皆さん。過去記事も読んで見て下さいね。よろしくお願い致します。このblogは障害を持った。ハーモニカ奏者のblogです。過去にはエレキギターも弾いて居ました。その事については、このまえのblog記事『バンド漂流記』にて詳しく書いて居ますので。まだお読みで無い方は一度読んで見て下さいね。私が演奏するのは主にブルースとジャズ。そしてロックです。では宜しく.....。

『マンガについて』
私は今日は調子が良く無いです。ですのでblogも精一杯で挙げて居ます。今回はマンガです.....。
年配の者がマンガを読んでいると60代やら70代は許せない。「若くも無いのに何事だ!!」と言う、これは偏見です。サブカルチャーは、最早、メインカルチャーになって居ます。“サブ”カルチャー」は、「“メイン”カルチャー」があって成り立ちますよね。「メインカルチャー」とは、「国民的で、王道で、誰もが知っている文化」。”それ以外に位置する、アンダーグラウンド。それが、「サブカルチャー」だがマンガを読んでいると60代やら70代がその事が許せない。「若くも無いのに何事だ!!」と言う、これも偏見です。此間blogに書きましたが。サブカルチャーは、最早、メインカルチャーになって居ます。“サブ”カルチャー」は、「“メイン”カルチャー」があって成り立ちますよね。「メインカルチャー」とは、「国民的で、王道で、誰もが知っている文化」。”それ以外に位置する、アンダーグラウンド。それが、「サブカルチャー」だった”。
今まで「メインカルチャー」とされて居た、「誰もが知っている事」は、曲を聴いてなくても、ゴールデンタイムで放送されるテレビを見なくても、まったく恥では無くなったと思います。逆に、「サブカルチャー」の。人が知らない専門的な事柄を知って居る事やら、研究して居る事の方が魅力となって仕舞った。
メインカルチャー。サブカルチャー。その各々の意味が無くなって居ますよ。各自が、個々で、自分のカルチャーを持つ時代ですよ。今は・・・・・。勝手のサブも今や、王道(メイン)であると言えます。自信をもって、人への共感や熱量につながる「文化」、、、それらはあらゆる思想種間のコラボであると言える今は、最早“次世代カルチャー”なのだろうと思います.....。
だから、今は"次世代カルチャー"の過渡期であろうかと思いますよ。いや、これからミレニアル世代とかが中年になったら・・・・・。最早、サブカルチャーは単にカルチャーですよ。要するに、、何でもありの時代だと思います。これからは、確かに今までのスペシャリスト的な発想を持って居るゼネラリストと言う事でしょうか?
私は数ヶ月前に62歳になりました。子供の頃から漫画は読んで来た。皆さん。漫画をバカには出来ませんよ。漫画が良く解らない人の為に漫画をあえて定義すると「遊びの心」を持って描いた絵と言う事になる。面白い漫画とは、「風刺」の精神がバランスよく含まれた絵だと言える。現代漫画はカートゥーン(一枚絵漫画)とコミック(ストーリー漫画)に大別できる。コミックは20世紀に入って映画などの影響を受けて世界的に発展してきたストーリーのある「こま漫画」である。漫画小説、連続漫画、絵物語、劇画などと呼ばれて来た。漫画の種類に付いては、この動画を見て下さい。
漫画の歴史②~あなたはどのタイプ?4つのタイプの漫画家たち(1947~1973年)
マンガ好きにガチでおすすめの雑誌ガロ入門
どうでしたでしょうか。漫画は幼稚ですか?私は中学時代に漫画研究会に所属して居ました。そして大学で哲学の教授から。手塚治虫の「火の鳥」と白土三平の「カムイ伝」は絶対に読んで於と言われました。その他に、私は月刊漫画誌の「ガロ」で、「つげ義春」「永嶋慎二」などを知りました。また一般誌からでも永井豪の「デビルマン」などの芸術性がある漫画を読みました。変わった処では、心酔して居る。押井守が書いた「とどのつもり」と言う哲学的な不条理漫画も読んで居ますよ。星野之宣やら諸星大二郎、また萩尾望都などの漫画は血肉になりました。
私が高校の時に描いたヘタクソな漫画です....。

