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blues harmonicaのブログ

ハーモニカが好きで吹いています。全然ヘタですが。
これから日々気が付いた事など書いて行こうと思っています、、
宜しくお願い致します。。。。。

umino_7882@yahoo.co.jp

 

皆さん。過去記事も読んで見て下さいね。よろしくお願い致します。このblogは障害を持った。ハーモニカ奏者のblogです。過去にはエレキギターも弾いて居ました。その事については、このまえのblog記事『バンド漂流記』にて詳しく書いて居ますので。まだお読みで無い方は一度読んで見て下さいね。私が演奏するのは主にブルースとジャズ。そしてロックです。では宜しく.....。

 

 

 

 

 

 

 

『マンガについて』

 

 

私は今日は調子が良く無いです。ですのでblogも精一杯で挙げて居ます。今回はマンガです.....。
年配の者がマンガを読んでいると60代やら70代は許せない。「若くも無いのに何事だ!!」と言う、これは偏見です。サブカルチャーは、最早、メインカルチャーになって居ます。“サブ”カルチャー」は、「“メイン”カルチャー」があって成り立ちますよね。「メインカルチャー」とは、「国民的で、王道で、誰もが知っている文化」。”それ以外に位置する、アンダーグラウンド。それが、「サブカルチャー」だがマンガを読んでいると60代やら70代がその事が許せない。「若くも無いのに何事だ!!」と言う、これも偏見です。此間blogに書きましたが。サブカルチャーは、最早、メインカルチャーになって居ます。“サブ”カルチャー」は、「“メイン”カルチャー」があって成り立ちますよね。「メインカルチャー」とは、「国民的で、王道で、誰もが知っている文化」。”それ以外に位置する、アンダーグラウンド。それが、「サブカルチャー」だった”。

今まで「メインカルチャー」とされて居た、「誰もが知っている事」は、曲を聴いてなくても、ゴールデンタイムで放送されるテレビを見なくても、まったく恥では無くなったと思います。逆に、「サブカルチャー」の。人が知らない専門的な事柄を知って居る事やら、研究して居る事の方が魅力となって仕舞った。

メインカルチャー。サブカルチャー。その各々の意味が無くなって居ますよ。各自が、個々で、自分のカルチャーを持つ時代ですよ。今は・・・・・。勝手のサブも今や、王道(メイン)であると言えます。自信をもって、人への共感や熱量につながる「文化」、、、それらはあらゆる思想種間のコラボであると言える今は、最早“次世代カルチャー”なのだろうと思います.....。

だから、今は"次世代カルチャー"の過渡期であろうかと思いますよ。いや、これからミレニアル世代とかが中年になったら・・・・・。最早、サブカルチャーは単にカルチャーですよ。要するに、、何でもありの時代だと思います。これからは、確かに今までのスペシャリスト的な発想を持って居るゼネラリストと言う事でしょうか?

 

私は数ヶ月前に62歳になりました。子供の頃から漫画は読んで来た。皆さん。漫画をバカには出来ませんよ。漫画が良く解らない人の為に漫画をあえて定義すると「遊びの心」を持って描いた絵と言う事になる。面白い漫画とは、「風刺」の精神がバランスよく含まれた絵だと言える。現代漫画はカートゥーン(一枚絵漫画)とコミック(ストーリー漫画)に大別できる。コミックは20世紀に入って映画などの影響を受けて世界的に発展してきたストーリーのある「こま漫画」である。漫画小説、連続漫画、絵物語、劇画などと呼ばれて来た。漫画の種類に付いては、この動画を見て下さい。

 

漫画の歴史②~あなたはどのタイプ?4つのタイプの漫画家たち(1947~1973年)

 

マンガ好きにガチでおすすめの雑誌ガロ入門 

 

 

どうでしたでしょうか。漫画は幼稚ですか?私は中学時代に漫画研究会に所属して居ました。そして大学で哲学の教授から。手塚治虫の「火の鳥」と白土三平の「カムイ伝」は絶対に読んで於と言われました。その他に、私は月刊漫画誌の「ガロ」で、「つげ義春」「永嶋慎二」などを知りました。また一般誌からでも永井豪の「デビルマン」などの芸術性がある漫画を読みました。変わった処では、心酔して居る。押井守が書いた「とどのつもり」と言う哲学的な不条理漫画も読んで居ますよ。星野之宣やら諸星大二郎、また萩尾望都などの漫画は血肉になりました。

 

 

 

私が高校の時に描いたヘタクソな漫画です....。

 

 

 

 

 

ガロの時代 

 

 

 

 

「坂口尚」の所有して居る。単行本。希少本です....。

 

 

 

そして演劇もです。つかこうへいなどは1970年代から1980年代にはよくテレビで放映してくれて居たので。よく見て居ましたよ。

 

「戦争で死ねなかったお父さんのために」劇団つかこうへい事務所(音声のみ) 

 

 

60年代後半から70年代にかけ日本のカルチャー史に濃厚な足跡をのこした“アングラ”文化。展覧会や書籍、記録映像で、その表現に触れ影響を受けた方も多いと思います。当時の担い手たちには伝説的な大御所も含め、現役の作家やグループも数多い。高円寺駅、中野区大和町の「劇団唐組」アトリエ。1967年の「紅テント」での状況劇場の野外公演を皮切りに、寺山修司らとともに“アングラ演劇”の代表格として名をあげ、脚本・演出・役者のみならず文筆家としても知られる唐十郎が率いる劇団だ。根津甚八、小林薫、佐野史郎といった役者から、横尾忠則、篠原勝之、赤瀬川原平といったアーティスト、山下洋輔のような音楽家など、唐十郎の芝居に関わった表現者は枚挙にいとまがない。

 

 

 

そして寺山修司。。。最近また彼の演劇が再演されて居ますよ。

 

 

また、子供の頃に見たテレビ番組。。。。

 

 

そして子供の頃のアニメ。。。。

 

 

 

色々と観て来ましたよ。最近の若者たちはパソコンのおかげで過去の事も知ろうと思えば知る事が出来る時代です。いや、老人たちもですよ。私の処に書き込みをくれる70代の女性やら、私がよく書き込みをする80歳ぐらいの女性。70代の男性などは、このパソコンで人生を楽しんで居ますよ。私は何時の日にかは、このITによる情報革命で、年齢差は無くなりは仕無いけど。いずれは学業なども一律、皆んなが学べる仕組みが出来ると思って居ます。さて、こう話して来て、幾分気持ちが安らいで来ました。飲んで居る薬が殆んど変わりましたが、眠気はまだあります。さて、話の序説は此処までです。これ以降。今回は映画やら歌手についてのエッセイ。ハーモニカ・アンプの記事へと続きます。それではお読み下さいね。

 

 

 

 

 

 

薬の効用で意識朦朧のkiyasumeです。。。。

 

 

 

今日は、近所にある。ファミリー・レストラン「ジョナサン」に行って来た。まあ、メニューが、ダブレットで選んで頼む様に成って居る。今日は。久々、ステーキが食べたく成って。久し振りにリブ・ステーキを食べた、添え物はパンと野菜サラダだ。後、カフェモカを頼んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

KEITH「さすらい」 歌 原田芳雄

 

 

 

 

 

休養中のkiyasume .....。寝起きです......。、

 

 

 

此処まで書いて来て、また調子が悪く成って来た。眠いので暫く横になろうかな。

ああ、本も読みたいのが数冊溜まって居るし。漫画も出し。テレビも見られて居無い。ブルースハープの練習も出来ない......。何も手につかず寝ては喰い寝ては喰い、こんなに食べても食べてもお腹がすくのは薬の副作用ですよ。もの凄く腹が空くんですよね。だから病院側で栄養指導を受けていますよ。それでもダメだけども.......。

 

 

 

 

 

『若松孝二とはどう言う映画監督か?』

 

 

 

カンヌ国際映画祭の批評家週間に出品された若松孝二監督の「11、25 自決、三島由紀夫と若者たち」が、仏『ルモンド』紙(5月26日付電子版)で酷評されて居たのを読んで、「やっぱり」と思った。

 

記事はジャック・マンデルボームというベテラン映画記者が書いたもので、見出しからして「失敗したクーデター、失敗した映画」という否定的なもの。ネットで見た限りではほかの新聞や雑誌には短い評しか見当たらないし、こういうものは日本で紹介されないと思うので、一部引用する。

 

「三島の政治的な捨象は、この人物の持つ意味を否定するかの様だ。三島はまるで趣味の悪い芝居のように演じられて居る。たぶんこの極端な儀式性こそ若松が見せようと思ったのだろう。しかし三島を(作品についても、家族関係についても、武道の理想と同性愛の間の緊張関係についても一切触れず)、狂信的な漂流者としてのみ描いたために、この人物の複雑な魅力が描けなかった」

 

その後に「最小限の演出の純度の高さやドキュメンタリーと再現ドラマの混淆、映画のコードを大胆に破る形式など、何時もの若松の豊かな表現も、今回の障害は越えられなかった」と締めて居る。

 

『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』

 

この記事の論理は単純だ。三島は偉大である。若松も(三島ほどにでは無いにしても)、重要な監督だ。処が若松は三島の魅力をファシズム的側面に限定した為に、失敗して仕舞った、と言うもの。フランスに於いて、1980年代までは(つまり大江健三郎がノーベル賞を取り、その後村上春樹が流行する前は)、日本文学と言えば、まず谷崎潤一郎、三島由紀夫、川端康成の3人だった。現在でも三島由紀夫の小説の人気は高い。一方、若松孝二も国立ポンピドゥ・センターで全作品上映が企画されるなど、フランスではすでに最早巨匠の扱いだ。記事は、今回はアプローチを間違っただけだとし、若松自体の才能は否定して居ない。

 

 

 

『11・25、三島由紀夫と若者達」の映画本編です。ノーカットです。ゆっくりとご覧下さいね。

 

 

 

この映画の公開当時、三島由紀夫の楯の会生き残りが、あるパーティーで若松孝二に礼を言って居たそうだ。。。「素晴らしい映画を撮って貰い、ありがたいです。感激しました。三島先生、森田必勝さんも喜んで居ると思います!」と口々に言う。森田必勝氏は「楯の会」学生長で、三島由紀夫と共に自決した。25歳だった。若松監督の『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』は、森田氏ら若い青年たちの、国を思い、決起へと思いつめる様子が実にリアルに描かれて居ると元「楯の会」の人たちが言って居たそうだ。

 

「左翼の若松監督が三島先生や森田さんの映画を撮ると言うので、心配だった。左翼の人なんかに分かるはずはないと思って居た。でも、映画を見て驚いた。先生や森田さんたちの気持ちが一番分かって居る。感激しました。」と。若松監督は、「左翼」と思われて居るが、左翼・右翼などと言う小さな区分はとうに超えて居た。パレスチナには何度も行って居るし、日本赤軍の人たちとも親しい。映画『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』を撮った。だから「左翼」と思われて居る。処が今度は三島だ。「我々の仲間だと思って居た監督が、どうして右翼の映画を撮るのだ?」と左翼の人々は戸惑った。右翼の人たちだって反発した。右翼にとって三島は神だ。「それを左翼の監督が撮るなんて」と思い、「許せない」と口走る者も居た。「そんな連中など、全て敵に回してもいい」と思い、若松監督は撮った。勇気のある人だ。周りは皆、敵だ。支援する人は居ない。そんな状態で映画を撮ろうと思う人は居ない。ただ一人、若松監督だけだ。

三島や「楯の会」に対する単線的、表面的な見方に我慢がならなかったのだろう。右翼的な三島が、右翼的な青年たちと、右翼的に思いつめて決起した。そんなものではない。全共闘への共感もあり、失望もあった。「よど号」ハイジャック事件、金嬉老事件、ベトナム戦争……。そうしたものが、つまり、あの時代が三島や若者たちを突き動かした。あの時代の若者たちの愛や夢や理想を描きたかった。それは左翼や右翼を超えてあったものだ。

 

『11.25自決の日』の中で、「よど号」ハイジャックのニュースを見て、三島が「先を越された!」と叫ぶシーンがある。これは事実だ。その事を聞いた「楯の会」の人間を、撮影前に若松監督に紹介したそうだ。今の右派的な若者は言った。「我々の尊敬する三島先生が左翼なんかに好意を持つはずがない。“先を越された”と叫ぶはずがない」と。しかし、そんな「左右のくだらない区分」を超えて居た人だ。三島は。そして若松監督も。若松孝二監督が死去してから約5年半、若松プロダクション再始動の第1弾として「止められるか、俺たちを」が製作された。今作のメガホンをとったのは、若松プロ出身で現在の日本映画界を牽引する白石和彌監督。主演を門脇麦、若松孝二役を井浦新が演じた映画は1969年、若松プロダクションの門を叩いた少女の眼差しを通して、「此処では無いどこか」を探し続けた映画人たちの怒涛の生きざまを描く。

くしくも、この日は若松監督生誕82周年となった。白石監督は、「まさかの若松プロを舞台とした青春映画を恐れ多くも監督しました。この映画は僕にとっての英雄譚であり、僕自身の物語でもありました」と語って居る。そして、「井浦新さんが若松孝二だとカッコよすぎると思ったあなた、ぜひ見て下さい。俳優って、新さんって、凄いなと思うはずです。そしても門脇麦さん。もう言う事ありません。麦さんを通して、この映画があなた自身の物語になる事を切に願って居ます」とキャスト2人を称えて居る。

 

門脇は、若松プロの助監督・吉積めぐみ役を熱演。「私は若松監督にも、勿論、当時の若松組の皆さんともお会いした事がありません。そんな中、白石監督をはじめ、若松組をよく知る皆さんのもと、当時の皆さんの背中をひたすら必死に追い求めながら挑んだ作品です」と撮影を振り返る。また、「スクリーンの中の彼らは青春を生きる若者の姿そのもので、とにかく輝いて居て、胸が熱くなりました。私はこの先何度も彼らに会いたくなって、この映画を観るんだろうなと思います。この出会いは私の一生の財産です」と思いを馳せた。一方、井浦は若松監督本人に扮した。ベルリン国際映画祭で最優秀アジア映画賞と国際芸術映画評論連盟賞のダブル受賞を果たした「実録・あさま山荘への射程」への出演をはじめ、「11、25 自決・三島由紀夫と若者たち」では主人公の三島を熱演。12年に若松監督が他界する直前まで行動を共にし、告別式では弔辞を読んだ井浦。それだけに、「若松プロの集結した親しい顔ぶれ、真新しい風を吹かせた若者たちと、むちゃくちゃで幸せな夢を見た。ただただ感謝しかありません」と、短いながらも若松監督に対する今も冷めぬ“熱情”をにじませるコメントを寄せた。若松プロ出身の井上淳一が脚本を執筆した今作は、原宿セントラルアパートの一角にあった若松プロダクションが舞台。青春を映画に捧げた若者たちの、むき出しとも言える生のグラフィティに肉迫する作品です。

 

 

 

井浦新、白石和彌監督、井上淳一(脚本)『止められるか、俺たちを』名古屋舞台挨拶REPORT

 

 

 

