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blues harmonicaのブログ

ハーモニカが好きで吹いています。全然ヘタですが。
これから日々気が付いた事など書いて行こうと思っています、、
宜しくお願い致します。。。。。

umino_7882@yahoo.co.jp

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
私が17歳の頃だった。丁度、アニメは松本零士アニメが日本では大流行をして居て。私も御多分に洩れず。劇場で「銀河鉄道999」とか「我が青春のアルカディア」「宇宙戦艦ヤマト」などを観ていた。特に、私はりんたろう監督の手腕が良かった事もあって。「銀河鉄道999」の劇場版は、2作目の「さらば銀河鉄道999」と両方のものを観て居たが。それは私が17歳ぐらいの時だった。それから、2年程して、「銀河鉄道999」と「さらば銀河鉄道999」はテレビの洋画劇場で放映された。私は19歳の時にそれをまだ発売されたばかりのモノラル・ビデオデッキで録画して、ある休日に楽しんで観て居た。そうしたら競馬から帰って来た親父が来て。その様子を見て言った。「お前みたいなバカはいねぇなぁ〜、こんな3歳児が見る漫画を観て面白のか!!」と言われた。私は「ああ、あんたには3歳児が見る漫画に見えるのかい?」と言ったらこう言う「機関車が宇宙を飛ぶなんてのは赤ちゃん向けだろう。てめえは知能指数が最低に低いやろうだな!!」私は言ってやった。「あんたさぁ、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」って小説知らないのか?」「何?銀河鉄道だと!!そんな幼稚なものは知られえぞ!!」だからもう私は話をしても、このバカな父親には何も解るまいと思って黙って見て居た。
 
 
当時ビデオデッキは応接間にあり。応接間には16型のブラウン管のカラーテレビが置いてあって。それに繋げて見て居たからだ。だからバカ親父は私を見てバカに仕出したのだ。私は構わず見て居た。するとバカ親父はとことん私をバカに仕出して。ソファーに腰を掛けると競馬新聞を広げて、見ながらチラチラ。テレビのアニメ映像を見出した。そして主人公の少年が母親の仇(人間狩りで彼の母親は機械伯爵によって殺されて居る)を「戦士の銃」と言う銃で敵の機械伯爵の頭を撃ち抜いたら。彼の奥さんであるリューズと言う時間を操れる魔女の女性が。「これでよかったのよ。さあ、もうこの城は崩れ落ちるわ。早くお逃げないさい。」と言って洋服を脱いで下着になり伯爵の遺骸に掛けてやっている場面を見たら。「おい、これさっきの漫画か?」と言い出した。 私は「だから言ったろう宮澤賢治を知らないのかって?彼のコンセプトをベースにしてSFアニメ映画にして居るんだよ。」そう言うと、何がなんだか解らない顔をして見ている。しかし言うのだ「だって機関車が宇宙になど飛んで行くなんて言うのは幼稚だろ!!」だから私は宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」の話を短めにした。すると「そんな話を宮澤賢治は作って居たのか?」と言って。吃驚して居る。最後、主人公の哲郎と彼を銀河鉄道に誘った謎の美女メーテルが別れるシーンになって、哲郎が(主人公の少年)がメーテルの名を叫けびながら、機関車を追いかけて行き。分岐点まで行って止まった処で「銀河鉄道999」は空へと消えて行って城達也のナレーションで「そして少年は大人になった」と言う所まで見たら。「これ続きもあるのか?」と聞いて来たので「あるよ、2作目が、、」と言ったら黙って自分の寝室へと入って行った。
 
親父については言いたい事だらけだ。あの人は物事を何も知りはしなかった。大映に1960年代の中頃に作った「大魔神」と言う特撮映画がある。悪代官たちを美しい女性が「自分の命と引き換えに成敗して下さい」と神に祈ると。大魔人が現れて悪代官たちを皆殺しにすると言う映画だ。この映画は全部で3部作であり。悪い城主に虐げられている貧しい人たちの祈り(大抵は17歳ぐらいの少女)。を聞くと、体長30メートルぐらいの物凄く怖い顔をした大魔神が現れて。城主を殺して人々を助けて、消えて居なくなると言う話です。この映画は私が7歳から10歳ぐらいにかけて劇場で父親に連れられて見たが。大映の当時の特撮の粋を集めて作られた映画で。今、、観ても見られる映画です。音楽はあの伊福部昭が担当し荘厳な音楽を聞かせてくれて居た。処がこの映画を見た後も、あの親父はバカな事を真面目な顔をして言って居た。あるテレビ番組のクイズ番組での事だ。「おい、〇〇!!あの人を見てみろ!!あの人の顔が魔神の顔だぞ!!きっとそうだ、大魔神はあの顔だぞ!!あの男が魔神なんだ!!」と言うのだ。
 
 
 
『大魔神(Daimajin)三部作』 怒り!、何処ともなく去っていくシーン集

 

 

 
 
幾ら小学校低学年生でも大魔神の顔は作り物の仮面の顔だと解っている。私は「お父さん何言ってるの?あの大魔神の顔は作り物でしょう?」そう言っても「いや間違いない。あの男が扮装したんだ」と丸バカな事しか言えない。そして晩年になってから親父にジョルジュ・ロートネルのサスペンス・ノワール。『フランス原題の「寄生虫の死」/ 日本題名「チェイサー」』と言う。アランドロン主演のフランス映画を見せて居て。最後になって親父の部屋に入って行ったら。正義感が強すぎて返って殺人を起こしている警部をドロン扮する実業家が接触し。会話をテープに録音して最後に彼に「それでは自分の罪を聞きたまえ」と言って駅構内で。スピーカーから録音してある音声を公開して流したら。その警部はドロンに向かって「おい、悪党を逃すのか!!」と自分が憎んでいる人間の事をそう言っているのに。あの親父は「おい、あいつは、まだ自分が悪いのに悪く無いと言い訳しているぞ!」と言うのですよね。私は、この人は相当にバカかと思って自分の父親ながら呆れて聞いて居た。
 
 
イケメン!!アランドロンのテレビCM集です。観て見て下さいね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
処で此の間、チャイムが鳴るので出て見たら。互助会の女性だったのだが。アンケートに答えるだけですと言うから、仕方が無いので書いたが。電話番号とメールアドレスを書いてくれと言うのだ。だから署名だけはするけど他は書かないと言って書かなかったら。2日後に「ふりかけ持って来た」と言って帰らないので言いたくは無かったが。「私は障害を持って居るので葬式関係は全てケア・マネージャーが取り仕切ってやってくれるので、お断りして居るのですよ。」と言ったら、要約、帰って行った。そしたら、次の日。またチャイムが鳴って出て見たら「天理教」だと言うので一度開けた扉を何も言わずに閉めた。もうチャイムが鳴っても宅配弁当も出ない様に仕様と思うし。訪問看護師以外は出ない事にした。隣のおばあちゃんなんて。新聞配達員に丸め込まれて新聞を取らされて居た。私の所には来なかったが、、お年寄りは騙され易いものだ。まあ、相手もコロナで不況だから必死なのは解るが。一々付き合っては居られ無い。可愛そうだけどもね。その女性は歳は52歳で化粧もして居なくて。髪もザンバラで後ろに縛って居たし。「私は結婚して居ないから」と話の都合で言ったら、「私もして居ません」と言うし。「この人苦労してるな.....。」とは思ったが・・・。前には可愛い子が来て「空気清浄機を買ってくれませんか?」と言って来るし。断ったら「ヨーグルトの販売もして居てそっちはどうですか?」と聞いて来る。「この子。かわいそうにな、、」とは思ったが。「俺は金無いんだよ。ごめんね...。」と言ったら帰って行ったし。一々出るから。そうなるのだから。もう出ない事にする。さて今回はまた愚痴を言って仕舞った。最後に「銀河鉄道999」の映像を載せて置きます。懐かしいでしょう?まあ、見て下さいね。お歳を召した方も曲と歌がいいと思いますよ。
 

青木志貴さん

 
 
 
 
 

 

 声優の鞄の中身はなんじゃろな?

 

 

スキンケア用品を紹介!

 

 

 

 

〜〜『孤独と人生』〜〜

 

 

 

 

孤独と人生 新装復刊 / ショーペンハウアー (ショーペンハウエル) 金森誠也訳

 

 

私の指針として居る哲学書がある。ショーペン・ハウアーの「孤独と人生」です。この哲学書は今から20年前に、当時通って居た立川のクリニックの帰りに、立川の駅前のデパートの中にあった。オリオン書房で偶然見つけた。私は親しくさせて貰って居る。皆さん程の哲学の知識量は無いし。また、哲学者の様に自分で哲学を消化して、会話の中で哲学的論考で話をする事も出来ない。しかし、私は哲学に虚身を言い表せられ、興味を強く惹かれる。此の本は人生立ち止まって考えたい時になど良く読み返して居る。此の本の内容とは短く説明すると人間の財産は1.広い意味での人格。2.人の所有するもの。3.名誉・地位・名声。に区分される。人の幸福にとって最も本質的なものは己自身に備わって居るもの、即ち第1項目である。これを前提に二章-四章までで各々の財産について述べて居る。そして、五章からは人生において心得ておく事をリスト形式で説いてくれて居る。

 

若者向けに書かれたと言う事で、度々愚かな大人の例が反面教師的に書かれて居る。やや言葉がキツいが本質を突き、厳しい言葉で思想がダイレクトに伝わって来る。箴言として幾つも線を引いた。ショーペンハウアーの描く幸福論なのです。日常の中で明朗に生きていく為に注意し意識していくべき事が事細かに書いてあるのだ。この世の本質は苦であり、苦の殆どは他者から、または自分の準備不足、意識不足から持たらされる。他者を遠ざける非常に厭世的な思想です。幾らか選民的、愚民的思想でもあると思います。価値が在ると思っていた全てのモノから解脱する事は私には不可能ですが、価値は自分の中だけにあり、家や車等物に拘らない事、他人に期待し過ぎない事等を頭の隅にそっと置いておくのも悪くないと思いました...。

