
〜〜「追悼・ピーターグリーン」〜〜

『追悼:ピーター・グリーン』
ピーター・グリーンが亡くなった。昨年の7月25日、家族が弁護士を通じて明らかにした。眠りの中、安らかに息を引き取ったと言う。享年73。
ピーター・グリーンの訃報を受け、ミック・フリートウッドは途轍もない喪失であると語り、次の声明を発表しました。
「ピーターは、僕とジョン・マクヴィー、ジェレミー・スペンサーとフリートウッド・マックをスタートさせた人。ピーターと彼の才能に尊敬の念を持たずしてフリートウッド・マックに足を踏み入れた者は一人もおらず、音楽とは明るく輝き、常に不屈の情熱と共に届けられるべきだと言う事実に誰もが敬意を表して居た」
またスティーヴィー・ニックスは、ツイッターで次のように綴って居ます。
「ピーター・グリーンの訃報を聞き、とても悲しいです。最も残念なのは、彼と一度もステージを共にしなかった事。心の奥では、ずっと前からそうなる事を願って居ました。初めてフリートウッド・マックの全アルバムを聴いた時、彼のギターの虜になり、それがバンドに加入する時に興奮した理由の一つでもありました。彼の遺産は、ロックンロールの歴史に永遠に生き続ける事でしょう。ピーター・グリーンズ・フリートウッド・マックは(フリートウッド・マックの)始まりであり、私はそれに感謝しています。あなたは私たちの人生を変えたのですから……」
今さら紹介するまでもない。ピーター・グリーンは偉大な英国人ブルース・ギタリストだ。15歳でプロ・デビュー。1966年、ジョン・メイオールのブルース・ブレイカーズからエリック・クラプトンが脱退後、弱冠19歳にしてその後任に。大いに注目を集めた。その後、大きく音楽性を変えて仕舞う事になるフリートウッド・マックではあるけれど。この時期のフリートウッド・マックにはお世話になった。私の様な世代のブルースファンの多くにとって、強烈な泥臭さと、どこか繊細なタッチとがいきいき交錯する初期マックのレコードこそが、たぶん本格的な白人のブルース体験だったに違いない。
私は初めてピーター・グリーンを知ったのは、ジョン・メイオールのブルース・ブレイカーズのLPからだった。レコードから聴こえて来る。ピーター・グリーンのフレーズはエリック・クラプトンの影響下にはあったが。彼らしい神秘的で居てエキゾチックな演奏は凄かった。私は大好きだった。このレコードで私はやられて仕舞った。そして彼が1967年、ミック・フリートウッド、ジョン・マクヴィー、ジェレミー・スペンサーらとともに新バンド、フリートウッド・マックを結成した。ピーター・グリーンが主導権を握っていた初期マックが当時、私たちに提示してくれた若々しいブルース・ロック・サウンドは本当にかっこよかった。フリートウッド・マックのレコードは私はその殆んどを所有して居た。
中学生の頃はたった1枚のジョン・メイオール&ブルースブレーカーの演奏しか知らなかったけど。高校になって輸入レコード屋に行くとフリートウッド・マックのレコードは20枚は売って居た。私はその殆んどを購入した。海賊盤やら音源が同じモノ違うモノ、ドイツ盤やらイギリス盤。またアメリカ盤が売って居た。私はそれらを買い漁って聴いた。バンドの方は、残念ながらピーター・グリーンが抜けたあとはソフト・ポップロックのバンドになってしまったが。多分。
1974年頃に中村とうようがディスク・ジョッキーの「ブルースアワー」などの番組のラジオ放送で。黒人のブルースマンのレコードを色々と聴くまで。私は黒人のブルースと言えばBBキングとアルバート・キングぐらいしか知識が無かったのだ。だから白人のブルース。特に本格的なブリテッシュ・ブルースの彼と他には数人しかブルースは聴いて居なかったのです。その後、私はブルースバンドでギターを弾く様になりました。
少なくとも私に取ってはそうだった。ブルース・ブレイカーズ。初期マック。そしてマイケル・ブルームフィールド。デュアン・オールマン。エリック・クラプトン。アルビン・リー。ロリーギャラガーこのあたりが間違いなく私のホワイト・ブルース体験でした。