1960年代当時、最も過激な映画を撮って居たのが若松孝二だった。若松さんは元々、左翼ではなかった。1936年、宮城県涌谷町出身。地元の農業高校を二年で中退。家出し上京してからは、職人見習いや新聞配達、ヤクザの下働きなどを転々とした。1957年、チンピラ同士のいざこざから逮捕され、酷い取り調べを受けた。そして、反権力的な映画を通じて警察への怒りを表現しようと考え、映画の世界へ踏み込んだ。監督デビュー作の『甘い罠』は、まさに警官殺しの映画になって居る。監督として有名になってからも、自ら交通整理をしたり小道具の料理を作ったり、手と身体を動かさずには居られ無い人だった。脚本や企画書を数本、何時もカバンに入れて持ち歩き、最後まで、新作を撮ることに意欲的だった。

 

私は若松孝二監督に付いては原田芳雄さん主演の「キスより簡単」「シンガポール・スリング」そして私が大好きな芳雄さんの映画「われに撃つ用意あり」と「寝取られ宗介」で知っていた。若松監督の初期作品は「東京マッド」をDVDで所有して居る。そして、「実録・あさま山荘の射程」「キャタピラー」「11,25、自決の日・三島由紀夫と若者たち」と最近の話題作は映画館で見て居る。特に「11・25、自決の日・三島由紀夫と若者たち」では若松監督と会い、話もした。監督はスタイリッシュでもう歳なのに、これからまだまだ映画を撮るぞと言った感じだった。ああ、この映画のBlu-rayを持って居るのだが、此間の引越しの時に。業者の若いのが、ラックにわざと入れなかった事があった。彼は三島が自決した当時を知らない。恐らく、自決した犯人と言う認識なのであろう。三島由紀夫自決当時、私は12歳だった。子供心に当時のきな臭い事件として記憶して居る。あの当時は世相が揺れていた時代だ。次々と事件が起こり、そして1960年代の亡霊を拭い去って1970年代に入って行ったのだ。最近の若者は大人しいが、一歩間違えると大変な事件を起こす。三島は主義主張があった。だが今の若者は、世間を変え様とするのではなく、世間を憎む。だからこそ、反権力を謳った若松孝二の映画が身に染みるのです。

 

 

 

 

圧倒的な存在感と行動力で、古き慣習の残る日本映画界を切り開いてきた若松孝二監督は2012年10月に急逝されました。しかし、巨頭死しても魂は死なず! 映画を志す若き人たちと積極的に交流を持って来た若松監督には多くの「若松学校」卒業生がおり、新たな道を作るべく奮闘して居ます。皆さん若松監督が撮った映画を見ましょう.....。

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『浅川マキ』

 

 

 

 

歌手,作詩家,作曲家。石川県に生まれる。1968年,寺山修司に見出され新宿のアンダーグランドシアター蠍(さそり)座で初公演。1969年,《夜が明けたら/かもめ》でレコード・デビューした。ビリー・ホリディ,ベッシー・スミスなどの影響を受け,自作や寺山修司などの作品だけでなく,ジャズ・ブルース・黒人霊歌・シャンソンを独自の日本語詩で歌った。〈時代に会わせて呼吸をするつもりはない〉と自ら表現,CDの音質を嫌い独特の美意識に貫かれたアンダーグラウンドの音楽活動を終生続けた。

 

浅川マキ 「ふしあわせという名の猫 (歌詞付) 」

 

 

 

マキと親しかった作詞家の喜多條忠が語る。「マキは何時もカネが無かった。事務所にバンス、バンス。サラ金から2回50万を借りて、20年かかって返したりした。しかし、皆んなが言う通り、見事な生き方で見事な死に方でした。わたしには、ずっと姉御でいい女でした」マキは麻布十番のマンションの4階1LDKにひとりで暮らした。ベッドの空間を除いて、本とレコードとCDがあふれ、歩くのはその隙間の踏み分け道。冷蔵庫は、外のベランダ。テレビは音だけしか出さなかった。この頃、浅川マキのステージは、少ない年はたった10日しか歌わないことがあった。 バックバンドへの支払いは即日。ほとんどマキの手許に残ら無い事があった。最後の新作アルバムは13年前の1998年だった。長野オリンピックがあり、和歌山毒入りカレー事件が起きた。
 
印税収入があるとは言え、生活は厳しく、清貧だった。マキのプロデューサー・寺本幸司氏は、最後になった名古屋の満員の客入りで勘定した。「ワンドリンク代を引いて6,000円。満員70人だから42万円。これが3日間。メンバーのギャラ、足代、宿泊料を引いて約40万円残る。これで3か月は暮らせるな」

 

 

♫ 赤い橋 ♫ 浅川マキ

 

 

 

マキの写真を撮りつづけてきた田村仁氏にも思い出は尽きない。マキが近所のスーパーで惣菜を買う。切り干し大根、小松菜のおひたしの50円パック。あるいは、黒いコート、黒い野球帽に100均のビニール袋を持ってタクシーに手を振る。誰も止まらない。ホームレスに見えたからだと田村は思った。極度の近視で木にぶつかり、左目に網膜剥離を起こした。すぐに手術すれば完治する。だが公演を間近にして、手術は1か月後、結局、失明した。「思うように生きて来たから、左目を失ってもいい」と思ったと周囲に話した。さらに、残された近視の右目も酷使により、没する前は殆んど見えなかった。部屋の踏み分け道を手さぐりで歩いた。それでも死んだ年にはライブや新曲など、新たな浅川マキを生み出そうとして居た。

 

 

 

Yo Ga Aketara 

 

 

 

 

浅川マキさんの死因については、急性心不全と言う事でした。亡くなった場所は名古屋のホテルで、なぜ名古屋を訪れて居たかと言うと、ライブの為でした。遺体となって発見された日も夜からライブを控えて居て、時間になっても本人が会場に訪れないので不審に思いホテルを訪問し風呂場で裸で倒れて居る処を発見しそのまま死亡が確認されました。前日も名古屋でライブを行い、上手く行った様で上機嫌でホテルへと帰って行った様なので、突然急性心不全を起こし亡くなった物だと思います。また、薬を服用して居たが持病があったとは聞いて居ないし、何処かにぶつけた様な跡もあったと言われて居ます。浅川マキさんの性格は、本当はとても明るい人だったのでは無いかそう言われて居ます。歌って居る歌はとてもアンダーグランドで、その歌を聴いた人を自分の世界に引き込む事は得意で、一度ファンになると中毒性があると言われて居ます。

 

 


Maki Asakawa 浅川マキ 「 かもめ(歌詞付) 」 

 

 

また、ステージ上で見せる姿は歌手浅川マキとしての姿であり、普段の浅川マキは明るい性格の持ち主で、ステージ上ではじけるときもあった様です。また評判はすこぶる良い様でした。

もう亡くなって仕舞いましたが、演出家の寺山修司さんも浅川マキさんのファンで、歌を聴いた瞬間に体に電流が流れて。その世界に引き込まれたようです。また、アンダーグランドの歌手なのかと思えば、メジャーレーベルとの契約もあり新作をリリースするルートはしっかりと作られて居ました。ミュージシャン仲間は惜しい歌手を亡くしたと口を揃えて語るだろうと思いました。病気を抱えながら歌手活動を行って来た訳では無く、突然亡くなって行った訳だから。それだけに良い想い出しか残らないのではなかったかと感じています。

 

 

 

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『Guyatone Harpist HP-300A (ハーモニカアンプ)』

 

私も愛用のアンプです。。。。

 

 

 

 

 

 

このアンプは、ブルース・ハーモニカ・プレイヤーの妹尾隆一郎氏を中心に、八木のぶお氏、続木力氏、そして私、この4人での監修。1994年頃、ビンテージ・マイクから現行のマイクまで使用できるようにとのコンセプトで制作。アンプ製作中に、あくまで個人的な意見だが、“トーンがまろやかすぎるので、Hi・Mid・Low全体を、もっとエッジの利いたはっきりしたトーンに出来ないか?”という意見に対しエンジニアの方は「簡単に出来ますよ」と答えてくれたが、特に何もしなかった様だ・・・。

 

(東京サウンド)石川二三夫氏談。

 

「石川二三夫写真」の画像検索結果

 

2012-10/27@BT 小出斎and石川二三夫 。blues Duo Live

 

 

20180805 四谷三丁目 ブルーヒート 6 石川二三夫さん オンステージ!

 

 

過去に教則ビデオも出していました。

 

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『アントニオ・グラムシ。「ヘゲモニー概念とは」』

 

 

ヘゲモニーとは、人々による合意にもとづいた覇権や支配権のことをさす。この言葉の語源はギリシャ語のヘーゲスタイつまり、都市国家による別の国家や農村の支配のことをさして居た。イタリアのマルクス主義思想家・運動家のアントニオ・グラムシ(Antonio Gramusci, 1891-1937)は、強制や恐怖による権力支配とは異なり、人々の合意による権力掌握のことについて指摘し、それをヘゲモニーとして称した。

 

さて、グラムシによるヘゲモニー理論の事を理解する為には、彼の政治的信条と実践の原理であったマルクス主義(共産主義)と、当時の共産主義の状況、さらにはイタリアのファシスト政権の樹立などの事を考慮すれば解りやすい。マルクス『ゴータ綱領批判』(1875)では、革命の過渡期における「労働者階級=プロレタリアート」が権力を掌握し、政治支配を確立する統治のアイディアが構想された。いわゆるプロレタリアート独裁についての考え方である。この政治支配は、ロシア革命の政治権力の確立のプロセスにおいてにおいてウラジミール・I・レーニン(1870-1924)により一種のドグマ 的正当化に成功した。此処で興味深い事は、レーニンはヘゲモニー(ギリシャ語的語源のとおり「政治的支配」)をプロレタリアート独裁と同義語として使って居たと言う事であり、この用語法はやがて使わなくなる。しかし1918年にはドイツのK.カウツキー(1854-1938)は、プロレタリアート 独裁は、ソビエトによる一党独裁にすぎない事を喝破して(=今からみれば当然の批判の事ながら「革命の遂行」と言う使命感に燃えて居たソビエトからみれば裏切りと思われ、レーニンは口汚く批判した)、カウツキーは社会民主主義の立場を明確にした。

 

他方、グラムシは、イタリア社会党を経由して、1921年にイタリア共産党の結成にかかわり、翌年から1年ほどモスクワに滞在し、その直後亡命先でイタリア共産党書記長になる。ファシスト=ムッソリーニ政権下で下院議員に選出されると、議員は逮捕を免れると言う特権を利用して帰国するが、最終的にはその特権が剥奪されて1926年より禁固刑に処され、1937年まで収監される。グラムシは、獄中での論文等の執筆が許され、そのなかでサバルタンやヘゲモニーに関する論考の断片が記される事になる。グラムシによれば―― 自分の足元を掬ったファシスト政権の存在もあり――イタリアにおける政治支配の問題は、ロシアほど単純であるとは思われず、[共産主義者のみならず反共産主義の勢力の]支配の形態は複雑であった。つまり、政治を通して支配関係を確立すると言う事は、力ずくの暴力だけでは無く(=この点はプロレタリアート 独裁における単純な暴力観からは離礁して居る)、文化、道徳さらには教育というプロセス、さらには市民社会の確立や民主主義と言う政治制度(=この点では レーニンよりもカウツキー的な社会民主主義的な政治権力掌握の概念に近い)が関係して居ると理解した。

 

ただし、グラムシのヘゲモニーに関する議論は、むしろさまざまなノートの断片のなかに登場し、彼自身も(学位論文の様に)一つのまとまった議 論としてまとめる(ブルジョア的?)と言う気持ちも無かった様で、グラムシのテキストのどこかに「グラムシのヘゲモニー論」があると期待すると失望する事になる。また後のグラムシ研究者がヘゲモニー論として、その価値を取り出そうとする議論の多くは、贔屓の引き倒しのものが多いので、ノートから読者の 創造的解釈によってヘゲモニー論に新しい生命を与える方がより生産的であろう。ヘゲモニーの理論では、主体性を持つ人々が、なぜ意見を異にする勢力や権力に従属するのかと言う事について明らかにする。すなわち同意をもとに活動に参加して居ると感じている主体は、その活動がもつイデオロギーを実践を通して内面化し、全体の活動に「従属」すると言う事が可能になると言う事だ。これは、強制的な権力により従属して居る事でも無く、また処罰や恐怖によって主体性のある人をある事に従わせる事でも無い。

 

大衆動員が、参加者全員による合理的な理解によって可能になって居るのでは無く、その動員を正当化するイデオロギーに対して合意して居るのだと言う共同体感のみによって従って居るかも知れない。政治的支配や統治について、文化、道徳および教育が深く関わると言うアイディアは、のちにルイ・アルチュセール(Louis Althusser, 1918-1990)「国家と国家イデオロギー装置」の議論で興味深い展開を遂げる。また、文化研究(カルチュラルスタディーズ, Cultural Studies)において、スチュアート・ホール(Stuart Hall, 1932-)は、この研究領域における重要な鍵概念として、としてグラムシのヘゲモニーと、アルチュセールのイデオロギー論を挙げて居る。

 

 

 

 

 

 

今回は此処までです。読んでくれて有難う御座いました。調子が良かったらまた更新します。それまで宜しく。また逢いましょうね。

 

 

 

 「ジャズ喫茶/ サムライ」

JBLが聴ける店・新宿・JazzBarサムライ 06

次から次へと話題がつきない、マスターの宮崎さん

JBLが聴ける店・新宿・JazzBarサムライ 05

 

 

店の佇まいと聴こえてくる音色から、「アナログレコードをかけている!」と思い込まされるが、じつはデータ音源がほとんどで、インターネットラジオも流している。とはいえ、店にはモダンジャズから知る人ぞ知るプレイヤーまで約6000枚のレコードがあり、もちろんリクエストもOKだ。そんな宮崎さんにもっとも気に入っているプレイヤーをたずねると、「南アフリカ・ケープタウン出身のアブドゥーラ・イブラヒムですね。人種差別や厳しい政治状況におかれても、孤高で魂を揺さぶる演奏をしています。本当にすばらしいです」

 

 

 

短足の私。恥ずかしい姿晒してます、、なら、載せるなって、でも4kg痩せたんですよ😅。しかも6日で、、まあ、食べ物、食べてませんからね。。。。

 

 

 

『バンド放浪記』

 

1970年代の終わり頃に、私はブルースバンドを組んで居たのは前にも話したが、実は二つのバンドを掛け持ちして居た。一つは自分がブルースハープを吹くバンドと、それとは別にジャズ・ブルースをギターで弾くバンドだ。此方の方のバンドは高校の同級生が中心のバンドだった。初めはロック・バンドとしてスタートしたのだけども、ツイン・ギターでもう一人のリード・ギターは兄貴がなんと漫画家の石ノ森章太郎のアシスタントをやって居た。ベースの兄貴はSF小説家だった。私が高校生ぐらいの頃は男が少女漫画を観ると言う事が流行った。何故なら、萩尾望都の「ポーの一族」やら、一条ゆかりの「デザイナー」水野英子の「フャイヤー」などに代表される女流漫画家の作品は滅法面白かったからだ。そのベーシストの兄貴がSF作家で、尚且つ、少女漫画は哲学的だと言って漫画本を所有して居た為、当然弟のベーシストも影響を受けて居て、私に「こんな面白い漫画があるぞ」と貸してくれて居たのだった。私は当時「ガロ」で「カムイ伝」、つげ義春の「ねじ式」を知り、「COM」で「漫画家残酷物語」の永島慎二。そして「少年マガジン」で、ちばてつやの「あしたのジョー」「少年ジャンプ」で「デビルマン」などを知って居た。私は一部のSF小説やら、セリ・ノワール。文学作品と同列にそれらの漫画を読んだ。私にとって松本零士は「宇宙戦艦ヤマト」や「銀河鉄道999」「キャプテン・ハーロック」では無く。「男おいどん」なのだ。

