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blues harmonicaのブログ

ハーモニカが好きで吹いています。全然ヘタですが。
これから日々気が付いた事など書いて行こうと思っています、、
宜しくお願い致します。。。。。

umino_7882@yahoo.co.jp

 

 

コメント何でもいいから下さいね。宜しくお願い致します。励みになりますから。。。

それと、過去記事も読んで見て下さいね。それなりに為に成る事とか面白い事書いて居るかとも思いますから、、知らない人が居たら。私の事を健常者だと想って居る事と思いますが。私は障害を持って居ます。ですので此れから先、その為に記事が挙げられなく成ることもあるかとも思いますので。過去記事なども読んで見て下さいね。宜しくお願い致しますね。。。

 

 

 

宇崎竜童&井上堯之 待ち呆けのブルース 

 

 

 

 

 

 





 

此の間、友人から、カントの「アンチノミー」と埴谷雄高の「自同律の不快」の概念は似て居るのかと訊かれ・・・ 何だかな…。全然違うだろうにと思って、一応説明をしたのだけども、アンチノミー(二律背反)とは相互に 矛盾し対立する二つの命題が、同じ権利を持って主張される事で、自同律の不快とは普通の人は決して矛盾を感じないであろう単純な命題「AはAである」と云うのが自同律であり、その事に不快感を持った埴谷氏が構築した概念であって、氏に寄ると、「自分自身に対する払いのけがたい、異様な違和感が本当に小さな子供の時からある、 何か持ちきれない、自分が自分であるのは変だと言う感じが、重苦しい気配として感覚的にあってそれが論理的に整理された物」だそうだ。まあ、ある意味、アイデンティティーの喪失感から来た物だと云う事でしょうか・・・

 

アイデンティティーと云えば、日本の音楽文化、特に日本人のフリージャズを考えた場合、若松孝二とその周辺の監督たち(足立正生とか大和屋笠たち)のアングラ映画に触れなければならないと思う、60年代末期から80年代前後まで高樫雅彦や佐藤允彦や山下洋輔や阿部薫などが次々に公開されるアングラ映画(前衛ピンク映画をも含む)の音楽を担当した事からフリージャズの認知ないし普及が広まり、特に若松監督の映画とフリージャズのセットは前衛ジャズの普及に貢献しましたね、ちなみに大和屋笠は、あの、ルパン三世のテレビシリーズで大隅正秋、宮崎駿・高畑勲の演出下で脚本を担当して居ましたし、以前にこのblogでも紹介した、手塚治虫の虫プロが制作したアニメラマ・シリーズの最終作 「哀しみのべラドンナ」では佐藤允彦が印象的なプログレッシヴ・ロックの味付けの音楽を担当し、出崎 統監督の 「あしたのジョー」の主題歌の作詞は寺山修司だし、ロック界に目を向けてもカルメン・マキ&OZとかね、、カルメン・マキを見出したのは「天井桟敷」と云う演劇集団を主謀していた寺山修司だしね、、、、

 

その後も、若松監督、原田芳雄主演作「われに撃つ用意あり」「キスより簡単」若松監督の弟子筋にあたる沖浦勲の「出張」、黒木和雄の「泪橋」とか、ムーブメントとしてアングラは切っても切れない存在でしたよね。

 

 

THEME from "STYLE TO KILL" 

Branded to Kill Original Trailer (Seijun Suzuki, 1967) Arrow Video 

 

 

最近、日本の若い人達のロックを聴くたびにグランジだとかビジュアル系だとかしか無いのかと思って聴いて居たのだけども、、此の間、ケーブル放送で深夜にロック・フェスティバルの模様をやって居て、観て居たら可也、本格的なプログレの バンドとかも居たので、正直、ホットしたと云うか、、まあ、Bluesは良いバンドが新旧織り交ぜて居るので安心なのだけども、jazzの方も若手で有能なミュージシャンが居るので良いのだけども、Rockは大丈夫なのか?と思って居たものだから、、まあ、「グリム・スパンキー」とか「Monster大陸」とか居るけど......。

 

それから、押井守監督作の実写映画の「紅い眼鏡」を久々に観て見たのだけども、宮崎駿が昔、庵野秀明の実写映画「式日」の方が映画に成って居るとこっけなして居たけど、あの、世界観と云うか、薀蓄とギャグのあらしの演出は何時観ても好きですね。 嗚呼、早く、押井 守監督の新作が観たい今日、此の頃です。。。。

 

 

カルメン・マキ 2011 Lilly was gone... 

 

 

カルメン・マキ&OZ 閉ざされた町 '77 

 

 

午前一時のスケッチ 

 

 

今日は、野菜炒め定食を夕飯に食べました。。。

 

 

 

 

 

 

長谷川きよし - 「別れのサンバ」2012 

 

長谷川きよし 黒の舟唄 

 

山崎ハコ ざんげの値打ちもない フルカバー 

 

Hako Yamasaki - Kyoudai Shinjuu 

 

 

Buddy Guy - Japan version.avi 

 

 

此処の処、眠くて仕方がない、、、全て薬の副作用です。
今日何か、せっかくの日曜日なので好きな映画観たり本でも読もうかと思って居たら、、
朝起きて、2時間もしたら、怒涛の如く、眠くなり、昼まで寝てしまい、
昼食採って、また眠くなり、ハッと気が付いたら、夜の7時だった・・・・


此間、大学時代の友人の家に行こうと、知合いの友人が云うので、(友人は自分と同じ大学では無い)一緒に出かけて来た、、その友人は、ハード・ボイルド小説、セリ・ノワールにもっぱら傾倒していて、、レイモンド・チャンドラー、ダシール・ハメットは云うに及ばずコーネル・ウールリッチ、ライオネル・ホワイト、J=P・マンシェット、ジョゼ・ジョバンニ、ゼェイムズ・エルロイ辺りの本が書斎に無造作に積まれて居た・・・

話をしていて、ロマン・ノワール(フランスのハードボイルド)の元祖は何かと云う話に成って、、ヴィクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」だよね、という話に成って、ジャン・ヴァルジャンを付け狙うジャベールはヴォートランーヴィドックが反映されて居ると言う話になり、、要するに、ミリュー物の傾向だよね、と云う話に成った、色々と話をして行く中で、フィルム・ノワールの映画の話に移って行き。J=P・マンシャットの「骨のみ」をクリストファー・フランクとアラン・ドロンが共同で脚色し、監督・主演をアラン・ドロンが務め演じた「危険なささやき」は1980年代に新宿ピカデリーまで観に行ったと云う話に成り、どうやら、あの映画はアメリカ・ナイズされた乾いた感覚のノワールだったので、ドロンはレイモンド・チャンドラーの「ロング・グットバイ」を1970年代にエリオット・グールド主演でロバート・アルトマンが現代感覚でフィリップ・マーロウを具現化させたのと同じ手法で演出して居て、狙いは同じだよね、とか話し合った。

 

古い処では、ジョゼ・ジョバンニの監督作、フィルム・ノワールの傑作「ル・ジタン」が良いと云う話になった、(主人公のユーゴ・セナール、通称ル・ジタンは暗黒街に生きる一匹狼。ジプシー出身の彼はその宿命を背負い、社会に対する反逆の人生を送ってきた。 数年前、彼は仲間を虐待した村長を殺害し入獄。獄中で名うての銀行強盗ジョーと知り合い脱獄を果たす。そして彼らは次々に銀行を襲い、再び警察に追われる身となる。終盤に絡んでくる老金庫破りとの友情、別れが有り、最後は独り寂しく逃避行を繰り返して行くストーリーで終わる) 

この映画は良いです。とにかくジタンと金庫破りのヤンの絡みが良い。この二人の絡みは、確か原作にはなくて、気違いピエロ(ゴダールの映画ではなくて原作の小説の方)の話を持って来て居る。 

ジョゼ・ジョバンニ(監督・脚本)の美味しい世界の集大成みたいな映画だけれど「ラ・スクムーン」よりさりげなく大人っぽく泣かせる。傷ついたジタンと獣医のエピソードも胸を打つ。主演のアラン・ドロンが義理と人情の世界に生きる一匹狼を好演した。原作は柴田練三郎の訳でケイブン社という出版社から出て居たはずです。私は古本で所有しています。 勿論、小説の著者はジョゼ・ジョバンニ、

 

 

 

 

 



彼に付いて知らない人も多いと思うので簡単に経歴を書いて置きます、レジスタンス運動から銀行ギャングに成って、それから、作家に転向し、ジャック・ベッケル監督に脚本を依頼されて、脱獄物の名作「穴」に参加し(ちなみに、この映画はベッケルの遺作と成った)、それ以来、ノワールの名脚本家、オーギュスト・ル・ブルドンと肩を並べる存在に成り、監督としても処女作「生き残った者の掟」から「べラクレスの男」(自身の小説を脚本化して映画にするのが多い人だけども。此れはイギリスの作家ジョン・カリックのハードボイルド小説『禿タカ』が元ネタ)「ル・ジタン」「暗黒街のふたり」「ブーメランのように」とドロンと組んでの仕事が特に有名、ロベール・アンリコ監督の名作「冒険者たち」の脚本も担当して居る。でも、最近、彼がレジスタンス活動の闘士で戦時中の血気盛んな生活が忘れられずに暗黒街のギャングに成ったと言うのは全くのデタラメで対独協力者としてレジスタンスの闘士を売った為に暗黒街に出入りする様に成ったと云う話もあるみたいだ、真意の程は解らないけど、彼の遺作は「父よ」だったと思う。
 

 

"ジタン"の通り名で呼ばれる犯罪者ユーゴ・セナール(アラン・ドロン)は、ロマ族の血を引いているために世間から冷たい仕打ちを受けて生きてきた。3年前、仲間に暴力をふるった村の村長を殺害したために刑務所に収監されていたが、そこで知り合った銀行強盗のジョー(レナート・サルヴァトーリ)と共に脱獄し、その後は彼と共にいくつもの銀行を襲っていた。そんな彼らを追う警察のブロー警視(マルセル・ボズフィ)、暗黒街の大物のヤン(ポール・ムーリス)など、男たちの様々な思惑が交差する―。

 




久々に、友人たちと語らい楽しい時間を過ごしました。その日から、何となく、jazzが聴きたく成り、此処の処、jazzばかり聞いて居る。此間から、ソニー・クリス、ソニー・ステット、チャーリー・マリアーノ、アート・ペッパーを主に聴いて居ます

 

 

 

 

さて、今日も、一日休みなので、と言うか毎日休みなのだが、此れから本でも読もうと思う。ユリイカのバックナンバー「特集・安彦良和」「特集・水木しげる」「特集・stand alone complex」などを最近、古本屋で買い求めました。

処で、押井守監督の新作はまだなのか???、、、

それと、実写の監督だけど、室賀 厚監督は今、何撮ってるんだろうか???

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さて、またまた、同じものですが、私が高校の頃にバンドで弾いたブルースナンバー、

「ストーミーマンディー」と「ジャズ・アレンジのブルース」です

ヘタなエレキ・ギターですが、どうか聴いてやって下さい。18歳の頃の音源です....。

バンド編成は、私のリードギターに、ドラム、ベース、サックスの編成でした。

 

 

 

ストーミーマンディー 

 

ジャズ・ブルース。  

 

 

皆さん、どうか宜しくお願い致しますね。

 

 

 

〜〜『アランドロンの映画の短い動画と、ブルース、ジャズなどの動画です』〜〜

 

LO ZINGARO TRAILER 1975 


020:《 ル・ジタン 》【映画パンフレット・フェスティバル】(festival) 

Christian Dorisse - Le Battant (1983) 

Deux hommes dans la ville (J. Giovanni, 1973) - Bande-annonce 

Alain Delon - Laetitia 

yamazen&the blues fellows feat.tad miura「煙草とコーヒー」 

YAMAZEN&THE BLUES FELLOWS feat.TAD MIURA 【BOOM BOOM】 

TAD三浦 Live -Sweet sixteen 

石川二三夫&小出斉with黒神 LET WORK TOGETHER 

石川二三夫&小出斉with黒神 BABY WHAT YOU WANT ME TO DO 

小出斉&石川二三夫 IN 札幌 2 

Sonny Criss - Black Coffee 

Blues for boppers - Sonny Criss 

Miles Davis & Sonny Stitt: Round Midnight 

Sonny Stitt & Richie Cole - Cherokee 

 

 

 

〜〜「欧州のプログレッシブ・ロック」〜〜

 

(プログレッシブ・ロックとは、ヨーロッパで、発祥したインテリジェンス・ロックであり。クラシックの影響を受けて居て。メロディーが綺麗で美しい曲が多いのです。プログレのバンドは世界中に居て、イスラエルのバンドなども独特な美しい旋律を醸し出して居ます。今回は動画もありますので。じっくり美しい曲を堪能して下さいね。)。

 


最近、プログレッシヴ・ロックを聴いて居る、まあ、一般的に云えば、キング・クリムゾンだとか、EL&P、イエス、ジェスロ・タルとかのブリティッシュ・プログレが有名だろうけど.......。私は、最近はジャーマン・プログレだとか、イタリア、フランスのプログレを良く聴いています、、何も、ブリティッシュ・プログレが嫌いな訳ではなく、(物凄く好きですが・・・)

イタリアのバンドで国民的に圧倒的な人気を誇って居るイ・プーと云うバンドが最近来日した、、初期のメンバーはヴァレリオ・ネグリーニ(Ds)、マウロ・ベルトーリ(G)、マリオ・ゴレッティ(G)、ジルベルト・ファッジョーリ(B)、ロバート・キロット(K)の5人で、1966年にボローニャで結成されました。

4作目「オペラ・プリマ」でジャンフランコ・モナルディーによるオーケストラを交え、人生のほろ苦さを切実と歌い上げる作風を打ち出し「君をこの胸に」「ベニンシエロ」が大ヒットし、72年に発表した、「ミラノの映像」はゴールドディスクに成りました。それまでに、ロビー・ファッキネッティー(K),リッカルド・フォッり(B)が加入しているが、バンドのフロントマンだったリッカルドが脱退を表明しバンド存続の危機に見舞われるも、カムシカム・レッドに居たレッド・カンツィアン(B)の加入で此の難局を克服し、クラッシックに精通していたレッドは、此の後バンドの中核的存在となって行く事に成る。