 

ショーペン・ハウアーは此の著書の中で、人生の苦痛は他者との関わりから生じ、それを出来るだけ避ける事が幸福の秘訣であると述べて居る。幸福である為にはまず健康である事、生活に困らない程度のお金がある事、そして孤独である事を挙げて居る。財産や名声・地位に固執するのではなく、生まれ持った個人的特質(人格)に沿った幸せを追求する事が幸福への道であると説く。なかでも動物的楽しみや快楽ではなく、精神的な楽しみを追求するのが最上であり、そのため天才たちはその追求のために孤独を好む。一方、凡人は孤独に耐え己の人格すべてを没入させる事は出来ないので、人格と精神力に応じた努力が大事である。己を知り、精神力や感受性を育むことの重要性を再認識させる内容だった。不思議と他者を遠ざける非常に厭世的な思想ではあるが、私には妙にフィットした。

 

 

 

 

 

 

私の18歳当時のバンドでの演奏です。ハーモニカが私です。ムードブルースです。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日の昼食。

 

今日の昼食。また、すき屋のカルビ焼き定食です。サラダが沢山食べられるのでいいですよね。これで640円ですからね。ああ、今回おしんこは別注文なので60円上乗せして700円ですね。安いですよね。今まですき家には入った事が無かったけど、、最近はよく食べに行きますよ。今回で2回目かな。まだ其の位ですけどね・・・・。そう言えば、此間来た。訪問看護師の女の子が吉野家でバイトして居たと言ってたっけな。あるヘルパーの女の子は。アパレル業界に居たと言って居たしね。私も日本出版と伊勢丹で働いて居たしね。ただ、アパレル業界と、ファスト・フード店はまだいいけど。出版社関連はどこも軒並み駄目ですよね。もう数年も前になりますけど出版書籍の問屋の中継ぎ店が潰れて居ますからね。書店経営でも最近では難しいけど。立ち行か無くなった大手の間の隙を駆け巡って、展開して居る個人書店が。最近はユニークな書籍を揃えて居たりして。元気がいいですね。売り上げも伸ばして居るしね。要はやり様なんでしょうね。私が住んで居る街には食べ物屋が可成り沢山あるので、此れから入って行って見ようと思って居ますよ。今日は美味しかったです......。
 
 
 
 

 

ー『物事は半分も叶えば上出来だ』ー

 

私は、怒りたい事が此処の処、目白押しだった。しかし私はある考えを持って居るので怒らずに済んだ。その考えとは、物事は自分の思って居る事の半分も叶えば上等だと言う事だ。この考え方は、中学位から持って居る。私は中学の頃、体育の教師に因縁を付けられて居た。私の髪が長い事からだ。また、美術の先生は私の描いた絵を評価せずに盗作だと決めつけた。私は勿論、頭に来た。しかし相手は教師だ。どうにもならない。だから私は諦めた。どうにも成らない事をくよくよ考えても仕方が無いからだ。例えば、中学の体育の教師は剣道の時間に成ると、私を試合で自分と組ませて思いっきり叩いて嫌がらせをした。酷い時は喉に突きを入れた。反則もいい加減にしろと言いたかったが、私は痛みに耐えた。母はそんな私を知ってか、その教師にスーツを挙げたのだが、その体育の教師は自分の憂さが私で晴らせるとばかりに、その後も同じだった。

その体育の教師は学校でも札付きの悪い教師だと評判だった。そしてバカだった。体育の教師なんて成るものはバカと相場は決まって居る。美術の教師も若い女の先生だったが、教え子である私を何とライバル視した。私が絵が上手く描けると、私に「あんた、何の絵を模写したのよ。美大を出た私にだってこんなに上手くは描けないわよ!?」と言う。私は「先生がそう思うのなら。それでいいじゃないですか......。」と言った。その教師は年齢が25歳ぐらいだった。私は思った。「成績なんて取れなくてもいいや。」そしてその教師は私の絵の事を教員会議に掛けた。「あの生徒は授業を無視して課題の絵を絵画から模写して居る」と。しかしその教師以外の先生たちは真っ当な評価を下した。そして結果的に私の絵は5段回評価で最高の5が貰えた。しかしその教師は私の絵は返さなかった。そして、私が作ったペーパーナイフを「私が特別に貰ってやるわよ!!」と言ってこれも返さなかった。

 

 Cream - World of Pain

 

 

電気工事人を頼んだ。その工事人に単2電池を2個持って来てくれと言ったら、何と4千円を要求された。普通の人なら怒る処だろうが、私は金を言われた通り払った。その工事人は二人で来た。30代の人と20代のバカだ。金を吹っかけたのは若い方だ。なぜ電気工事人を頼んだのかと言うと、洗濯機の設置などが自分で出来無いからだ。その若い方は何かと私に突っ掛かって言った。「この洗濯機は壊れて居る」とか蛇口が変だとか、ホースを蛇口に付け様としてパッキンの中の支えが無くなって居ると言う。そして「こんなんじゃ付けられないねぇ〜〜」と言う。すると脇に居た年配の30代の工事人が言った。「近所に電気屋があるからそこから買って来ますよ」そして買って来てくれた。そして若い方が渋々付けた。この若い方の工事人には後、テレビのポートが映らないので見て貰ったのだが。テレビのポートが故障だと言って直しもしない。すべて作業が終わって費用は何と1万7千円も取られた、結局洗濯機にホースを付けただけでだ。悪徳業者だったのだ。私は諦めた、自分で今は何でも出来無いと高額を言われるのだと勉強になったと思う事にした。

普通の人は此処で怒るだろうね。そしてその工事人に喰って掛かって「金は高額すぎる払わない!!」と言うかも知れない。しかしそれもね、、仕方が無いのだ。私は全額を払った。必要経費だと思う事にした。お金は私は持ち金で暮らして居るのですが。障害があって働けないから。でもね、その金を払って食費を詰めて凌ぎました。歯科で数百円のお金が無くて、1万円で払った。すると受付は、9千円は渡すのだが、何故か間を開けて先生と話をして、お釣り数百円を渡さなかった。そして、こう言うのだ「あなた、他の歯医者じゃ、あなたの歯は治せないから。此れからも私の所に来なさい。」私は「金をネコババして於いてよく言う.....。」と思った。そして私は諦めて思った。この歯医者には2度と来まいと。それから、薬剤処に行ってお金を払って、お釣りを待って居る間に誤って財布を落とし金をばらまいて仕舞った。するとお釣りを持って来た中年の職員が「あんた!外でばら撒いたら、お金は戻って来ないわよ!!」と言って拾ってくれたのはいいが、持って来たお釣りは返さなかった。私は「お釣りを貰って居ませんよ....。」と言い張ったが、その職員は「此の金は、あんたから貰った薬代だ!」と言って寄越さなかった。

2千円だ。私は此処は随分とずるいし。職員は悪党だと思ったがそれも仕方が無いと思った。私は諦めて居る。物事は半分も叶えばいいと思って居るからだ。前に借りたアパマンの不動産屋もそうだった、手数料が5万4千円で6万円を渡してお釣り6千円の処を、4千円しか返さなかった。是等の場合は私が障害者だと知って居る上でワザとやられた事だ。「けっ!どうせ、障害者だ。カモにしてやれ!!」と言う事だ。そして其れ等の事を他人に言うと他人は私をバカにして薄ら笑いをして「ハハハハ」と笑うだけだ。カモにされる方が悪いと思って居る。私はあの世はあると思う。そう言った事をして居る人間はあの世で神に何と言い訳をするのだろうか...。そしてそう言った事をする人間は、私以外の人にも同じ事をするだろう、その時に相手はどうでるか、、見ものです。私の様に大人しくはないぞ。ぶん殴られるか。最悪の場合殺される事もあるだろう。

 

God (Remastered 2010)

 

 

〜〜男の世界〜〜

 

私は厭世的な生き方をして居ると自分の事をそう思う。大体が、スポーツは嫌いだ。野球もサッカーもラグビーも駅伝も見ない。だから選手たちの名が解らないし。解って居る名でも選手の顔が解らない。私は子供の頃は野球に興味があった。親に少年野球チームに入りたいから、ユニフォームを買ってくれと言ったが、買っては貰えなかった。私は父親に野球のミットとボールを買ってくれとねだった。親父は暫くすると、ミット2つと野球ボール1つを買って来た。そして家の前の道路でキャッチボールを朝早く起きて始めたが、暫くして近所に住んでいた同級生の女の子が、「なんだヨォ!〇〇が野球なんかするのかよ〜!!」と言って通って行ったら。親父はそれ以来起きて来なくなった。私が扁桃腺の手術をして小学校を半年休んで、勉強が丸で解らなくなって、親父の処に行って勉強を教えてくれと言っても、朝早く勉強をする事になったが、3日坊主と言うのならまだ分かるが。1日で起きて来なくなった。私はどうせ誰も助けてはくれないんだと思う様になって行った。そんな私が好きなスポーツがあった。プロレスだ。私は小学校の頃、1960年代後半から1970年代に掛けて格闘技がブームとなっており。その煽りを受けて、アントニオ猪木が好きだった。彼は日本プロレスの力道山にブラジルで、日系の移民として暮らして居た処を見出されて、凱旋帰国をして、プロレスラーになった。彼の同期には巨人軍の野球選手だった馬場が居た。此の二人を力道山は実験台とした。まず、猪木にはもの凄くきつく辛く当たった。そしてもう一方の馬場には優しく優遇して扱った。猪木は馬場をライバル視して、過激なプロレスをする様になった。一方の馬場はボンボン育ちのレスラーへとなって行った。