The Super-Natural
The Stumble
繰り返すけれど、そう、抗いようがないのだ。特定の世代ならではの感触なのか、世代を超えた絶対的なそれなのか、ただなかに身を置いて仕舞って居る者としてはそれすらよく解らないものの。とにかくこの人、ピーター・グリーンが「ストップ・メッシン・ラウンド」などで聴かせた、いわゆる“アウト・オヴ・フェイズ”サウンド、つまりピックアップの位相をいじってフェイズアウトさせる乾いたレスポール・ギターの音色とか、聞こえて来ると、それだけでもうダメ。無条件ノックアウト。「ローリン・マン」のぐいぐい転がるグルーヴも大好きだった。
もちろん、「ブラック・マジック・ウーマン」や「アイ・ラヴド・アナザー・ウーマン」のエキゾチックな感触とか、「シェイク・ユア・マネーメイカー」の無鉄砲なドライヴ感とか、「オー・ウェル」のスピーディなリフとか、「ラトルスネイク・シェイク」のダブル・ストップとか、「アルバトロス」の深い音像とか…。すべて条件反射のように気分がアガる。それは事実。確かに世代ゆえかもしれないけれど、こればかりは仕方ない。
ピーター・グリーンはやがて1970年、他のメンバーとの音楽的方向性の違いを理由にフリートウッド・マックを脱退。初ソロ・アルバム『エンド・オブ・ザ・ゲームズ』をリリースして大いに物議を醸したあげく、深刻なドラッグ禍から精神的に不安定な状態に陥り、以降、長らく世捨て人状態に。統合失調症による入院生活も続いた。1970年代末にようやく復活して、少しずつソロ活動を再開。1979年に出たソロ作『イン・ザ・スカイ』(“虚空のギター”とか、そんな邦題だったような…)とか、何だか久々のピーター・グリーン節に接する事が出来てうれしかった覚えがある。ギターばかりでなく、少し枯れた歌声もよかった。いい感じに力が抜けて居て、それがやけにブルージーで居て尚且つ。イージ・リスニングでクロスオーバーなギターだった。
その後、また健康を損ねたりしながらもそれなりのペースでアルバム・リリースを重ねて。多彩なアーティストのレコーディングにゲスト参加もした。1990年代にはナイジェル・ワトソン、ニール・マレイらとピーター・グリーン・スプリンター・グループを結成。来日もあった。日本のブルースマンたち。妹尾さんやら永井さん。吾妻さん、塩次さんやらが駆けつけた。もう腕は落ちては居たが。彼がギターを弾いて、歌って、今の時代に呼吸して居るだけで感動モノだった。
そして2枚のロバートジョンソンに捧げたアルバム発表。
英国の白人にブルースが出来るのか、と、エリック・クラプトン同様の疑問を常に投げかけられ続けてきたピーター・グリーンではあったけれど、それに対するとびきり自然体での返答というか。「俺、とうとうここまで来ましたよ、ジョンソンさん、見てくれてますか…。」みたいな。デビューから歳月を重ねたうえで満を持して作り上げたこれらのジョンソン作品集からは、そんなピーター・グリーンの声が聞こえて来る様で。ぐっと来たものだ。
私をはじめ、多くの日本のブルースロック・ファンがピーター・グリーンのギターの素晴らしさを初めて真っ向から受け止めた盤だと思われる『英吉利の薔薇』など、大好きだった。「アルバトロス」聴きながら冥福を祈ります。
Peter Green's Fleetwood Mac - Need your love so bad
Fleetwood Mac Albatross 1969


中島みゆき お宝写真集
地上の星 / 中島みゆき [公式]
愛だけを残せ / 中島みゆき [公式]
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中島みゆき 『問題集』アルバムトレーラー [公式]
【Miyuki Nakajima】中島 みゆきメドレー | 中島 みゆきのベストソング | 中島みゆきのベストプレイリスト| Best Songs Of Miyuki Nakajima