此のメンバーで此の後、プログレ・ファンに絶大な人気を誇る「パルシファル」バンドとオーケストラの融合を果たした、クラシカル・シンフォ・プログレの傑作「ロマン組曲」「ミラノの騎士」を発表して行く事と成って行き、バンドとしての地位を築き挙げました。最近ではポップ路線の作品を発表しているらしいですが、私は最近のCDは、余り聴いて居ません・・・・。

彼らのコンサートはイタリアン・プログレッシヴ・ロックフェスティバルの一貫として、行われた物で、他にもニュートロルスーUK、レ・オルメ、ファルムラ・トレ、ロカンダ・デ・レ・ファーチ等が来日しました。


現代的なプログレ・ユニットは代表的なロマン派詩人ウイリアム・ワーズワスやパーシー・ビッシェ・シェリー&メアリー・シェリー夫妻、それにウイリアム・ブレイクを愛読すると共に、代表的なモダニズム芸術家、イーゴル・ストランヴィンスキーやベーラ・バルドーク、それにレオシュ・ヤナーチェクへの傾倒を隠して居ない。プログレ・ロッカー達が、あれだけモダンなハイテク機器にコントロールされながらも、どこかしらロマンティックな天才神話の香りを漂わせて居るのはそう言う意味で必然的である。


Pooh - Parsifal (Opera Seconda Live 2013) 

New Trolls - Cadenza - andante con moto (Concerto Grosso per i New Trolls) TR3 Parte 3 

New Trolls - Andante (most dear lady) (Concerto Grosso N.2) TR3 Parte 8 

New Trolls - Adagio (shadows) (Concerto Grosso per i New Trolls) TR3 Parte 2 

日本語字幕:レ・オルメ/ノーヴァ 

 

 

 

~~「私の好きなブルースと映画について」〜〜

 

「Bluesは奴隷制が廃止され奴隷が解放される事によって生まれたものである。」とは、有る音楽評論家が云って居た事で有るけど、厳密に云えば、黒人が奴隷ではなくアメリカ人として認知され、自由人に成った、しかし、それなのに抑圧を受ける、そこで初めてBluesが生まれたと云えるのでしょう。ブルースの形態と云うのはアフリカの部族ダンスとワークソング、それにホラーが ヨーロッパの諸音楽と融合して出来たものですよね、要するに「ブルー・ノート」の誕生でしょうね。1970年代、NHKで「シカゴ・ブルース」と云う、ドキュメンタリー番組が放映されました。

時はブリティッシュ・ロックの代等が著しく、1960年代半ば、ビートルズ、ローリング・ストーンズ、特にストーンズが「フーチー・クーチー・マン」とかの、マディー・ウォ-ターズの曲をカバーして歌い、それがヒットし、アメリカに逆輸入され、ビートルズを始めに、ロングヘアーを、イギリスのロック・ミュージシャン達が流行させ、それが、後に、アメリカのフラワー・ムーブメント、ヒッピー文化へと発展して行く事に成ったのだけども、(当時ビートルズがアメリカ公演の為、アメリカに行った時の記者会見の模様を後で観ましたが、「君たち、それ、かつら?」「アメリカの床屋がストライキ起こしますよ、」とか、云われて居ましたね、)ストーンズのミック・ジャガーから、「俺らのやって居る事は、あなたたち、アメリカ人の黒人の音楽ですよ」と云われて、アメリカではそれまで、レース・ミュージックとして、Blues等の、黒人音楽は、白人はレコードを余り買わない風潮が有った見たいなのですが、この発言を受け、若者がレコード店にBluesを買いに走ったと言う話を聞いて居ます。それで、話は戻りますが、NHKの番組でシカゴのブルースクラブでの、バディ・ガイとジュニア・ウェルズの、アグレッシッブな、シカゴ・ブルースの演奏を初めて観た、日本人が、感銘を受け、特に、関西方面の大阪から、ウエスト・ロード・ブルース・バンド、ウイーピング・ハープ・セノウ&ヒズ・ローラーコースター等が出現し、その後、憂歌団、ブレイク・ダウン、サウス・トウ・サウス、ダウン・タウン・ブギウギバンド等の優れた日本人のミュージシャン達のブルース・バンドが出てくる事へと成りました。変わった処では、北海道から、スカイドック・ブルース・バンドとか(フェントン・ロビンソンのサムバディー・ロンミー・ア・ダイムを日本語に訳して演奏してました)

私は、当時、まだ、小学校高学年から中学生位でしたが、丁度、ジョン・メイオール&ブルース・ブレイカーズ、レッド・ツェッペリン、フォガット、ロリー・ギャラガー、ディープ・パープル。ZZトップ、クリーデンス・クリウォーター・リバイバル、シカゴ、ピンク・フロイド、イエス、クリーム、イ・プー、オルメ、タンジュリン・ドリーム、ジェスロ・タル、キング・クリムゾン(挙げてると切りがない(笑))等の、ロック・バンドに夢中になってましたが、高校生に成ってから、ギターを始めて、エリック・クラプトンのミュージック・ライフでのインタビュー・記事を読んで居たら、彼が、影響を受けた、ギタリスト達として、BB・キングやら、マジック・サム、フレディー・キング、オーティシュ・ラッシュ(此れも挙げてると切りが無いです)等から影響を受けて居る事を知り、矢張り、レコード店に走りました、始めに買ったのがBBキングの「ジャングル」と云うLPでしたっけ、しかし、そんなに、レコードを買う、余裕も無いので、当時、中村とうようの「Bluesの世界」と云う、ラジオ番組とか、Blues喫茶に入り浸り、とにかく、Bluesを聴きまくりました。そして、幾つものブルースバンドを作っては解散させ、まあ、、高校3年間はBlues一辺倒でした。

 

大学に入ってからもバンド活動を続けてましたが、ギターは、jazzとBluesの融合を試みギターと同時にちょっとやって居た、Bluesharpもやる様に成りました。それから、障害を持つ事に成ってからは、バンド活動は出来なくなり、1980年代はjazz喫茶通いを始めました。1998年位まで今度はjazz一辺倒でした。始めはスイング、ビパップとかを聴いて居たのですが、世代的にズレるのですが、中上健次や白石かずこや唐十郎やら若松孝二、足立正生や相倉久人、等の個性的な芸術家とかインテリたちが1960年代後半から新宿文化の担い手として小説やら映画やらエッセイの作品でフリー・ジャズに言及して居る事を知り、フリー・ジャズにも、傾倒して行きました。その後、2,000年頃から、又、Bluesharpを吹く様に成りました。

 

時代が結構、1970年代は、まだ、不安定でしたよね。海外ではべトナム戦争、パレスチナ問題、国内では、三島由紀夫の割腹事件、浅間山荘事件、シージャック、よど号ハイジャック、等、子供ながら、学校の帰りに、立ち喰い蕎麦を手繰りながら、「まだ、やってるのかよ、、」と浅間山荘の映像が蕎麦屋の14型のテレビに延々と映し出される映像を観て、ため息を付いて居た事が思い出されます。後、映画は、洋画はフィルム・ノワール、アメリカン・ニューシネマ、マカロニウエスタン、邦画は黒沢 明、溝口健二、小安津二郎を始め、岡本喜八、坂本順治、若松孝二、市川 準等(此れも切りがない)を良く観てました、劇場で観たマカロニは「大西部無頼列伝」「荒野の無頼漢」は封切で観てます、あと、レオーネのドル三部作、「荒野の用心棒、夕陽のガンマン、続・夕陽のガンマン」は日暮里の三番館で後追いで中学の時、友人と観に行ってます。

 

アニメも第一期アニメ・ブームでの手塚治虫のアニメラマ・三部作「千夜一夜物語、クレオパトラ、哀しみのべラドンナ、」の時は子供だったので、1970年代中場の、第二期アニメブーム、「宇宙戦艦ヤマト、」「銀河鉄道999、」その後の「ガンダム」、の洗礼を浴びた時に、矢張り後追いで、イメージ・フォーラムで「哀しみのべラドンナ」は観てますね、、それ以後、段々と、ハリウッド映画の「ランボー」、「ゴリラ」、辺りから、マッチョなスーパーマンが活躍する、1980年代以降のハリウッド主体の映画からアメリカ映画が嫌に成り、ロシア映画、やら、ヨーロッパ映画を良く観るように成りました。1980年代以降は香港ノワール、アニメでは、「うる星やつら」で知った、押井 守が好きに成り、ハイファイ・ビデオの登場により、(それ以前のU・マチックは存在は知って居ましたが、買えようはずもなく、)映画はレンタルビデオの普及も相まって、色々観ましたね、、押井 守の映画で初めて観た、アニメ映画は「天使のたまご」でした、その後、「ビューティフル・ドリーマー」を遅れて観てから、以後「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」「イノセンス」等、実写では「紅い眼鏡」「アヴァロン」とか観捲り、そして、現在です。自分の歳を考えれば、アニメ?と云われそうですが、若い頃、アニメの演出家を志していた時期が有り、そんな事から、アニメ関係者の知り合いが出来て、本当は、そちらの業界に行こうかと思った時が有った物で、同い年の人から観れば、何だかと思われそうですが・・・・・

まあ、ざっと、Bluesブームを解説するつもりが、何だか、自分の話を書いて仕舞いまして、すみません、、

 

Freddie King - Same Old Blues 

Albert Collins & Clarence "Gatemouth" Brown - Frosty 

ROY BUCHANAN Ramon's Blues 

 

BB King Montreux 1993 part 3 

 

 

 

 

 

 

〜〜懐かし洋画館〜〜 。映画「傷だらけの用心棒」

 

 

 

 

 

今回はロベール・オッセン監督主演1968年製作の「傷だらけの用心棒(UNE CORDE, UN COLT)」を紹介します。


フランスのスター俳優ロベール・オッセンがフィルム・ノワールのティストを取り入れたマカロニ・ウエスタンだ。共演はフランソワ・トリュフォー監督「ピアニストを撃て」に出演した女優ミシェル・メルシエ「荒野の一つ星」でジュリアーノ・ジェンマと共演したセルジュ・マルカン「怒りの荒野」のベニート・ステファネッリ「皆殺しのジャンゴ」のリー・バートンが脇を固めて居る。また当時アイドル歌手だったスコット・ウォーカーが主題歌を歌って居る。

 

セルジオ・レオーネに捧げられた「傷だらけの用心棒」
 

本作に登場する”ワイルド・ウエスト・ホテル”のフロントの男を演じて居るのは、”マカロニ・ウエスタンの父”と称される巨匠セルジオ・レオーネである….。と言う”誠しやかな噂”がある。本作の監督・脚本・主演を務めたロペール・オッセンはレオーネの旧友であり、エンドクレジットには「この作品をセルジオ・レオーネに捧げる」とのメッセージが登場。そして何より、フロントの男の風貌がレオーネによく似ている事などから、未だに広く信じられて居る噂である。処が、日本でDVD化した際の調査によると、フロントの男を演じて居るのはレオーネではなく、ポルトガル人俳優クリス・ヒュエルタであるそうだ。それでは何故、この様な噂が流れたのだろうか。

 

レオーネの生涯を綴った「セルジオ・レオーネ 西部劇神話を撃ったイタリアの悪童(著者:クリストファー・フレイリング 訳:鬼塚大輔 発行:フィルムアート社)」によれば、レオーネは実際にオッセンからオファーを受け、ホテルのフロントマンを一度は演じたと言う。しかし、レオーネは自分自身の演技力に失望し「あの映画に出て居る自分の姿を見て、もう二度とやるまいと心に誓ったよ。馬の方が私よりも演技が巧みだったからね」とコメントして居る。この事から、一度は撮影したものの、本人の希望を受けたオッセンが、レオーネによく似たヒュエルタを起用し、同じシーンを取り直した….と言う可能性が考えられる。またオッセンは撮影現場に訪れたレオーネに、本編36分30秒頃から約3分にわたる食事シーンの演出を依頼。後に「レオーネは素晴らしい場面に仕上げてくれた。彼は矢張り、最高の監督だ」と言う感謝の言葉を残して居る。(マカロニウエスタン傑作映画DVDプロダクションノートより)

 

 

【ストーリー】
 

 勝手、愛した女マリア(ミシェル・メルシエ)に呼ばれて、無口で非情なガンマンのマヌエル(ロベール・オッセン)がやって来る。未亡人マリアの願いは、殺された夫の葬儀を執り行う事だった。夫の仇である牧場主の元へ用心棒として潜入したマヌエルは、牧場主の一人娘(セルジュ・マルカン)の誘拐に成功。可愛い娘を人質を取られた牧場主はマリアの要求通り、夫の葬式に参列する。血を流す事なく全てがうまく治まろうとしたその矢先、ならず者兄弟が人質の娘を奪い返そうとして、犠牲者が出る。早撃ちのガンマンとならず者たちの間で、血で血を洗う報復合戦が始まった。

 

 

 

題名:UNE CORDE, UN COLT/CIMITERO SENZA CROCE
邦題:傷だらけの用心棒
監督:ロベール・オッセン
脚本:ダリオ・アルジェント、クロード・デザイリー
撮影:アンリ・ペルサン
音楽:アンドレ・オッセン
現像:テクニカラー
出演:ロベール・オッセン、ミシェル・メルシエ、リー・バートン、セルジュ・マルカン、ベニート・ステファネッリ、ミッシェル・ルモアン、グイド・ロロプリジーダ。ダニエル・バルガス、ピエール・コレット、アンヘル・アルバレス
 

1968年イタリア・フランス/ビスタサイズ・イーストマンカラー87分[日本劇場未公開]

 

 

CEMETERY WITHOUT CROSSES - GERMAN TRAILER

 

 

悲しみを誘うギターの旋律を醸し出して居る。じっくりとお聴き下さい。(The Rope and the Colt (1969) 

 

 

 

 

Cemetery Without Crosses (1969)_「傷だらけの用心棒」 映画本編です。字幕はありませんが雰囲気で分かると思いますので。是非、観て見て下さいね。。。。

 

 

 

 

 