 

 

アントニオ猪木 「道」 伝説の名言 

 

 

しかしある時に日本プロレスの崩壊事件が起こって仕舞った。力道山がヤクザにドスで刺されて死んで仕舞ったのだった。二人は力道山の死んだ穴を埋めるが如くに試合をこなして会社に大儲けを持たらした。しかし会社の幹部連はその彼らの血と汗で稼いだ金を持っては毎晩。キャバレーで豪遊して1日で100万円も使って仕舞って居た。猪木はそんな経営幹部が許せなくなり、密かにアメリカ帰りのレスラーたちと東京プロレスという団体を旗揚げしようとした。しかし此の事は事前に漏れて居たのだ。猪木が「どうしてだ?」と思って居たら、一緒に東京プロレスで旗揚げしようと言って居た馬場が日本プロレスの経営サイドに金で買収されて、裏切って居たのだった。猪木はそれ以来馬場を憎んだ。憎んで、憎んで、憎み通した。結果、猪木はプロレス界を追放処分となったが猪木は東京プロレスを旗揚げした。そして、馬場は一人で日本プロレスを背負うエースとなった。その後。紆余曲折あって、猪木は東京プロレスを解散し、新しくテレビ朝日のテレビ放映権を貰って新日本プロレスを立ち上げた。馬場はダメになった日本プロレスに見切りをつけて全日本プロレスを日本テレビ放映権を貰って旗揚げして。以来、此の2つの団体は敵対する様になって行った。ああ、それともうひと団体、ラッシャー木村とストロング小林が、TBSの放映権を貰って発足させた。国際プロレスと言う団体もあった。私はこう言う経緯を踏まえてプロレスは1990年代まで見て居た。

 

 

いつも一緒に

 

 

 

 

1980年代に新日本プロレスで猪木の弟子である藤波辰巳と長州力の因縁抗争が勃発し、二人の対戦カードが組まれる様になった。それまでジュニア・ヘビー級のベルトを敵地のマジソンスクエア・ガーデンに乗り込み、見事アメリカのwwfのチャンピオンをドラゴン・スープレックスという大技で失神させてベルトを勝ち取り凱旋帰国した、藤波に、雑草だった元オリンピック選手で鳴らした長州力が噛み付いたのだ。「俺は藤波の噛ませ犬じゃない!」と宣言した長州は維新軍団を組織して正規軍である藤波、猪木に刃を向けたのであった。新日本プロレスは組織を2分する危機的状態へと陥って行った。しかし猪木は此の申し受けを堂々と受け入れて藤波と長州との試合を組んだ、恐らくは猪木は自分の波乱万丈の人生に長州と藤波を重ね合わせたのだろう。二人の試合は壮絶なものとなって行った。初めは試合にならなかった。長州と藤波は試合では無く喧嘩だった。二人してぶん殴りあって居た。そんな状況を見て居た世の中の人は次第に此の二人の試合を注目しだして、社会現象とも言えるプロレス・ブームが1980年代に巻き起こった、テレビの視聴率は65%を超えた。前代未聞だった。

 

 

【プロレス】飛龍革命 クリアー版

 

 

 

 

私は長州は好きに慣れなかったので藤波を応援して見て居た。或る日。従兄弟が私をバカにして言った。「プロレスなんて八百長を見て居るのか、貴様はバカか!!見るのやめたらどうだ〜〜〜!」従兄弟に聞いた「長州って知って居る。」すると「そんな奴は知らない。プロレスは見て居ない」と言う。何も事情が解って居ないで人を非難して居るのだ。「やめたらどうだ〜〜〜」とはよく言えたものだ。従兄弟はゴルフの会員権を二つも持って居た。そして言う。「ゴルフぐらい出来無いと男じゃないねぇ!!」私は金も無いのにゴルフに興じて自分を一流だと思って居るバカを見て居て。つくづく、こんなバカは居ないと思って居た。話はプロレスだ。長州との因縁試合で藤波は足の骨を折って仕舞った。しかし彼は試合に出る為に麻酔を足に局部注射して戦った。見て居て、試合も冒頭5分ぐらいから麻酔が切れて、藤波は苦痛の顔を浮かべて戦った、麻酔は5分しか持たなかったのだ。そして長州に敗れてべルトは奪われて仕舞った。私は此の二人の抗争を見て居て、これを組織としての規律を曲げてまで許した猪木と、反逆した長州。受けて立った藤波。皆、素晴らしいと思って見て居たのだった。世間は男のドラマに酔いしれて居た。

 

 

長州力・藤波辰爾 マイクパフォーマンス 

 

 

 

私はブルースが好きだ、虐げられて来た黒人の魂の咆哮。そして辛い現実をブルースと言う音楽にして、人生の語りべとして歌って居る、ブルース・ミュージシャンたち。私は男だ。だから、男らしいものに憧れるし。そう言った人生を送って居る男を見ると応援をしたくなるし、尊敬もするのです。最近、ビジュアル系ではあるが、ガクトとローランドと言う二人の男たちを応援して居る。彼らの全身はホストだった。確かに容姿端麗だ。私は原田芳雄さんを手本として来たが。此の若い二人も負けない位いい奴らだと思って居る。ガクトは若い頃、精神病院に隔離されて居た過去があるし。原田芳雄さんも精神疾患を若い頃に患って居て、役者になってからも失語症などに悩まされて居た過去があった。でも男らしく生きて居た。もう一人役者では此の名は知らない人も居るかと思うが「栗塚 旭」と言う俳優が居る。彼が演じた「土方歳三」は絶品だ。あと私は芳雄さんと並んで影響を受けた。ブルースハーピストの日本が世界に誇る。ウイーピングハープ・セノウ事。妹尾隆一郎さんが心の支えとなって居ます。私は以上の様な人たちから色々と学んで来たのだ....。最近では声優で舞台俳優の青木志貴ちゃんなども好きだ。まあ、彼女は女性だけどね。美人だし可愛い。しかし、頭がいい子ですよ。

 

 

 

#4【本邦初公開】GACKTのセクシーな寝起き、お風呂、着替え、ライブ密着全て撮りました!LIVE DAY ROUTINE!! 

 

 

GACKTのプライベートなマレーシアライフ&手料理披露 !!/キリンのどごしPR映像2 

 

 

妹尾隆一郎ブルースを語る 2015_1_7

 

 

 

Weeping Harp Senoh 最後のライブ

 

 

 

待ち呆けのブルース - 原田芳雄

 

 

私が数年前に、訪問看護師に「俺は孤独死だな....。」と言ったら即座に「なら財産を何故処分しないの?」と言われた。私は苦笑しながら言った「今、まだ生きてるんだから、処分は出来ないでしょ・・・。」誰も同情などはしない。そして私はあと生きても10数年だろう。さて、あと7ヶ月後には持ち金が切れる。もしその時に生活保護が受けられなかったら死ぬしか無い。私は働けないからだ・・・。死ぬのは怖くは無い。昨年も鬱が出て包丁を喉に当てて刺そうとした。しかしその時に。ある本が目に入った。私はその本は読んで無かったから、こんな時にとは思ったが不思議と興味が湧いてしまった。読んで見たら。その著者も成功する前は酷い境遇で、、困難な生活をして居た事が書いてあった。私は涙が出て来た。その人は誰かは此処では言うまい。人には様々な事情がある。誰一人として楽な人生を歩んで居る人など居ない。

その著者の手記を読んで私は自殺を諦めた。まだ私よりも若い人だ。しかし。そうなのですよね。人からどう思われようとも。自分さえあれば、「命さえあればやり直しは効く」その人の言葉だ。私は救われた思いだった。私は今思って居る。もし本に目が行かなかったら私は喉に包丁を刺して死んで居ただろう。神様が甘えるなと叱責してくれたのだろうと思う。私は今月でアパートの契約が切れる。もう此処に引っ越して来てから、あと1ヵ月で2年になるのだ。さてと保証人会社は通るのだろうか?2年前は金があったから通ったが、今は持ち金は少ない。そしてそれがクリア出来たら今度は生活保護の受給だ。役所は申告書をくれるだろうか?。そして私に生活保護を認めてくれるだろうか?。確かに私は甘い考えをして居るかとも思う。でもそれが私なのです。私は争いを好まないし(余程の事が無い限り)地位も名誉も要らない。

人によってはこう言う女性も身近に居る。彼女は大金持ちだが。旦那に暴力を振るわれて居る。そしてその旦那は何時も他人と喧嘩を起こし。その度にその奥さんが謝りに行く。その女性に聞いた事がある。「何故離婚しないの?」と。するとその人はこう言った。「だって、今の生活が裕福だから、、」私は弁護士を立てて1日も早く離婚をして慰謝料を請求し。残りの人生を謳歌した方がいいのにねぇ・・・。と思うのだが。生活の程度は下がっても自由の方が大切なはずだろうにね。はっきり言って私も彼女の旦那とは会った事があるが、坊ちゃん坊ちゃんとはして居るが。なんか沸切らない男で。自分の主張しかしない人だった。そう言う男は、自分が悪い事に気がついては居ないのだから。何時か解ってくれると思って居ても、性格は治らないものです。