『中島みゆき』
1975年5月、財団法人ヤマハ音楽振興会の主催による「ポピュラーコンテスト」に「傷ついた翼」が入賞した。9月には「アザミ嬢のララバイ」でキャニオンレコードからレコード・デビューを果たす。同年10月の「第10回ポピュラーソングコンテスト」に「傷ついた翼」から急遽差し替えた「時代」によってグランプリを受賞し、11月の第6回世界歌謡祭でもグランプリを受賞した。1976年4月、ファースト・アルバム『私の声が聞こえますか』を発表。その後現在まで、1年につきアルバム約1枚のペースでコンスタントに作品を発表し続けている。中島みゆきの曲には、日常風景の一部を切り取り、そこを行き来する男と女や働く人々をテーマにし、その一人一人にスポットライトを当て、その心情を曲にのせるものが多い。非常に巧みな比喩表現を用いており、聞き手によってそれぞれ異なった意味を受け取る事が出来る。普遍的なテーマを歌詞にして居る事も非常に多い。例えば、1991年発売のアルバム『歌でしか言えない』収録曲の「永久欠番」。この曲は、「人は誰しも唯一無二の存在である」と言う事をテーマにした曲で、東京書籍発行の中学校用の教科書『新しい国語3』に引用されて居る。大学の卒業論文では谷川俊太郎を論じており、現代詩からの影響が濃い。また、中島みゆき自身の歌詞が現代詩の一つとして扱われ名詩選に収録されて居る事もある。
2006年、第56回芸術選奨 文化科学大臣賞を受賞した。「コンサートツアー2005」が評価されてのこと。シンガーソングライターとしては初の受賞者。同年には、TOKIOに提供した「中船(そらぶね)」の作詞が評価され、第48回日本レコード大賞の作詩賞を受賞した。
2009年11月3日、紫綬褒章を受章。中島は受章に際して、
『思いがけずうれしいことの表現に『棚からぼた餅』と申しますが、今の私の気持ちは『棚から本マグロ』くらいの驚きでございます。ふつう、何かを頂けそうな場合には2度くらいは辞退して、それでもとおっしゃるならちょうだいするのがマナーなのでございましょうが、褒章となりますと『ふつう』ではないことですので、辞退なんかしたら二度とこんな機会はないかもと思いまして、即座に『いただきます!』と、お返事してしまいました。』 |
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| とコメントした。 | ||

今回の記事は分量が少ないです。皆さんに取っては、今までに比べて短いと思うので。読みやすいかなと思います・・・・・・・。
【成功より成幸を】【新しいライフスタイルへ】「思い出がないってことに気づいて」『GACKT超思考術』制作インタビュー@NORTH VILLAGE ジパング店Vol.03
此処の処、また眠い。今も寝て居た。もう飲んでいる精神安定剤が強すぎるのですよね。この間、病院に行ったら主治医から、「怒りは込上げて来ないの?」と聞かれたから古本が一冊無くなった事やらで怒りはしますよ。「怒(いか)るのでは無く怒(おこ)りますよ。」と言った。漢字にすると同じに聞こえるけども。微妙に違う、
怒るは受動的で感情的なもの
怒りは理性的で自制的なもの
と言う事だ。
「怒る」は我慢ならないラインに相手から踏み込まれるもので、そのラインは自動的に決まってしまう。一方で「怒り」は実際に我慢出来る事でも、そこに自らラインを引いて能動的に起こせるもの。ただそう考えてみると、怒りの本質はテクニカルに相手に恐怖を与える為のものでは無い。つまりは、自分の大切にして居るものは此処なのだと理解して貰う為の一つの手段である様に見える。だから本当の所、怒りじゃなくていい。もっといい言い方を考えて見ると、「姿勢」を見せられればそれでいいんじゃ無いかと思う。それが出来ればお互い不用に踏み込む事も無くなり、円滑な関係になる。普段、私は余り怒る事がなく、優しすぎると言われる。でも私は期待をして無いだけで優しい訳では無いのだが、やっぱりそう思われる事が多い。(誤解を招きそうなので言って置くと、信頼はする。期待と信頼は別ものだと思って居る)