私はこの映画は、1980年代にテレビ東京の「2時のロードショー」で76分の短縮版を見た。そして、フレンチ・ノワールの感覚がする。このマカロニにはどこか惹かれた。しかしそれ以降。テレビでは完全版は見られなかった。だから2,000年頃になってドイツ版のビデオ・テープを取り寄せた。勿論ドイツからだ。税関の手続きやら何やらで時間が掛かり、そして金も掛かったが。おおよそ、ビデオ自体は6千円ぐらいで手に入れる事が出来た。購入して見るとスペインの表記があった。輸入盤のマカロニ・ウエスタン作品の映画のビデオ・ソフトは、ヨーロッパで何通りもバージョンがあり。輸入盤では無いがパイオニアCDから発売された、クリント・イーストウッド主演の「荒野の用心棒」のDVDなんかは、元のマスターがドイツ・バージョンの不鮮明な画質が暗い映像で、購入したが。昨年の秋口にBOOK・OFFにて処分して仕舞った。この「傷だらけの用心棒」はジュリアーノ・ジェンマ主演のマカロニ・ウエスタン「カリフォルニア」同様に異色な作品だ。
 
ストーリーはこうだ。町を牛耳るロジャース一家に夫を殺された未亡人マリアに、ゴーストタウンに住む、勝手の仲間で訳ありのマヌエルは復讐を頼まれる。マヌエルはロジャース一家に取り入り娘ジョアンナを拉致。 マリアはジョアンナとの交換条件として夫の葬式をロジャースに出させて恥を掻かせるが。夫の兄弟絡みで話は一転二転する。ゴーストタウンでマリアとマヌエルが長々と見つめ合うシーンには泣ける。マリアがランプに火を灯すとそこにはロジャース一家が無言で立ち尽くすシーン。その後のマリアの運命を暗示して居る。マリアも殺されて仕舞うのだ。常にタバコを咥えるマヌエル。 右手に黒手袋をはめた時、拳銃が唸る 。カッコよすぎラストのゴーストタウンでのロジャース一家4人との決闘 。マリアの夫の為では無く。愛したマリアの復讐の為に驚きの早撃ちの左利きが拳銃を唸らせる。これでラストかと思ったらなんとジョアンナに撃たれるマヌエル。風が唸ってる効果音...。影の主役と言うかメインはマリアだ。渋すぎる。まるで西部劇版フィルム・ノワールだ。ラスト、セルジオ・レオーネに捧ぐのラストクレジットが入る。脚本はレオーネのウェスタンをベルナルド・ベルトルッチと共同原案の、のちの「サスペリア」等の監督ダリオ・アルジェントだ。

 

フレンチ・ウエスタンな気もする復讐劇マカロニ・ウエスタン。冒頭からセピア色の情景に始まり、何処かノワール的な仄暗い演出が光る。フラメンコ調のBGMや殺伐とした絵面が生み出す渋いムードが良い味を出してるし、役者が見せる無言の表情も哀愁に溢れていて秀逸。終盤の悲恋、その果ての決着と末路の虚しさにも心を掴まれる。本作は旦那を殺されたヒロインの存在感が素晴らしい。美しい風貌と大きな目が見せる鋭い眼差しが強烈な印象を与えてくるし、冷徹な復讐に身を捧げた悲壮感にもグッと来る。主役も渋い顔立ちながら目付きは穏やかなのがヒロインと対照的で面白い。銃を抜く前に手袋を嵌める所作もクール。ほろ苦い哀愁を纏っている魅力的な佳作だ。矢張りヨーロッパ映画。どこかシェークスピアを思わせる作りに.....。旦那を殺された女と孤独な殺し屋。勝手、旦那と共に自分を愛してくれて居た男性である、今は殺し屋として生きて居る男との切なくも悲しい愛。今、佳作と書いたが。本場ハリウッド映画と比べてもその心理描写。男と女の報われない愛は胸を打つ。音楽もいい。確か劇中に流れるボレロ風なギターソロは、主演のロべール・オッセンのギタリストのお父さんの演奏です。こう言うムードがあるマカロニは最高です。私は好きな映画です。

 

 

 


 

 

 

此処まで読んでくれて有難う御座いました。良かったらコメントを書いて下さいね。宜しくね...。

 

 

 

 

 

 

 

 

今から16年ぐらい前の事だ。私は認知症の母と暮らして居た、弟はたまには来るが、何時も一人で来て居た。結婚相手が決まらなかったのだ。弟が言うにはその頃。女医さんと付き合っては居たが、その子の弟を医大に入れるので大変だからと、どうも当てにされたらしい。弟はこう言って居た「なんで俺が彼女の弟の医大の費用を待たなければ行けないんだ?」しかし私はこう言った。「お前。もし結婚して、彼女の弟の医大の費用もお前が面倒を見たら、彼女は一生お前に感謝して着いて来るぞ」しかし弟は言う「兄貴。医者になるまでどれだけ金が掛かるか俺で経験済みだろう?」私は黙った。それから暫くして、弟は普通のOLと付き合い始めた。そうしたら、今度はその女の子がデートの度にブランド物のバックを。グッチやら取っ替え引っ替えに持って来るので嫌になったと言うのだ。私はまた言った「それは『私の家は経済力がある家よ』とお前に知らせて居るのだろう?」しかし弟は、その子とも別れて仕舞った。

 

そして病院勤務で、やって来た看護師の女の子にゾッコンになって仕舞った。私は「看護師は辞めた方がいいのでは無いか?」と言うと怒るのだ。その事を認知症になり掛けの母に言うと。母はこう言った。「お前は鈍い子だね。あの子は彼女ともう離れられないんだよ」私はなんだかなぁと思って居た。従兄弟が昔。母の事をバカにしてこう言った事があった。「お前の母親のお母さんは看護婦だったんだろう〜〜!!」私はまた始まったと思って聞いて居た。従兄弟は続けて言った。「俺のお袋もお前のお母さんと郷里が一緒で郵便配達からお前の実家のことは聞いて居るぞ。何故本当の事を言わない?認めろよ看護婦ふぜいだったんだろ!!」私は静かに言った「違いますよ?大体がそう言う言い方は医療従事者に対して失礼でしょう。祖母は医者夫人でしたから。」すると従兄弟は「嘘をつくな!!お前の家の事は何でも噂で聞いて居るんだ!!」と言った。

 

弟が福島の郡山に今から20年ぐらい前に祖父の事を聞きに行って来た事があった。弟にしたら確かめたかったんだろう?そうしたら、おばあさんに言われたと言って居た。「あなたのおじいさんは立派なお医者さんだったんですよ。まあ、あなたもお医者さんですか。矢張り血筋よねぇ.....。」母の言う事では祖父には祖母の前にも前妻が居て。そして病死をして居たらしい。それで若い嫁さんを貰ったのが。祖母だった。祖母は美人だったらしい。そして三人の娘を産んだが白血病で亡くなって仕舞った。先に亡くなったのは祖父の方だった。直腸癌だった。戦後すぐだ。祖父は金持ちだった。それゆえにあらぬ噂を郡山の人たちから言われて居た。地主であり。山を3つぐらい持って居て。小作人から年貢米を貰っても居た。戦後。農地改革が始まって、山も農地も全て無くして仕舞う事になるのだが。祖父が亡くなった頃に祖母が母に「年貢米を貰って来なさいね」と言うと。言われた通り15歳の母は農家に行って下さいと言うのだが小作人たちは、なんだガキか。それなら騙そうと思い。年貢米を殆んど遣さなかったそうだ。「今年は不作だからこれしか無いから」と言ってコメを遣さなかったらしい。

 

 

 

 

 

 

母は何時も怒っていたそうだ。母の従兄弟には、ただしという従兄弟がいて。結局母のお父さんとお母さんは、ほぼ同時期に亡くなって仕舞ったらしい。後には3人の娘たちが残された。財産は全部。従兄弟の親やら親戚が持って行って仕舞った。ただしはその。人の家の財産で医者になった。ただ周りの連中がよほどに悪どい奴らだったらしく。自分等で悪さをして居るから、トイレを開けたら祖父が入って居てニヤリと睨んで笑ったとか言って階段から転げ落ちる者たちが続出したらしい。中には昼寝をして居たら祖父が現れて「棺桶に貴様は傘を入れ忘れて居るぞ。すぐに持って来い!!」と幽霊が出て怒鳴って言われたと。しょんべんをちびりながら母の元に来て言った者もいたそうだ。母は「お父さん。居るなら私の前に出て来て下さい」と言ったそうだが周りは悪い事をして居るので良心の呵責で幻覚を見て居るのだから。母には何もなかったそうだ。おかげで街の人に噂が広まり。母の実家の医者の家には死んだ先生の幽霊が出るそうだと噂になったそうだ。従兄弟は母親からその話を聞かされて居たのだろう。私に車の中で言うのだ。イビリまくりだ。しかし、彼の母親は膵臓が腫れ上がり拳ぐらいの大きさになったと聞いた。多分それが元で亡くなって居るはずだ。天罰は下る。

 

従兄弟は末期癌で寝て居る私の親父を見舞いに来たと称して拳で殴ったそうだ。これはバカだから自分から言って居た。その時に、看護婦長が見つけて「あなたたち!!患者に何をして居るの?警察呼びますよ!!」と言われたと言って居た。従兄弟の父親。私の父の兄だが。表向きは早稲田大学を出た事にはなっては居たが。実際は早稲田には入学しては居ない。大学に入っては居なかった。ある人から聞いたが彼は早稲田塾と言う塾に通っただけだと笑われた。従兄弟だって。一応、明治学院大学卒と言っては居るが本当かどうか?まあ、ただ奥さんも明治学院大学卒だから嘘では無いかも知れないが。話が脱線したが。弟は祖父の血を受け継いで医師になった。しかし結婚相手は広島のはっきり言って裕福な家の子では無かった。だから、結婚して喧嘩が絶えなくなって行った。それに私は何も弟が全ていいとは思っては居ない。嫁も、自分のプライドが通じないとすぐに院長批判をして病院を辞める弟とは生活しずらかっただろうとは思う。ある時には医師として月100万の月給を貰いながら副院長にして貰えないと怒って辞めた事で夫婦喧嘩になった様だった。

 

段々と夫婦仲が悪くなり始めたのだろう。私はそんな弟の嫁の味方になって居たはずだったが。弟の嫁は弟よりもまず私を毛嫌いする様になった。私が弟夫婦に実家に入って来いと言ったら。何故なら実家の権利は弟が持っていたからだが。しかし嫁が猛反発してこう言われた。「私はお母さんの食事の面倒は見られても。なんでお兄さんの食事の世話しなければならないのよ!!」この事は生前、弟から直にそう言って居ると聞かされた。女とはそう言う生き物だ。最近、今日もだが。私が青木志貴ちゃんの写真とかYouTubeの映像を見せて彼女可愛くて美人だろう。と言うと大抵の女性は「けっ!ああ、そう!!」とヘソを曲げる。今日来た。女の子に見せてもそうだった。男が描く理想の聡明で可愛く優しい心を持った女性は。殆んど皆無だと言っていい。どの子も自分より綺麗な女の子を見せられると大抵が捻くれる!!女のサガか?しかし私が知って居る身近にいる女性2人は違う。一人は、彼女は53歳だけども可愛らしい女性で高齢出産だったから今息子さんが中学生なのかな?青木志貴ちゃんの事を言ったら皮肉を言うどころか。「〇〇さんがこの青木志貴ちゃんに嵌るのは私はよく解ります。リアル・ヴァイオレットですよね。この肌の透明感といい、凄いです」と言ってくれたし。

 

 

 

青木志貴さん

 

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もう一人は私のアパートの不動産屋のお姉さんだ。彼女も心が綺麗な人だ。そして美人です。ほのかな色気も漂わせて居る程の人だ。こう言う女性たちと話すと凄く癒されますよ。なんかまた、話が脱線して女性論になって居ますが。可愛い女性と言う人は男から好かれますよ。幾つになってもね、年取って居るだとか若いとか関係ないです。心が澄んで居て綺麗な人であれば物事を正しく理解出来ます。まあ、これは男でも同じ事が言えるけどね。ただね心が優しい人はすぐに他人から邪険にされて仕舞うのですよね。黒澤明の「白痴」と言う映画があります。確かドストエフスキーの原作の方か映画の方かは覚えては居ないが。「心清きものは「白痴」とみなされる」と言う一節があった様に記憶して居ます。そうそう、女性と言えば東京FMのスカイ・ロケット・カンパニーでディスク・ジョッキーの助手をして居る30歳の女の子の声が可愛いのですが。なんとベネッセの弁当が外の箱に入ったままで次の日。ベネッセは必ずお客の安否を確かめに電話を掛けてくれるのですが、なんと!!その子が電話を掛けて来たのですよ。

 

私は吃驚して仕舞って。よほど、「私はあなたの放送聞いて居て。ファンですよ!!」と言いたかったけど。その子もディスク・ジョッキーだけでは喰えない見たいだ。声の仕事は皆繋がって居るのですよね。前も保証人会社の女の子から電話が掛かって来て「あれ、この声!!有名な声優だ!!」と思った事があった。従兄弟は顔はハンサムですよ。だから嫁に人気アナウンサーを貰った。大学時代に同じアナウンサー部に居たらしい。そして、私は従兄弟はぶん殴ってやりたいと思い続けて居るが。彼の嫁と彼の娘は恨んでは居ないし。敵意も持って居ない。恨むのは従兄弟の2人だけだ。この2人の父親はもう死んだだろう生きて居る訳も無い。此処で私は恥を晒す様だが女性経験は殆んど無い。女の子を金で買う真似はしたくは無いし。若い頃ならこれでも結構付き合った女の子も居たが。ともかく今となって見てはもう歳だ。女の子や〜いと言う歳では無い。ただ30歳から50歳ぐらいまでの優しい心の綺麗な女性は魅力的に見えるだけだ。そう言う人と間違ってもおかしな関係を持ちたいとは思わないし。ただ、いい女性だなぁと思うだけですよ。よく女と見ると男性の本能を剥き出しにする中年とか老年がいるがはっきり言って恥さらし以外の何者でも無い!!女の人は労って優しくして挙げないと行けないですよ。と言いつつ今日も私は青木志貴ちゃんのYouTubeを見て居ます。だって彼女のファンだから。以上、今日は本当に短いけど、此のぐらいでお終い。。。エッセイは後半まだ続ます。。。

 

 

 

 

【中国】人生初海外でトラブル発生…?広州ファンミーティングの旅! 

