーさんと相談して入所を決意いたしました。


入所してからは体力も衰え、何度か肺炎で「もしもの時は連絡するので…」という連絡を数回受けておりましたが、体重もどんどん減り最近は20kg台まで落ちていました。


「母が危ない」と連絡が来たのは夜7時回った頃で、姉達が駆けつけた時にはもう息を引き取っていたそうです。

私もすぐに支度をして、次の日の朝一番の飛行機で帰りました。


母には「よく頑張ったね」と言葉をかけました。

「痛い」とか「苦しい」とか不満もあっただろうけど言葉を発せないから気持ちを周りに伝えることも出来なかったし、悔しい思いも何度もしていたと思う。

それでもこの日まで「生きていてくれてありがとう」という気持ちのほうが強く、母が亡くなった悲しさよりも「これでやっと痛みや苦しみから開放されたのかな…?」という思いのほうが強かったです。


元気な時は人の為に一生懸命だった母。

寝たきりになり17年もの間、自分の思いすら口にする事が叶わなかった。


本当なら穏やかな老後を生きてほしかったと何度も思ったけど、起こってしまったことは変えられない。


だから次に生まれ変わるなら、自分の幸せのために生きて欲しい。

そして、穏やかな人生を送って欲しい。


生まれ変わった先で出会えるかはわからないけど、母が幸せな人生を送ってくれたらいいな、と心から思っています。




鹿児島に帰っていた間は姉夫婦や姪っ子とその子供達と過ごしていたので、とても賑やかに過ごしました。

父の時も甥っ子達がまだ小さかったので賑やかでしたが、父も母も子供が好きだから子供達の賑やかな声が聞けて喜んでいる事だと思います。


ただ、姉とも話したのですが、今はまだバタバタで忙しさとみんながいる賑やかさで悲しみに暮れる時間はないけれど、この忙しさが過ぎてそれぞれがそれぞれの生活に戻ると母が亡くなった事を実感し、寂しくなるのかもね…と。


私も横浜の自宅に戻ってきて荷解きをし、ゆっくりしております。

きっとこれからふとした時に母を思い出しては寂しさを感じると思うけど、それは共に過ごした時間や思い出があるからこそ、だもんね。


親孝行らしいことなんて何も出来なかったけど、せめて父と母が授けてくれたこの命を粗末にしないように生きていこうと思います。