それが過ぎると舐められたり、マウントを取られたりする事も少なく無いから損をする事もある。怒りは先程も書いた通り、感情的に怒鳴る事では無い。いわばコミュニーケーションのテクニックの部類だ。姿勢の示し方の一つであるので、いろんな方法があるはず。
他の示し方をまずは研究してからと思うが、自分が生きやすく生きて行く為には、そして他人とうまくやって行く為には、多少なりとも身につけねばいけないなと思った次第なのです。最近。私を嫌う人は結構居ますよ。生活範囲内の人たちでね。私は精神疾患を持って居ますから。それだけで嫌がる人たちはある一定以上居ますよ。まあ、仕方が無い事ですけどね。差別はある.....。
それから私は最近「ヴァイオレット・エヴァーガーデン 」の動画をblogに貼り付けて挙げて居るけど。矢張りね、一部の漫画やらアニメ好きな人は喜んでくれて居たけど。他の人はね。「こいつ少女趣味のバカか!!大の男が!しかも60歳も廻って居て!!」と言った感じだろうかね〜。私はアニメオタクでは無いが、オタクの気持ちも解ら無くはない男だ。ただオタク見たいな分析とか評論が出来る程の知識も頭も無いし文才も無い。オタクと言うと皆さんは彼らをバカにするが?じゃあ自分は何が出来る?何が語れる?彼らの様に知識が何かあるのか?オタクはアニメやら漫画を哲学やら心理学、または社会学で語って居ますよ。オタクを蔑む人たちにそう言う知識がありますか?何も無いだろ。ならバカにはするなよ。
私の以前のblogの処に書き込んでくれたり見に来てくれたりした人達は。病院の院長の秘書の女性だとか。彼女は医学に詳しい。また、哲学に詳しい人も居るし。ジャズのミュージシャンも居た。元劇団四季にいた元演劇人で今は詩人の人も居る。クラシックのフルート奏者やらソプラノ歌手の女性も居る。全共闘世代の老人やら、団塊の世代のおばあさんたちも居る。皆さん知識がお有りだ。
今日は訪問看護師がまた来てくれた。彼女に自分のblogに挙げて居た。今から遥か44年前に書いた。漫画を見せた。彼女は吃驚して「これあなたが書いたの?」と言うから。「まあ、そうですよ、17歳ぐらいでヘタですけども、、」と言ったら。可也、吃驚して居て。そして矢張り43年前ほどのブルースバンドの演奏を聴かせたら。「昔は天才だったんだ!」と言う。まあ、これは人にも依りますね。素直に見たり聴いたり出来ない人が居るから「誰の模写よ?」とか「ヘタな演奏!!」とか散々今までもアップする度に言われて来ました。ある訪問看護師の女の子に見せたら。漫画の用紙の端を掴んで、怒りをあらわにしてブルブル震えて居たから、、「もういいや・・・・。」と思ってそれから他の看護師の女の子だとかが、「見せてくれ」と言って来たけど「見せないよ。いいよ....。」と言って居たら。どうやら私のblogを見たらしい。「また漫画描けばいいんじゃない?今なら誰も邪魔しないし、、」と言ってくれたけど。今日も言ったけど。もう絵は封印しました。描く気は全く起こりませんね。親に潰されて仕舞いましたから。多分神様が描くなと言って居るんでしょうね・・・・・・。そして人は人の事には嫌味を言っても、認めたり褒めたりは絶対にしないモノですよ。

ひまわり / 坂田明

昔の話で恐縮ですが。スポ根漫画の「巨人の星」と「あしたのジョー」の原作,脚本家の梶原一騎は、あれだけの話を作った1960年代から1970年代の申し子でした。彼の作品ではのちにドラマ化と映画化もされた「愛と誠」と言う。悲恋物語があります。子供の頃にある金持ちのお嬢さんを救った事から顔に傷を負い。その女の子は彼の事をすまないと思い続けて高校生になりました。しかしその男の子は不良になって居て、愛に「あんたを助けてから俺の運は下がりっぱなしだ」と言って彼女が幾ら謝罪をしてもそれに応じません。そして時は流れて、彼女の父親が政界での汚職の罪を背負ってライフル自殺をしようとして居ると誠が現れて「お嬢さんにどう言い訳するんだ。あんた。父親として最低だろ!!」と言って。彼女の父親が猟銃を口に入れて引き金を引く様を見て静かに亡骸を見て去って行きます。