 

 

 

 

短足な私です。「おえ〜〜」とは言わないでね。(● ˃̶͈̀ロ˂̶͈́)੭ꠥ⁾⁾

 

 

「‘キング・オブ・ザ・ブルース’ B.B.キング」と言う。あの、エリック・クラプトンやら。ジミー・ペイジなどのロック・ミュージシャンに影響を与えた。シンガーでありギタリストを此処で知って下さい。

 

 

 

 

シンプルに‘B,B,’と略され世界中の何百万人ものブルース・ファン達に知られて居る男は、2015年5月14日、89歳でこの世を去った。糖尿病の合併症で病気で入院した事を含む、一連の健康状態の悪化が続いた末での他界であった。それにも関わらず、2013年の時点でさえも彼は‘ルシール’と自身が名づけたギターを抱え、大好きだったコンサートを年間100本もこなして居た。数多くのライヴで演奏し、アルバムをリリースし続ける事で、彼は自分が愛する音楽を世間に紹介し、ブルースが人々に悲しみ同様に、幸せな気持ちも与えてくれる事を気づかせてくれたのだ。

本名ライリー・B.キングは、アルフレッド・キングとノーラ・エラ・キングの息子として1925年にミシシッピ・デルタ地帯のディープな中心地、インディアノーラで誕生した(*注:生まれはイタ・ベーネのコットン農園)。ファースト・ネームの「ライリー」は、両親が住み込みで働いて居た農園所有者のアイルランド人のラスト・ネームに由来する。「農園のオーナーはジム・オライリーと言う名前だった。

 

「うちの親父とミスター・オライリーは凄くいい友人同士で、彼にちなんで私の名前をつけたが、頭の“O”を外したらしい。自分の名前の由来を理解できる年齢になったある日、親父に「ミスター・オライリーにちなんで名付けたのに何故’O’を外したの?」と聞いたら、「お前はどう見てもアイルランド人には見えないだろ!」って言われたよ」

 

B.B.キング曰く「いかなる時でも、農園で生まれた者には選択肢が存在しなかった。農園第一で、それは常に最優先」であった。だが、間もなくしてライリー・B.キングの名前はビール・ストリート・ブルース・ボーイとして認知される事で変わって行った。この小作人の息子は1946年(*注:1947年の説もあり)にメンフィスに移り住み、従兄弟のブッカ・ホワイトと暮らして居たが、程なくしてトラクター運転手として働く為にインディアノーラへ舞い戻った。

「私が得ていた基本的なトラクター運転手の基本給の週給22.5ドルは、あの辺りで働いていた他の人達と比べて高額だったよ」- B.B.キング

 

 

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サニー・ボーイ・ウィリアムソンのラジオ番組に刺激を受けた若き日のライリーは、その後1948年にメンフィスへ戻る。「サニー・ボーイのオーディションを受ける事になり、アイヴォリー・ジョー・ハンターの‘Blues of Sunrise’を歌ったんだ。当時サニー・ボーイはウェスト・メンフィスにあったシックスティーンス・ストリート・グリルという小さな店で演奏して居て、サニーは雇い主のミス・アニーという女性にこう言ったんだ「今夜、奴を俺の代わりとして店へ送るから」って。それから私の仕事は賭け事をしない若者達の為に演奏する事になったんだ。シックスティーンス・ストリート・グリルの店内後方にはギャンブル出来る場所があって、もし男性客が賭け事をしないガールフレンドや奥さんを連れて来た場合、その女性達が踊れる様な音楽を演奏し、楽しんでもらうのが私の仕事だった。お客さんが私の演奏を楽しんでくれた様子だったので、ミス・アニーから「あなたもサニー・ボーイ見たいにラジオ局の仕事を持ったら、部屋と食事込みで週6日勤務、一晩12.5ドル支払うわよ」と言われたんだ。その時は信じられなかったね」

 

彼は地元のラジオ局WDIAで働き始めた。「ラジオのディスク・ジョッキー時代、私はビール・ストリートから来た男だからか‘ブルース・ボーイ’と呼ばれて居た。後に、皆が私宛に‘ブルース・ボーイ’と書く際に’B.B.’と略す様になったんだ」。そして、メンフィスでの人気のお陰で、1949年にB.B.はブレット・レコードでレコーディングのチャンスを得る事になった。最初に出したシングル盤の売上はさほどでは無かったものの、1950年9月にサム・フィリップスは彼のレーベル、メンフィス・レコーディング・サーヴィスのスタジオへB.B.を送った。そして、タレント発掘の為にメンフィスを訪問中だったバヒリ兄弟がB.B.を見つけて、彼らのRPMレーベルと契約する事になり、B.B.はサム・フィリップスと録音したシングル盤をリリースする事になった。これらのレコードはヒットしなかった為、ビハール兄弟の一番下の弟であるジョー・ビハールは、1951年1月8日にメンフィスへ行き、YMCAの部屋を借りてB.B.キングのレコーディングを行った。ジョーはその次のメンフィス訪問中にB.B.キングによるローウェル・フルソン「Three O’clock Blues」のカヴァーを録音。同曲は1951年12月29日に全米チャート入りし、1952年初頭には最終的に5週間1位を獲得した。これはオーヴァーナイト・センセーション(一晩で一躍有名になる様な突然の成功)ではなかったが、現代ブルース史に於ける最も成功した、長いキャリアの始まりであった。

 

「我々は、白人向けには演奏しない。将来どうなるかは自分でもわからないし、「白人のために演奏はしない」って言ってる訳じゃないよ。レコードは不思議なもんでね。有色人種層向けにマーケティングしても、突然白人達が気に入って呉れると、自分のコンサートにドーン!と白人客が集まる様になるんだ」- 1950年代のB.B.キング。成功を収め始めた当初、B.B.キングは自身が大スターだったメンフィスに暮らして居たが、彼が思って居た程、常に大スターだった訳では無い。「我々がメンフィスのオーディトリアムへ行った時、エルヴィス(・プレスリー)がボビー・ブランド、リトル・ミルトン、リトル・ジュニア・パーカー、ハウリン・ウルフ、そして私の演奏を観て居た。全員ステージ経験者だった。ステージを沸かすボビー・ブランドは観客を躍らせる事が出来、リトル・ミルトンと私は何時もと同じく自分達がやるべき事をやって居たけど、ボビー・ブランド見たいに観客をすぐに躍らせる事が出来なかった。我々はそのままステージ上に残って居たら、次のハウリン・ウルフの登場で皆がクレイジーなほど大騒ぎし始めたんだ。リトル・ミルトンは「‘こりゃ、凄い事になってるな’」と言った。そこで、ジュニア・パーカーが「‘さぁ、行こうぜ’」と声を掛けると、ウルフは“Spoonful”を演奏し始めた。我々も着いて行くと、今度はウルフが跪き、床を這い回ったんだ。とにかく観客がもう大騒ぎで、その時やっと一体何が起きて居たのか、解ったよ。奴のズボンの尻の部分がヤブれてたんだ!ケツ丸見えでね!」

 

ある夜、B.B.キングがアーカンソー州トゥイストのクラブに出演した際に客同士の喧嘩が原因でストーブが倒れ、木造の建物が火事になった。バンドとオーディエンスが慌てて外に避難した後、キングは30ドルもする自分のギターを会場に置き忘れた事に気づいた。彼は燃え上がるクラブ内へと急いで戻り、命がけで何とか自分のギターを取り戻す事が出来た。その後、喧嘩の原因は、”ルシール”と言う女性を巡った争いだった事が判明し、B.B.キングは自分のギターにその名前を付けた。その結果、ギブソン社のカスタムメイドのギターの約20本には全て‘ルシール’と言う名が付いて居る。

 

RPM時代のB.B.キングはヒット曲を次々と量産し、その後1958年ケントに移籍するまでの間にR&Bチャート1位を3度も獲得した。そして、60年代の大半はケントに在籍、その後R&B チャート首位には二度と輝かなかったものの、沢山のヒット曲を放った。彼の甘美でゴスペル色を帯びた歌声は卓越したシングル・ストリング・ピッキングと相まって、たまらなく魅力的な組み合わせだった。それは、キングをR&Bチャートにおける史上最高の成功したアーティストの1人へと押し上げた。

 

「我々は自分達の兄弟をしっかり見守る者である事を、皆に伝えようと努めて居る。つまり、肌の色が赤、白、黒、茶色、黄色であろうと、富める者でも貧しい者でも、誰にでもブルースはあるから」- B.B.キング

 

1960年後半までに、B.B.キングは彼の仲間であるブルース・ギタリスト達と同様に若い白人のロック・アーティスト勢から見出され、それによって彼のキャリアは大きく後押しされた。1970年に「The Thrill is Gone」はR&Bチャート3位となり、更にジャンルを超えて全米シングル・チャートでは15位まで上昇し、B.B.最大のヒット曲となった。1969年にはB.B.はその後何度も訪問する事になるヨーロッパへ初めて渡った。欧州のオーディエンスはレジェンドであるB.B.キングがエリック・クラプトンやピーター・グリーン達へ音楽的影響を与えた事を熟知して居た為、彼を受け入れる態勢が整って居たのだ。B.B.キングによる1964年録音のアルバム『Live at the Regal』は、大西洋の両側に住むミュージシャンとファン達に長年崇められて来た作品である。

 

 


B.B. King - How Blue Can You Get Live at the regal 

 

R.I.P. | BB King - Sweet Little Angel (Live at the Regal) 

 

 

【和訳】How Blue Can You Get

 

僕は落ち込んで居るんだ、ねえ
僕らが会った日からずっと
だから落ち込んで居るんだよ、ねえ
僕らが会った日からずっと
僕らの愛はブルー以外の何でも無かった、なあ
ねえ、君はどれだけブルーに出来るの...。

僕といる時、君は悪魔だよ、ねえ
そして離れて居る時は、嫉妬深い
だからさ、僕と居る時、君は悪魔だよ、ねえ
そして離れて居る時は、嫉妬深い
どれだけ君はブルーになれる、ねえ
答えは僕の心の中、すぐ此処にあるよ

新しいフォードをあげたね
でも君は、キャデラックが欲しいの、って言った
僕は10ドルのディナーをご馳走した
そして君は言った、おやつありがと、って
君にうちのペントハウスに住ませてあげたけど
君は、そんなのただの掘っ立て小屋だと言った
7人の子供も与えたけど
いまじゃ、みな返したがって居る

僕は落ち込んで居るんだ、ねえ
僕らが会った日からずっと
僕らの愛はブルー以外の何でも無かった、なあ
ねえ、君はどれだけブルーに出来るの...。

 

 

 

【和訳】Every Day I Have the Blues

 

毎日、毎日、憂鬱だ
ああ、毎日、毎日憂鬱だよ
僕が心配して居るのを見てる時、そう、君の事だよ、負けたくないんだ

誰も愛してくれない、誰も気に掛けて居ない様な気がする
誰も愛してくれない、誰も気に掛けて居無い様な気がする
まあ、心配事や面倒事でさ、愛しい人よ
ねえ、僕だって結構やったんだよ

毎日、毎日、憂鬱だ
ああ、毎日、毎日憂鬱だよ
僕が心配して居るのを見てる時、そう、君の事だよ、負けたく無いんだ

誰も愛してくれない、誰も気に掛けては居ない様な気がする
誰も愛してくれない、誰も気に掛けては居ない様な気がする
まあ、心配事や面倒事でさ、愛しい人よ
ねえ、僕だって結構やったんだよ

 

 

 

「そうだな。B.B.キングはまるでヒーローだった。バンドはどうかって? あのバンドが『Live at The Regal』でスウィングするのを聴いて見ろよ。まるで道路をならす蒸気ローラーのような威力だから」― ミック・フリートウッド(フリートウッド・マック)

B.B.キングの成功の大部分は、彼のコンサートに起因するであろう。彼は常に「最も働き者なライヴ・パフォーマー」の1人であり、ライヴ活動が少ない年でさえ年間250~300本もの公演を行って居た。また、彼はバンドを結束させる才覚を持って居た、それは彼のバンド・リーダーとしての腕前の印だが、おそらく彼のボスとしての寛大で思いやりのある気質が恐らく大いに関係して居るに違いない。

 

「うちのバンド仲間は素晴らしいミュージシャンと言うだけじゃなく、お互いに忠実なんだ。だから、皆で集まると楽しい時を過ごせるね。全員私と長年一緒にやってきた仲間で、ドラマーのサニー・フリーマンは約18年一緒に演奏したし、現在のシニア・トランぺッターは21年間も一緒。1人を除き、全員が10年以上も私と一緒にプレイしてきた仲間達なんだ」- B.B.キング(2000年)

 

1969年にB.B.はザ・ローリング・ストーンズとアメリカ・ツアーを行い、多くの人々に取っては初めて史上最高のアーティストの1人であるB.B.キングの生演奏を観覧する事になった。ビル・ワイマンはこう語る。「当時はよくステージ脇でB.B.キングの演奏を聴いたよ。彼の12人編成バンドは卓越したミュージシャン揃いだった。彼の演奏で何時も驚かされたのは、叩きつける様な激しい演奏の後にテンポを下げて囁く様に歌い始める処だった。そうすると、会場は静まり返り、飾りピンが床に落ちた音でさえ聞こえて仕舞う程だった。そこで突然、B.B.は大きなクライマックスへと盛り上げて行くんだ。彼の演奏で好きなのは、そう言った音楽の幅広さだね」。

 

まともな仕事を見つけるのが難しかった1970年代、B.B.キングは常に第一線、もしくはその周辺に居た。彼はテレビ出演さえも果たし、それは当時他のブルース系アーティスト勢ではほぼ誰も実現して居ない事であった。そして、他のギタリスト達と共演した彼の評判の良さは、B.B.キングにブルース界の長老政治家の様な地位を与えた。ブルースの意味を雄弁に説明する事で、彼はブルースが下火になり掛けた時に盛り上げる手助けをした。中にはブルースにしてはポップすぎると言う批判もあったが、それはB.B.キングの成功の一片も達成出来ない者達からの負け惜しみだった。

 

ロックの殿堂入りした翌年の1988年、B.B.キングはU2のアルバム『Rattle&Hum』に参加。収録曲「When Love Comes to Town」での彼の演奏は、63歳でもまだ輝きを失って居ない事を証明した。外部アーティストとの共演はこれが初めてでは無く、70年代にはジャズ・グループのザ・クルセイダーズと共演しており、その他これまでB.B.キングが共演したアーティストには盲目のシンガーのダイアン・シューアやアレクシス・コーナー、スティーヴ・ウィンウッド、ボビー・ブランド等が居る。2001年にB.B.キングは長年の友人、エリック・クラプトンと録音したアルバム『Riding With The King』でグラミー賞を受賞。同アルバムでは「Three O’Clock Blues」の再レコーディングを含め「Worried Life Blues」や「Key To The Highway」等カヴァーを収録した。