 

 

 

 

 

下は一条ゆかりの「デザイナー」からです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

女流漫画家「一条ゆかり」

 

 

 

 

バンドは初め「ロビン・トロワー」やら「クリーム」の曲を演奏して居たが。もう一人のリード・ギターは、自分のバンドを結成したくて辞めて行った。ドラマーは明星大学の男とやって居たが、同級生のベーシストが突然ベースをやめてドラマーになると言い出して、気まずい関係になって、ドラマーは辞めて行った。さて、問題はベーシストだ。「ギターマガジン」にベース募集の広告を出したら。何故かギタリストの応募が殺到した。5人は来た。或る者は、アメリカ育ちでサイドギターでいいから一緒にやりたいと言う。「残念ながらギタリストは募集して居ない」と言ったら。「お前の腕前はどうなんだ!人を図れるだけの腕前があるのか」と言う。そこで仕方なく自宅で12小節のブルースを演奏して、7thやら9thを弾いてくれと言ったら、急に言われても解らないと言うので、弾いて見せたら、「フン、俺を断れたらリーダーとして認めてやる」と言う。此方は穏便に引き取って貰いたかったが、そうはいかず駄々をこねるので「俺がリーダーなんだよ!お前とは一緒に出来ない!!」と怒ったら。「怒れるとは大したものだ、俺はアメリカで、あのマイク・ブルーム・フィールドとセッションもした事もあるんだぞ。」と言うので、「ああ、そうですか、でもね、此処は日本なんだからお引き取りを!!」と言ったら、要約帰っていった事があった。そして、今度は28歳のギタリストが、また会いたいと電話を掛けて来た。私はじゃあ、京王線の代田橋の喫茶店で待って居るからと言うと「わかった代田橋だな」と言って、1時間半も経っても来ない。代田橋の喫茶店とは高校の先輩が経営していた純喫茶だった。主に映画音楽を流して居た。その店の電話が突然けたたましく鳴って、出てみたら「貴様、年下のくせに俺を愚弄する気か!」と怒って居る。今何処に居るんだと言うと、「駅の出口に居る。お前が言った純喫茶の名前を言っても誰も知らないと言って居るぞ!!」と怒り心頭だ。。。

 

 

「あのですね・・・そうか、もしかして代田橋という駅は二つあるから・・・」と言って「井の頭線の新代田橋駅では無く京王線の代田橋駅ですよ?」と言ったら「馬鹿野郎!!違う駅に居るじゃないか?」と自分で間違えて居て怒っている。それで其れから40分位したらやって来てガットギターを取り出して、「まあ、いい、俺のギターを聴いてくれ」と言うので、暫く弾かせた後。「ちょっと貸してみて」と言って私がブルースを弾いたら。。。

 

 

 

「分かった。俺が間違って居た。あんたの方が上手い。」そして続けて言った。

 

 

 

「俺は法政大学出身だけどもよく学園祭やらライブハウスでベースを弾いて居たんだ。」「ベースが弾けるなら一緒に出来るかも知れない」と言うと。「音合わせには何時来ればいい」と言うので、「また電話で連絡する」と言って一旦、その場は帰って貰った。ジャズも演奏するのでアルトサックスを探して居たが、此れは東大在学中のサックス奏者に決まった。東大には友人が居て、結構、親しくして居たから。ジャズ研で聴かせて貰うと、腕前はそんなに上手くは無かったが、人柄が気に入った。 残るはボーカリストだ。これは知り合いのミュージシャンから、もう、ブルースを10年間も唄って居ると言う30代の男を紹介されて直ぐに決まった。音合わせはブルースを2曲演奏した。「All Your Love」と「Ain`t Nobody`s Business」だ。そしてそのメンバーでやる事になった。

 

 

Gary Moore - All Your Love   

 

 

 ROBERT JR. LOCKWOOD 神LIVE②/「Ain`t Nobody`s Business」 

 

 

バンドを組んでから初めて演奏した曲は、Otis Rushの「 I`Cant Quit You Baby」だった。心配して居たベースからドラムに変わった同級生は、ベースと共にドラムも練習して居ただけあって、まあ、及第点だった。30代のボーカルも中々の嗄れ声でいい味を出して居た。サックスはジャズの先生に付いて居た為か、要領が分からないと言った面持ちで居たので、私が「バックで吹いてくれれば良いよ。ホーンセクションは任せたから」と言うと要約落ち着いた様だった。あとはベースだ。しかしベースはイマイチだった。元の様に。今ドラムを叩いている彼に、ベースに戻って貰いたいぐらいだった。しかも、このベーシスト、確かに年は私より上だが、態度が横暴だ。私が或る日、ジャズ風にイントロから入ったら、なんか、様子がおかしい。それで一度中止したら。ベースが「リズム感が何にもなかった」と言うので、アフタービートの曲なのでギターもゆったりとしたフレーズで弾いて居るのにだ。明らかにリズムがおかしいのだ。「ギターを早く弾け」と言うので、まあ、テンポを上げて弾いて見ても、おかしい。要するに文句を言っているベースのテンポが遅いのだ。サックスが「ベースのテンポが遅いんじゃないか?」と言ったら。「俺は完璧だ!」と怒る。他のメンバーもシラけてしまい。そしてある時に、慶應大学のリード・ギターと一緒にツイン・リードでギグをしたら、そのベースが私なんかより上手いとベタ誉めで、ベースから電話が掛かって来て「あいつをメンバーにしろ」と言う。しかしねぇ、そのギタリストは私に「あのベーシストは下手だし、性格が悪いから辞めさせた方が良いよ」と忠告をしてくれて居た。だからそのギタリストから知り合いのベーシストを紹介して貰う事になった。バンドのベーシストには「バンドは解散するから」と言った。すると「じゃあ、メンバーの連絡先とあのギタリストの電話番号を教えろ!!」と言う。私は一言「なめるな、バカ野郎!!。」と言って電話を切った。風の噂ではその後、そのベーシストはいく先々のバンドでトラブルを起こして居たと言う。そして次に入って来たベーシストは気さくな良い奴で、腕も確かだった。このバンドは5年間活動を続けた。。。

 

 

 

Otis Rush: I`Cant Quit You Baby 

 

 

Jimmy Page & Robert Plant I Can't Quit You 

 

 

 

『I Can’t Guit You Babe』日本語訳。

 

 

君とは別れられない、ただしばらく離れていたいだけだ

 

君とは別れられない、ただしばらく離れていたいだけだ

 

君は俺の幸せな家庭を滅茶滅茶にした、俺にたった一人の子どもを虐待させた

 

俺が愛しているのは知っているだろう

 

君への愛を俺は隠すことができない

 

俺が愛しているのは知っているだろう

 

君への愛を俺は隠すことができない

 

君を身近に感じる時君は俺のひとつの希望なんだ

 

呻き声を上げる時俺は心の奥底に激しい痛みを感じている

 

呻き声を上げる時俺は心の奥底に激しい痛みを感じている

 

俺が君の名を叫ぶ時 君は俺のひとつの希望なんだ

 

 

 

 

 

私はこのバンドを組む前に小学校から付き合っていた法政大学のドラマーと一緒にコテコテのシカゴ・ブルースのバンドを組んだ事があった。彼はすごいテクニシャンで、どのジャンルも難なく演奏出来た。ただ好きな音楽はキング・クリムゾンとビートルズ。そして10CCとクラシックだった。メロディーが綺麗なロックを好んで居たのだ。ある日「ブルース喫茶」にメンバー全員で行ったら。マスターが様子を察してアーバン・ブルースを掛けてくれた。

 

アーバン・ブルースの特徴はJAZZとの繋がりをより深めた処にある。同じようにJAZZの影響を受けた「クラシック・ブルース」と違い、JAZZに飲み込まれること無く、また、「シティー・ブルース」ほど弾語りへの執着も無かった。1940年代に入ると、アーバン・ブルースは大きな展開をみせ、テキサスではTボーン・ウォーカーが初めてエレキ・ギター(電気ギターと言った方が適切)をブルースに取り入れた。Tボーン・ウォーカーはロニー・ジョンソンやチャーリー・クリスチャン(JAZZに初めてエレキギターを取り入れたギタリスト。ちなみにTボーンはチャーリー・クリスチャンよりも早くエレキを使い始めたと言われて居ます。)らとも親交があり、コンボ・スタイルのバンドをバックに、イントロや間奏でギターソロを弾くと言う現在のロックにも通じるスタイルを確立した。その後、ラジオの普及によりブルースの地域差はしだいに無くなり、これらのアーバン・ブルースはメンフィスのB.Bキングらの手により統合され「モダン・ブルース」と呼ばれる様になった。そしてマスターは客が来たのでホワイトブルースのスタン・ウエッブやらピーター・グリーン。ロリー・ギャラがーなども掛け出した。

 

「〇〇さぁ〜。こう言うブルースロックもあるじゃない。何でブルースを演奏するの?」

 

、ロック好きの彼はウンザリして居たのでしょう。そして「キング・クリムゾン」の曲をやりたいと言い出した。







 

 

私の現存する18歳の時のバンド演奏。3曲です。今からほぼ44年ぐらい前でしょうか・・・。

 

 

ストーミーマンディー 

 

 

エブリデイ・アイ・ハブ・ザ・ブルース 

 

 

ジャズ・ブルース。 

 

 

1940年代前半、多くの黒人たち同様デルタのブルースマンたちがシカゴへ移住してきた。 当時のマックスウエルズ・ストリートはストリート・ミュージシャンであふれかえり、その中から後のシカゴ・ブルースの屋台骨を支える素晴らしいブルースマンが数多く発掘された。

 

シカゴ・ブルースの基礎を築き上げた「マディー・ウォーターズ」も1943年ミシシッピからシカゴへ移住した一人だ。彼は最初典型的なデルタの弾語りスタイルだったが、当時流行して居たシティー・ブルースのバンドスタイルとデルタ・スタイルを融合することで、一種の泥臭さの有るシカゴ・ブルース・スタイルを確立して行った。マディーのバンドからは、オーティス・スパン、リトル・ウォルター、ジミー・ロジャース、ジェイムス・コットンなど多くの有名ブルースマンが巣立ち、彼は「シカゴ・ブルースの父」と呼ばれる様になった。

 

1940年代後半から一気に広がったシカゴ・スタイルは1956年B.Bキングの影響を受けたオーティス・ラッシュのデビューによりモダン・ブルースとの統合を果たし、ブルースの代名詞となって行った。

 

 私は「なら、俺はこのバンド辞めるから、最後にキング・クリムゾンの曲をやるよ」と言って、ライブでキング・クリムゾンの「21世紀の精神異常者」「エピタフ」と言う曲を演奏した。ドラムは吃驚しながらも喜んで私を見て居たが。私は辞めるつもりで居たので。ドラムが「やれば出来るんじゃないか!!何でブルースに拘るんだよ?」と言うので、私は「黒人の音楽がやりたいんだよ」と言った。他のメンバーも「ブルースなんか辞めてロックをやろう!!」「おまえさぁ、プログレや、ハードロックも弾けるじゃないか」と言うのだが、「まあ...でもね」と言って当時クリエイションの竹田和夫に心酔していたハードロックのギタリストを入れて、ウィッシュボン・アッシュの「剣を捨てろ」を演奏してから、私は後をそのギタリストに任せて脱退した。彼らはその後ハードロックのバンドに成って行った。

 

 

 

人間椅子 21世紀の精神異常者 

 

Wishbone Ash - Throw Down the Sword - 40th Anniversary 

 

 

高校から大学生の頃、私は毎日その日の授業が終わると、高円寺にある「ブルース喫茶」まで通って居た。宿題やレポートも店の中で済まして居た。高校生の頃、同じぐらいの高校生が隣に座って、「あのさぁ〜君、オーティス・ラッシュの事、どう思う?」と訊いて来た。「俺はコブラ盤が一番好きだよ・・・」と言ったら、「俺もそう思う」と言って、友人に成った。その男は漫画に詳しく当時ビックコミック・スピリッツ関連で単行本に成って居た「カムイ外伝」を貸してくれたので、私は講談社から単行本に成って居た「男おいどん」を貸した。そして大学時代に次第にレコードの貸し借りなどもするように成っていった。マスターは私には何時も出がらしのコーヒーを入れてくれて居た。何しろ、2時半ぐらいから6時まで居るのでコーヒー1杯では持たない。そうしたらマスターが「君さあ、たまには酒飲まない?」と聞いて来たのでウイスキーの水割りを水を多めにしてもらい飲んだ。私はアルコールに弱い。と言うか殆ど下戸に近い。ビールなどは飲めないのだ。腹が空くと、焼きそばを注文して食べた、当時340円だった。常連の客は色々な人が居た。そして暗黙の了解があった。偶にその事を知らない客が来店して相手にされて居なかった。

 

 

 

「ねえ、マスター、ロバート・ジョンソンのスイート・シックスティーンを掛けてよ!」「???」

 

 

 

要するに分かって居ないのだ。その曲は BBkingの曲だ、しかしそう言った変な客は居場所が無く成り帰って行く事になる。或る日店の常連から、当時、まだレコードには成って居なかった、マジック・サムの「アン・アーバー・ブルース・フェスティバル」での音源を録音した幻のテープを聴かされた。噂には訊いて居たがその演奏に驚き。テープをダビングして貰った。勿論店のマスターもだ。中にはアメリカのシカゴのクラブまで行ってオーティス・ラッシュの生演奏を録音してきた強者もいた。勿論ダビングさせて貰った。当時私はギターとブルースハープを演奏して居て。特にオーティスのギタープレイには心底影響を受けて居た。そうした時に年上のブルース・ハーピストに店で出会った。彼は上手かった。私は彼の元でギターを弾く事に成った。或る日、スタジオで音合わせをして居て、さて始めるかとばかりに、典型的なシカゴ・スタイルのイントロのリフから入ったのだが、その男は、アドリブを吹かないで、なんとリトル・ウォルターの曲のソロを吹き出したのだ。それで一緒には出来ないと成って仕舞ったのだが、当時知り合いの女性のブルースシンガーに一緒にやろうとしたハーピストの事を話したら「ああ、あいつは、駄目よ。何しろコピーしたまましか吹けないんだから、自分のフレーズ吹けないんだからね」と言って居て、成る程と思った。

 

 

 