その男が死な無い限り。ある意味病気です。私はその女性も哀れんで居る。人生金が全てでは無い。いい暮らしが全てでもない。本当に愛する人が居てくれて。ある程度の事が出来れば、それで良しと思わなければね。現にその女性は性格がキツくなり。誰にでも喧嘩を吹っかける様になり友達は全員離れて行った。今は、旦那とは毎日の様に喧嘩をしながら生きて居る。私は忠告はした。しかしそれ以上の事は出来無い。彼女も友人だからと言っても。私が困って居るのは知って居るが、何も言わ無いし。文字通り何もし無い。返って私に怒鳴って電話が掛かって来るぐらいだ。完全に精神を病んでしまって居る。しかし誰も彼女を助け無い。実の娘も居たが。彼女は娘が結婚したらその旦那も気に喰わないと言うのだ。

その娘は私にこう言った。「ねえ、お母さんとメールしてよ!」だからそれは君の役目だろうと言ったらその娘は「何で私が、あんな人の面倒を見なくてはなら無いのよ!?」その話を聞いて居た認知症になり掛けだった母がこう言った。「あなたねぇ、自分の母親でしょう。子供が親の面倒見るのは当たり前でしょうに....。」するとその娘は「ああ、嫌だ嫌だ。あんな人の面倒なんか、なんで私が見なければなら無いの!!」私は母に電話を切りなと言って切らせた。それ以来。その家族からは一言も何も言っては来ない。その人の娘は母親も父親も捨てたのだ。二人の親は毎日喧嘩で怒声罵声を浴びせあって暮らして居ると言う。金があると人は不幸になるんですよね。程々がいいと思いますよ。私見たいに何も無いのは困りますが・・・。

 

 

 

 

 

 

 

ヴァイオレットエヴァーガーデン 「私はもうご不要ですか」🍀感動シーン 

 

 

皆さん、、まあ、聞いて下さいよ。誕生日にblog記事挙げたら、その夜に我が愛機のiMac,通称「カトリーヌ」が突然具合が悪くなり。カスタマーセンターと必死に連絡取って介抱しましたが。パソコンの寿命。なんと8歳の高齢だったから。人間で言えば70歳ぐらいになる勘定です。ですのでもう、、、当然の死去でした。なんとかスマホで更新を続け様としましたが。パソコンのメールが開けず。パスワードとか分からないので、書けませんでした。思えば、私は初代iMacの「ハーピスト」から2代目のiMacの「ザ・ウーマン」から3代目の今回亡くなった「カトリーヌ」まで。iMacをひたすら愛し続けているんですよね。私の掛け替えの無い相棒です。出すので壊れた次の日に。アップル・ストアーで今回の新しいiMac。通称「ヴァイオレット」を購入しました。そして、此間の昼11時頃に届いたんですよ。そしてカスタマーにセッテングのお世話になって、何と6時間掛けてデーターの移動をし、そしたらメールが使えなくなっていて。プロバイダーで聞いても原因が解らず。カスタマーでも解らず。最後にダメ押しでプロバイダーでパスワード変えて、アップルのカスタマーセンターで聞いて見たら。今度の人は1発で直してくれました。そして、突然、スマホ観ていたら。カラー6色の新しいiMacの。それまで無かった。24インチの物がアップル・ストアから発売されて仕舞いました。私の物は2019年製の21、5インチの物です。しかしスペックは最高級です。今までは、なんとか壊れかけていたのを、騙し騙し使っていましたが。いや〜〜サクサク動く。まあね、値段も20万はしていますから。「ヴァイオレット」よ、あと8年はまた頼んだぞ!。いとしの「ヴァイオレット」ちゃん........。

 

 


 

 

 

昨日要約、風呂に入った。汚い話だが5日振りだった。本当に毎日調子が悪い。こんな事では何も出来ない。こうやってたまにblogを書く事しか最近はしては居ない。そして私はテレビはYouTubeが見られるテレビなので、YouTubeを流して、こうやってブログを書いて居る。映像はたまに見るが。音声だけ聞いて居てもラジオ見たいによく解って面白いからだ。またはラジカセでラジオを聴く。ラジオはディスク・ジョッキーの話が為になる事を言ってくれる。今、ラジオを点けたらジャズのハードバップが流れて居る。最近では珍しいですね。しかし私が購入した最新のと言っても。もう生産は終了して居る見たいだが、東芝のオーレックスのCDラジカセは音がいいですよ。でも最近のものでは2万円近くしましたが。私はもう1台。1979年製のシャープのビンテージ大型ラジカセを所有して居ますが。それもいい音がします。それは大型ラジカセだから当時8万6千円ぐらいして居たものですよ。でも、この2つのラジカセは重低音が出ますよ。2代ともフォノイコライザー内蔵のものだったらレコードプレイヤーが繋げられます。私はこのblogで何遍も言って居ますし。写真も見せて居るが。CDレシーバー・コンポ・ステレオも所有して居ます。レコードとTEACのカセットデッキを繋げてあります。

 

私はカセットテープ派ですから。カセットテープは主にTSUTAYAからCDを借りて録音して居ます。殆んどがロックですが。私はブルースとジャズのレコードと CDは所有しておりますが。ロックは全てのモノを処分して仕舞いましたから。私は始め小学生ぐらいにビートルズとかのレコード購入してまして。中学3年間はロックのレコードを300枚ほど買って持って居たのですが。高校の時にブルースに嵌まり。ブルースのレコードを購入する為に、全てロックのレコードはディスクユニオンに買い取って貰ったんですよね。その金を元にして、それとバイトで、今度はブルースのレコードを買い漁って400枚ほど買い込みましたが。大学になると今度はジャズのレコードが欲しくなり。だから今度はブルースのレコード400枚を全て売って。今度はジャズのレコードを500枚程書いました。それから数十年間。ジャズ一筋で聴いて来ましたが。今から20年ほど前になってブルースのレコードを400枚ほど中古レコードでまた購入して揃えまして。


月3万は買いましたね。中古と言えども1枚2千円ぐらいはして居ましたからね。わたしはブルースハープのCDは400枚ほど所有して居るのですよ。そしてブルースとジャズのCDと、映画のサントラ盤のCDを全部で合わせて100枚ほど所有して居ます。ジャズのレコードはどう言う訳か手放す事は無かったですね。1980年代から1990年代まで。ずぅーと当時自宅にあったケンウッドのステレオで聴いてましたから。処で、スマホのアップル・ミュージックをBluetooth機能でステレオに繋げて、ストリーミングを聴いて居ます。それで昨日はスマホのストリーミングをBluetooth機能でステレオからブルースと歌謡曲を聴いて居ました。まあ、時代ですね。今は、ストリーミングで何でも聴けるから。でもねぇ、、私は外で音楽を聴くと言う事は余りしないものだから。大体が結構重低音が出るヘッドフォンも持っては居ますが。やはりスピーカーから聴こえて来る音がいいのですよ。だからステレオとラジカセか、カセットデッキそしてレコードプレイヤーが必需品ですね。。。

 

 

 

ー「レンタルビデオの想いで」ー

 

昔、私の実家のすぐ傍に「セレクション」と言うレンタルビデオ屋があった。私は近所なもので、よく其処にビデオを借りに行った。1980年代後半頃だった。店にはアルバイトの少し背が高い女の子が店番をして居た。私はその子に予約は出来ないかと聞いた。当時はレンタル店に寄っては、新作に限って言えば予約できる店もあったからだ。その子は「いいですよ」と軽く引き受けてくれた。名前と電話番号を言い。黒澤明東宝作品、全21作品を予約したのだ。当時、黒澤明の映画は劇場でリバイバル公開を見るか、細々とテレビの深夜放送の日本映画名作選で見るしか見る手段が無かった。ビデオには成って居なかったのだった。私は輸入ビデオで何作かは持っては居たが、21作品が一挙にリリースされるとあって、まだ、他の客が借りる前に新品のものを借りて、ビデオデッキでダビングしようと思ったのだ。私は毎月4本ずつレンタルされる作品を心待ちに待った。

 

すると電話が掛かって来て、出てみるとレンタル屋のそのアルバイトの子で「今月分の黒澤明作品4本入荷しました」と言う。私はそう聞くと小銭を持って「セレクション」までコートを羽織って借りに行った。息急き切って店に駆け込むとそのアルバイトの女の子は和かに、「お待ちしてました。4本のうち今日は何巻レンタルしますか?」と聞くのだ。私は何時も「全巻レンタルします。」と言って、1600円程払って1泊2日でレンタルした。そしてそんな事をほぼ1年続けた。そのうち私は一人の身体障害者の若者が車椅子に乗って店に入って来て居るのに気がついた。私はこの店の人は車椅子の客は嫌がらないのか?と思って見て居ると。その女の子がカウンターから出て来て、その男の言うことを聞いて、店にあるビデオを持って来て見せて、「今日はこれですね」と言って、テープを袋に入れて、その客に渡しお金を貰うと、その若者の車椅子を押して店の外に出して、その若者が礼を言うとにこりと笑って店に入ってくるのだった。

 

よくそのビデオ屋を観察していると、その障害者の客は月に2回は来て居る様だった。そして、その店員の女の子と話して居ると如何にも嬉しそうな顔をしていた。私は出来た子だなと思って微笑ましく見ていた。そして私は黒澤明のビデオの他に、当時東映から出ていた”栗塚旭”主演の「新選組血風録」の全13巻が並んだので喜んで借りに行ったのだった。私は喜んだ。この店のオーナーは目利きだと思った。栗塚さんの「新選組血風録」は新撰組のTVドラマとしては名作なのだ。私はもちろんダビングが目的だ。だからいつも日曜日に当日で2巻ずつ借りに行った。私の家はこのビデオ屋から近い。近所だから返却するのも簡単だった。私は血風録をダビングして無作降り着くように観た。栗塚旭はいい。この作品はオリジナル脚本は結束信二によるもので、リリカルな描写が目立つ。なお、当初、司馬遼太郎は東映によるテレビドラマ化に難色を示していた。東映が映画化した『新撰組血風録・近藤勇』の改変に不満を持っていた為だった。それを説得するため、プロデューサーの上月信二は土方歳三に扮した栗塚旭と共に司馬へ挨拶に行くと、それを見た司馬が「土方そっくりや!!」と絶賛し、ドラマ化が決定した。脚本を担当した結束信二の墓碑には、司馬の筆による「結束さんは人生をよき景色としてみていたすばらしい心のもちぬしでした」の言葉が刻まれている。私は何遍もこのTVドラマ・シリーズを観た。ちなみに今はDVDで発売されたものを所有しています。