 

 

 

Three O'Clock Blues 

 

 

B.B. King - Key to the Highway 

 

 

BB King & Bobby Blue Bland - The thrill is gone - 1977 

 

 

BB King - 01 Every Day I Have The Blues [Live At Nick's 1983] HD 

 

 

B.B. King - Sweet Sixteen 

 

 

同じ時代の他のアーティストと同様に、B.B.キングはルイ・ジョーダンからインスピレーションを受け、黒人のミュージシャンでも偉業を成し遂げる事が出来ると信じて居た。よって、彼はこの伝説のバンド・リーダーの楽曲を録音したいと長年希望して居た。1999年にB.B.キングはそのカヴァー・アルバムを発表し、ルイ・ジョーダンへの恩義を示すと共に、「ジュークボックス王」による一連のヒット曲をカヴァーして祝福した。同カヴァー・アルバムのタイトルはB.B.キングに相応しく、何十年にも渡りB.B.キングが自身のライヴのオープニング曲として使用してきたルイ・ジョーダンの楽曲名から『Let the Good Times Roll』と名付けられた。

B.B.キングの偉大な才能は現代の音楽ジャンルの激しい変動を切り抜けて、面白いアルバムを出し続けた。B.B.は底辺にあったブルースを米国音楽のメインストリームへと押し上げた。子供時代に聴いた音楽を驚くほど多種多様な他の音楽スタイルと混ぜ合わせ、広範囲に渡るミュージシャン達と演奏する事でデジタル時代にもブルースを紹介し続けたのだ。

 

 

B.B. King, Eric Clapton, Buddy Guy, Albert Collins & Jeff Beck Apollo Theater, NY 06 15 93 

 

 

BB King RIP with Gary Moore RIP - The Thrill Is Gone - Hi Quality 

 

BB KING Best Solo Guitar King of Blues 

 

JEFF BECK with B.B. KING - Key To The Highway 

 

B.B.キングは、他のアーティスト勢を上回り、議論の余地なく「キング・オブ・ブルース」であったが、その「キング」の亡き今、私達はもう2度と彼のようなアーティストを目にする事は無いだろう。私はBBkingに憧れた。髪型こそは1970年代のロック・ミュージシャンの真似をしたが、ギターはBBkingをコピーしたのです。今となっては懐かしい思い出だ。皆さんBBkingを聴きましょうよ.....。

 

 

 

アントニオ猪木 名言 『道』 

 

 

==「危ぶむなかれ 行けば わかるよ」==

 

石川県白山市にある明達寺と言う真宗大谷派の寺院のご住職で、清沢哲夫と言う方(故人)がおられます。清沢哲夫氏は、仏教の近代化に大きく貢献された清沢満之(きよざわ まんし)先生(大谷大学初代学長)の孫として生まれ、清沢満之先生の弟子にあたる暁烏敏(あけがらす はや)先生のお寺(明達寺)を継がれた方です。この清沢哲夫氏の著書『無常断章』に次のような詩が掲載されて居ます。

 

 

「道」

此の道を行けば どうなるのかと 危ぶむなかれ

危ぶめば 道はなし

ふみ出せば その一足が 道となる その一足が 道である

わからなくても 歩いて行け 行けば わかるよ

          (昭和二十六年十月『同帰』所載)

 

 

皆さんこの詩を聞かれた事はあるでしょうか。「聞いた事がある様な気がする」と言う方も結構おられるのでは無いでしょうか。実は、プロレスラーのスーパーヒーロー。アントニオ猪木さんが引退式の時に詠まれたのがこの詩です。この詩を初めて聞いた時、すごく力強い詩だなと言う印象を持つ一方、何か自信がなく、日々を不安に思いながら生きて居る自分に対して、温かく包みこみ、励ましてくれる様な印象を持った事を覚えて居ます。「道」と言う詩に込められた思いを、蓮如聖人御一代記聞書から考えて見たいと思います。

 

御一代記の155項に「仏法には明日といふことはあるまじきよしの仰せに候ふ」と言う一文があります。これは言い換えると「仏法は今にて候」と言う事でしょうか。この「今」とは哲学的には、今は終わる時に解り、終わると言う事は今が解る事でもあると捉えます。すなわち「仏法は今にて候」とは、「終わって見ないと今が正しいかどうかなんて解らないのだから、今この瞬間を如何に大切にするかが大事なのですよ」と言う教えだと言えると思います。また、御一代記は次の様に続きます。「たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきく人は ながく不退にかなふなり」。すなわち「私たちの心を奪い、心を乱す色々な誘惑や困難がある人生の中で、自ら仏法を求めて仏に出遇う人にこそ、金剛の信心が与えられるのである」と説いて居ます。  

 

この様に考えると、「道」という詩には、「人生は、悩み迷い、困難の連続であるが、それはあなただけの事ではありません。結果なんて誰にも解りません。終わって見て始めて良かった、失敗したと解るのです。だからこそ、その生を生きる「今」を受け入れ、自らを大切にし、しっかりと今を生きて行きましょう」と言う願いが込められて居るのでしょう....。

 

 

神保町、のぞくだけでも楽しい♪個性的な古本屋さん。

 

「magnif(マグニフ)」

 

ファッション系の古い雑誌を扱う専門店。
“magazine”から派生した造語「magnif」を、“雑誌の古本屋”ということで、店名に。
古い雑誌は、広告も含め “時代” が詰めこまれているので、懐かしさだけでなく、新鮮で刺激的!なかでも魅力的なファッション雑誌を中心にセレクトし、書籍、写真集等もあわせて販売。コレクション・研究資料・読み物として、雑誌たちの魅力に出会えます。

 

ファッション系の古い雑誌を扱う専門店。
“magazine”から派生した造語「magnif」を、“雑誌の古本屋”と言う事で、店名に。
古い雑誌は、広告も含め “時代” が詰め込まれて居るので、懐かしさだけでなく、新鮮で刺激的!なかでも魅力的なファッション雑誌を中心にセレクトし、書籍、写真集等もあわせて販売。コレクション・研究資料・読み物として、雑誌たちの魅力に出会えます。

magnif マグニフ / 雑誌バックナンバーの古書店

東京都千代田区神田神保町1-17
tel & fax : 03-5280-5911
営業時間:11:00~19:00
定休日:不定休 

 

 

「矢口書店」

 

靖国通りの角地に佇む大正7年創業の老舗「矢口書店」は、風情ある雰囲気も魅力です。石造りの建物に見えますが木造の3階建て、昭和3年に建てられました。
映画・演劇・演芸・戯曲・シナリオ専門店で、難しそうな本を扱っているように見えますが、アイドル本やマンガなどもあり気軽に立ち寄れます。

 

靖国通りの角地に佇む大正7年創業の老舗「矢口書店」は、風情ある雰囲気も魅力です。石造りの建物に見えますが木造の3階建て、昭和3年に建てられました。
映画・演劇・演芸・戯曲・シナリオ専門店で、難しそうな本を扱って居る様に見えますが、アイドル本やマンガなどもあり気軽に立ち寄れます。

 

整然と並べられた古本は、価格設定がわかりやすいのも良いですね。

 

整然と並べられた古本は、価格設定が分かり易いのも良いですね。

矢口書店のホームページです。

東京都千代田区神田神保町2-5-1
03-3261-5708
10:00~18:30(金・土曜日のみ10:00-19:00)
休日 年末年始
 

 

「古賀書店」

 

前での「矢口書店」の隣にあるのが、クラシックを主流とした老舗の音楽専門店「古賀書店」です。

入口付近には、ジャズやタンゴ、シャンソンやケルト音楽など世界中の本が並びます。店の奥は、クラシック関連の本で埋められ、バッハやモーツァルトなど大作曲家の音楽理論・伝記・エッセーから、音楽史などが揃います。音楽之友社の『音楽美の探求』、全音楽譜出版社の『音楽史』のような入手が難しい書籍の扱いもあります。

 

入口付近には、ジャズやタンゴ、シャンソンやケルト音楽など世界中の本が並びます。店の奥は、クラシック関連の本で埋められ、バッハやモーツァルトなど大作曲家の音楽理論・伝記・エッセーから、音楽史などが揃います。音楽之友社の『音楽美の探求』、全音楽譜出版社の『音楽史』の様な入手が難しい書籍の扱いもあります。

千代田区神田神保町2-5
TEL:03-3261-1239
・・・・
営業時間/休日
10:30~18:00/日、祝

出典:古賀書店 - BOOK TOWN じんぼう

 

 

 

 

「神保町を代表するレトロ喫茶「さばうる」」

 

1955年に開店した「さぼうる」は、神保町のレトロ喫茶を語るときに外せない人気店。ノスタルジックな雰囲気や美味しいコーヒーを求めて、連日多くのお客さんが訪れます。お隣には食事系メニューが中心の姉妹店「さぼうる2」もありますよ。

 

1955年に開店した「さぼうる」は、神保町のレトロ喫茶を語るときに外せない人気店。ノスタルジックな雰囲気や美味しいコーヒーを求めて、連日多くのお客さんが訪れます。お隣には食事系メニューが中心の姉妹店「さぼうる2」もありますよ。

 

落ち着いた雰囲気の店内は、開店当時に流行していた山小屋風のインテリア。壁には訪れたお客さんの落書きもあり、昔から愛されている喫茶店の歴史を感じさせます。

 

落ち着いた雰囲気の店内は、開店当時に流行していた山小屋風のインテリア。壁には訪れたお客さんの落書きもあり、昔から愛されている喫茶店の歴史を感じさせます。

モーニングとコーヒーの組み合わせも◎

朝9時半の開店を待って訪れるなら、リーズナブルなモーニングサービスセットがおすすめです。バターロール・サラダ・ゆで卵のセットに美味しいコーヒーを組み合わせれば、レトロ喫茶らしい朝ごはんに。ゆったりした一日を迎えられそうですね。

 

朝9時半の開店を待って訪れるなら、リーズナブルなモーニングサービス・セットがおすすめです。バターロール・サラダ・ゆで卵のセットに美味しいコーヒーを組み合わせれば、レトロ喫茶らしい朝ごはんに。ゆったりした一日を迎えられそうですね。

 

また、生のイチゴを贅沢に使った「いちごジュース」も常連さんに人気のメニューです。氷屋さんから仕入れた氷を使うため、ジュースの味が薄まりにくいのだそう。最後まで美味しいイチゴの甘みを是非味わってみてください。

 

また、生のイチゴを贅沢に使った「いちごジュース」も常連さんに人気のメニューです。氷屋さんから仕入れた氷を使うため、ジュースの味が薄まりにくいのだそう。最後まで美味しいイチゴの甘みを是非味わって見て下さい。

 

さぼうる

神保町 / 喫茶店

住所
千代田区神田神保町1-11
営業時間
[月~土]
9:30~23:00(L.O.22:30)
定休日
日曜日・祝日
 

 

今回は此処までです。読んでくれて有り難う。また更新できたらお逢いしましょう。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「花守の丘」[ English Sub ] 

 

 

私は思うけど、よく頭がいい人が「私は頭がいいから」とか自信家が「俺って凄い人間だから」とか言うのを聞いて居て 、思うけど。本当に利口な人間が自分は頭がいいからと言うか?本当に凄い人間が俺は凄い人間だからと言うか?そう言う人たちは、井の中の蛙大海を知らずと思う事が沢山ありすぎる。前に某有名大学院に行った男と話したがブルースが好きだと言ったら「ブルースって、淡谷のり子か?」と聞かれた。私は頭が暫く点になった、『・・・・・』知らない人に向けて言っとくけど淡谷のり子の「別れのブルース」と言う曲があるが。日本の歌謡曲です。初めて題名に「ブルース」と付けられた歌謡曲は、1935年(昭和10年)にヘレン雪子本田の歌唱によって発表された『スヰート・ホーム・ブルース』です。しかし、日本でブルースを広く大衆に知らしめたのはこの「別れのブルース」です。

 

服部の代表曲として広く知られ、1960(昭和35年)に開催された服部の作曲生活40年を祝う「シルバーコンサート」や、1967(昭和42年)に開催された「還暦記念コンサート」で披露された。また、1992年(平成4年)に開催された服部の作曲生活70年を祝う「服部良一音楽祭'92」でも日本のブルース・バンド憂歌団によって披露された。そして、1993年(平成5年)に服部が亡くなり「服部良一合同音楽葬」が行われた際には、淡谷が歌う事と成った。また、2007年(平成19年)の『服部良一〜生誕100数年記念アルバム〜』では徳永英明がカバーして居る。しかし、ブルース調の楽曲ではあるものの、ブルースコードを用いて居ない点や、シャンソンや従来の日本歌謡曲の影響がある点など、本場のアメリカのブルースと異なった点が多い事は、服部克久を始めとする多くの人々が指摘して居るのであり、精神的にはブルースなのだけども、黒人やらアメリカのブルースとは違うものです。

 

私は、その某有名大学院を出た、当時30代だった男に付いてはガッカリした。せめて「ブルースってBB King?」ぐらいは言って貰いたかった。いや黒人のブルースを知らないのなら、白人のブルースロックの「エリック・クラプトン」ぐらいは言って貰いたかった。要するに何も知らないのだ。お勉強が幾ら出来てもねぇ....。それから、私が入院中自宅から映画書籍やら持ち込んで読んで居ると、「この本!どうしたの!?」といちいち私が本を変えて読むごとに驚く。「どうしたのって自宅から持って来たものですよ.....。」と言ったら「嘘だ買ったんだ新刊だ!!」と言うのだ。そして、まるで私が贅沢をして居るかの如きに非難するのだ。読んで居た本は5年前に買った本などで、まあ、大切にして居たから綺麗だが。よくよく聞いたら。その某有名大学院出身の男は本は図書館で殆ど済まして居るので、図書館の本は皆んなが見て居て、結構薄汚れて居たりして汚い本もあるのだけども、そう言った事らしい。私は呆れてしまった。

 

 

別れのブルース  (明治・大正・昭和初期の歌謡曲昭和12年) 青江 三奈 唄 

 

BB King - How Blue Can You Get (Legends of Rock 'n' Roll) 

 

 

そしてその男も言うのだ「僕は利口で頭がいいから解るけど」「〇〇さんはバカだから解らないんだ」と・・・・もう笑ってしまうほど幼稚だ・・・・。思い上がった人間が多過ぎるんですよね、実際問題。私はこの blogをやり始めてから、本当に絵が上手い人。イラストが上手い人。音楽的な知識がある人、哲学をよく知っている人などと交流を持つ事が出来た。皆さん本当に知識がおありだ。そして皆、謙虚で親切だ。本来本物はそう言う人たちなのだ。

 

 

木村充揮×近藤房之助 - 酒と泪と男と女 

 

 

「さびしさには名前がない」浅川マキ(v)・渋谷 毅(p)

 

 

 

処で、勉強って何だ?勉強をするのは何かの知識で自分を高める為だ。ただ単に知識を知って居ようとするならば、、何でもいい、本を読むことだ。一日一冊読めば1ヶ月で30ぐらいの事柄の蘊蓄が言える事になる。そして、そうして本から得た知識で人を小馬鹿にして自分は知識があると思っている本気なバカが居る。此処では某有名大学院出身の男の、人の目を見る判断基準を言うが。その男は何でも小難しい事が言えれば相手を評価した。相手は本を読んだ知識を曳けら化して居るだけなのに。そしてまだ30歳なのに若さが何も無い、当時私は50歳になろうとして居たが。「50代なんて全共闘でヒッピー文化だけしか知らないのでしょう!!」と盾を突いて来る。今、私は60代だから全共闘世代は私よりもひとつ上の世代の70代だ。私らの世代は遅れて来た全共闘と言われて、シラケ族と呼ばれて居た世代だ。30歳そこそこの男に何が解る?