その後に、ウイーピング・ハープ・セノウさん率いるオフ・ザ・ウオールと言うバンドを妹尾さんが解散させて、新しいハーピストで再結成されたバンドを渋谷の道玄坂で演奏するのを観に行って。実は自分もブルースハープをやって居ると言うと。なんとそのハーピストは私が持って居たウオークマンをアンプの上に置いて録音させてくれた。そのハーピストは今日は風邪を引いて居て、本調子では無いと言いながらも、演奏は素晴らしかった。ブルース喫茶では他に服飾デザイナーを職業にしている男とも友人に成って。彼のアパートに遊びに行った事がある。彼の部屋は上半身のマネキンが置いてあり、なぜかユーライア・ヒープのポスターが壁に貼ってあった。狭い部屋ながらもセパレートステレオを持って居て、しかし大きなスピーカーからは音が鳴らせないので、ラジカセにステレオのラインアウト端子から繋げて聴いて居た。彼はブルース以外のロックも好きで、パンク・ロックのバンドを作ろうと仕手居た。その人からも貴重なロックやらブルースの海賊音源をオーディオ・テープにダビングさせて貰った。「ブルース喫茶」の方はだんだん経営が苦しく成って行き、ある日、私がカウンターで水割りを飲んで居て、ふと、「マスター、店、辞めるつもりでしょう?」と言うと「そうなんだ、来週の土曜日にボトルを用意して待ってるから、閉店のお別れ会に来てくれよな!!」と言われたが。私は障害を持つ様に成り、行けなかったのが未だに悔やまれて居る。。。

 

 

 

或る日、見知らぬ相手から電話が掛かって来た。「俺はオニオン・スライスと言うロック・バンドのリードギターだけども」と言って話を続けた。「あんたポール・バターフィールド知ってるか?」「知って居ますよ。」と言ったら、「彼みたいに吹けるか」と聞く。彼は白人のハーピストの中でもずば抜けて高度なテクニックを持って居る。私も一応はコピーをしたが彼見たいには吹けない。断ろうとしたら続けて言う「処でデビット・カヴァーデイル知ってるか?」「ディープ・パープルの第3期のボーカリストでしょう。のちにホワイトス・ネイクを結成した人でしょう。」と言ったら「よく知ってるなぁ、、いやあねぇ〜なかなかロックを知って居る人が居なくてさぁ〜〜」と言うのだ。こちらは曲がり成りにも小学生から高校までロックを聴いて来た。そのぐらいは解る。そしたら「ウチらはロックバンドだけども、ハーピストを探している」と言う。なんだか嫌な気になって断ろうとしたら、「渋谷のスタジオに俺の名前を言ってあるから明日夕方の4時に来てくれ」と言って電話が切れた。

 

 

 

この私の話をずっと読んで来て解らないかも知れないが、1970年代から1980年代当時は、ブルースマンとロッカーは対立していた、そう昔イギリスでモッズとビートニクが対立して居た様にだ。モッズ (ModMods、Modernism or sometimes Modism) は、イギリスの若い労働者の間で1950年代後半から1960年代中頃にかけて流行した音楽やファッション、それらをベースとしたライフスタイル、およびその支持者を指す。ロンドン近辺で発祥した。モッズ・ファッションとしてよく連想されるものとして、髪を下ろしたMod Cut、細身の三つボタンのスーツ、ミリタリーパーカー、多数のミラーで装飾されたスクーターなどがある。1951年にアメリカ軍に採用されたミリタリーパーカー(M-51)は、モッズの人々に愛用され、「モッズ・コート」(「モッズ・パーカ」とも呼ぶ)として知られて居る。

 

モッズは衣服や音楽に興味を示し、彼らが好んで聴いた音楽はアメリカのレアな黒人音楽、R&Bやソウル・ミュージック、ジャマイカのスカ(多くのスカのレコードを出したレコードレーベル名により、ブルービートとも呼ばれる)などであった。またイギリスのグループとしてはザ・フー、スモール・フェイシス、キンクス(ただし、レイ・ディビィスはモッズを嫌って居たと言う説がある)、スペンサー・ディビィス・グループなどが好まれた。ビートルズは、デビュー前は正反対のロッカーズ・ファッションをして居たがマネージャーの指示によりモッズ・ファッションでデビューした。1955年から1964年頃にかけて、アメリカ合衆国の文学界で異彩を放ったグループ、あるいはその活動の総称を、ビートニク(Beatnik)と呼ぶ。生年で言うと、概ね1914年から1929年までの、第一次世界大戦からから狂騒の20年代までに生まれた世代に相当する。最盛期にはジャック・ケルアックやアレン・キングバーグそしてウイリアム・バロウズを初めとするビート・ジェネレーションの作家たちは多くの若者達、特にヒッピーから熱狂的な支持を受け、やがて世界中で広く知られる様になった。

 

そしてこの2つのジェネレーションは仲が悪かった。それと同じことが1970年代の後半から1980年代の日本で起きて居た。はっきり言って仕舞えば、ロックを聴いている連中ないし評論家はブルースを敵視して居たのだ。例を挙げれば1970年代当時、仕事中にラジオを付けたら、丁度、永井隆と上田正樹と柳ジョージと成毛滋の対談をやって居たのだが、司会者があからさまに永井と上田にキツく当たり、柳ジョージとかには優しく接しているのだ。そして黒人のブルースとそれのカバーのロックで演奏して居る曲を交互に掛け、黒人のブルースは音楽的に成って居ない。ロックの方が上手いのだと言う。そう言う偏見があった時代でした、私に言わせれば、安易なロック・バンドしか知らないから、黒人のエネルギッシュに溢れたブルースやらR&B、ソウルはよく解らなかったのだと思う。処で、私が中野サンプラザにハーモニカ・フランクとフィリップ・ウオーカーのコンサートを見に行った時に、丁度隣の席に音楽評論家の中村とうようが座って居て。ステージ上が暗くてブルース・ハープのキーが解らなくてハーモニカ・フランクが慌てて居たら。「暗くて見えないじゃないか!!ステージの裏方、ちゃんとしろ!!」と怒って檄を飛ばして居た。

 

中村とうよう氏は私が尊敬して居た音楽評論家で、ピアノも弾けた人だ。彼のラグ・タイム・ピアノはプロ級だった。当時彼は「ブルースの世界」と言う、ラジオ番組のパーソナリティーをして居て。日本にブルースを根づかせた張本人だった。私はこの時の模様を密かに録音したオーディオ・テープを未だに所有している居る。話が大分飛んだが、そう言う訳で渋谷の道玄坂にあったヤマハのスタジオに行って見て受付に名前を聞いて見ると名前は聞いて居ないと言う。丁度、喉が渇いたので、缶コーヒを買って飲んで居たら。派手なミニスカートにブレスレットをつけた女の子が男とやって来た。私の前に座るとその女の子が「あんた、タバコ持ってんだろ!頂戴よ!」と言う。すると男の方が「俺がギターでこいつがボーカル」。「あんたの名前を聞いても知らないと言われたよ」と言うとにやりと笑って、「そう。」と言う。そうしたらドラムとベースがやって来て。「さて、メンバー来たからおっぱじめるぞ」と言う。私はなんだかなぁ〜と嫌な気分で居たが。リードギターが「 Need Your Love So Bad 」をやるからハーモニカ吹いてくれと言う。この連中はブルースの事は何も知らない様だった。

 

 

Gary Moore - Need Your Love So Bad (HD) traducida español - Live Montreux 1999 

 

 

それで演奏が始まるとヘビーメタルの曲ばっかりで、黙って聴いていると、「何してるんだブルースハープを吹け」と言う。セカンド奏法で吹こうにも唯でさえ曲のキーも教えられず、まるでギターを弾く如く、一本のブルースハープで全ての曲が吹けると思って居る。何も解って居ないのだ。それでやりようが無いのでめちゃくちゃ吹いて見た。そうしたら、ボーカルの子が「結構やるじゃん」と言う・・・。そして「Need Your Love So Bad」に成ってこの曲はキーを知って居るので順調に吹けた。すると、「ポール・バターフィールドとはいかないけどいい感じじゃん」と言う。その後はブルースを3曲ほど演奏した。(と言ってもロックのブルースだが)もうそろそろ時間だとスタジオの従業員が知らせに来たので。そこまでにして終わりにして防音室を出ると、ギターが「又連絡をするからな、」と言う。嫌なセッションだったが一つ言えることは、此れまでの黒人のタイプのブルースでは無くロックに成って居たと言う事だ。ウオークマンを持って行ったので録音して来たが、そのテープは弟が聴かせてくれと行って持って行ったきり、ついに返して貰えなかった。まあ、あれはブルースではない、ロックだった。。。その後そのギタリストから電話は掛かっては来たが、私は居留守をして断って貰った。どうも、相性が悪すぎたし、あくまで私はブルースに拘って居るのだから。。。

 

両方とも私が18歳当時の音源です。オフ・ザ・ウォール風「エブリデイ・・・」 

ムードブルース。 

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The Ali Maas Band - Need Your Love So Bad 

 

 

或る日、東大在学中のサックス奏者にナット・キング・コールのバンドのテナーサックスをフィチャーした曲を演奏させた。ギターのアレンジは自分でやった。まあ、モダン・ブルースと言うか、ジャズなのだけども、あのサックス奏者は何もレコードを知らなかった。私はナット・キング・コールのバンドのギタリストのオスカー・ムーアが好きだった。ムードのあるギターを弾いて居たからだ。前にも書いたが、「エブリディ・アイ・ハブ・ザ・ブルース」をバップ調にアレンジしてから、どうしてもナット・キング・コールの曲は演奏したかった。ナット・キング・コールは1930年代からピアニストとして活動して居て。スイング・ジャズ時代末期の傑出したピアニストとしての業績を残した。1939年にピアノ、ギター、ベースのシンプルな編成からなる「ナット・キング・コール・トリオ」を結成。 ビックバンドの時代におけるコールの編成は革新的と見られ、トリオバンド流行の火付け役となった。
 

 

ピアニストとしての活動の間、艶のある声を買われて、歌手としても活動するに至った。1944年、歌手として「ストレイトン・アップ・アンド・フライ・ライト(Straighten Up and Fly Right)」を大ヒットさせた。           

私は、サックス中心の曲で行くぞと言い、サックス奏者にレコードを貸してコピーをさせた。しかし,ベースはブルースではないと嫌がった、最も、ジャズのベースなので特に嫌だったのだろう。この曲はボーカリストも気に入ってくれて、ほとんど練習もせずに一発で演奏出来た。我乍らよく出来たと思い録音したテープは大切に持って居ようとしたが、サックスがテープを聞きたいので貸してくれと言う。私は絶対に返せよと念を押して貸したのだがテープは返っては来なかった。ボーカルも聴きたくて私の処まで来のだが、、、そのくせ次の練習は何時なんだとサックスから電話が掛かって来た。私は「お前には、あれほど念を押してテープを貸したよな、返さないのか」と言っても「返さない」と言う。だから私は「お前は今日限りで首だ!!」と言った。そうしたら黙って居る。「バンドのメンバー間の決まりを守れない者とは一緒に出来ないね!!」そう言って電話を切った。それまでもサックスの面倒は見てやって居た。ジャズが好きなくせに「ソニー・ステット」のレコードも聴いて無かったぐらいで、レコードを貸してコピーをさせて居た程だ。恩を仇で返すと言うのは正に此れの事だ。それにほぼ5年間に渡るバンド活動で心底疲れても居た。                                                              

サックスはまた一緒にやりたいと何遍も電話を掛けて来たが無視をした。そんな時にあるギタリストから電話が掛かって来た。ブルースハープ奏者を探して居ると言う。会って話がしたいと言われた。そして会う場所はその男のアパート、いや下宿だった。行って見ると3畳半の部屋にギブソンのギターが置いてあって何時も磨いて居ると言って居た。少し興ざめした。仕事は長距離トラックの運転手だった。部屋の鴨居には、高価な毛皮のコートが数着掛けてあったが、それとギターとラジカセだけが置いてあった。他は何も無かった。缶ビールを飲めとくれたが、私はビールはダメな方なのであまり飲まなかった。バンド編成を聞いて見ると、女の子のボーカルに、ベース、ドラム、ギターの編成だった。聞くと女の子のボーカルもブルースハープを吹くと言う。私は、「ならば自分は必要ないだろう」と言ったが、やはりブルースハープは男がいいと言う。                                                                               

やる曲はと言うとマジック・サムの「I need you so bad」「I Feel So Good」それとアルバートキングの「Bom Under a Bad  Sign」リトルウォルターの「juke」 だった。

 

 

 

 

Magic Sam LIVE I need you so bad 

 

 

 

Magic Sam-I Feel So Good (I Wanna Boogie) 

 

 

 

Born Under a Bad Sign Albert King Ohne Filter 

 

 

 

Little Walter - Juke 

 

 

秋口だったので冷えて来て、トイレはどこだと聞いたら、3畳半の部屋の前に出たところの外にあると言う。いったい、この男はどうしてこんなに貧乏暮らしを、仕手居るのだろうかと思ったが、訳は聞かなかった。人には色々と人には言えない事情があるものだ....。まあ、その頃はハープもロクに吹いては居なかったから、承諾した。。。1ヶ月後、渋谷のスタジオでの演奏と成った。ボーカルの女の子は、男勝りで、「あんた、なんかより、私のハープの方が上手いわよ、きっと!!」と言って威嚇して来た。その子はボニー・レイットとココ・テイラーが好きだそうで、見たところハープについてはダメだと思った。持ち方がちゃんとして居なかったからだ。演奏が始まると、多少ボーカルがヒステリー気味になるが、全体としてはまとまって居た。処でブルースハープは、なんと言うかダブルハープの二重奏に成って仕舞った。予想した通りだった。一歩も引かないのだ。リードギターが痺れを切らせて、その子にハープを吹くのを辞めさせた。そしてリトル・ウォルターの「Juke」は私が演奏した。その子は不貞腐れて聴いて居たけど。。。私は此の頃に成ると持病が悪化して来て居て、とてもバンドを続ける気には慣れなかった。それでバンドの方は休止する事と成った。

 


 

 

Robert Johnson- Crossroad 

 

 

CREAM Crossroads 1968 

 

 

 

CROSSROAD 

 

 

 

十字路へ行ってひざまずいた
十字路へ行ってひざまずいた
天の神様、どうかこの可哀想なボブをお助けください
ああ、十字路に立って車を止めようと手を振った
十字路に立って車を止めようと手を振った
誰も俺に気がつかず、みな通り過ぎてゆく
ああ、日が沈み、闇が俺を取り囲む
ああ、闇が俺を取り囲む
俺を愛してなぐさめてくれる女は、ここじゃ一人も見つからなかった
走れ、走れ、それで友達のウィリー・ブラウンに言ってやるんだ
走れ、走れ、それで友達のウィリー・ブラウンに言ってやるんだ
神様、十字路に立ち尽くす俺はこのまま沈んでいって仕舞います

 

 

 

 

 

親父の会社で働いて居た頃。前のblog記事でも書いたが、バンドをやって居る、 女の子がパートのアルバイトとして会社に来て居た。その子は変わった子で、「プエルトルコの子とヴェトナムの子とシンガポールの子とで昨日、働いたのよ。」とか、「昨日さあ、ライヴの打ち上げでライブハウスの楽屋の通路に居たら、『レイジー・キル』のベーシストがさあ、私のベースを蹴って行ったんだ。考えられる?頭来ちゃうわよ。」「アパートの隣の部屋の白人がさあ〜〜ジャズだと言ってピアノ弾くんだけどさあ、無茶苦茶なのよ。」働きに来て居るのか、音楽の話をしに来て居るのか解らない。