愛は彼を慕い続けます。何時かは彼も真っ当な人になって私の処に来てくれる。そう信じて生きて行きます。最後。誠は不良のヤクザ者のチンピラと喧嘩になり刃物で刺されて仕舞います。でも彼が愛して居たのは愛だったのです。誠は血が滴る横腹を抑えて愛の元に行きます。そして「お前の元に帰って来た・・・よ・・」と言って、愛にキスをして彼女の胸の中で息を安らかに引き取ります。しかし愛は彼が刺されて居る事を知りません。要約、自分の愛が実ったと彼をただ静かに抱きしめて。嬉し涙を流して終わります。まさにこれもヴァイオレット同様に純愛です。
死んだ男の残したものは 森山良子
『あしたのジョー』『巨人の星』『タイガーマスク』『愛と誠』『空手バカ一代』『赤き血のイレブン』『柔道一直線』『夕焼け番長』『キックの鬼』など、あらためて思えば、少年期にお世話になった漫画やテレビアニメの主なモノの多くが、「梶原一騎・原作」だったとは、当時は余り知らずに(気にせずに)、私自身楽しんで居た様です。是等の作品が一人の人物から生み出されて居たとはあらためて驚くばかりです。また作品の殆んどは、「スポ根」もので、その分野を確立したのが「梶原一騎」でした。この流れのなかに「サインはV」や「アタック No.1」と言った女子「スポ根」ものもすぐ後に登場して来るとなれば、いよいよ「スポ根」漫画を確立した「梶原一騎」なる人物の事が気になって来ない訳がありません。
あしたのジョー伝説
彼が生み出しつづけた「スポ根」ものの背景には何があるのか。後年スキャンダラスにまみれた豪放磊落で強面(こわもて)の「梶原一騎」とそれは繋がるものがあるのか。「梶原一騎」と言う仮面の下の高森朝樹(本名)とはどんな人物だったのか。また、梶原作品にはどうして孤児院(『タイガーマスク』)や少年院(『あしたのジョー』)、不良[高校](『愛と誠』)や、強烈な「師弟関係」が、なぜ数多く描かれるのか。その鍵は、高森朝樹の少年時代にあったのです。そして作品は作者の心の裡を反映させると言われる様に、梶原作品も、高森朝樹自身の裡にある「マインド・ツリー(心の樹)」の露出であり噴出であり、「パンチ」であり「キック」だったのです。
Akira Sakata 坂田明 - Summertime
祖父・高森貞太郎は、同志社大学に学び、旧制中学の英語教師だったと一言でかたずけられない存在で、また優等生と言われた父・高森龍夫は線の細いそれでなく、上から押さえつけられるのが根っから嫌いな反骨精神旺盛なインテリゲンチャだったのです。まずは祖父の貞太郎は。「梶原一騎」が吹聴し続けた熊本に”根”を持って居ました。
父・龍夫は中央公論社で『世界文芸大辞典』の校正員(当初は定職ではなかった)として働いて居ました。昭和13年、中央公論社を退社した龍夫は、大正デモクラシーの高揚を背景に民衆解放の主張を掲げ、戦前・戦中の代表的総合雑誌となった『改造』の版元・改造社に職を見つけて居ます。入社した4年後に戦時下の言論弾圧の象徴となった「横浜事件」(1942年)が起こって仕舞います(論文が共産主義の宣伝だとし、『改造』と『中央公論』のみならず岩波書店、朝日新聞などの関係者ら60人余を治安維持法違反で検挙、拷問から4人が獄死、権力は2社を解散させて居る。すべてが神奈川県警特別高等警察の権力をかさにした思い込み捜査で、事件が冤罪であった事が今では判明して居ます)。龍夫は改造社で、『俳句研究』の編集長を務め、派閥意識に固まった俳壇の閉鎖性を打ち崩そうと「大東亜俳句圏」なる構想を打ち上げ様としましたが、「横浜事件」から改造社は解散の憂き目に。龍夫は小さな雑誌社の顧問として過ごして居ます。