 

私はそんな事は微塵も無いが。その男は自分より年上を認めたく無いのだ。そのくせに格好はとっちゃん坊やだ。何故なら彼はまだ30歳ぐらいなのにバリカンで髪の後ろと横に剃りを入れ、私に「〇〇さんは一体何時、床屋に行くのですか?」と聞いて来る。最近、若者が部分的に剃りを入れるのが流行って居たが。それとは違う。要するに一昔前の親父の髪型なのです。そうする事がいいのだと思い込んで居る。若いのに歳を取った68歳ぐらいの爺様の格好をして大人に成れたと喜んで居るのだ。実に幼稚だ...。私が着て居た服をいいと羨ましがって、自分が外出した時に似た様な服を買って来る。そして頭がいいと言われると喜ぶのだ、、何をか言わんや.......。

 

私は一度弟を物凄い勢いで怒鳴り付けた事がある。それは弟が「僕って頭がいいから・・・」と言うので「自画自賛するとは何事だバカヤロー。本当に頭のいい人間がそんな軽薄な事を言うかバカ!!」と怒鳴り付けたのだ。勉強が出来る要するに学問が出来るだけと言うのは、或る意味それもバカだ。本当に頭がある人間と言うのは本当の自分は滅多に出さない。そして、学問ではなく知恵を持って居るものだ。頭が良いとは勉強が出来ると言う事とイコールでは無いのだ。それは私は大学時代に知った。ある教授が、毎回大学の教科書を朗読するだけで授業は終わるのだ。本来ならその本に書かれて居る事の意味を解読して学生に分かりやすく教えるのではないか?しかしその教授は毎回朗読しかしない。私はやってられなくで講義には殆ど出なかった。そしてテストの十日前にふらりと出てみると教授が本を何回もよく読んで置く様にと教えるのだ。そして確かにその本さえ理解して勉強して居ればテストは満点が取れるのだ。

 

私は小学生の時と中学生の時に宿題を一生懸命やった。しかしテストで点が取れなければ成績の評価は取れない。私は中学当時、日本が誇るアルト・サックス奏者の渡辺貞夫の自伝記を読んで、彼が音楽学校の名門バークレー音楽院に入って、理論はイマイチでダメだったけどテストは実技で高得点を取り卒業したと書いてあったのを読んで。「そうか結果が全てか・・・物事はそうなんだな...。」と思った。だから大学では宿題のレポートを書く様に言われても、殆ど満足には書かなかった。勿論教授からは睨まれて皮肉を言われた。しかし、テストでは頑張った。100点を取って1、2年はオール優を取った。教授は次第に私を見ると微笑む様に成って行った。しかし2年の終わりに、ある宗教団体のバカにシツコク付纏わられた。ストーカー行為だ。おかげで健康を害して仕舞った。そいつの名は未だに覚えて居る。

 

城ノ下 曻と言った。そいつのせいで『統合失調症』を発病してしまった。はっきり言って私は小柄だ。そのせいでバカにして来る奴らが沢山居た。女の子は背が低いのは可愛く見られるが、男の場合はバカにする対象となるのだ。そいつはいい気になってストーカー行為を続けて居るので、「警察沙汰にしてやる」と電話で凄んで。「これ以上続けるなら明日大学で刺殺してやる!!ぶち殺してやる!!覚悟して俺の前に現れろ!!」と言ってやった。それ以来そいつは二度と近寄って来なく成った。私は小柄だからそのせいで中学時代からいい様に扱われた。従兄弟のあきからはバカにされて「「金もいらなきゃ女もいらぬ、あたしゃも少し背が欲しい〜」だろう〇〇ちゃんヨォ〜〜」と言われたが。あき自身も私とあまり変わらないぐらいだったが。まあ6センチぐらい高かったのか。私は人は外見でしかその人間を見ないと言う事は学生時代に散々思い知らされて居た。大学でノートを取って居ると、今はパソコンだろうけど。いきなり背が高い183㎝ぐらいの学生にノートを取り上げられて返されないと言う事が侭あった。そして「返せ!」と言うと「へっ!チビが何一丁前に抗議してんだよ」と言うのだ。だから私は自分にしか解読出来ない速記で書いて、授業が終わるとすぐにブルース喫茶やらジャズ喫茶で別のノートに普通の文の本文に書き換えて居た。

 

音楽喫茶のマスターたちからは「何書いてんの?ラテン語?」と言われたが....。そうしたら度々ノートを取り上げて行くバカが2人ぐらい居たが、幾ら私のノートを取り上げても何が何だか分からず困って居るのだ。仕舞いには「テストが間近だから、頼むから何て書いてあるか教えてくれ!」と2人揃ってノートを返して来る様に成った。誰が教えるか!!そのうち一人は成績が取れずに落第して留年した。そいつは極真空手の道場に通って居ると自慢して居た。どうやら極真空手では人のものを盗む事を教えて居るらしい。私の弟は高校時代に試験の10日程前からノートと教科書が無くなった。弟は何時も成績が1番か2番なので嫉妬した奴等にやられたのだが、当の弟は心配は何にもして居なかった。なぜなら先生の授業の講義は聞いたその場で頭に入れてあったし、教科書は最後まで読み尽くして覚えて居たからだ。

 

弟は「何故飛び級がないんだ」と言って居たぐらいだ。ノートと教科書は出て来なかったが弟は成績がまた1番に成った。この時の犯人の学生は、弟の友人が教科書とノートを盗む処を観て居て証拠があったので、4人居たが全員退学に成った。弟の当時の担任は弟のノートと本を盗んで破って捨てた生徒らとその親らが幾ら謝っても、「我が成蹊高校の生徒としてあるまじき行為をした以上全員退学だ!!」と親と本人たちの哀願をつっぱねたそうだ。そう言えば姉が大学の頃、知り合いの大学生の男が2年も落第して、「人生長いんだから留年2年ぐらい長い人生から見たら、大した事は無い」などと、言って居た大バカ野郎が居たが。私は最低な野郎だと思って居た。何が「長い人生のうちの2年ぐらい」だ!!普通に大学の授業に出て居れば、優はともかく普通の成績は取れるはずだ。そいつはベースをバンドで弾いて居たが、私もリードギターとブルースハープを演奏して居た。しかし成績はちゃんと取った。

 

 

私のヘタクソなハーモニカソロです。

 

 

此の話は以前にも書いたと思うが、私は以前ある女性のHPを見に行って居た。だが私はこの女性は知識がある様な事を言っては居るが。本当の処。それは書物からの知識では無いかと思う様に成って行った。確かに本はよく読んで居た見たいだった。しかし彼女の掲示板での書き込みで手塚治虫は素晴らしいと言って居たのだが。なんと「手塚治虫」を「手塚 治」と言って居るのだ。手塚氏は昭和20年代からずぅーとペンネームの「手塚治虫」の名を使って来た。彼女は何も彼の事を知らないのだ。ただ皆んなが手塚氏は凄いと言って居るから、自分も凄いと思い込んで知りもしないのに凄いと言って居るだけだ。果たして手塚氏の漫画を読んだ事はあるのだろうか?恐らくはあるまい。手塚氏の漫画を読んで居たら「手塚治虫」と言うペンネームを知って居るはずだ。恐らくはテレビで「鉄腕アトム」ぐらいは見たのかも知れない。しかし断言する。「手塚治虫」の漫画本は1冊も読んでは居まい。手塚氏は往々にして児童漫画。子供向けの漫画しか描いて居ないと思われがちだ。しかし実際は違う。例えば「空気の底」「奇子」などの近親相姦の漫画やら、「きりひと賛歌」などと言う「モンモウ病」と言う奇病に付いての外見による差別や人間の尊厳などをテーマとする重厚なストーリー漫画もある。同じ医療漫画であるそれから3年後の『ブラック・ジャック』が非現実的な要素も交えた作風で尚且つ「医学は人間を幸せにし得るのか」というテーマを扱って居るのに対し、本作では医学界に於けるa power struggle(権力闘争)を主たるテーマとして描いた、1970年代初頭の社会派的色合いの強い作品となって居る。

 

一般の人は知らないでしょう。こう言った漫画を手塚治虫が書いて居た事を。そして彼は「アドルフに告ぐ」ではヒットラーの生涯を、3人のアドルフと言う名の人たちの愛憎を絡めて描いて居る。「シュマリ」では明治維新の事を。北海道での五稜郭を舞台に、実は生きて居た新撰組副長の土方歳三とシュマリの友情を描き。昨年公開された稲垣吾郎と二階堂ふみによって実写映画化された異常性欲者の作家と、それを救おうとするミューズの「ばるぼら」と言う映画を手塚治虫の息子である映画監督である手塚 眞氏が撮って居る。この映画では二階堂ふみの全裸での体当たりの演技が良かった。R15になった作品だ。原作の漫画は私も持って居るが、黒魔術やらセックス・シーンが累半に出て来る漫画で。1970年当時にビックコミックと言う青年漫画誌にて連載された漫画だ。皆さんは手塚治虫氏は児童漫画しか描いて居ない。例えば「鉄腕アトム」「ジャングル大帝」「リボンの騎士」「ワンダー3」などしか、子供向けの漫画しか描いて居ないと思って居る。

 

その知識がある様に言って居る女性は何故、「手塚治虫」と呼ばれて居るのかが解っては居なかったのですよ。皆さん?.....。彼の本名は勿論「手塚 治」です。しかし,彼は昔から昆虫マニアでした。だから日陰で一生懸命に生きて居る「オサムシ」を自分の治という名前に掛けて「治虫(オサムシ)」よって手塚治虫(てずかおさむ)と皆んなに読ませて居たのですよ。彼は大人向けのアダルト・アニメ三部作も撮って居ます。「千夜一夜物語」「クレオパトラ」「哀しみのベラドンナ」です。この三部作は1968年ぐらいから1973年に掛けて公開され世界中で配信されました。今だに此の3作品は商品化されて居ますよ。1980年代にビデオ化されて、その後1990年代にはレーザーディスク化され、また低価格ビデオ化もされて、レンタルビデオ屋にも置いてあったし。今はDVDにも成って居ますしね。最近ではCS放送で「千夜一夜物語」と「クレオパトラ」は放映されましたよ。皆さんこう言ったアニメ映画を手塚氏が作って居た事も知らないでしょう?由緒正しい日本ヘラルド映画が配給元ですよ。ちゃんとした映画です。ポルノと言うから嫌たらしい映画だと思わないように。藝術的ですからね.....。

 

特に手塚治虫の片腕だった山本暎一監督の三部作の最終作「哀しみのベラドンナ」、この作品群はアニメラマと呼ばれて居ましたが「哀しみのベラドンナ」だけはアニメロマネスクと呼ばれ。エロチックではありますが、藝術的であり、サイケデリックな映像と佐藤允彦が作曲した丸で1970年代のプログレッシブ・ロックの様な神秘的で美しいメロディーの音楽は日本では1970年代にレコードになって居ませんが。イタリアでサントラ・レコード化されて発売されました。ドイツやイタリア、フランスなどではCDになって今だに発売されて居ますよ。ちなみにこの「哀しみのベラドンナ」は2000年代にアヌシー国際アニメション映画祭で賞を受賞して居るし。1973年公開当時はベルリン国際映画祭で上映されました。日本盤はDVDしか売っては居ないが。海外盤では4kリストラされたBlu-ray盤が売って居ます。私も購入して持って居ますよ。

 

あの作品には4Kがよく似合う。私は手塚治虫を谷崎潤一郎やら、三島由紀夫と同等に評価して居ます。しかしそれはあくまで大人向けの作品群でね。その彼女の文を読んで居ると確かに本から得た知識はありそうだが、肝心な事が疎かにされてしまって居るなと思いましたよ。要するに能がある事を上機嫌で言って居ても、上辺だけの本の知識だけなのですよね。私は彼女にはガッカリした。最後になりましたが。このアニメラマ三部作の予告編を挙げて置きます。「哀しみのベラドンナ」はこの後に挙げて居ますので。残りの2作品と「由紀さおり」が歌う「クレオパトラ」の挿入歌です。この曲は冨田勲作曲で中山千夏作詞の、エキゾチックなるスキャットです。歌って居るのは由紀さおりです。聴いて見て下さいね。今見ると、「哀しみのベラドンナ」は今見ても凄いけど。他の2作品は単なる娯楽作品としての価値しか窺い知る事は出来ませんけどね。

 

 

千夜一夜物語 

Cleopatra (1970) ORIGINAL TRAILER [HD 1080p] 

Cleopatra No Namida 

 

 

 

 

 