終いには、「〇〇君は私のバンド聴きに来てくれたけど、〇〇さんは来てくれないじゃない!!」と私に言う。段々と図に乗って来る。私もバンドでブルースとかジャズを演奏して居たが、私のブルースハープのバンドのメンバーは、ボーカルの〇〇が、仕事場に来たといって、怒って居たぐらいだ。もっとも、私がブルースハープで、本来は歌も歌うのがいいのだけど、当時は自信がなくて、中央大学出身の21歳の男をボーカルとして居た。芸大を出たベースとドラムは可成り上手くて、まさにプロだった。私が19歳の時に2人共30歳だった。丁度ベーシストの奥さんが、私と同じ拓殖大学出身で、話が盛り上がった。何時もスタジオでの練習の帰りに居酒屋の「村さ来」でビールとツマミのおかずを注文して、皆んなで音楽談議に花を咲かせていた。そのベーシストの奥さんはライブハウスで演奏するときにも、何時も見に来ていて、私は「自分もこんな奥さんを持ちたいなぁ」と思って居たぐらいだ。そのせいで当時付き合って居た彼女が怒って居たが。

 

中央大学出身の男は、「自分は大学に入ってから音楽を聴いたんだ。皆んな見たいに、勉強をしなくて音楽を聴いて居たのとは訳が違う」と言って居て、ベースとドラムは鼻で笑って居た、「あいつ、あんな事言っているけど、英語の歌詞分かって歌っているのかねぇ...。」練習中にボーカルが歌って居ると。「おい、お前さあ、チャパティーって言ってるけど、なんだそれ〜〜」「そう聞こえるよ」「へ〜〜、そう?」「一度レコードの歌詞良く読んでみな!!」

 

しかし不思議と私には皆んな何も言わなかった。多分歳が若い事で多目に見られて居たのだろう。ハープの腕前もまだまだだったのにだ。此の間、探したらその当時の練習中のオーディオ・テープが出て来た。今、改めて聴いてみるとボーカルの歌と私のブルースハープが下手だ。。。

 

ギタリストは同志社出身だった。暫くは京都と大阪で活動して居たと言って居た。ブルースとジャズに精通して居て、テクニックは可成りあった。歳は矢張り私より上の27歳だった。ベースとドラムはプロとして活動もして居て、楽器屋でも働いて居た。ギターは小さな喫茶店の経営者だった。漫画喫茶で中古レコードなども売って居た。夏になると良くアメリカにレコードを買いに行って居たので、私はアメリカ盤のブルースのレコードをよく彼を通じて買って居たものだ。ロッド・ピアッツアとかウイリアム・クラークなどアメリカ西海岸のブルース・ハーピストをそれで知った。このバンドはライブハウスで8回目の演奏をした後に、私は病気になり脱退した。その後はロックバンドに成って行ったらしい。私はあえてメンバーと連絡は取って居ない。皆んなは私が辞めると知ったら、慌てて何回も電話をくれたが、皆んな母が断って仕舞った。

 

 

 

当初私は、何で自分に電話を渡さなかったのかと怒って母に文句を言ったが。。。。今はそれで良かったと思って居る。これが1970年代中頃から1980年代の初頭に掛けてです。丁度この当時、ヘビメタのバンドでリードギターを弾いて居た高校時代の友人が行方不明になったと電話が掛かって来たが....その後彼がどうなったかは知らない。処でメンバーを集めるには、音楽雑誌や、ライブハウス、果ては電柱にまでメンバー募集のチラシを張った。

 

 

 

当時、アンダー・グラウンドで、今で言う、インディーズ・シーンだけども、よくバンドのメンバー同士を引き合わせる人間が居た。電話で問い合わせると、すぐに各楽器をやっている人たちを紹介してくれたが、電話で話して見ると、みんなロック・バンドを組みたくて、ブルースは一緒にはやれないと言った話だった。1980年代になるとパンク・ロックやらテクノ・ロックが出て来て、日本でもブルースは余り良く聴かれて居なかった。まあ、私は、丁度、親父が「自分の会社なら、お前も余り身体の事は心配せずに働けるだろう」と私を会社に入れた。処が此れが裏目に出た。先に会社に入って居た。親父の兄貴の従兄弟二人が、よく思わなかった。特にあきゆきは私に「会社は俺が次期社長になるんだ!お前は何故入って来た!!」私が黙って居たら。「お前は俺の座を狙って入るのだろう!!」と言うのだ。「そんな事はないよ。」と言っても、「嘘だ!これからお前をいびり切ってやるからな!!」と言う。そしてそれを実行した。

 

初めの内は忘年会やら出て居たが、私はそのうち出なく成って行った。ある忘年会の座敷で、カラオケが置いてあり、皆んなは歌を歌って喜んで居たが、私は「横浜ホンキートンクブルース」しか歌えなかった。だから何時もベルトにフォルスターを付けてオールド・スタンバイを持歩いて居るので、まあ、仕方が無いので、アドリブで即興演奏をしてみた、カラオケのマイクを使ってカラオケに繋げて吹いたのだけども、そうしたら皆んな、呆気に取られて、「今の何だ、バッハか?」「いやぁ、ジャズだろ?」親父が「こいつが、今吹いたのはブルースですよ。」と言ったら丁度、食料品メーカーの人も来て居て、驚かれた事があった。従兄弟のあきゆきは、ハーモニカを見せろと言い、「穴が10個しか無いのに、よくあんな音が・・・」と、皆んな当時はブルースハープなんて聴いた事が無かったらしい。私ぐらい吹ける人は山程居る。当時は知って居る人でも、単に小さなハーモニカで、良くフォーク・ミュージシャンがピーピー吹いて居るのを知って居るぐらいだったらしい。従兄弟が「なんて曲だ」と聞くので「アドリブだよ」と言ったら「アドリブってなんだ?」と言うので「即興演奏」と言ったら「けっ!!」と言って居た。

 

 

私はある時期。仕切りにバンドのメンバー募集の記事を音楽誌に載せた事がある。そのお陰で色んな人と出会った。ある時、ある小柄な男がやって来た。その男は葛餅をお土産に持って来たが、母は「自分が食べたいのだろう」と言うと素っ気なく皿に載せて「相手に出してあげなさい」と私に渡した。その男は葛餅を出されると、「俺の好物なんだ」と言いながら美味しそうに口に運んだ。食べ終わると、何故か乗って来た車に乗れと言い。新宿に向かった。新宿に行くともう一人の背の高い男が待って居て。車に乗り込んだ。そして新宿で降りるのかと思ったが、何故か三軒茶屋まで行き、ある喫茶店に私を連れ出した。そこでそのもう一人の男が言った。「ブルースが弾けるギタリストを探して居る」と言う。私は「ギターなら、お門違いだ」と言った。

 

私が探して居るメンバーはギタリストとベースなのだ。私はブルースハープのバンドを作りたかった。だからそう言ったが、その二人ずれはしつこくブルースギターを弾いてくれと言う。私は何か、嫌な奴らだなと思って聞いて居た。そうしたら、その背が低い男が「これから、自分のアパートに連れて行く」と言う。私は「時間がないから帰る」と言うと、アパートはすぐ側だと言う。私は強引だなと思ったが、この二人は私を帰しそうもない。だからアパートまで行く事になった。アパートに行って見ると8畳程の部屋に3畳のお勝手、そしてその8畳間にはセパレーツ・ステレオが置いてあった。そしてレコードが入って居るラックがあった。だけどもテレビは無かった。その男は私にギターを遣すと、何でもいいから弾いて見てくれと言う。私は仕方が無く。「ジョージア・オン・マイ・マインド」を弾いた。すると喜んで居る。

 

そうこうして居るとドアが開いて、スカーフを被った女の人が入って来た。スカーフ?と少し驚いて居ると、彼女は、スカーフを外した、するとその背の低い男が側に寄って行ってキスをした。私は驚いた、彼女は白人の可成りな美人だったのだ。背の低い男が紹介した。「俺の奥さん、名前はアリーダ」私はびっくりして仕舞い、声が咄嗟には出なかった。すると彼女は「よろしくね」と言って、男に「もうそろそろ、社長が来るわよ」と言うと冷蔵庫からポテトなどを出して料理を作り始めた。私はそう言えばもう夕飯時かと思い、家に帰りたいのだけどなと思って居た。それから暫くするとエルテンスープ(青豆が主な原料で、飲むというより食べるという方が正しいドロっとしたシチューっぽいもの)マスタードスープ(エルテンスープよりスープらしい。粒マスタードが原料でピリッと辛くて酸味がある)ハーリング(日本で言うニシンで味は鰯に近いかな。生の塩漬けしたものを、みじん切りした玉ねぎと食べます。時にはパンに挟んで食べる事も)タルタル(生の牛肉のペースト。パンに挟んで生肉のまま食べます。)クロケット(味がしっかりついたコロッケ。衣は日本のとは違い、かなりカリカリしている。パンに挟んで食べます)が食卓に並んだ。私はこれが家庭料理かと驚いて、男の顔を見た。

 

男が「カミさんはオランダ人なんだよ」と言う。そして奥さんが「食べてね」と言うと食べながら話し始めた。何でも彼女は今日が仕事始めで、仕事はデパートの食料品売り場の裏方だそうだ。そして背の高い方の男が言う。「1週間後にコンサートがあって、急遽出る事になった。こいつもギターだが、あんたにはブルースを演奏して貰いたい」だから言った。「ギターなら、俺は要らないじゃないですか?」そしたらこう言うのだ。「こいつはロックなら弾けるがブルースはてんで駄目だ」演奏する曲もグランド・ファンク・レイルロードの「ハートブレイカー」だとかイーグルスの「ホテル・カルフォルニア」だと言う。そしてこう言う。「あんたにはフレディ・キングのインスト・ナンバー3曲を弾いて貰いたい」と言う。それもフレディーのソロでは無くそれを3大ロックギタリストのカバーのアドリブでと言う。私は何だか周りくどい選曲だなと思って聞いて居たら。金を払うと言うのだ。「いいアルバイトになるよ」と言う。私は考えて居たが、金になるのならやって見るかと思った。

 

そんな事を話しながら食事をして居たら、ドアが開き。一人の初老の男が入って来た。そして言った。「いや〜奥さん。今回旦那さんの仕事が決まりましたよ。今度は中央線沿線の自販機廻りだから、金になりますよ」そう言って微笑んで居る。すると背の高い男が側に寄って行って「社長よろしくお願いします」と言って居る。私は背の高い男に言った。「この人は何の仕事をして居るのですか」そう聞くと少し言葉を濁して言った、「いや、何と言うか、元々は彼は漫画家なんだよ」と言う。そして言う。「今は自販機の雑誌の入れ替えを職業として居る」私は「自販機の雑誌の入れ替え?」とピンと来なかった。するとその初老の男が言う「最近では自販機を壊して雑誌を盗む輩がいるからな、ガキだとは思うが・・・。」そして続けて言う。「中野の自販機には3日程張り付いて監視をして貰いたい」と言う。私は盗まれる?自販機が壊されて・・・と訳が分からない。そしてそう言うと前金だとお金が入った封筒を置いて居なくなった。するとその背の低い男は奥さんに「今回は金になるぞ、前金で15万入って居る」そう言って喜んだ。

 

私は思い当たる事があった。自分の住んで居る処にエロ本とエロ漫画の雑誌が入った自動販売機が置かれて、近所の主婦たちが怒って居たのだ。「それか・・・」と思い当たった。そしたら背の低い男が私に言って来た。「さっきこいつが言ったけど、俺はエロ雑誌に漫画を描いて暮らして居るんだよ」そしておもむろに机の上から雑誌を掴んで私に渡した「エロトピア」そう描いてあった。エロ漫画の週刊誌だ。自分の書いた漫画はこれだと私にぺージを開いて見せた、確かにエロ漫画だった、そして言った。「生活の為だよ。最近ではもっと猥褻に描けとか言われて嫌になって居るんだ。」私は奥さんの方を見た。奥さんは食事の後片付けをして居る。そしてその男は続けて言った。「女房はもう慣れてしまってさ、これでも昔はスポコン漫画を少年誌に書いて居たんだけどな、石ノ森章大郎とか、松本零士とかは知って居るぞ。」と言うのだ。私はまたもやこんがらがった。その男がギタリスト?そして俺にブルースを弾いてくれという。何だろうか....。背の高い方の男は、「俺がベースなんだ。ドラマーは不在なんで、キーボードと一緒にコンサートの時は人を頼む」と言う。「歌は誰が歌うんですか?」と聞いたら、奥さんが「私よ」と言う。私は、まあいいかと思いその話を引き受けた。

 

 

Focus - Hocus Pocus 

 

 

 

コンサート当日になった。キーボードとドラマーは20代の若者たちに決まって居た。控室でその若者たちから声を掛けられた。ドラマーが「あんたギター?今回は金払いがいいだろ」と言う。私は「何時も雇われるのか」と聞いたら、「あいつの奥さん、何やって居るか知ってるか」と言う。私は「なんかデパートの食料品売り場で働いて居るとか聞いたけど?」と言ったら。「いや、売れない歌手なんだぜ」と言う。私はだからボーカルなのかと合点が行った。そして言うのだ「あいつが描くエロ漫画はシコれるぜ」と言うのだ。私はキーボードが持って居るフルートのケースを見て言った。「君、フルート吹くのか。」すると言った。「オレは音大生なんです」私は何か事情があるのだろうとその話はそれ以上聞かなかった。そしてコンサートの幕が上がった、まず、背の低い男が「ハートブレイカー」を弾いた。歌は奥さんだ上手いのだ、流石だ、続いて、「ホテル・カルフォルニア」自分も一緒に弾いた。

 

そして「フレディ・キング・メドレー」しかし私は最後に、それだけでは終らせずに、フォーカスの「フォーカス・ポーカス」を弾いた。すると奥さんの顔色が変わった。そして私の方を見てあのヨーデルを歌い始めた。上手かった。私はそのまま弾いた、バックも即興で合わせた。キーボードは慌てて、ケースからフルートを引っ張り出して吹いた。コンサートが終わって。皆んな、喜んで居た。奥さんが言った。「ヤン・アッカーマンはオランダの誇りなのよ!!」私は良かったと思った。すると、背の低い男は私にギャラだと言って1万円を渡した。私は「良いのですか」と言って喜んで貰った。その後、暫くその人とは付き合いがあった。その人は相変わらずエロ漫画を描いて居たが、その後、青年誌に刑事物の連載を始めた。私はファンになり読んで居た。しかし生活の為にエロ漫画も続けて書いて居た。こう書くと私がスケベに見えるかも知れないが、そのエロ漫画も読んだのです。刺激的すぎて堪らなくなった。それからその人は65歳になって病気で亡くなって仕舞った。その後奥さんは母国のオランダに帰ったそうだ。若い頃の思い出です...。

 

 

 