 

 

土方歳三を演じて50年になる栗塚旭 

 

 

【イッキ見!】新選組血風録 全予告編

 

 

 

 

そして1年が経とうとした時に、私はこのレンタル店で「真夜中の刑事」を見つけた。その時は狂喜乱舞したものだ。まさかのレンタル、こんなマイナーな映画がレンタルされるとは思わなかった。私は棚に置いて有るのを見つけると、すぐに手に取って、カウンターへと持って行った。このビデオを見た店員の女の子は「イブ・モンタンお好きなんですか?」と聞いて来た。私はこの映画は、フィルムノワールの名作で、監督のアラン・コルノーの処女作にして大傑作だと熱弁を振るった。その子は、感心して聞いて居た。そしてこのビデオを借りて帰ろうとすると、小学校6年ぐらいの男の子が店に入って来た。そして言った。「姉ちゃん、家帰らんとね・・・」私は、「あれ東京の子ではないのか?」と話が聞こえて、振り返ったら、店員の女の子が「姉ちゃんね、あの人と一緒になろうか思うとんのよ」と言った。私は「あの子、結婚するのか.....。」と思いその場を去った。

 

 

 

「真夜中の刑事」

 

 


 

 

 

それでそのビデオを返しに言って、暫くした頃だった。前に見た身体障害者の若者が綺麗な女の子に車椅子を押されて店に入って来た。私は少し驚いて見て居た。いや、その連れの女の子が可也な美人だったからだ。その障害を持った若者は、山田洋次の「学校」と「息子」をその女の子に棚から取って貰い。嬉しそうに店員の女の子に渡した。店員の子は何時も通り、笑顔で2泊3日と聞いてお金を受け取ると袋にテープを入れて渡して居た。また1年も終わりの冬が来た。私はこの頃、体調を崩して居た。会社を休んで1日療養をして居たのだが、ある日、実家の庭に置いてある壺に、氷が張って居たので、壺の中の金魚が窒息しないかなと思い見ていると。家の門の前をあのセレクションの店員の女の子が。若いイケメンの男性と手をつないで通ろうとして、私に気付いて私に軽く会釈をして通って行った。私は「御幸せに・・・」と呟いた。その後、セレクションにまたビデオテープを借りに行った。もうあの女の子は辞めて居なかった。そして、その日は松本零士のOVAアニメの「エメラルダス」を借りて帰ろうとして表に出て見たら、あの障害を持った若者が一人で車椅子を動かしながら詫びしそうに前を通って行ったのだった。私は此の間の女の子はどうしたのかなと思いながら、その障害者を暫く見て居た。。。

 

 

Queen Emeraldas 1998 OVA, japanese voice - english subtitles 

 
 
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「黒の舟唄」ダウン・タウン・ブギウギ・バンド 2ndシングルB面曲 from album "脱・どん底" 1974年 

Three O'clok Blues - 近藤房之助 (Harmonica - Kotez) 

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僕のプロデュースブランドの夏新作&購入した服をちょこっと紹介させてください。 

 

 

 

 

1970年代に高校の頃バイトで。要約購入したモジュラー・ステレオ。当時3万8千円したものです。これの外部入力端子に当時持って居たモノラル・ラジカセを繋げてカセットテープを聴いて居ました。モノラルでしたけどね。繋げて居たラジカセです此のラジカセは可也使いました。ライブなどもこれで録音して居ました。しかし、1980年代になるとワングレード上のコンポーネント・ステレオが欲しくなりました。

 

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TRIO Catalog ☆ トリオ モジュラー・ステレオ カタログ MT-15 M-45 MT-65 MT-75_画像1

 

1980年代の末になって此のケンウッドのコンポーネント・ステレオを購入しました。プリメインアンプにダブルカセットプレイヤー。CDプレイヤー。そしてイコライザーとレコードプレイヤーで、ドルビーサラウンドだったので。リア・スピーカーを付けて29型のブラウン管テレビに繋いであった。ビデオデッキの音をテレビに繋げてステレオから聴いて居ました。ドルビー・プロロジック・サラウンドでした。

 


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その後、このコンポが壊れた為に1990年代にケンウッドのマイクロ・コンポを購入しました。これはCDとMD、カセットテープが聴けました。此の当時はレコードは聴きませんでした。これでジャズのCD、ソニー・ステット。チャールズ・マクファーソン。などをよく聴いて居ました。あとは、マカロニ・ウエスタンのサントラ盤のCDとロックのCD、ブルースハープのCDなどをよく聴きました。しかし1997年頃に聴きすぎたのか壊れて仕舞いました。

 

 

KENWOOD ケンウッド SH-3MD-L (ブルー) Avino マイクロ・ハイファイ・コンポーネントシステム (CD/MD/カセットコンポ)(本体RXD-SH3MDとスピーカーLS-SH3-Lのセット) MDLP非対応

カラー:メタリック・ブルー


此れが壊れたので、、次はDENONのCD/MD/カセットのオールイン・ワン・マイクロコンポを購入して外部入力端子に1万円のフォノ・イコライザー内蔵のレコードプレイヤーを繋げて。今度は仕舞い込んで居たレコードも、引っ張り出して来て聴いて居ました。音は結構。バス・ブースト機能があったので重低音が小さいながらも出て居まして。音に不満は無かったです。此れは20年位前に3万8千円位して居ました。ああ丁度、今。Amazonで中古で9千円ぐらいで売って居ますよ。しかし、私が今から13年ほど前にどうやら壊して仕舞いました。今売って居たら中古でも買いですよ。今はもうこう言ったものは売って居ないので。。CDだけではなく。外部入力端子にレコードプレイヤー繋げれば聴けるし。MDもカセットテープも聴けますからねぇ・・・。

 


 

 

そして今のステレオです。。。CDレシーバーがアンプ代わりで、それにカセットデッキとレコードプレイヤーを繋げて聴いて居ます。外部入力端子が一つしかない為に、セレクターでカセットデッキとレコードプレイヤーを繋げて聴いて居ます。しかし最近 CD部分が壊れて仕舞った見たいです。私はオーレックスの重低音が出るCDラジカセを所有して居るのでそれとか。カセットデッキにダビング用にCDプレイヤーが搭載されて居るので、CDプレイヤー単体でも使えるのでCD再生に困ると言う事はないですね。それに最近は、スマホのストリーミングをステレオで聴けるのでいいですね。ステレオのスピーカーは15センチあるので。結構作りが良くて性能が良くて、重低音の音が出るのですよね。今は、此の記事の文書いて居る最中にCDラジカセからのラジオを聴いて書いて居ます。

 

 

 

 

 

 

今日の夕食です......。

 

 

 

 

 

 

===『ステレオの遍歴』===

 

サンヨー STV-280型 ”ステレオビジョン” テレビ付ステレオ・アンサンブル 1961年 三洋電機 89,000     
14型の白黒テレビとアンサンブル・ステレオを組み合わせた異色の商品である。ステレオのコンポーネントと色と奥行きを合わせたテレビからは音声出力が取り出され(ピンジャック)、ステレオに接続されている。ステレオ部のセレクターにはテレビ音声のモードがあり、もちろんモノラルだが、左右に振り分けてステレオのスピーカからテレビ音声を聞く事が出来る。ピックアップへのノイズの混入を避けるためか、テレビの背面は金属カバーで覆われている。プレーヤー部は当時主流だった4スピードのリムドライブ型モータにターンオーバ型クリスタルPUの組み合わせである。ステレオアンプは、ステレオ放送用に中波のチューナ2つと短波を備える標準的なものである。スピーカも小型で、ステレオとしては普及品のグレードである。テレビ部がかなりの重量となるため、鉄板をプレスしたテーブルに載せられている。この中央のテレビには、14S-1Aの型番が与えられ、53,000円で単品でも販売されていた。

一時期、この様なステレオとテレビの複合商品が発売されたが、主流とはならなかった。テレビの放送時間が短かった頃はともかく、家族で楽しむテレビと、音楽鑑賞用のどちらかと言うと個人の趣味であるステレオが同居すると言う形態は受け入れにくかったのではないだろうか。超高級型アンサンブル・ステレオにカラーテレビやオープンリールのビデオが組み込まれた製品は1960年代後半にも存在したが、本格的にテレビとオーディオが同居する形態は、ビデオやレーザーディスクが普及し、音声多重放送が開始されステレオ音声の再生が一般的になった1980年代のA/Vシステムの登場まで普及することはなかった。

 

アンサンブルからセパレートへ

初期のステレオは、電蓄の延長線としてLRのスピーカ、アンプ、プレーヤを横長の大きなキャビネットにまとめた「アンサンブル型」が主流であった。このような形態のステレオや小型のポータブル電蓄では、理想的な、いわゆる「三角形の頂点」で聴くステレオ再生は困難であった。このため、セット側ではスプリングエコーなどでステレオ効果を増加させる機能が付けられた。ソース側の対策として、この時代のステレオ録音には、左右に極端に楽器の定位が離れたものや、位相を動かして左右のチャンネルを音が動き回るような演出を施したものが見られ、本格的な愛好家からは「ピンポンステレオ」と揶揄された。