ガロの時代
「坂口尚」の所有して居る。単行本。希少本です....。

そして演劇もです。つかこうへいなどは1970年代から1980年代にはよくテレビで放映してくれて居たので。よく見て居ましたよ。
「戦争で死ねなかったお父さんのために」劇団つかこうへい事務所(音声のみ)
60年代後半から70年代にかけ日本のカルチャー史に濃厚な足跡をのこした“アングラ”文化。展覧会や書籍、記録映像で、その表現に触れ影響を受けた方も多いと思います。当時の担い手たちには伝説的な大御所も含め、現役の作家やグループも数多い。高円寺駅、中野区大和町の「劇団唐組」アトリエ。1967年の「紅テント」での状況劇場の野外公演を皮切りに、寺山修司らとともに“アングラ演劇”の代表格として名をあげ、脚本・演出・役者のみならず文筆家としても知られる唐十郎が率いる劇団だ。根津甚八、小林薫、佐野史郎といった役者から、横尾忠則、篠原勝之、赤瀬川原平といったアーティスト、山下洋輔のような音楽家など、唐十郎の芝居に関わった表現者は枚挙にいとまがない。
そして寺山修司。。。最近また彼の演劇が再演されて居ますよ。
また、子供の頃に見たテレビ番組。。。。
そして子供の頃のアニメ。。。。
色々と観て来ましたよ。最近の若者たちはパソコンのおかげで過去の事も知ろうと思えば知る事が出来る時代です。いや、老人たちもですよ。私の処に書き込みをくれる70代の女性やら、私がよく書き込みをする80歳ぐらいの女性。70代の男性などは、このパソコンで人生を楽しんで居ますよ。私は何時の日にかは、このITによる情報革命で、年齢差は無くなりは仕無いけど。いずれは学業なども一律、皆んなが学べる仕組みが出来ると思って居ます。さて、こう話して来て、幾分気持ちが安らいで来ました。飲んで居る薬が殆んど変わりましたが、眠気はまだあります。さて、話の序説は此処までです。これ以降。今回は映画やら歌手についてのエッセイ。ハーモニカ・アンプの記事へと続きます。それではお読み下さいね。
薬の効用で意識朦朧のkiyasumeです。。。。

今日は、近所にある。ファミリー・レストラン「ジョナサン」に行って来た。まあ、メニューが、ダブレットで選んで頼む様に成って居る。今日は。久々、ステーキが食べたく成って。久し振りにリブ・ステーキを食べた、添え物はパンと野菜サラダだ。後、カフェモカを頼んだ。