後の青山学園初等部に入学。喧嘩っ早く小学1年で転校を言い渡される改造者
高森朝樹(後の梶原一騎)の気性が落ち着かず、喧嘩っ早い気質は、すでに戦中の幼少期にあらわれて居ました。それでも他の子供たちと同様、戦中の昭和18年、朝樹は渋谷の私立緑岡小学校に入学(戦後に青山学園初等部と改称)しますが、やはりすぐに問題を起こして仕舞います。青学と言えば、父・龍夫が師範科時代に在籍して居た学校でした。案の定、朝樹の荒い気質は、あまりにも青学のそれとは水と油。クラスや同学年の生徒たちと衝突ばかり。朝樹の身体がこの頃から太り気味で大きかった為、勝ち目は無いと踏んだ同学年の生徒たちは、上級生とつるんで逆襲して来るので流石の朝樹も体中生傷が絶えなかったと言います。
そのくせ目立ちたがり屋でもあった朝樹は、「喧嘩」が花の如く、「喧嘩」に自身の存在感を感じ取るのでした。小学校1年にして、まずは母方の血筋と父の反抗心が融合し、鉄拳の様な塊となり、<性根>が剥き出しになって居たのです(幼少期としては自然な状態ではあると思われますが)。朝樹の悪ぶる<性根>は、そうした尖った<性根>を集団生活と学校権力で制御しコントロールしようとする環境(学校や家庭、地域)をもすべて蹴散らして仕舞う程のものだったのです。朝樹は仕返しに彼等上級生(4年生の3人組)を奇襲し血染めにして仕舞います。
これは梶原一騎の初期作品『タイガーマスク』で中学生3人をやっつけた伊達直人が、素質を見込まれてレスラーの秘密の特訓施設「虎の穴」にスカウトされたと言う背景に酷似して居ます。最も朝樹が入れられたのは、「虎の穴」ではな無く、またスカウトもされず、当時家のあった原宿穏田のすぐ近くの公立の小学校でしたが、朝樹の心の内では、空想の中の「虎の穴」の様な処こそ、自身が所属するべき処と思ったにちがいありません。現実には、母が学校に呼びつけられ、入学してまだ1年も経って居ませんでしたが、早々に転校を勧められたのでした。
まあ、長々と梶原一騎について書きましたが。彼が「あしたのジョー」やら「愛と誠」の様な名作が書けたのは自身による生い立ちにも依る事もあったのですよ。今時の30代、40代は「あしたのジョー」は知りません。漫画の方もいいのですが。私は出崎統監督のTVシリーズ、全話を観て貰いたいです。そしてジョーやら、段平。西。紀子。洋子の話を。力石徹。カーロス・リベラ。ウルフ金串。ホセ・メンドーサとの戦いを見て欲しいですよ。今のこの時代だからこそ。男の生き様は身に染みて見て居てグッと来るモノがあると思いますよ。昔のアニメも良かったんだと思える事でしょうね。
Ashita no Joe 2~Joe Yabuki&Youko Shiraki~
今日の夕食はまた中華丼です。野菜が豊富な所がいいですよね。

今日はスピーカー付きのテレビ台から音が出なく為ってしまった。自分でいろいろ操作したり、配線を確かめたりしたがどうしても出ないのですよ。恐らくはテレビ台が悪いのか?それともテレビか?購入したジャパネットたかたに電話を掛けると今日の夕方5時までに此方の者かメーカーの修理担当の者からか連絡を入れます。待って居てくださいと言われたのだが。待って居ても電話は掛かっては来ない。5時を廻ったから先ほど掛けたら。繋いでくれるとは言うが暫く待たされて相談員はまだ対応中で繋がら無いと言うので。「恐らくテレビかテレビ台が故障して居るので、メーカーのシャープに連絡をそちらから取ってくれませんか」と言って連絡をして貰った。これで故障は2度目ですよ。私は5年保証にテレビは入って居るからいいけど。スピーカー付きのテレビ台は前に購入したもので、ジャパネットたかたでは無いからテレビ台の故障だとすると修理代が掛かるだろう。今度の日曜日に来る手筈だ。此の間、緊急時用に郵便局からお金を降ろして置いたから良かったと思います。以上、今回はこれで話は終わります。

今回は此処までです。また更新出来たら逢いましょう。宜しくね。。。
