また、バンドの話です。1980年代に三軒茶屋の「ガソリン・アレイ」というライブハウスに急遽出る事に成った事があった。その一週間前に電話が掛かって来て「どうしてもブルースハープを吹いてくれ」と言うのだ。私はバンドを辞めた直後だったし、体調も悪くとてもブルースハープを吹ける状態では無かったが、一度会いたいと言う。仕方がないので新宿で待ち合わせをしていると、やって来て。ドーランやらを扱って居る店に入っていって、顔を黒く塗るのはないか?と聞いている。歳は28歳ぐらいと言う処か、無いと分かると私を連れてキング・ビスケット(ブルース・バー)に連れて行き、水割りを注文するとウオークマンで自分たちの演奏を聴かせた。なんだか、ボーカルが入ってなくてロックン・ロール・バンドのカラオケみたいな感じがした。すると「これは練習のテープだ」「あんたにはスイート・ホーム・シカゴを演奏して貰う」「歌は俺がギター弾きながら歌う」と言う。「なんで俺なんだと聞いたら」「前にライブで見た事があったから」と言う。「ライブ聴いたなら分かると思うけど、下手だぜ?」と言ったらポンと肩を叩いて、「それじゃあ、当日夕方の5時開演だから」と言って居なくなった。

 

随分と慌ただしい男だなと思っていたが、なんか上手く話に乗せられてやる羽目に成ってしまった。当日三軒茶屋まで電車とバスで行くと。楽屋では既に3組のバンドが控えて居て、この間の男が顔を真っ黒に塗って、ウッドベースとドラマーを紹介した。みんな顔は黒塗りだ、私は「ちょっと、待ってくれ、俺も黒塗りにするのか」と恐る恐る聞いて見たら、「あんたはゲストだからいい」との事でホッとした。今まで私は大学関係のミュージシャン達と一緒にやって来たが。彼らは長距離トラックの運ちゃん達だと言う。みんな30歳位だ。気はいい連中だった。バンド名は「ロッキン・キッド」と言った。私は「スイート・ホーム・シカゴ」一曲だけなので演奏中はステージの端で聴いて居たが、名前通りロカビリーのバンドだった。エルビスの曲やらを演奏していた。そして出番が来て、「スイート・ホーム・シカゴ」を演奏し始めた。だが、なんかおかしい。8ビートでどんどん進めて行くのだ。シャッフルの伴奏では無いので勝手が違う、こうなったら、ブルースというかロックハープで行こうと決め、早吹きの連譜をかました。10分位演奏したか・・・エンディングを決めて、終わったら。ベーシストがウッドベースをクルクル廻し、ドラマーはステックを手で回して、そして最後にギターが「俺たちゃ、ロカビリーのバンドだぜ!!』と叫んだ。私はしばらく呆然として居た。ライブが終わると、「連絡を必ず、するからな」と言われて私は別れた。ライブハウスの外では、出番が終わったロックバンドの連中が塒を巻いて話していたっけ...。

 

 

Blues Harp NATSUKO - Sweet Home Chicago 2017.01.01 shinjuku jam 

 

 

其れから10日程経ったある日。その男から電話が掛かってきて「今度、千葉でメンバー皆んなで合宿をやることになったのだけど来ないか、交通費は掛からない車で行くからな」と言うのだが、私は「あの一曲でもういいよ。大体が俺はブルースがやりたいんだから、」と言ったら「そうか、じゃあ、また機会があったらな!」と電話は切れた。結構さっぱりした連中だった。しかし今、私は思って居る。ミッキー・カーティスみたいな老人になりたいと。無理ですか。お粗末。。。。

 

 

 

最近若い頃のバンド活動で思う事がある。それは私が20歳の時に音楽喫茶で共演した二人組のディオの事だ。当時私は、バンド活動は小休止して居たのだったが、そこにこの二人連れから声を掛けられた。私の事は知って居ると言う。それで1時間半程のライブに参加した。二人はガットギターを持って椅子に腰掛けて、その前にシュアのマイクがマイクスタンドにセッテングされてあり。私はセッティングのミキサーからダイナミック・マイクを渡されて、それをボーカルアンプに繋いでブルースハープを吹いた。マイクのインピーダンス・マッチングはちゃんとされて居た。インピーダンス・マッチングとはマイクロホンに大きな音を加えた場合には、出力に波形歪を生じる。この歪みが限度を超えないまでの、簡単に言えばマイクロホンが歪まずに使える入力音圧の限度。数値が高い方が大きな音に耐えられる。コンデンサー型はインピーダンス変換を行なうための電気回路を積んで居るので、1KHzの出力に一般的には1%歪みが出る時の入力音圧(限界を超えた過大な入力)を電気的に測定してデシベル(dB SPL)で表示して居る。

 

ダイナミック型はかなり高い入力レベルに耐えられる構造をもって居る上、過大入力による歪み方も聴感上は穏やかで、電気的測定が難しいので一般的には表示して居ない。電子楽器、マイク、エフェクター、アンプ、ミキサー同士をケーブルで接続して演奏や録音をする際、この「インピーダンス」を知っているかそうでないかによって、実は出音に大きな違いが生じて仕舞う事もあるのです。確かにダイナミック・マイクを繋いでボーカルアンプから出る音はアコースティックな音だったが、私は単なるフォーク・ミュージシャンが吹く様なソロは吹かなかった。ジャズのソニーステットとチャーリーパーカーのフレーズを混ぜてリトル・ウォルターのスタイルで吐き出したフレーズを吹いたのです。だから持って行った。「グリーン・バネット」でアンプに繋げて音を歪ませて吹きたいと言ったのだが・・・。セッテング・ミキサーは露骨に嫌な顔をして、、それはそうだろう、フォーク・ミュージシャンが吹く様な軽いタッチのフレーズだろうと思って居たのだから。案の定。演奏が終わると、すぐにやって来て「マイクを寄越しな!!」と言って奪い取る様に取って行った。そして、二人はなぜか黙って居たのだった。客もシーンと成って仕舞った。私は少し気まずく成って来て居た。やる前には片方のギタリストと音楽論議をして居たが、二人とも黙って居るのだ、だから約束通りボーカルの方から先に言われて頼まれて居た”ボーヤ”を連れてその場を後にしたのだった。

 


George Harmonica Smith 

 

悲しい色やね (Harmonica )ブルースハープ・ハーモニカ/"Osaka Bay Blues"  Kinta2012 

 

my one and only love ブルースハープでジャズ 

 

 

”ボーヤ”とはロックバンドのアシスタント・スタッフの事です。ミュージシャン志望の若者が多いため、“ボーヤ”と呼ばれて居るが、男性ばかりでなく女性も居る。マネージャーと同じように、ミュージシャンの身の周りの世話をするが、仕事は、楽器の管理、修理、セット、片付けだ。楽器車の運転を任される事もある。私は17歳のその"ボーヤ"を連れて自宅に帰り、その子と話をして見た。その子は「ねえ、ハーモニカ教えてね!」と言う。私は何時からあの連中の”ボーヤ”をやって居るのだと聞くと半年前からだと言う。出身はと聞くと「秋田です」と言う。聞いて見るとその子は楽器は何も出来なくて、ただその二人組と一緒に居れば、自分もミュージシャンになれると思って居る。私は「なんだかねぇ...」と思い。その子を2晩泊めた。そして鰻の寝床の様な自分の部屋で過ごさした。食事はスーパーで適当に弁当などを買って来て食べさした。

 

そして、その子は3日目の朝に成るとあの2人連れのディオ・グループの元へと帰って行った。その日の夜、九時頃に、電話が掛かって来た。なんとあの二人連れのマネージャーからだった。「近いうちにあの二人があんたに、また会って話がしたいそうだ」と言って来た。そして「実はあの二人はレコーディングを控えて居て、あんたの事が気に入った見たいだ。レコーディングには参加してくれ」と言う。私は少し慎重に成って居た。彼らと組めば文字通りのプロ・デビューが出来る。しかし考えた末にその誘いを断って居た。私は当時まだ若干20歳だ。自分のブルースハープの腕前は自分が一番良く解って居た。とてもではないが、商業ペースの音楽業界で果たしてこれから先に通用して行けるとは思えない。それに障害の事もあった。あの二人組が私を気に入ってくれて。メンバーとして本格的にレコーディングに参加させようと思ってくれたのはとても嬉しかったが、私はその申し入れを断った。

 

 

私のハードバップ風ブルースソロ。

 

 

 

しかし、今の身の上に成って締まって、私も考える。あの時に、あの連中と一緒にやって居れば。少なくとも今の様に暮らし向きに困ると言う事は無かったろう。まあ、しかし、障害者になればお仕舞いか。当時はブルースハープで本格的にブルースを吹く人は少なかった。皆んな、フォーク・ミュージシャンの様にファースト・ポジションで単なるハーモニカの流れとしてプカプカ、またはピーと吹くだけだった。何も私はフォーク・ミュージシャンを馬鹿にするつもりは無いし、そう言った吹き方もありだ。あれはあれでテクニックが居る。ただ私はクロス操法で、本格的なブルースやらジャズを吹きたかったのです。私はその後、最後のバンドを組んだ。そしてそのバンドで、自主レコードをメンバー全員で60万ほど都合を付けて作った。30枚プレスだ。そのレコードは手元にはもう残って居ない。スタジオで演奏した音源をレコード化した物だ。

 

なんか聞く処によると、以前のblogでコメントを偶にくれた。若い女の子が年上の友達から譲り受けて持って居ると言うのだが...よく1970年代、80年代のミュージシャン崩れは自分の音源を自主レコードにして居た。今は、なんか最近トレンドのカセットテープに録音して、インディーズ・シーンで売るのが流行って居るそうだ。今は 自主CDを作るよりも自主カセット・テープを作るインディーズ・バンドが多いらしい。昔も今もミュージシャンは変わらないんだなぁと思います。此処までバンド活動について書いて来たが。私はその後エレキ・ギターとベース・ギターなどは処分をした。今はブルースハープだけを吹いて居る。しかし私より上手いギタリストやら、ブルースハーピストは星の数ほど居る。私は音楽活動はいい思い出として心に留めて於たい。そしてまだ此処に書けなかった話などもいずれ、、まあ、機会があったら、また書くかも知れません。此処まで読んでくれて有難う。

 

 

Jason Ricci, Spring Harp Fest 

 

 

 

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ここまで読んでくれて有難う御座いました。更新出来たら、またお逢いしましょう。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

小林 麻美(こばやし あさみ、1953年11月29日 - )は、日本のモデル・元歌手・元女優。本名、田邉 稔子(たなべ としこ)、旧姓、小林。

東京都大田区大森出身。普連土学園中学校・高等学校卒業。夫は田辺エージェンシー社長の田邊昭知。

高校1年生の時、少女雑誌のモデルにスカウトされ、2、3回その仕事をこなした後、1970年、ライオン歯磨のコマーシャルガールに選ばれる。しかしこの時、テレビコマーシャルの撮影でスキーを行った際に複雑骨折してしまい、長期休業となる。
 

1972年、18歳の時、東芝レコードから「初恋のメロディー」で歌手デビュー。同期に麻丘めぐみ、五十嵐じゅんら。「初恋のメロディー」はオリコン18位を記録したが、当時のアイドルに多く求められた、明るく無邪気に笑顔を見せる天真爛漫さとは対極にある様な、殆んど笑顔を見せずにうつむき加減、猫背で気だるそうに歌う小林の姿は異質にも映り、暗い印象を持たれた。小林の名が浸透したのは1970年代後半、資生堂、パルコなどのCMに起用されてからである。特に1977年のパルコCM「淫靡と退廃」で、細い体や暗さが受け入れられた。

 

1984年に8年ぶりに歌手として、ガゼボの「I Like Chopin」のカバー「雨音はショパンの調べ」をリリースし、大ヒット曲となった。1991年、所属事務所田辺エージェンシーの社長の田邊昭知と結婚、家庭に入るため芸能活動から引退した。2016年7月20日発売のファッション誌『Kunel』9月号(マガジンハウス)の表紙を突如飾り、同誌で新連載「伝説のおしゃれミューズ」をスタートし、25年ぶりに芸能界へ復帰する事となった

 

雨音はショパンの調べ - 小林麻美 

 

皆さんは人が泣いて居るシーンを、ドラマやら映画で見たりするとどうなりますか?私は自分も泣きます。何故ならその人物の心情が手に取る様に解るからです。アニメを見ても大泣きをします。「火垂るの墓」「聲の形」「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」そして「あしたのジョー」ですら泣きながら見て居ました。映画では「シンドラーのリスト」「あん」など......。今日嫌な事が又有りました。先ほど、もう明日の食事が何も無いのでセブン・イレブンまで買い物に行ったんですよ。そして中国人の女の子に色々言って会計をして貰って居たら「ハハハハハ!!」と聞き覚えがある声の笑い声がしたのですよね。私はすぐに後ろを見ましたが男しか居なくて。その声は此のblogをお読みならお分かりになるかと思いますが「新撰組、土方歳三」を知らなかった。「ロックは1970年代になんてまだ無かったわよ」と言い切った訪問看護師の女の子の笑い声だったのですよ。恐らくは私を見かけて馬鹿にして笑ったのでしょう。自分が相当な馬鹿の癖をしてね。

 

この間ネットを見て居たら「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の映画の感想をアップして居た女の子が話しながら涙声になるのですよ。あのアニメは恐らくは京アニで殺されたアニメーター達が最後の力を振り絞って完成させたアニメ映画だから、恐らくはその人達の悲しい想いが宿って居るのでしょう。私なんかも予告編見ただけでヴァイオレットのセリフを聞いただけで涙が滲んで来ます。戦争で多くの人を殺めた戦闘人形と呼ばれたヴァイオレットが悲しくて。愛を知らなかったヴァイオレットが可哀想で。でもね、私がこの間。此の作品の「北米盤」を購入して届いて。観て居る処に訪問看護師がやって来て「買ったんですか!!」と言うので再生したら。その子も涙目になって居るのですよね。此の話は何遍も言いますが純愛ドラマです。戦争が背景にあります。私は洋画の名作で、ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニが共演した「ひまわり」と言う名画がありますが。此の「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」を見て居るとあの映画の事を思い出すんですよね。あれは悲劇だったけど・・・。幸いにもヴァイオレットの方はハッピーエンドですからね。本当に私はよく映画やらアニメを見て泣きますよ。

 

 

 

I Girasoli (ひまわり/Sunflower) - Love theme from 'Sunflower' 

 

 

 

 

 

 


昔、あすなひろしと言う漫画家が居たのですが。彼が描いた。「哀しい人々」と言う漫画があるのですが。短編集ですが。今回。此のblog記事で、その話をしようと思います。

 

「ある若い美しい女の子が都会から田舎に嫁ぎます。彼女は優しくしっかり者でした。しかし地方の庄屋の姑はその子に辛く当たりました。何かと言うと「此の東京者が!!」と言うのです。そしてその庄屋にある学生が東京から遊びに来ます。彼はその様子を見て黙って居られなかった。「「東京者」のどこが悪い!!」と口の悪い姑に喰って掛かります。そう言うとその旦那の両親は、その女性に気があるのだろうと返って疑いはじめ「東京人は地方の者を差別しよるけん!!」と言います。その女性は結婚して2年目ぐらいで子供を授かりました。そうしたら、姑たちはその女性に栄養のあるものを食べさせません。卵や牛乳でさえ「東京者は贅沢に育ちおってからに!!」と言って食べさせませんでした。そして身籠って居るのに、重労働の畑仕事をさせました。結果、子供は流産して仕舞いました。旦那にその女性は精一杯謝りますが。信じて居た旦那は一言こう言いました。「こんな事なら東京者を嫁になんて貰うんじゃ無かった!!体の丈夫な田舎の女の方が余程ましだった!!」