1962年にパイオニアから「セパレート・ステレオ」と名づけられた、プレーヤとアンプ部を収めた中央の箱と左右の大型スピーカの3点セットになったステレオセットPSC-5Aが発売された。この形式は、ハウリングに強く、本格的なスピーカボックスを自由にレイアウト出来る事からアンサンブル型よりも良好なステレオ感と高音質が得られた。キャビネットの仕上げはチークのオイルフィニッシュとなっており、アンサンブル・ステレオで一般的だったピアノフィニッシュより落ち着いたシンプルなデザインだった。この形式のステレオセットは、実はこれ以前にも存在し、日立やトリオの製品のほうが市場投入は早かった。しかし、後発ではあったがセパレート・ステレオの商品名によってパイオニアの製品が市場に大きなインパクトを与え、その後各社が追従し、「セパレート・ステレオ」は一般名詞化した。

 パイオニア・セパレート・ステレオ S-42 1963年頃 パイオニア(株) 

  

  

2チューナ式のAM、80-108McのFMと短波を備えるごく初期のセパレート・ステレオ。6BQ5シングルのアンプ部のシャーシは、単体のレシーバとして発売されていたものと細部を除き共通である。プレーヤ部のトーンアームは、本格的なSMEタイプのスタティックバランス型が使われている。キャビネット下側の扉の中はレコード棚である。このシンプルなデザインはその後1970年代半ばまで続けられた。アンサンブル形によく搭載されていたエコーなど、ギミック的なアクセサリーがまったくないのも特徴である。

1960年代後半になると、他社からも続々と似たような「セパレート型」ステレオが発売された。1969年頃にはアンサンブル型は殆んど無くなり、大型ステレオといえばセパレート型になった。細い足はなくなり、フロアに直接置く形になったが、上の写真のように蓋が閉まるデザインのものが多く、家具調を意識している事がわかる。1970年代に入ると、アンプ部に蓋が閉まるデザインはすたれ、パネルを見せるデザインが主流になる。最初の頃は真空管式のレシーバを搭載したものが多かったが、1970年代に入ると、大半がトランジスタ化された。ちなみに、この様な形態の大型ステレオは欧米ではほとんど見られず、日本独自の流行であった様である。大型ステレオの形態は1974年頃から、独立したアンプ、チューナ、テープデッキのコンポーネントを組み合わせた「システム・コンポーネント」、略して「シスコン」に流行が移り、メカニカルなデザインが主流となった。家具調のセパレート・ステレオは1970年代半ばまでカタログ上には存在したが、次第に廃れていった。

パイオニア FD-5型 4チャンネル・セパレート・ステレオ パイオニア(株) 1972年頃

  

  

パイオニアの4チャンネル対応セパレート・ステレオ。4チャンネルの各方式に対応している。プレーヤはSMEタイプのアームが採用され、1980年代まで続くスタイルになっている。現在のサラウンドの原型といえる4チャンネルステレオは、1970年代初頭に流行したが、方式の乱立や良いレコードが少なかった事、当時の技術レベルではセパレーションが十分でなかった事などから、すぐに廃れてしまった。小型のリヤスピーカは、実際には部屋の後方に配置するのが正しいが、多くの家庭では、このようなカタログ写真のようなレイアウトで聴いていた。

 

組み合わせ型ステレオ 1960年代後半

アンサンブルやセパレート型のステレオセットに飽き足らないマニア層向けに、プレーヤ、アンプ、チューナ(またはチューナ付きのアンプ)、スピーカーシステムを組み合わせたステレオシステムがあった。この形式のシステムは、1950年代から自作品を中心として存在していたが、1960年代後半になると、国内各社から手ごろな価格のアンプやプレーヤ、スピーカが発売される様になり、高額な輸入品まで幅広い製品が揃い、それほど知識や技術がなくても自身の経済力に合わせてこの形式のステレオを手にする事が出来る様になっていた。この形式のステレオは、1970年代にはコンポーネント・ステレオと呼ばれるようになるが、この頃はまだ商品として確立したばかりで、まだ名前が確立していなかった。ここでは、「ステレオ」誌が採用した「組み合わせ型ステレオ」と表記する事にする。

また、この時代は、アンプやレコードプレーヤーの事も、一般的には部品を意味する「パーツ」と呼ばれている事が多い。おそらく自作の時代からの名残と思われるが、カートリッジやスピーカーユニットならともかく、完成品のアンプやチューナーをパーツと呼ぶのは現在では違和感がある。このため、本稿では現在でも使われている「コンポーネント」を使用する事にする。

次に1968年のパイオニア製品を使った組み合わせ型ステレオの例を示す。このシステムは、後から組み合わせたものではなく、この形で発見された。この形式のステレオは、次々にコンポーネントを買い替える事でグレードアップして行く事になる。このため、1960年代のシステムがそのまま残る事は少ないが、これは奇跡的に当初の形が残った珍しい例である。

  パイオニア PL-25D/SA-40/TX-50 自作3ウェイスピーカ 1967-68年 パイオニア(株)

 

レコードプレーヤ パイオニア PL-25D型 26,000円
プリメインアンプ パイオニア SA-40型 23,000円
FM-AMチューナ パイオニア TX-50型 24,000円(純正フィーダーアンテナ付)
3ウェイスピーカ パイオニア製ユニット使用 自作

パイオニアの普及型のコンポーネントでまとめた組み合わせ型ステレオ。スピーカーのみ市販のスピーカーボックスにパイオニアのユニットを組み込んだものである。アンプは6BM8p-pの真空管式だが、チューナは1年後に発売されたトランジスタ式である。この2つの製品は1968年に併売されていた。ちょうど真空管からトランジスタに切り替わる時期で、トランジスターアンプの実用的な製品が出始めた頃である。オーナーは、まだ真空管へのこだわりがあり、旧製品を選んだのかも知れない。低価格の製品でまとめたシステムだが、それでもセパレート・ステレオの平均的な価格帯の2倍はかかっている。それでも少しずつ買いそろえる事も出来るので、独身の若者にとってはそれほど負担ではなかったかも知れない。

また、同じメーカの同時期の製品でありながらアンプとチューナの横幅が揃っていない事がわかる。最近はコンポーネントの横幅は430mmを標準としてほぼ揃っているが、この時代は現代よりも幅の狭い350mm前後の製品が多いが、もっと幅の狭いものから60㎝近い大きなものまでさまざまな製品があって統一されていない。

この時代は、まだオーディオラックという製品は、ないわけではないがジャンルとして確立されていない。当時の雑誌などにも、今で言うところの壁面収納的な大型の棚に収めた例が良く紹介されている。このシステムをどのように設置して使っていたかは不明だが、スピーカーはフロア型であるのでスタンドは必要ない。その他のコンポーネントは一般的な家具を使ったのではないだろうか。

小型ステレオの普及

1960年代後半になると、膨大な人口をかかえる「団塊の世代」が社会人となった。時代はちょうど高度経済成長の真っ只中。給与は右肩上がりで毎年上がり、1968年には銀行の初任給が3万円を超えていた。ビートルズやグループサウンズの流行など、若者向けの音楽が深夜放送などを通じて広まり、LPレコードの生産も急増した。このため、若者向けの膨大なステレオの需要が発生したのである。

1960年代前半までは、ステレオは、応接間や居間に置かれる立派な「家具」であった。アンサンブル・ステレオの大半は、扉を閉めればサイドボードのように見えるデザインであった。1967年頃まで、アンサンブル・ステレオを小型にしたような一体型の卓上型小型ステレオが発売されていた。これらはあくまでもアンサンブル・ステレオのミニサイズ版であり、デザインは木製の「豪華さ」が強調されているもので、若者向け商品と言うより、低所得者層向けのステレオセットといえる。一例を次に示す。


三菱 5H-662型 5球2バンド・ステレオタイプスーパー 三菱電機(株) 1963年 14,800円
 

 
TUBES: 12BE6-12BD6-12AX7-30A5-30A5 , Transformer-less, 16cm Permanent Dynamic (Diatone Model P-161)

1960年代前半、2スピーカのラジオが流行した。殆んどはスピーカをパラにしただけのモノラルだったが、このセットはアンプ部のみがステレオとなっており、ステレオプレーヤーを接続すればステレオ再生ができる。AM2波によるステレオ放送が終了した年のため、チューナ部は1組だけのモノラルだが、デザイン的にAMと短波を並べてステレオ風にしている。自社製16cmパーマネント・ダイナミック(ダイヤトーンP-161)を2個駆動する。幅が70cmもあるキャビネットはピアノフィニッシュの天然木製で仕上げは非常に良い。この頃三菱電機は、ダイヤトーンスピーカを前面に押し出してステレオの販売に力を入れており、この製品もその一つといえる。高級なハイファイラジオの最後のものでもある。
 

ナショナル・テーブル・ステレオ SE-1350G 華 1967年 19,500円

 

  
ナショナルの卓上型ステレオセット。30MP27シングルのアンプで自社製12cmスピーカを駆動する。プレーヤはすでにSPのモードはなく、33/45RPMのみである。クリスタルPU,リムドライブモータという安価なプレーヤーの定番のメカを採用。奥行きがないため30cmLPをかけるときは蓋が閉まらない。プレーヤーの横のスペースにはEP盤を置く事が出来る。チューナ部はFM/AMだが、MPXはなく、FMもモノラルである。チューナがAMのみの下位機種(SE-1300 彩:あや)もあった。この頃から家電製品に日本調の名前をつける事が流行したが、松下ではこの様な下位の機種にも風雅な名前が与えられていた。

 

ナショナルSF-3100型 宴ジュニアA 1967年頃 松下電器産業(株)
  