母は絶対に私の美大の受験を許してはくれなかった。私とて馬鹿ではない、今時、画伯で食えるとは思わない。1975年当時ちょうど第2次アニメブームがやって来た。私は出来る事ならアニメ業界で働きたかったのだ。当時はイメージ・フォーラムなどや虫プロ映画祭で、世界中のアニメをよく見た。特にユーリー・ノルシュテインの「外套」を見て度肝を抜かれた。ロシアを代表するアニメーション作家、ユーリー・ノルシュテイン。主にセルロイドに緻密に描き込まれた切り絵を用いる短編アニメーション映画などで知られる映像作家である。ソ連→ロシア国籍の東欧系ユダヤ人である。彼は30年以上の歳月をかけてゴーゴリ原作『外套』のアニメーションを制作して居るが、しばらく撮影をして居ない。2021年1月、モスクワにあるノルシュテイン・スタジオ“アルテ”。おびただしい数のスケッチ、キャラクターパーツ、誇りをかぶった撮影台・・・。世界が待望する『外套』は何時、完成するのか。。。

 

1980年からゴーゴリの短編小説『外套』の制作が始めるものの、ソビエト連邦の崩壊による社会的混乱や政治変動と言った背景もあり、何度か制作が中断され、30年以上経った今も未完の状態となって居る。現時点では30分ほどの長さの作品が完成しており、毎年少しずつ新しいシーンを追加しており、作品を完成させる意思はあるようだ。現在もまだノルシュテインは『外套』の制作を続けて居る。この映画プロジェクトは数多くの財政トラブルや誤った発進を経験したが、現在は幾つかのロシア国内外のスポンサーから信頼出来る資金提供を受けており、少なくとも25分は完成しており、2本の低解像度のクリップが公開されて居る。映画の最初の20分はロシア美術館におけるノルシュテインのさまざまな展示内で上映されて居る。なお、完成作品は60分程度の作品になる予定だと言う。

 

 

 

 

 

 

外套(がいとう) 

 

貴重!アニメの神様の制作風景-『ユーリー・ノルシュテイン《外套》をつくる』 

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そして又、イメージフォーラムで観た。「哀しみのベラドンナ」である.......。

絵画止め絵を中心にして、色彩アニメーションだったりして、美しかった。絵柄も非常に好みだし、水彩画アニメや油絵アニメなど、非常に手が込んで居て、今見ても美しさに圧倒される。「哀しみのベラドンナ」はあまり動かないパートと、動きすぎる部分があるが、音楽と挿入歌の使い方が上手いから統一感あるし面白い。劇伴音楽もいいし、小林亜星の歌曲もアートとインパクトの両面で素晴らしい。阿久悠のドラマチックな作詞も最高だし中山千夏のナレーションと歌もいい。そして映画前編を通り抜ける佐藤允彦の音楽に乗って展開されるサイケデリックな感覚がいいのです。まあ、エロスを追求したとも言えるアニメですが・・・・。

 

 

哀しみのベラドンナ_e0155231_14341961.jpg

 

 

 

 

 

山本暎一インタビュー 
 
── 『千夜一夜』『クレオパトラ』でヒットを飛ばし、ついに『哀しみのベラドンナ』の制作が始まるわけですけれども。これは企画の成り立ちからして前2作とは、違うわけですね。『クレオパトラ』までのヒットを受けて、ヘラルド側は「その路線で3作目を」とは言ってこなかったんですか。

山本 もう少し虫プロが続いてれば、「この路線の3作目を」と言ってきたと思いますよ。『ベラドンナ』は、それとはまた別に、さっき言った『イエロー・サブマリン』の路線を、と言うのがあって始まったものだから。
── その別路線は、山本さんから提案した形なんですか。
山本 いや向こうから言ってきたんですよ。
── え、ヘラルドから言ってきたんですか! それは「前衛的なもの」と言うような言い方だったんですか。
山本 やや前衛的な要素の入ったもので。一般にも受けなきゃいけないんだけど、ちょっと前衛的なもの。
── エロチックなものと言うのも前提だったんですか。
山本 うん、それは客の入りがいいように。当時はまだ(大人向けアニメの)実績がないからね。エロチックと言うのは、必要な条件だったんですよね。それが3作、4作と出来た後なら、エロチックなシーンがなくてもいいんですけど。
── で、内容に関してはヘラルド側からは提案されずに、山本さんの方から出すかたちだったんですか。
山本 企画はね、結構いろいろ考えました。苦労したんだけど、最終的には「魔女」と言う小説みたいな、ドキュメンタリーみたいな、詩の本みたいなのを見つけて、それに基づいてやろうと言う事になったんですよ。とにかく、純粋に大人向きの大衆娯楽映画で、『千夜一夜物語』と『クレオパトラ』が、ごく一般向けのもの。それとは別の路線で文芸的な香りの高いもの、と言う事で、僕がやる事になった。企画は結構苦労しました。

 
▲アニメロマネスク『哀しみのベラドンナ』より
 

── で、かなり初期の段階で、イラストをカメラワーク主体で見せるかたちで作ろうというプランになった訳ですね。
山本 それは僕が考えたものです。ヘラルドは違うと思った様ですよ。違うと言ってもどう考えていたかは分かんない。要するに、あんなには止まらないだろうと思って居た様で。
── (笑)。でも、「虫プロ興亡記」だと、最初にイメージを伝えるためにカメラワークでイラストを撮ったようなものを観せたら、その反応がよかったと書かれて居るんですけど。
山本 最初のパイロットフィルム見たいたいなものを作ってね、渡したら、それは非常に反応がよかったんですよね。
── それも全然動いてない訳ですよね。静止画をカメラワークで見せてるだけで。
山本 うん、動いてなかったと思いますね。その時は「いや、これはこれでいいんだ」と思ったんじゃないかな。あの映画は一番最初に、白一色の画面に線が一本出て来てね、その線がいろんな風に形が変わって、キャラクターになって、色もだんだん増えて来て、と言う風に始まっていくでしょ。あそこからすでに実験精神ですよね。それで、どんどん押してしまった。
── 「魔女」を原作に決めてから、深井さんの起用までは、どのくらい期間があったんですか。
山本 これはすぐでしたね。もう深井さんしかないと言う感じで。
── その起用を決めたのは、山本さんなんですね。
山本 ええ。
── 深井さんを選んだ理由はなんだったんですか。
山本 若い頃に、深井さんは非常に変わった画を描いて居て、画のバリエーションが毎週変わるものをやって居たんですよ。僕はそれを見てて。
── それは媒体はなんだったんですか。
山本 雑誌の名前はちょっと忘れましたけど。
── 雑誌なんですね。
山本 ええ。大人の雑誌で。とにかく、画は抜群に巧いし、動物もいいし、何と言っても女ですね。だから、深井さんに決めました。
── 制作開始時に、深井さんに「現場に詰めてください」とお願いしたんですか。
山本 そうです。毎日は無理なので、1日おきだったかな。
── 深井さんはアニメーションの経験がまったくなかった訳ですが、山本さんとしては、どこまでのお仕事を期待してしたんですか。
山本 やなせさんと小島さんは、キャラクターデザインだけなんですよ。実際にフィルムにして行く段階では何もしてない。『ベラドンナ』は深井さんに(本編の画を)全部描いて欲しかったんです。でも全部は無理なんで、一部をアニメーターが手伝うと言う形で。
── 原画は深井さんで、アニメーターが動画を受け持つぐらいの感覚ですよね。
山本 そう。実際問題としては、とてもそんなにはやりきれないんで。結構アニメーターもやってますけども。原則的な考え方としてはそうなんですよ。1人のイラストレーターが全部を描いてしまうと言う。
── 動きのあるカットに関しては、実際に深井さんがお描きになったものを原画として扱って、アニメーターが中割をして居るんですか。
山本 ……そう言うシーンもあります。深井さんは動く絵は描かない訳です。元の絵は描きますけど。1枚描くだけで。
── その場合、深井さんが描いた画を、アニメーターがクリンナップして、さらに動画を描く訳ですか。
山本 そうです。深井さんの画をそのまま撮影してる所もあります。あるひとつのやり方で全部通してる訳じゃなくて、色んなやり方をミックスしてる訳です。
── 動きで見せるカットで、全く深井さんの元絵がない状態でアニメーターが作ってる所もあるんですか。
山本 いえ、それは無いです。
── 全カット、深井さんが何かしら描いてる?
山本 そうです。
── それはキャラクターが居るカットに関しては、と言う事ですよね。街の崩壊シーンとかは深井さんは関わって無いですよね。
山本 崩壊シーンは違いますね。
── 例の『イエロー・サブマリン』的な、色々なイメージが登場する所も深井さんは関わって無いですね。
山本 そうです。
── キャラクターが居るカットは、深井さんが何かを描いてると言う事ですね。
山本 ええ。崩壊のシーンについても、一番最後に空に骸骨見たいな人間が浮かんで居るでしょう。あれは深井さんが描いて居ます。
── (「虫プロ興亡記」を見ながら)此処に載ってる深井さんの原画は、動きを追ってますよね。此れを見ると、まるで要所要所で深井さんが原画を描いてる見たいですが。
山本 これは僕が描いてるんですよね。
── ええっ!?
山本 元を僕が描いたんです。(映画の後半で)ジャンとジャンヌに会いに来て、二人の気持ちが高まって、愛撫になって、それがベラドンナの花に収斂するところ、なんかをね。それで、それを深井さんに清書してもらったんです。まあ、いろんな実験的なやり方を、やってる訳です。だから、極端に言いますと、カットによってやり方が違うと言うかね。
── イラストレーターのウノ・カマキリさんが作画協力としてクレジットになってるんですけど。
山本 ウノさんはね、描いてもらったんだけど、1カットしか使ってないんですよ。
── どこですか?
山本 ペストが流行ってくる時のね、群衆の一つですね。人がいっぱい並んでる絵が一枚、1カット(笑)。それだけですね。
── さっきも話題になった、ベラドンナが悪魔と契った後に、イメージシーンが始まりますよね。あそこはコンテはどうなってるんでしょうか。
山本 大体ね、コンテと言うのもないんですよね。決まった形が。
── え、それは『ベラドンナ』全体として?
山本 うん。全体ね。大きな紙にいっぱい描いてるのもあるし、一枚の紙に数カットだけ描いた所もある。いろんなのがあるんですよ。
── コンテは、一冊にはまとまって無い訳ですか。
山本 まとまってないんですよ。まとめられない。だから、そこをどう言う風にやったかちょっと分からないんです。
── 『ベラドンナ』全体の構成は、山本さんの頭の中だけにある、と言う感じで作ってったんですか。
山本 そうですね。前の『千夜一夜』や『クレオパトラ』は、演出コンテを、つまりストーリーボードを作ってた訳ですよ。『ベラドンナ』では、これが全然ないんですよね。
── じゃあ衣装のデザインも、全部深井さんがやって居るんですよね。
山本 ええ。
── 時代考証的には自由に描かれてるものなんですか。それともある程度18世紀の風俗にのっとって居るんですか。
山本 そういう点では自由ですよね。ただ、「中世ヨーロッパに見える様にはしてくれ」とは言いましたけど(笑)。でも、ジャンが税金取る役人になった時に、サングラスをかけてたりするんですけど。そういう点は自由でしたよ。
── 深井さん以外の方が色を塗る場合、色の選択はどうして居たんですか。
山本 色はね、基本的に深井さんですよ。後で、他の人が適当に決めちゃったって部分もあるんでしょうけど、基本的には深井さんですよ。
── 『ベラドンナ』のフィルムのバージョンについて確認させてください。制作過程で作られたダミー版は別にして、ベルリン映画祭に持って行ったバージョン、最初に劇場公開された時のバージョン、劇場公開中にラストを変えたバージョン、後にリバイバル公開された時の女子高生バージョン、ポニーキャニオンでソフト化された時のバージョンがあるわけですね。
山本 最初はジャンヌが火あぶりになった後に、群衆の中に悪魔が立って居て、悪魔が笑って終わって居たんです。ですが、ベルリン映画祭に持って行った時に、それが不評だったので、日本に帰って気てから、そこを切っちゃったんです。
── ベルリン映画祭から帰って来てから、日本での公開だったんですか。
山本 いや、並行して居た(※編注:「虫プロ興亡記」によれば山本監督が帰国した時、すでに国内で公開中だった)。で、帰って来てから切っちゃった。だから、(封切りの)最初の頃に観てる人はそれを観てると思うけど、途中から消えちゃってるの。
── 劇場公開時の初めの頃には、悪魔のシーンもあるんですね。
山本 ある。
── フランス革命のくだりは、その時には無かったんですか。
山本 それは無いです。その後にまた封切りをしようと言う時に、今度は女子高生向けにエロチックなシーンを切った訳ですよね(※編注:女子高生バージョンとは、アート好きな高校生にも観て貰う為に手を入れたバージョン)。
── そのバージョンの最後が、フランス革命だったんですか。
山本 その時にフランス革命がどうだったかは、覚えてないですけどね。それからさらにポニーキャニオンのバージョンがあって、その時は、フランス革命がついて居るんですよ。
── 何時かは分からないけれど、新たに深井さんに作画をし直していただいて、ラストのフランス革命の部分が作られたんですね。
山本 うん。ポニーキャニオン用にそうしたのか、女子高生向けにもそうしたのか、そこがちょっと分からない。
── 悪魔が笑って終わる方が、お話的にはまとまりがいいですよね。
山本 いや、今の方(フランス革命で終わるバージョンの方)がまとまりはいいですよ。
── あ、そうですか(笑)。
山本 僕としてはその、悪魔で終わるやつはいいけれど、それ以後のバージョンは、違うなと言う感じがするんですよね。だから(認めているのは)一番最初のと、一番最後のバージョンか。
── 悪魔で笑うか、フランス革命か。その二つが、どちらも完成形なんですね。
山本 うん。
── 『ベラドンナ』のクレジットに、カメラマンの森山大道さんの名前が入っているんですが。
山本 森山大道さんは、中間に挟む実写を撮ってもらったんですよ。で、結局使わなかったんです(苦笑)。
── 使わなかったんですか(※編注:「キネマ旬報」1973年7月夏の特別号の「KINEJUN 試写室」によれば、第1回目の試写では森山大道による実写パートがあり、その後、カットされたとある)。
山本 最初は使いたかったんですけどね。まったく現代の女の人なんですよね。現代の女の人が出てきてセックスシーンなんかあるんだけど。なんか合わないなあと思って。申し訳ないけど、お手紙出して、カットさせて貰いました。
── クレジットされてると言う事は、結構な量だったんですか。
山本 そうです、結構あるんですよね。
── 悪魔と契った後に、ジャンヌが花畑見たいな所で目覚めますよね。あのシークエンスは、林静一さんが描かれてるそうですが。あれはグラスペインティングですよね。撮影台の上で直に描きながら撮影して行く。
山本 あそこは彼に頼みました。まず、基本的な作画をして貰った訳ですよ。普通の作画で。で、「これでいい。これを油(絵の具)で描いて来れ」と言って。
── あ! そうなんですか!
山本 だから、元はあるんですよね。
── それを下に敷きながら、あたりをとって、描いてるんでしょうか。
山本 下に敷いては居ないだろうけど、元になる作画はあるんです。
── あのシークエンスは、色も含めて林さんに任せたって感じなんですか。
山本 そうです。
── それから、いろんなイメージがめまぐるしく展開するところですけど。電車が走ったり、写楽が出てきたり、ゴルフクラブを振ったり(笑)。あそこはどなたが?
山本 あれはね、タカちゃんっていう。名字は児玉……。
── あ! 児玉喬夫さん!
山本 そうです。児玉喬夫。
── 児玉さんが作画からやられたんですか。
山本 ええ。実写に換えてあれを入れてるんですよね。
── そうなんですか。実写がなくなって、あのシーンが入ったんですね。いずれにせよ、あそこに強烈な何かが欲しかったわけですね。
山本 そうです。