 

その女性は愛して居た旦那から、そう言われてショックのあまり気がおかしくなって仕舞います。最後、数年経ってその庄屋に遊びに来て居た若者は、若いが立派な大会社の社長になって居て。その女性の事は既に忘れて居ましたが。その庄屋の近くまで車で行く事になり。まだ舗装されて居ない道路を運転手に運転させて乗って居ると。ある家の中から若い男の声で「婆さん、何であんな気狂い女に握り飯なぞくれてやるんだ」と声がしました。するとお婆さんの声で「達也、人にはなぁ、皆んな深い訳があるとじゃど。あの女の人はな気の毒な人じゃけん」と聞こえて来ました。「誰の話だ」とゆっくり走って居た車を止め差して外を見ると。あの庄屋の奥さんがズタボロの着物を着て握り飯を頬張って歩いて居たのでした。気が触れて居るのです。勿論、旦那とは離婚です。彼は嘆きました「俺があの時に言いくるめてでも東京に連れて帰って居たらこんな事には・・・・。」話はそこで終わります。

 

此の話も、その短編集からの話です。「あるヤクザ者が居ました。彼はアリサと言う。女性が好きで、好きでたまりませんでした。彼女はストリッパーでした。彼は何時も特等席で黄色い声を張り上げて彼女の踊りを見て居ました。そして彼と彼女は親しくなりました。でも彼女には秘密がありました。どんな秘密かと言うと勝手の旦那はすぐに暴力を振るう人で。彼女は妊娠3ヶ月の時にお腹を蹴られて子宮が破裂して仕舞います。勿論、子供も助かりませんでした。それ以来男性は避けて居たのでした。しかし。そのヤクザはヤクザ者でも違いました。ちゃんと若頭の地位を拝領して居て。子供好きでした。ある時に彼はアリサに一緒に温泉旅行に行こうと言いました。彼女は「そう・・・」と言いながら浮かない顔をしてついて来ました。旅館に着くと彼は露天風呂に二人で入ろうと言いました。アリサは「何かスケベな事考えてたら承知しないからぁ〜。」と言いました。しかし一緒に湯船に浸かりました。

 

アリサが旅行に来たのは、優しい彼に自分の事を諦めさせる為でした。彼女は彼に自分には勝手旦那が居た事。その人のせいでお腹を蹴られて、子宮を破裂させられて子供が産めない事。だから自分の様な女は諦めてと言いました。彼は黙って話を聞いて居ましたが、結婚指輪を突然洗面器から取り出すと、彼女の指に嵌めました。そして言いました。「俺はな。こんな、こんな人間だけどもよお、お前と所帯を持ってお前を一生幸せにするから」と言って湯船の中で彼女の肩を抱き抱えました。彼女の顔はそれまでのどの顔よりも光り輝き、そして嬉しそうに「本当に信じていいのね。約束よ本当ね!!」と言いました。彼は微笑んで「当たり前よ!!」と言いました。すると彼女は目を閉じて湯船の中へと沈んで行きました。彼は「オイオイ、のぼせたのかよ?」と言いますが。彼女は湯船に沈んだ侭です。彼はとっさに引き上げると

 

「大丈夫か?アリサ?どうした!!。」そう言うと裸の彼女を抱き抱えて温泉場から、自分も腰にタオルを巻き付けた姿で旅館に駆け込んで「誰か来てくれ!!」と叫びました。その後。警察の検死官と医者が来ました。そして彼に彼女は温泉で既に無くなって居た事。此の特徴は心臓によるショック死で。「余程、彼女は日頃から気を張って生きて来たのだろう」と言いました。そして彼に言いました「奥さんに何か言いましたか・・・。」彼はどう答えたらいいのか分からなくて、「まだ女房じゃないです。今日指輪をあの温泉の中で嵌めてやりました。」そう言うと医者は「きっと彼女は余程にあなたの事が好きだったのでしょうね」そして「ご愁傷様です」と言いました。「アリサ、お前はそんなに気を張り詰めて毎日生きて居たのかい.......。」彼は遺体安置所でアリサの顔を見て居ると大粒の涙が止め度も無く流れ落ちて来て悲しくて泣けて泣けて仕方が無かったのでした。

 

最後の話です。「ある高卒のサラリーマンが居ました。勝手は愛した女性も居ました。ですが。貧しかった彼とは違って彼女は大学に行きました。その事で二人は別れました。彼はある日、アパートの庭に一羽のスズメが怪我をして落ちて居るのを見つけました。彼は可愛そうにと思いそのスズメを、アパートの自分の部屋に籠を買って入れて傷を手当てして、治ったら逃がそうと思って居ました。そして彼がある休みの日、寝て居たら誰かの声が聞こえました。誰だろうと思って目を開けて見たら、そのスズメが何時の間にか、籠から出て来て居て彼の肩に留まって居ました。そして彼に「僕を助けてくれてありがとう」と言いました。彼はびっくりして飛び起きるとスズメに言いました。「お前は人の言葉を話せるのか?」するとスズメは言いました「僕は何でも出来るよ」彼は半信半疑でした。そうしたらそのスズメは「庭の木の根元を掘って見なよ」と言いました。彼は木の側を掘ると何と金貨が出て来ました。彼は「此の事は秘密だね」と、スズメと話し合いました。しかしスズメはよく喋り。何時の間にか近所の人たちが。独り者の男のアパートの部屋から、鳥が話す人の話声が聞こえると騒ぎ始めました。

 

別れた彼女もその話を聞き付けました。何と彼女は既に結婚しており。旦那はテレビ局の名プロデューサーでした。ある日。彼は仕事をして居たら自分の上司が屋上から身投げをして自殺をするのを目撃しました。彼の事を一番理解してくれて居た親代わりにも成って貰って居た人でした。彼は絶望しました。スズメはそんな彼を一生懸命慰めました。そんなある日。彼の元の彼女が旦那と共に彼のアパートまで来ました。そして彼にこう言いました。「あなた。此のスズメが話して居る処を、全国にいや、全世界にテレビ放映したら。大金持ちになれるわよ?」「私たちに任せてくれないかしら。」彼は彼女が連れて居る男の事を聞きました「その人は?」彼女は言いました「私の夫よ」彼は塞ぎ込みました。そしてスズメに聞きました「君はテレビに出た方がいいと思うかい?」するとスズメは言いました「僕はいいけど。後々、君が困らない様にしてくれると言う約束ならば・・・・・」彼女は言いました「明日また来るわ。スズメさん宜しくね。」彼はスズメに言いました。「彼女は昔俺と付き合って居たんだよ。でも、俺はしがない「夜間高校卒」彼女はエリートでさあ、大卒何だ」

 

「俺も空を飛べたらなぁ。今頃、天国に居る岡村専務に会えたのにな、、」スズメは彼に彼女と何故別れたのか聞きました。彼は寂しそうに言いました。「身分違いだったんだよ。彼女と俺ではね...。」次の日,彼女はテレビに出るので粧し込んで来ました。そして籠とスズメを持ってテレビ局に行きました。その時に彼は彼女に言いました「俺はさ、高卒であんたら大卒が大学で遊んで居る時に。馬鹿にされながら働いて、働いて。暮らして居たんだよ。来る日も来る日も嫌がらせをされながら」そして言いました「きっとスズメは喋らないよ」彼女はムキになって言いました。「このスズメが本当に、あなたの事を思って居るのならば絶対に話すわ!!」男は言いました「何故そう思うんだい」彼女は語尾を強めて言いました。「それが恩よ助けて貰った。」そしてテレビは全世界に向けて放映されました。しかしスズメは鳴きはしましたが、人間の言葉は一言も話しませんでした。彼女の夫は怒りましたが。彼女が宥めて。そしてスズメの籠を抱えて彼のもとに来て言いました。「私が甘かったわ、、あなたの勝ちよ。これからどうするの?」彼は黙って其れから考え込んだ様に言いました「旦那さんが君の事を待って居るよ、帰りな。」彼女が帰った後に彼は言いました。「俺はもう疲れたよ。」そしてスズメに「君はもう僕のそばに居なくてもいいよ」するとスズメは「チッ」と鳴きました。

 

彼はスズメに言いました。「さあ、君は自由だよ」車の中で彼女は何か凄い胸騒ぎがしました。タクシーに「元来たアパートまですぐに戻って....。」と言いました。彼はスズメに続けて言いました「俺は暫く眠ろうと思う....。」と言ってガス栓を捻りました。スズメは言いました。「駄目だよ変な気を起こしたら!!」そして言いました「僕は君の事を思って人間の言葉を言わなかったんだよ。口聞かなかったんだよ!!」彼はスズメに怒鳴りつけるように言いました「もういいんだよ。出て行ってくれないか?」スズメは目から大粒の涙を出すと言いました。「じゃあね。お別れだね」彼はスズメをカゴから出すと大空に放ちました。そしてガスが充満して居る部屋でマッチを擦りました。その時に彼女は丁度近くまでタクシーで来て居ました。アパートの彼の部屋は爆音と共に吹き飛びました。彼女は、そうとは知らず。ふと、半開きのタクシーの窓にスズメが留まって居るのに気づいてスズメに聞きました。「あの人は!!」スズメは首を横に振ると一言彼女に「酷いよ、そして醜いよ人間は!」そう言うと飛び去って行きました。」今日は初めの話は此処までにします。

 

 

『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』本予告第2弾 2020年9月18日(金)公開 

 

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BSマンガ夜話 「青い空を、白い雲がかけてった」 

 

 

「あすなひろし」

プロフィール

愛犬ダイと共に(1975~76年頃 葉山にて)
  • 1941年、東京生まれ 。本籍は宮崎県西臼杵郡三ヶ所。
  • 1961年、少女クラブ冬の号に「まぼろしの騎士」でデビュー。
  • 以来少年誌、青年誌にも次々と作品を発表し、流麗な描線と時に叙情的、時にコミカルといった多彩な作風で読者を魅了。
  • 1972年、「とうちゃんのかわいいおヨメさん」と「走れ!ポロ」で第18回小学館漫画賞を受賞。
  • 2001年3月22日、肺がんのため他界(享年60)。
  • 2004年、「NHK BS マンガ夜話第31 弾」で取り上げられる。
  • 2010年7月、YASUDA ART LINK(東京)にて初の原画展を開催。
  • 2010年8月、ギャラリーチフリグリ(仙台)にて原画展を開催。
  • 2011年3月~9月、河口湖ミューズ館(山梨)にて原画展を開催。

作品年表

作品年表

少女漫画群・前期(1961~1970)

「あすなひろし」は19歳の冬、「少女クラブ」1961年正月増刊号に「まぼろしの騎手」の掲載が決まり、「少女ブック」編集部に持ち込んだ「南にかかやく星」も採用され、2誌で同時デビューした。「少女クラブ」では新人作家の舞台である増刊号や別冊付録で読み切り作品を矢継ぎばやに依頼され、ほどなく本誌での連載をまかされるようになるが、この時期は「あすなひろし」にとってまだ習作期であり、技術面では自身でも“稚拙だった” と後年語って居る。

その後約2年間休筆し、さまざまな職業を転々としたと言う。しかしこの間も漫画家として修養を重ねて居たのは間違いなく、1964年春「りぼん」増刊号にて華麗に画風を一変させた「みどりの花」を発表し、再デビューを飾る事となった。ポエミックな物語に洗練された画風が結びつき、「あすなひろし」の作風は此処から確立される。

『ながれ星ひとつ』
なかよし1964年8月号掲載(掲載名「おどり子人形」)

少女漫画群・後期(1970~1977)

1966年頃より、「あすなひろし」は当時勃興して居た青年向け漫画誌に軸足を移し、デビュー以来のホームグラウンドであった少女雑誌からは徐々に離れていったが、「小説ジュニア」等での読み切りコミックは絵柄こそ青年漫画の画風を反映させて居たものの、少女漫画での抒情性をより一層深化させて作品歴のうえでひとつのピークとなった作品群であった。

それらを収録した初単行本「サマーフィールド」を上梓したのを一区切りとし、70年代の少年漫画で従来の無国籍性から脱し、日常的な作風を獲得して行く事になるのだが、この側面は「女学生の友」で4年以上に渡り「ポエムコミック」として連載された一連の読み切りシリーズにおいて豊かな実りを齎す事となった。シリーズ中の一編「走れ!ボロ」は1972年小学館漫画賞受賞作である。

『赤いシャツを着た人魚』
女学生の友1973年6月号掲載(ポエムコミックシリーズより)
『らくがき』
JOTOMO1975 年3 月号掲載(ポエムコミックシリーズより)

少年漫画群・前期(1969~1976)

「あすなひろし」が少年誌に登板し始めるのは1960年代末からであり、それは週刊少年誌の読者年齢層の上昇から青年漫画作家が動員される様になった流れの中に位置付けられる。

一方、創刊間もない「少年ジャンプ」においては先行の他誌よりも対象年齢がやや低かった事もあり、「あすなひろし」は常連漫画家の一人として本来の意味での少年漫画も手掛ける様になってゆく。同誌で発表の「ぼくのとうちゃん」「とうちゃんのかわいいおヨメさん」は代表作であり、特に後者は第18回小学館漫画賞の受賞対象となった。太めの線で描かれた画風は少年漫画の風潮ゆえの要請と思われるが、ストーリー面ではそれまでの無国籍性から脱し、作品上で日本、家族といった日常性やリアリズムがクローズ・アップされはじめた事が特徴である。

『おお!大戦争』
週刊ぼくらマガジン1969年7号掲載(全3回のその1)

少年漫画群・後期(1976~1982)

1976年「週刊少年チャンピオン」に発表された「青い空を、白い雲がかけてった」の反響は大きく、その後各少年誌で爆発的に流行する学園青春物の発端となった。この作品自体も5年間に渡って続く長期シリーズとなる。当時「週刊少年チャンピオン」が社会現象を巻き起こすヒット作を多数抱えて居た時代だっただけに、あすなひろしの名を「青い空を、白い雲がかけてった」と共に記憶して居る人も多い。作者自身、このシリーズに強い愛着を持っており、本来ならば主人公ツトムたちの卒業までを書き遂げたかったと言う。少年漫画の分野ではその後も同誌をホームグラウンドとして、珍しい長期連載「風と海とサブ」、力作「ぼくたちの大砲」などが発表された。

『風を見た日』
週刊少年チャンピオン1977年6・7号掲載(「青い空に、白い雲がかけてった」シリーズ第2話)

青年漫画群・前期(1966~1970)

1960年代後半に入ると、「あすなひろし」は青年コミックの領域に進出する。当初は少女漫画サイドへの配慮から、このジャンルでは臼杵三郎の変名を用いていた。(やがて「COM」などマニア誌向け雑誌にも登板される様になるに従い、臼杵三郎名義は廃され、あすなひろしのペンネームで統一された。)ストーリーの多くはこの時代の青年漫画誌の主流であったハードボイルドだったが、内外のイラストレーションの画風を取り入れ、少女漫画とはまた違った洒脱さをこの領域にもたらした。作者自身の述懐では、この時期ほとんどの青年誌を総なめする様に描きまくって居たと言う。

『ジョージ・ワシントンを撃った男』
週刊漫画アクション1967年11月2日号掲載

青年漫画群・後期(1970~1983)