和風の落ち着いたデザインが特徴の中型アンサンブル・ステレオ、「宴(うたげ)」を小型の卓上型としたもの。宴ジュニアと名付けられた。プレーヤはすでにSPのモードはなく、33/45RPMのみである。クリスタルPU,リムドライブモータと言う安価なプレーヤの定番のメカを採用。奥行きがないため30cmLPをかけるときは蓋が閉まらない。チューナ部はAMのみだが、当時はFMが受信できない地域も多く、小型ステレオには廉価版としてAMのみのモデルが用意されていた。

(所蔵No.m43001) 旧ふくやまラヂオ博物館コレクション

これに対して、レコード再生の普及は、若者の個室や狭いアパートの卓上に置けるような小型のステレオセットを生み出した。成形技術が進歩し、大型のプラスチック・キャビネットを作る事が出来る様になったため、プラスチックの質感を生かしたデザインの小型ステレオが現れた。これらの小型ステレオは1万円を切る価格で販売された。

ビクター RE-6600型 ラジオ付卓上電蓄 1966年 日本ビクター(株) 6,460円
  
TUBES: 12BE6 12BA6 12AV6 30A5 30A5, 1-Diode, BC:535-1605kc, 10cm P.D.SP. X2, AC100V 50Hz

ビクターの普及型卓上電蓄。AMラジオと3スピードプレーヤを備える。ラジオは当然モノラルである。安価なモデルだが、ふたの裏にはビクター伝統の電蓄と同じデカールが貼られている。モータは3スピードだが、ピックアップはターンオーバ型ではない。全体がアイボリーホワイトのモデルも用意されていた。すでにSPレコードの生産はなく、主に純邦楽の練習用に使われるくらいだった。ほとんどかけられる事がないためか、LP用の針でSPも兼用としている。

本機は、ターンテーブルシートが失われている。

 

これらの中には、ラジオの聴取はトランジスタ・ラジオに任せると言う事なのか、ラジオのないステレオ電蓄も現れた。

ナショナルSF-450型 パンドラA  ステレオ電蓄 1967年 松下電器産業(株) 7,100円

 

 
50BM8を2本使ったレコード専用の小型電蓄。真空管式の末期の製品である。プラスチックの特性を生かした優れたデザインだが、強度が弱いのが欠点である。

 

ラジオのトランジスタ化が進んだことで、小型のポータブル・ステレオが容易に実現出来る様になった。次に紹介するのは、当時最小のステレオセットと言える。

 サンヨーDS-P3型 13石トランジスタ・ポータブル・ステレオ 1966年 三洋電機(株) 24,900円
  
FM-AMラジオを内蔵した小型のポータブル・ステレオ。ラジオとして使うときは左の写真のように立てて使う。ステレオ電蓄として使うときは、蓋のスピーカを左右に広げて使う。電源は単一乾電池6個である。普通のポータブルプレーヤよりかなり高い値付けがなされている。

 

 1970年頃には児童向けソノシートなどまで、大半のレコードがステレオ録音になり、簡単なポータブル電蓄にもステレオ形が現れた。

 ビクターSPE-8200 IC 2スピード・ポータブル・ステレオ電蓄 1971-73年 6,460円
  

簡単なポータブル・ステレオ電蓄。1970年に3スピードのトランジスタ式電蓄SPE-8200として発売されたが、SPを廃止してモータを2スピードとし、音声回路をIC化したSPE-8200ICにモデルチェンジされた。マイナーチェンジされても価格は同じである。AC100V専用。1974年以降、ラジカセの発売に伴い、ビクターは小型の普及型電蓄の生産から撤退する。

 

モジュラー・ステレオ (1970-)

1960年代後半にはスピーカの性能が向上し、小型のフルレンジユニットでかなり質の良い再生が出来る様になった。この頃から一体型だった小型ステレオは、16cm程度のフレンジまたは2ウェイの小型スピーカと、LPサイズのレコードプレーヤをチューナ付アンプの上に搭載した薄型の本体の3点セットからなる「モジュラー・ステレオ」が登場し、若者向け小型ステレオの主流となった。初期のものや、少し豪華なタイプには、レシーバ(チューナ付アンプ)とレコードプレーヤが独立しているものもある。この4点セットは、コンポーネント・ステレオの入門者用ともなった。

 サンヨーDS-36X型 4チャンネル・モジュラー・ステレオ 1972年 39,800円

 

  
サンヨーDS-36X型 4チャンネル・モジュラー・ステレオ 1972年 \39,800

典型的なモジュラー・ステレオ。2スピードのプレーヤーとFM-AMチューナを備える。当時流行の4チャンネルである。アンプ部のキャビネットはプラスチック製である。リア・スピーカは失われている。

(所蔵No.43009)

 モジュラー・ステレオは、カセットデッキの追加などの改良を施されながら1980年代初めまで存在したが、LPレコード末期に開発された、より小型のミニコンポに取って代わられた。


70年代後半のモジュラー・ステレオの例(ビクター)

モジュラーステレオも70年代後半には、シスコンの流行に伴ってメタリックな質感のデザインになった。


著作 制作:『日本ラジオ博物館事務局 岡部匡伸』より抜粋。

 

KENWOOD SH-3MD マイクロコンポ試聴テスト/08 

 

 

pioneer private pro 最高級 D8 

 

 

懐かしいラジカセ 昭和レトロシリーズ Part1 

 

今日の昼.....。

 

 

 

私の本棚。。。(至らない本棚ですが、、参考になる人も、もしかしたら居るかもと思って載せます。持って居る本のほんの一部ですけどね........。)

 

 

 

原田芳雄さんの写真です。1990年ごろ、、彼がまだ53歳くらいかな、、カッコイイでしょう?カッコイイ男は違いますね。オーバーオールが似合っていました。永遠の私の兄貴です。。。

 

 

今回は此処までです。読んでくれてありがとう。また更新出来たら逢いましょうね。また来て下さいね。それではまた。書き込みコメント何でも宜しくお願い致します。皆さん、有難う御座いました。でわでわ。。。。。

 

 

 

Freddie King - Hide Away (Live)

 

 

 

 

今日の夕食「れんげ亭」のタンメンと餃子です。。。

 

 

 

カッコイイ原田芳雄さんです。。。彼がまだ40代の頃かな、、

 

 

 

私が高校の時に描いた漫画から。1枚紹介です。下手くそな漫画ですが。。。。

 

 

 

 

ー映画ー

最近はあまり映画を観ていない。この間、久々に樹木希林主演の河瀬直美監督作品「あん」を観たが、矢張り、いい映画は何遍見てもいいものだ。

 

【あらすじ】ある日、千太郎(永瀬正敏)が雇われ店長として働くどら焼き屋に、徳江(樹木希林)が自分をアルバイトで雇ってほしいと訪ねてきた。最初はあっさり断った千太郎だが、徳江が置いていった手づくりのあんが絶品だったため、雇うことを決める。徳江のあんが評判となり、一時、店は行列ができるほど繁盛したが、元ハンセン病患者である徳江の指の変形が人々の噂になり、急に客足が途絶えてしまう。客が来なくなった理由を自ら悟った徳江は店を辞めるが、千太郎には納得できない思いが残り……。

 

                

 

                         

 

 

映画『あん』予告編

 

 

 

この映画はドリアン助川さんの原作もいいが、何と言っても樹木希林の演技がいい。そして過酷な運命を背負った、千太郎と徳江さんの魂の語り合いが泣かせてくれる。方や自分では不可抗力だった傷害罪を起こして、服役して人生草臥れて居る、どら焼き屋の雇われ店長。また、方や、ハンセイン病患者として世の中から隔離され差別されて生きて来た老人。そして、母親に愛情を掛けて育てられて居ない中学3年生の女の子。この3人の人生模様が映画の中で絡み合う。監督の河瀬直美はその人間模様を、ドキュメンタリー・タッチで描いて居る。私は流石、河瀬監督だと思った。ハンディ・キャメラによるブレた映像。ただ、黙々と語られるストーリー、まさに1級品だ。数年前の「東京タワー、オカンと僕と、ときどきオトンで」で感じた。演技達者が集まっていい演技をして居るのに映画の作りが平凡すぎてイマイチ人生模様の襞が描かれてなかった失敗作に比べたら、遥かにいい出来だ。樹木希林の演技は神々しくもある。もう故人だが、彼女の様に演技できる役者が、どれほど、貴重な存在だったか。そしてハンセン病患者への差別問題はこの作品の大きなテーマだが、『あん』にはもう1つ、重要なテーマが示されて居る。

 

それは「『働く』とは何か?」と言う問いだ。千太郎は、過去に罪を犯し、そのために生じた借金を肩代わりして貰った代償としてどら焼き屋の雇われ店長をして居る。彼にとってどら焼き屋はやりたい仕事では無い。仕事は自分を縛りつけるものであり、あの狭苦しい店は彼にとってはもう1つの監獄だ。対照的なのが徳江さんだ。長年、社会と隔絶された施設内だけであんづくりをしてきた徳江さんがはじめて社会に出て実に楽しそうに働く様子が生き生きと描かれて居る。千太郎と徳江さんのこの違いは何だろうか。人は、「自己肯定感(自分で自分を認めること)」「自己効力感(自分には何かを成し遂げる力があると感じること)」「自己有用感(自分が誰かの役に立っていると感じること)」の3つが合わさって、自己を確立し、自信を抱くことが出来る。徳江さんにはおそらく自己肯定感はあったのだろう。しかし、自己有用感を味わったことがなかった。いくら丹精を込めておいしいあんをつくっても、それを施設の外で誰かに味わってもらう機会がなかったのだから。自己有用感が得られなければ、本当の意味での自己効力感も得られ無い。

 