 

 

 

▲上の4枚が児玉喬夫が担当したイメージシーン。下の2枚が林静一の手によるグラスペインティングのシーンだ
 

 

 


英題は「Belladonna of Sadness」

 

 

 

 

BELLADONNA OF SADNESS - Official Red Band Trailer 

 

Belladonna (1973) 

 

Belladonna Of Sadness (Kanashimi No Belladonna) Songs with Vocals 

 

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毋は私によく言った「お前はミーちゃんになるのかい!!」母の親戚にはミーちゃんと言う凄く絵が上手い人が居て。何でも画伯の大家の処に弟子に行かせたらしいのだが、毎日炊事と洗濯で3年明け暮れても何も教えてはくれなかったと帰って来て仕舞ったそうだ。その人でも画家になれなかったのだからと言う事なのだろうけど、時代が違うのです。今は、と言うか1970年代半ばでも。そして丁度高校の頃に自分の書いた絵がニューヨーク批評家賞入選になった事がある。自然をちょっとシュールに描いたのだが、それがどう言う経緯かは解らないが。当時アメリカで入選に成り100万ほどの賞金と英語で書かれた賞状が学校から手渡された。そのUSドルの賞金は母が銀行で換金し生活費に当てた。そして高校生の頃。或る美術の授業の写生の時間に私は石を一つ描いて見た。しかしそれが自分で言うのもなんだけども、よく書けて居たので私はそれだけで満足して仕舞い。それ以上は何も書かずに提出した。そうしたら美術の先生から職員室に来る様に言われた。「〇〇君ね、あくまでこれは授業としての一環なんだからさ、君が上手いのは私も芸術家の端くれとして解って居るのだから、だから絵を完成させて下さい」と言われた。

 

しかし私はそれ以上何も書かなかった。するとやはり教職員会議に掛けられた。母が呼ばれて高校に行って来たので、「何言われた.....。」と聞いたら「授業の分担を逸脱しているのは良くはないのだけれども、この石、生きて居るんですよ。藝術的に見て悪く言い様が無い。だから優です」と言われたと言って居た。それ以来、母はミーちゃんの事は言わなくなった。処で、私は映画を本格的に勉強する映画養成所に興味があった。1980年代、黒澤明が映画養成所を設立したのだ。その入学テストがシナリヲの提出だった。近所に文房具店があり、そこで原稿用紙を40枚ほど購入しようとしたら、そこの親父が、「おいおい、何書くの、辞めれば、どこに出すんだか知らないけど、どうせ書いたって入選しないよ。買うの辞めな!!」と言うのだ。その男は帝京大学出身の、しがない男で唯一の自慢が、プロのジャズのクラリネット奏者に習って居るのを誇りとして居た。もう20年も習って居るのにアドリブも吹け無い手合いだ。人の事はすぐに貶した。「あそこの息子は高校しか言って居ないバカだ。」「あいつはロクでもない野郎だ」とか言って居た。何時か私が弟にアニメのチラシをコピーしに行って貰った処。「おい、なんだ高校生にもなって漫画とかアニメとか普通は小学生止まりだぞ!バカか!!」と皮肉を言われたと怒って帰って来た事があった。

 

 

私のハーモニカ・ソロです....。

 

 

処が、それから程無くその男は癌に掛かった。抗癌剤と放射線治療で痩せ細って髪の毛は一本も無くなって行った。自分も無いのに他人をとやかく言う男の哀れな末路だった。当時医大に通っていた弟が慰めの声かけをしてやったら、それ以来、弟の事を「先生」と呼ぶ様に成った。まさにデッド・エンドだった。私は原稿用紙にSFのシナリオを書いたが、やはり選考で落ちた。確かに現実は甘くは無い。最近になって引っ越しの片付けでそのシナリオの原稿が出て来たが....。一昨年、母の入院先の病院に7年ぶりに会いに行った。何を話しても何の応答もないので、少し不安になって帰って来たが。次の日になってケア・マネージャーから連絡があった。なんでも私は聞かされて居なかったが、母は手術をして居たらしい。(私は聞かされて居なかったので分からなかったのだが)なんと次の日、母は自力で4メーター程歩いたそうだ。姉がびっくりして、「一体弟は母に何を言ったのか?」と不思議がって居たそうだ。分かって居てくれたんだね母さん・・・・。最後に成ったが、認知症になる前に母がお前に渡したいお金があると言い出して、大金をくれた。どうやらボーナスを貯めてくれて居たらしい。その金のお陰で、今こうやって、働いても居ないのに7年間も暮らせて居たのです。しかしもう金は残り僅かだ。今年1年しか持た無い気を引き締めないと。それ以降は障害のせいで働けないから生活保護を頼るしかない.....。

 

 

 

 

 

 

 

 

==  哲学者「東浩紀」==

 

 

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東京三鷹市出身。学部時代の専攻は科学史、科学哲学であり、大学院時代の専攻は、哲学(現代思想、フランス現代思想)、表層文化論である。本人は「現代思想好きのオタク」を自認する。思想系の研究者としての道を歩む中で、情報社会論も専門として居るが、決して社会学者ではない。大学教員としては、東京大学大学院情報学環客員助教授、国際大学グルーバル・コミュニケーション・センター副所長・教授、東京工業大学世界文明センター人文学院特任教授。早稲田大学文学学術院教授などを歴任している。しかし、2013年3月に早稲田大学教授を退職して、同年4月以降は大学への所属はない。小説家でもあり、サイエンス・フィクション作家である。日本推理作家協会賞会員。

 

 

 

 

 

【徹底討論】インターネット変革、でもバカはバカ?(堀江貴文・東浩紀・宮台 真司) 

 

 

 

 

東浩紀の仕事は一貫して居る。彼は二十歳に下ろした批評「ソルジェニーツィン試論」から「存在論的、郵便的ージャック=デリダについて」を通過し、現在(とは言えもう過去の)の「思想地図ーアーキテクチャ」に至るまで、その一貫した仕事は、端的には人間、情報(より広範囲の)、構造(やや反復だが)に対しての興味に貫かれて居ると言えるのではないかと思う。その中で本書は彼の中心的出発点であると言える。(それは有る意味では、終点でもある。)

どう言う事か。彼は、当初、博士論文において「デリダとメディア」(「自由を考える」参照)との関連で様々な文献を調査して居た。その中で、博士論文として書き下ろしたのが本書であるが、本書を読めばいかにハイデッガーーデリダーフロイトにおいて東浩紀ー哲学者が見いだす存在論的脱構築、郵便的脱構築が我々の認識、欲望、構造に由来して居るかが分かるはずだ。

 

 

つまり、デリダの理論を通過し、無限の脱構築の世界に突入した彼は、極めて形而上学的な議論(デリダが形而上学的言説を脱構築しようとも我々の愚かな能力は再び形而上学する)の果てにポストモダンの社会を見事に描いて見せて居る。(かなり消極的にではあるが)改めて簡単に述べるなら、デリダの理論を有る意味では終点とし、開かれたポストモダンを新たな出発点(それも有る意味では終わりである)としたと言える。以上の事を受けての議論は「動物化するポストモダン」「東浩紀コレクション」「思想地図」等々のすべての著作において明確に具現化して居る。そう言った現代において、人文学が行き着いた先は自らの開かれた限界だった訳だ。(もしかすると、これはデリダが考えて居た脱構築の意味とは違うかも知れないが、)その現実を見つめつつ彼の行動を見ればすべてが理解出来るではないだろうか。(価値観は共有出来ないにしても、彼の議論は現実的だ。) 

 

 

 

==  「動物化するポストモダン」==

 

 

 

70年代までの「大きな物語」が有効だった時代に対し、80年代はイデオロギーや「大きな物語」が消失し、その空白を埋めようとして生じた「物語」消費の時代となった。しかしポストモダンが全面化した90年代に入るとそうした「物語性」ではなく、深層にある情報(データベース)とその情報の組み合わせである「小さな物語」を消費するというデータベース・モデルに移行したと言う事。

では、70年代までを支配した行動原理・世界観とはどの様なものだったのか。

東氏は「一方には、私たちの意識に映る表層的な世界があり、他方にその表層を規定している深層=大きな物語」があり、70年代までの近代的世界観では「その深層の構造を明らかにする」事が求められて居たのだと語る。

例えば自分たちの身近にあった裕福な家庭と貧しい家庭。こうしたものもかってであればマルクスによる階級闘争に歴史の1断片として取り扱う事も出来ただろうし、それを克服するものとしての「共産主義」が信仰されただろう。あらゆる「小さな物語」は背景にある「大きな物語」の表象であり、常に「大きな物語」とつながって居たのだ。

しかしこうした「大きな物語」に対する信頼は、ベトナム戦争や共産主義国家の現実、あるいは「連合赤軍」の終焉など、70年代を通じて失墜して行く事になる。

現実には「大きな物語」は凋落して仕舞ったものの、とは言え「大きな物語」を求める心性はそう簡単に無くなるものではない。例えば79年から放送され未だに根強いファンを有する「機動戦士ガンダム」。この「ガンダム」のファンたちは単に「ガンダム」のストーリーを追いかけて居るだけではない。その背景に広がる「世界観」こそを求めており、それこそが《架空の》大きな物語として消費されたのだ。

こうした状況を大塚英志は「消費されて居るのは、1つ1つの<ドラマ>や<モノ>ではなく、その背後に隠れて居たはずのシステムそのもの」だとし、このシステム=「(架空の)大きな物語」を消費する為に、1つ1つの「小さな物語」=「1話」やそれぞれの「商品」を購入する様子を「物語消費」と呼んだ。これが80年代のスタイルとなった。

しかしこのモデルはポストモダンの本当の姿ではない。連合赤軍が「理想の時代」の終焉を告げた様に「オウム事件」が「虚構の時代」の終焉を告げる事になる。

90年代に注目を集めたものとして「萌えキャラ」がある。こうした萌え系のキャラクターは、メイド服、ネコ耳、ネコしっぽ…。などの形式化した「萌え要素」の組み合わせで構成されており、オタクたちがそうした萌えキャラに「萌えた」のは、キャラクター(シュミラークル)への盲目的な没入や感情移入と同時に、その対象を「萌え要素」に分解しデータベースの中で相対化しようと試みたからだった。

「同人誌」やマッド・ムービーの制作など、本来の「ストーリー」とは別に、個々の要素を抽出・マッシュ・アップし、盗作やパロディやサンプリングとは違う原作と同じ価値をもつ「別バージョン」を生み出そうと言う欲望が背景にあったのだ。

此処にポストモダンの行動原理である「データベース消費」の構造が見られる。萌え要素のようなデータベース(大きな非物語)から必要な「情報」を読み込み、「小さな物語(シュミラークル)」を作り続ける。それは近代のツリー・モデルのように「小さい物語」の背後に「大きな物語」がある訳ではない、そこにあるのはあくまで意味を持たないデータベースであり、即時的な「小さな物語」が無限に生産・消費され続けるのだ。

こうした変化は「大きな物語」が失われた後に登場した「日本的スノビズム」から「動物の時代」へ移行したと言う事も出来る。コジェーヴによれは人間は「欲望」を持つが動物は「欲求」しか持たないと言う。「欲求」とは、空腹→食べる→満足と言う様に、ある対象の欠乏とそれを補う事で完結する単純な回路だ。これに対して「欲望」は満たされる事がない。

学校で1番の美人を彼女に出来たとしよう。それで満足するかと言うとそうではない。彼女に自分の事だけを思って欲しいとか、他人から羨ましく思って欲しい・自慢したいとか「他者の欲望を欲望する」という間主体的な感情を持って仕舞う。これを動物的な「欲求」と対比して「欲望」と言う。

かっての様に深層に「大きな物語」が存在しない以上、ポストモダンに生きる人々が「生きる意味」を与えてくれるのは表層の「小さな物語」だけである。データベースは意味を与えてくれない以上、そこから紡ぎ出される「小さな物語」によるお手軽な「感動」を楽しみ、感情移入するしかない。こうして「ポストモダンの人間は『意味』への渇望を社交性を通しては満たす事が出来ず、むしろ動物的な欲求に還元する事で孤独を満たして居る。」「世界全体はただ即物的に、誰の生にも意味を与えず漂って」居るのだ。


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今、この著を読み返す意味は、1つにはインターネットを含めた現代の状況を確認する事だ。此間読んだ「東京から考える」では、経済のグローバリズム化や消費社会の進展にともない都市そのものも動物化した時代に即した「ジャスコ的郊外」が広がって行くとあった。

確かにそうだろう。インターネット上でのサービス・IT技術の進展はそうした状況をますます加速させるのだろ。人は便利なものに慣れ、手軽じゃないないものは避けるかも知れない。エンターテインメント分野では1つの「ヒット」をもとに要素の組み合わせで無数の類似作品が生み出されるかも知れない。

しかし同時に20年代に来た今、それだけでは物足りない動きも感じられはしないか。コロナによる弊害から生まれるものも出て来て居る。

 

 

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今回は此処までです。読んでくれて有難う御座いました。更新出来たら、またお逢いしましょう。