1970年代中盤、「あすなひろし」は最多作期を迎える。青年・少年・少女、各ジャンルでの絵柄が統合され、ストーリー面もそれぞれで培われた要素が一体となって、代表シリーズ「哀しい人々」を生み出す。これは「ビッグコミック・オリジナル」に不定期連載された読み切り短編群であるが、上梓された同名の単行本(全3巻)には他の青年誌に発表された作品も含まれており、内容的にはバラエティ豊かでありながらも、「哀しい人々」とはこの時期のあすなひろしの青年漫画を総括するシリーズタイトルであったと言える。作者自身、「哀しい人々」で自分の世界が出せるよになったと言う意味の事を語って居る。

『童話 ソクラテスの殺人』
ビックコミック・オリジナル1977年5月20日号掲載(「哀しい人々」シリーズより)

青年漫画群・晩年期(1983~)

1980年代前半から「あすなひろし」の作品発表数は減少して居たが、永年暮らした神奈川県の葉山から郷里広島に戻った1985年以降は注文に応じた執筆を行なわなくなった。それゆえ、晩年と言わざるを得ないこの時期は正直に自分の描きたい作品だけを描いて居た事になるが、「哀しい人々」の時代よりペシミスティックな要素が深まっており、作者の閉塞感を強く感じさせもする。1989年以降は「あすなひろし」として表立った発表は行なわなかったが、2000年末に肺癌で入院するまで画業を絶やす事はなく、「東回帰線」などの未発表稿も残されて居る。

『林檎も匂わない』
コミックトム1988年8月号掲載

名作漫画群(1965~1983)

かねてから自作における文学性が注目されて居た為か、「あすなひろし」には文学作品の漫画化が少なくない。古くはバレエ「ジゼル」に基づく「ミルタの森」(水野英子との合作)から、作品譜のうえでひとつの頂点をなす「嵐が丘」を経て、後期には五木寛之「海を見ていたジョニー」に至るまでを手掛けて居る。こうした文学作品の漫画化の殆んどは編集サイドからの企画に乗ったもので本意ではなかった場合も多かった様だが、一方で幼少期より耽溺していた宮沢賢治とプーシキンの作品を共に自ら漫画化して居るのは印象深い。

『リチャード三世』
週刊漫画アクション1968年5月20日号掲載
『セロ弾きのゴーシュ』
コミックトム1983年5月号掲載

 

 

 

 

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「言いたい事」

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 人は自分の考え方で人を見る。人には誰にも譲れない考え方がある。言って見れば其の人間の型(尺度)だ。その人は自分にある、いや、自分が考えた思想で生きて居る。この思想。この型(尺度)は何人にも侵し難きものだ。それは何時出来上がったものだろうか。何時形成されたのだろうか。思想は誰でも持って居る。型(尺度)は誰でも持って居る。しかし、この型(尺度)は、一丁一端で出来たものでは無い。生きて来る上で考えたものだ。人生経験から来て居るとも言える。「知・覚・考・動」この言葉の定義を知って居るか?世の中の大半普通の人の思考はこれだ。しかしこれでは何にも出来ない。「知・覚・動・考」こう変えて見る。この四つの言葉で一番大切な言葉は何か?答えはすでにある。「とも(知)・かく(覚)・うご(動)・こう(考)」だ。ミュージシャンのGACKTは言う....。「物事を知って居たら覚えたなら。とにかくすぐに動く事、行動する事。動きながら、知る事も覚える事さえも出来る。逆に行動しないと。知って居ても其の意味が解らなかったり覚えた事さえどんどん忘れて行く。だからこそ行動こそが結果を出す一番の近道。考えてから動くからスピードが遅くなる。。考えるのは行動をした後でいい。全ての人間の行動は思考が支配して居る。思考が結果を生み出す。」

 

私は、物事が上手く行く人に共通する要素は「素直さ」だと思って居ます。素直な人はビジネス書を読んで、面白い事が書かれて居たら「自分もやって見よう」と、すぐに行動に移す事が出来ます。柔軟性に富んで居るから、自分とは異なる意見を取り入れ、行動に移す事が出来るのです。一方、素直でない人は他者の意見をなかなか受け入れようとはしません。悪い意味でこだわりが強く、頑固です。他者の意見を取り入れないと、結局は自分の勘や経験、そしてわずかな知識に頼るしか無く、遠回りをして仕舞います。どんな物差しで自己の価値を測って居るのか、わざわざ意識した事は無いかも知れませんが、実は心の奥では気づいて居るかも知れません。結局の処、「自分は基準に達して居る」と感じれば、自分に対する感情が良くなりますが、「自分は基準に達して居ない」と感じると、自己評価は暴落します。相手を苦手に感じ、相手の事が嫌いになるとき、人は理由を相手に求めます。自分の意に沿わない言動によって、自分は苦しめられて居ると感じるのです。しかし、自分の意に沿わないと決めて居る基準はなんでしょうか。それは自分の価値観で作った自分の型であり、絶対的なものではありません。

 

それでは、そもそも人はどんなときに、相手を「苦手」「嫌い」と感じるのでしょうか。殆んどの場合、原因は相手の発言やふるまいにあるのだと思います。相手の発した言葉で傷ついた、無神経なもののいい方が癇に障った、だらしないふるまいを見て不愉快だった……。そうした自分の意に沿わない言動が、悪印象を持つ切っ掛けになるのです。勿論、型はあっていいのです。それは自分の発言や行動の規範になるものですし、型がある事によって、自分という人間が作られます。ただし、他人をはかるときには、型に“嵌めて考える”のは辞めましょう。自分の型と他人の型は違うのですよ。

 

此処で「禅」の求道者、枡野 俊明氏の言葉を抜粋して於きます。

『「禅の庭」をつくるときに、私は時折、「山是山、水是水(やまはこれやま、みずはこれみず)」と言う禅語を思い出します。意味するのは、山は山として本分を真っ当し、水は水として本分を真っ当して居ると言う事です。山が水に対して「山になれ」と命令する事もなければ、水が山に向かって「水になれ」と指図する事もありません。

 

禅の教えは、人の社会全般に当て嵌ります。「山是山、水是水」を人間関係に当て嵌めるなら、自分が山なのであれば、水である相手が山になる様に求めては行け無いし、自分も水になろうと頑張る必要は無いと言う事になるのです。山は山として、水は水として本分を真っ当するのが美しいのであり、自然は当たり前の様にそうして居ます。

 

禅では、人と自分に付いて、「人は人で絶対、自分は自分で絶対」と考えます。絶対と言う意味は、今、此処に、命を頂いて、過不足なく生きて居ると言う事です。人も自分も、共にその様な存在なのです。過不足なく生きて居る誰かに、「此処が足りないじゃないか」などとは言え無いのです。

 

人は人で絶対、自分は自分で絶対と言う事を意識して、誰に対しても、「水平の視線」で見る様にして見ましょう。視線を高くして見下ろせば、人は小さく見えますし、視線を低くして見上げれば、人は大きく見えます。どちらも相手を正しく見る事になりません。』

 

常に水平の視線で人を見ることを心がけ、その様に努めて行く。それを怠らない事で、人は人、自分は自分と言う事が身体で解って来る。つまり、実践出来る様になるのだと思います。

 

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「最後に」

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自分の思想。型には、程度があります。つまり型を使う為には己の意思と行動力が必要です。人を妬んで居る。口を開けば他人を憎んでばかり。他人のやり方考え方をただ否定したいだけ。他人の夢を馬鹿にする奴。あなたはどうですか?悔いを残したか。人を憎んだか。人を愛せたか。罪を刻んだか。何かを失ったか。自分を愛せたか。GACKTは言う。「今日と言う日は、昨日。今日を本気で行きたくて、それでも、この世を去らなければ成らなかった者たちが残して行った輝かしい未来だ。そんな一日だ。だから本気で生きろ!!」自分の思想。型(尺度)。然しながら、其の思想は常に更新し。そして磨いて居なければチンケなプライドと成って仕舞うのですよ。私は自分の思想(型)。を持っては居ますが。それで人は測りません。あくまで、それは自分の型だからです。自分の思想。要するに旗ですね。それは大切です。然し他人が掲げて居る旗もまた大切なのですよ。下賤な考えで其の旗を汚すのは辞めましょう。

 

      GACKT「Last Song」                                        

                 以上....。私が言いたかった事でした。

 

 

 

最近はまた、ナショナリズムが出て来て居るのか?21世紀も進み出したら、全世紀的な思想。封建主義的な考え方が蔓延り始めて居る。それは、物を所有すると言う概念を危険思想と見なす事だ。私は確かに前世紀的な物を所有し、そしてそれらに囲まれて、暮らして居る。それが、無駄な事で、時代にあって居ない、ダメな考え方に寄って成り立って居る無駄な事だと思う人が大半なのです。例えば、ラジカセだ。私は今に相応しく。「BoomBox」と呼んで居ますが。カセットテープで音楽を聴く事を、もう終わった無駄な事をして居るバカと見て居る人が殆んどだ。何故なら今はスマホで例えばiPhoneなら、アップル・ミュージックに加入すれば、音楽はストリーミングで聴き放題で聴ける。音楽をデーターとして聴いて居て。物の概念が全く無いのだ。レコードやら、カセットテープ、そしてCDには、モノとしての音楽の概念が詰まって居た。人はレコード屋に行き。レコードのジャケットを見て、ジャケットに描いてあるイラストを見て、芸術的なフォトを見て。また、レコードに掛けてある帯を見て、または中に入って居るライナーノーツを読んで、その行為その物も、音楽と言う媒体の一部だった。カセットテープに音楽を自分で録音する事自体が音楽の共有部分だったし、カセットテープの表紙を自分でコラージュしたミュージシャンの写真やらイラストを貼り、文字に対するレタリングを楽しんで居る事そのモノも含めて音楽だった。CDもそうだった。同じだった。

 

 

 

 

それが丸で無くなって仕舞ったのです。今の若者なら仕方が無いだろう。生まれた時から、音楽はスマホでストリーミングを聴き、音楽に形があったと言う事を知らないのだから。しかし、それ以外の人たちまで右へ倣えをして居る。何故なら、ラジカセなどは買って持っては居たが、今は押し入れで壊れて聴け無く成って置いてあるし、ステレオは元からいいものは持っては居ない。レコードなども買って、持って居たけど、今は、処分したし、残りの処分しきれなかったレコードはやはり押し入れに入って居る。大体がレコード・プレーヤーが無いと大抵の人は言うのだ。そんな時に私は「レコード・プレーヤーなら昔と違って今は7千円ぐらいから小型のアンプを搭載してスピーカ付きのものがありますよ」と言うのだが、今更買う気にはなれないと言うのだ。音楽はスマホで聴けるからそれでいいと言うのですよ。ミュージシャンは今は食えない職業に成り下がって仕舞った。苦労してギターなどを弾く技術を身に付け、その技術を駆使して、自分のフィーリングで考えた音楽を演奏してそれをレコードなりCDにして売って、評価を得て、ライブで自分たちバンドの音楽を発表して評価を得ながら活動をする。それが今や崩れて仕舞って居る。最近はDJがクラブやらコンサートと銘打った。DJ主催の音楽会で、レコードを何枚も同時に変則レコード・プレーヤーで再生して音をサンプリングして、変則的にエフェクトを掛けて再生して、それでクラブ・ミュージックだと言って、自分はミュージシャンだと言って憚らない。楽器は何も弾けないのですよ。感覚刺激だけだ。最近のロックバンドを聞いても。ハッキリ言って、ブルースの影響が丸で無い。非常にお粗末な発想の音作りをして、ギターソロなどはまるでど素人か?と見舞い違いする程度のアドリブしか弾いて居なくて、そんな程度で実力があるなどと言われて居る。

 

 

 

 

 

以前、今からもう10年ほど前になるがテレビで深夜音楽番組を見て居たら、実力派・プログレッシブ・ロック・バンドと言う触れ込みである若者たちが結成して居るバンドの音楽を流したが、私は唖然とした。単に音は幼稚な羅列にすぎなかった。確かに。前衛的な音作りをするジャーマン・プログレと言うジャンルも昔あった。「カン」やら「クラフト・ワーク」または「タンジュリン・ドリーム」などと言うバンドたちが居た。どのバンドも1970年代から1990年代まで演奏は続けて居た。しかし彼らは音こそは前衛的だけども、例えばイギリスの「イエス」「ピンク・フロイド」「EL&P」またイタリアの「イ・プー」「ニュートロレス」「ムゼロ・ローゼンバッハ」フランスの「オルメ」などを聴けば解るが彼らはクラシックとブルース。そしてジャズをちゃんと学んで居て、それらの音楽を演奏が出来る実力を持った上で、あえて前衛に走って居るのですよ。今の一部の若者は上部だけ真似て、基本の部分のそれらの音楽を丸で解って居ないし学んで居ないのです。私は最近、応援して居る若手のバンドが居ます。それはブルース・ハーピストである千賀太郎くんが作ったブルースを軌軸に全く新しい音楽の創造を目出す、ロックバンド「Monster大陸」とロックとブルースを基調にしながらも、新しさを感じさせるサウンドを鳴らす、男女2人組。 ハスキーで圧倒的存在感のヴォーカルと、 ブルージーで感情豊かなギターが特徴の松尾レミと亀本寛貴の男女2人による日本の音楽ユニットグループ「グリム・スパンキー」の2バンドです。彼らの実力は折り紙付きです。こう言った若手のバンドが居る限り私は日本のロック業界も安泰だなと思えるのです。話は音楽に付いてに成りましたが......。

 

 

M1 The Call Performed by MONSTER大陸 

 

私はもう古いタイプの人間ですよ。若者と話して居てそう思います。しかし、色々な世代の人間がひしめき合って居る世の中です。色々な世代の人が色々と考えて生きて居るんです。年上の世代に敬意を払い。そして年下の今を生きる若者からはパワーを貰いましょうよ。「最近の若いのは!!」とは言わずに。若者から今の世の中で何が流行って居て。そして何に注目すれば。今の世の中を世渡り出来るのかを教えて貰い。そして、それを自分の中で消化して生きて行きませんか?昔の事に凝り固まって。若造は恵まれて居るからいい。私なんかの時代は貧しかったと虚勢を張り。変に歳を取った事に執着して居ませんか?聞くは一時の恥です。「若いのは生意気に知ってやがる。自分はどうせそんな事は知らないし興味も無い」と、頭から決めつけて考えるのではなくて、もっと柔軟に物事を考えましょうよ。それは。70歳を超えた老人が今時の20代の見て居るアニメとかを気に居る訳はありません。しかし、一度は見て見ましょう。世の中の。随分と認識が変わりますよ。何も青春は10代。20代だけにあるのではありません。60代にも70代にも80代にもあるのですよ。気が若返ることは長生きの秘訣です。私のblogを読んで居て。動画で音楽を聴いて映画の予告を見て下さい。一度でいいんです。どうせ興味ないし解らないと思って居たら、永遠に解らない侭。人生を終える事になりますよ。一度きりの人生。勿体無いでは在りませんか。私はblogでキュレーションをして居ると思って居ます。要するに情報をまとめて皆さんに提供して居るつもりです。 

 

今回は此処までにしときます。此処まで読んでくれて有難う御座いました。