つまり、徳江さんにとって、社会に出て自分の能力を生かして働くことは、自分の人生を、自分の幸福を完結させるために欠けて居た最後の希望だったのだ。私たちは「働く」と言う事を「何者かになるための手段」として捉えがちだ。しかし、「働く」事は決して手段では無い。エモンズが指摘するように、「働く」行為自体が幸福の因子なのだ。優しい目で小豆を見つめ、小豆に話し掛けながらあんづくりをする徳江さんの姿が、千太郎の仕事に対する鬱屈した気持ちを少しずつ変えていく。店を辞め、その後に亡くなった徳江さんは千太郎と店の常連だった中学生のワカナ(内田伽羅)に向けて次のようなメッセージを残した。「私たちはこの世を見るために、聞くために生まれてきた。だとすれば、何かになれなくても私たちには生きる意味があるのよ」じっと鍋のなかの小豆を見つめ、小豆の声を聞き、小豆を炊く湯気の香りの微妙な変化を感じ取る徳江さんは、あんづくりと言う仕事を通して世界を見て、聞いて居た。

 

私たちは働く事によって、世界に自分が実存して居る事を感じ、自己を完結させる事が出来る。徳江さんが楽しそうに働く姿が私たちに伝えるのは、まさにそれだった。「何者かにならなければ」と言う焦燥感に追われて居る私たちは、そのような仕事の本質、働く事で得られる幸福感を見失いがちだ。働くすべての人たち、そして人を雇う側のすべての人たちもこの本質を見つめ直さなくてはいけない──。作品のラストにかけて、千太郎の仕事への意識は明らかに変わる。徳江さんと共に働いた経験、徳江さんの楽しそうに働く姿が彼を変えたのだ。素晴らしい仕事をする人と同じ職場で共に働く事の大切さも、この映画は教えてくれる。2015年この映画はカンヌ映画祭の「ある視点」部門で上映された。この映画を観たフランス人は、トレボン、トレボンと何時迄も拍手をして居たそうだ。この映画は有名な映画だが、もし、まだご覧になって居ない方が居たら観られる事をお勧めする。。。

 

 

 

樹木希林さんの最後の主演映画「あん」が放送される

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下は所有しているDVDの一部です。( ´Д`)y━・~~

 

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さて恒例の自撮りです。。。毎回こうやって撮って居ますが。自分でもチョツト驚く事があります。それは毎回撮ると、取っただけ雰囲気が違うと言う事です。この事は鏡を見て居てもあるのだろうけど、矢張りこうやって自撮りの写真をblogに挙げて居て居て初めて気がつく事です。年齢も写り方によって年寄り臭く見えたり、反対に若く見えたりします。私は此処2年で可也太ってしまいましたが。顔だけ見ているとそんなに太っては見えません、まあ、いい事なのか悪い事なのか・・・💦

 

 

しかし、とぼけたつらしてぇ〜〜。

 

 

 

調子悪いので、ヘタな演奏で毎回同じですが飽きたかも知れませんが。聴いてやって下さい。ブルースバンドでのヘタクソなギターソロです。私が18歳当時の音源です。。。

 

 

 

 

 

以下ハーモニカ・ソロ。どれも一発取りです。だからミストーンとかありますがご勘弁を。よろしくね.......。

 

 

 

 

 

『レーザーディスクの処分』

 

2日前から、どうしても、DVDで売っては居なくて、売るのに勿体無いと思うレーザーディスクだけをBlu-rayに焼いて置いた。明日売らなければ成らないので、時間も無かったのだが、数枚を焼いた。思えば、此処30年位、自分を楽しませてくれた。購入の際の記憶が蘇って来る。私はレーザーディスクは、ほとんどが新宿の西口にあった、「ビデオ・マーケット」で購入していた。その店は雑居ビルの一角にあって、初めはビデオ・マーケットという名の通り、ビデオテープを売っていた。アメリカからの輸入ビデオやら中古ビデオを主に取り揃えていた。その後、1983年位からレーザーディスクを置く様に成り、勿論、輸入版も置いてあった。私はほぼ20年間位、要するにレーザーディスクが無くなるまで、購入を続けた。レーザーディスクと言っても、最近では知らない人の方が多いだろう。レーザーディスクの寿命はほぼ20数年間だと思う。日本ではパイオニアが製品化し、1981年(昭和56年)10月に第1号機LD-1000を発売。日本市場では当初はパイオニアのみが製品を販売し、日本ビクター(現・JVCケンウッド)の開発したVHD陣営と販売競争を繰り広げた。

 

ビクターはビデオデッキ市場でVHS方式を広めた実績があり、採用メーカー数では13対1と圧倒的に不利だった。映像ディスクはビデオデッキと違い再生専用で録画が出来ない事から、当初はビデオデッキよりも高画質を求めるマニア向けの規格となった。そのため、水平解像度が240本程度だったVHDに対し、レーザーディスクは400本以上と画質面のアドバンテージがあったことに加え、ピックアップがレーザーによる非接触式のため、プレーヤーで再生した事が原因のディスクの劣化が無いことから、レーザーディスクの方が圧倒的に優勢だった。さらに、コンパクトディスク(CD)とのコンパチブル再生機の発売、レーザーカラオケのヒットによって、一般層にも普及した事から、結果的に規格争いに勝利した。VHD陣営のメーカーも参加して開発した音楽CDの量産技術が、同じ光ディスク方式であるLDの技術とコストの問題を解決させ、LDを勝利に導いたと言う。まあ、私は1980年代の終わり頃から購入し始めた。2000年代にDVDが登場するまで買い続けた。しかし時代には逆らわれず、レーザーディスクの時代は終わった。明日、愛蔵していた、レーザーディスクとはお別れです。。。

 

 

 

 

 

 

処分したレーザーディスクの数。約640枚ほどでしょうか、、、

 

 

 

そして次の日、業者がレーザーディスクを引き取りに来た。随分と横暴な50代の男だった。大体が段ボールを送り付けて来て全てその中にレーザーディスクを入れて置けと言うのだ。段ボールは全部で30枚程送り付けて来た。そして電話で頼んだ際にこう言うのだ。「あんたさぁ、、レーザーディスク・プレイヤー壊れてないの持っているの?」続けてこう言った。「壊れていたら引き取らないよ?」だから「壊れていませんよ、ああ、2台持っているから1台は壊れていますけどね?」そう言ったら、ニヤ付いた声で。「それからさあ、最低限100枚単位じゃないと引き取らないよ!!」私は言いました「640枚は持っていますけど。」そうしたら、「それじゃあ、ダンボール30枚位送るから、それにきちんと入れて置いて!!」そして引き取りの日に息子と共に来て、ロクにレーザーディスク・ソフトは見ずにレーザーディスク・プレイヤーを再生するからと言って息子に、箱に詰めてある映画のソフトを1枚持って来させて、再生し20分ぐらい観ている。その映画ソフトは稲垣 浩監督作品のピカレクス・ロマンの映画で、あの宮崎駿が「ルパン三世/カリオストロの城」で真似た映画だ。

 

主演は三船敏郎の冒険活劇だった。そうしたらレーザーディスクの帯に円谷英二特撮と書いてあったら。息子に「お前よく知って置けよ。この映画はな、あのウルトラマンの円谷英二監督作品だぞ!!」と言うので。私は「違いますよ。監督は稲垣 浩監督で黒澤明と一緒に山本嘉次郎監督に弟子入りした監督さんですよ」と言ったら。憮然として黙っている。そして、こう言った「この機種はDVDも見られる様だから何か1枚貸してくれ!!」私は適当に選んで渡したら30秒ぐらい再生して、こう言う「処で壊れているレーザーディスク・プレイヤー、あるそうだけども....。それ持って行くので寄越してくれない?」だから渡すとこう言った。「リモコン1台500円になります。2台あるから1千円。そしてプレイヤーが壊れてない方が2千円。壊れている方が1千円。そして、レーザーディスクソフトが640枚で全部で4千円ぐらいになります」だから合計8千円になります。ですが、、出張費と手数料が込みで8千円掛かります。」

 

「だからどうでしょうか、私は売り手に金出させたくないから。チャラにしませんか?」私は「この野郎!!初めから金など払う気なんざ無いのだろう!?」と思ったが。仕方が無いと思っていたら。こう言うのだ。「お客さん。私らが引き取らなかったら、粗大ゴミで出すしかないよ!!」だから私はこう言った。「そのレーザーディスク・ソフトもプレイヤーも大切に使っていたものだから。誰か欲しい人の元に渡って。その人が大切に見てくれればいいのですけども?」そう言ったら「このプレイヤーは私の店で中古として売るし。壊れているレーザーディスク・プレイヤーも私が直して、それも中古で売るしねぇ。レーザーディスク・ソフトは買いに来る業者がいるんだ」だから言った「と言う事はまた誰かのもとに行くと言う事なのですね?」そうしたら「まあねぇ〜〜!!」と言うのだ。

 

私はクリーニング・キッドも渡したらこう言う「要らねえよ!!そんなもの!!」その時に私は言った。「あなたが要らなくても。このソフト購入した人が必要でしょ」そうしたらニヤ付きながら。それも息子に代車に乗せて、エレベーターでマンシヨンの1階まで行き。台車からワゴン車に乗せていなくなった。嫌な野郎だった。最近はリサイクルだとか言われても絶対に連絡は取らない方がいい。ただで持って行かれるか、反対に引き取り料を取られるから。ろくな商売じゃないな。まあ、人の足元を見ている様な野郎どもは死んだ後。どうなるかなぁ、と言うよりも生きているうちでもどうなるか?年取ってから良い事は起こりはしまい?人を足蹴にしている野郎はいずれは誰かに殺されるとかロクな死に方をしないものです。メルカリで売るのが一番ですよ。後はYahooオークションかな。DVDなんかやCDですら、売る段階になったら1枚よくて200円ぐらいですから。