KEITH「さすらい」 歌 原田芳雄
休養中のkiyasume .....。寝起きです......。、

此処まで書いて来て、また調子が悪く成って来た。眠いので暫く横になろうかな。
ああ、本も読みたいのが数冊溜まって居るし。漫画も出し。テレビも見られて居無い。ブルースハープの練習も出来ない......。何も手につかず寝ては喰い寝ては喰い、こんなに食べても食べてもお腹がすくのは薬の副作用ですよ。もの凄く腹が空くんですよね。だから病院側で栄養指導を受けていますよ。それでもダメだけども.......。
『若松孝二とはどう言う映画監督か?』
カンヌ国際映画祭の批評家週間に出品された若松孝二監督の「11、25 自決、三島由紀夫と若者たち」が、仏『ルモンド』紙(5月26日付電子版)で酷評されて居たのを読んで、「やっぱり」と思った。
記事はジャック・マンデルボームというベテラン映画記者が書いたもので、見出しからして「失敗したクーデター、失敗した映画」という否定的なもの。ネットで見た限りではほかの新聞や雑誌には短い評しか見当たらないし、こういうものは日本で紹介されないと思うので、一部引用する。
「三島の政治的な捨象は、この人物の持つ意味を否定するかの様だ。三島はまるで趣味の悪い芝居のように演じられて居る。たぶんこの極端な儀式性こそ若松が見せようと思ったのだろう。しかし三島を(作品についても、家族関係についても、武道の理想と同性愛の間の緊張関係についても一切触れず)、狂信的な漂流者としてのみ描いたために、この人物の複雑な魅力が描けなかった」
その後に「最小限の演出の純度の高さやドキュメンタリーと再現ドラマの混淆、映画のコードを大胆に破る形式など、何時もの若松の豊かな表現も、今回の障害は越えられなかった」と締めて居る。
この記事の論理は単純だ。三島は偉大である。若松も(三島ほどにでは無いにしても)、重要な監督だ。処が若松は三島の魅力をファシズム的側面に限定した為に、失敗して仕舞った、と言うもの。フランスに於いて、1980年代までは(つまり大江健三郎がノーベル賞を取り、その後村上春樹が流行する前は)、日本文学と言えば、まず谷崎潤一郎、三島由紀夫、川端康成の3人だった。現在でも三島由紀夫の小説の人気は高い。一方、若松孝二も国立ポンピドゥ・センターで全作品上映が企画されるなど、フランスではすでに最早巨匠の扱いだ。記事は、今回はアプローチを間違っただけだとし、若松自体の才能は否定して居ない。
『11・25、三島由紀夫と若者達」の映画本編です。ノーカットです。ゆっくりとご覧下さいね。
この映画の公開当時、三島由紀夫の楯の会生き残りが、あるパーティーで若松孝二に礼を言って居たそうだ。。。「素晴らしい映画を撮って貰い、ありがたいです。感激しました。三島先生、森田必勝さんも喜んで居ると思います!」と口々に言う。森田必勝氏は「楯の会」学生長で、三島由紀夫と共に自決した。25歳だった。若松監督の『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』は、森田氏ら若い青年たちの、国を思い、決起へと思いつめる様子が実にリアルに描かれて居ると元「楯の会」の人たちが言って居たそうだ。
「左翼の若松監督が三島先生や森田さんの映画を撮ると言うので、心配だった。左翼の人なんかに分かるはずはないと思って居た。でも、映画を見て驚いた。先生や森田さんたちの気持ちが一番分かって居る。感激しました。」と。若松監督は、「左翼」と思われて居るが、左翼・右翼などと言う小さな区分はとうに超えて居た。パレスチナには何度も行って居るし、日本赤軍の人たちとも親しい。映画『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』を撮った。だから「左翼」と思われて居る。処が今度は三島だ。「我々の仲間だと思って居た監督が、どうして右翼の映画を撮るのだ?」と左翼の人々は戸惑った。右翼の人たちだって反発した。右翼にとって三島は神だ。「それを左翼の監督が撮るなんて」と思い、「許せない」と口走る者も居た。「そんな連中など、全て敵に回してもいい」と思い、若松監督は撮った。勇気のある人だ。周りは皆、敵だ。支援する人は居ない。そんな状態で映画を撮ろうと思う人は居ない。ただ一人、若松監督だけだ。
三島や「楯の会」に対する単線的、表面的な見方に我慢がならなかったのだろう。右翼的な三島が、右翼的な青年たちと、右翼的に思いつめて決起した。そんなものではない。全共闘への共感もあり、失望もあった。「よど号」ハイジャック事件、金嬉老事件、ベトナム戦争……。そうしたものが、つまり、あの時代が三島や若者たちを突き動かした。あの時代の若者たちの愛や夢や理想を描きたかった。それは左翼や右翼を超えてあったものだ。
『11.25自決の日』の中で、「よど号」ハイジャックのニュースを見て、三島が「先を越された!」と叫ぶシーンがある。これは事実だ。その事を聞いた「楯の会」の人間を、撮影前に若松監督に紹介したそうだ。今の右派的な若者は言った。「我々の尊敬する三島先生が左翼なんかに好意を持つはずがない。“先を越された”と叫ぶはずがない」と。しかし、そんな「左右のくだらない区分」を超えて居た人だ。三島は。そして若松監督も。若松孝二監督が死去してから約5年半、若松プロダクション再始動の第1弾として「止められるか、俺たちを」が製作された。今作のメガホンをとったのは、若松プロ出身で現在の日本映画界を牽引する白石和彌監督。主演を門脇麦、若松孝二役を井浦新が演じた映画は1969年、若松プロダクションの門を叩いた少女の眼差しを通して、「此処では無いどこか」を探し続けた映画人たちの怒涛の生きざまを描く。
くしくも、この日は若松監督生誕82周年となった。白石監督は、「まさかの若松プロを舞台とした青春映画を恐れ多くも監督しました。この映画は僕にとっての英雄譚であり、僕自身の物語でもありました」と語って居る。そして、「井浦新さんが若松孝二だとカッコよすぎると思ったあなた、ぜひ見て下さい。俳優って、新さんって、凄いなと思うはずです。そしても門脇麦さん。もう言う事ありません。麦さんを通して、この映画があなた自身の物語になる事を切に願って居ます」とキャスト2人を称えて居る。
門脇は、若松プロの助監督・吉積めぐみ役を熱演。「私は若松監督にも、勿論、当時の若松組の皆さんともお会いした事がありません。そんな中、白石監督をはじめ、若松組をよく知る皆さんのもと、当時の皆さんの背中をひたすら必死に追い求めながら挑んだ作品です」と撮影を振り返る。また、「スクリーンの中の彼らは青春を生きる若者の姿そのもので、とにかく輝いて居て、胸が熱くなりました。私はこの先何度も彼らに会いたくなって、この映画を観るんだろうなと思います。この出会いは私の一生の財産です」と思いを馳せた。一方、井浦は若松監督本人に扮した。ベルリン国際映画祭で最優秀アジア映画賞と国際芸術映画評論連盟賞のダブル受賞を果たした「実録・あさま山荘への射程」への出演をはじめ、「11、25 自決・三島由紀夫と若者たち」では主人公の三島を熱演。12年に若松監督が他界する直前まで行動を共にし、告別式では弔辞を読んだ井浦。それだけに、「若松プロの集結した親しい顔ぶれ、真新しい風を吹かせた若者たちと、むちゃくちゃで幸せな夢を見た。ただただ感謝しかありません」と、短いながらも若松監督に対する今も冷めぬ“熱情”をにじませるコメントを寄せた。若松プロ出身の井上淳一が脚本を執筆した今作は、原宿セントラルアパートの一角にあった若松プロダクションが舞台。青春を映画に捧げた若者たちの、むき出しとも言える生のグラフィティに肉迫する作品です。
井浦新、白石和彌監督、井上淳一(脚本)『止められるか、俺たちを』名古屋舞台挨拶REPORT
1960年代当時、最も過激な映画を撮って居たのが若松孝二だった。若松さんは元々、左翼ではなかった。1936年、宮城県涌谷町出身。地元の農業高校を二年で中退。家出し上京してからは、職人見習いや新聞配達、ヤクザの下働きなどを転々とした。1957年、チンピラ同士のいざこざから逮捕され、酷い取り調べを受けた。そして、反権力的な映画を通じて警察への怒りを表現しようと考え、映画の世界へ踏み込んだ。監督デビュー作の『甘い罠』は、まさに警官殺しの映画になって居る。監督として有名になってからも、自ら交通整理をしたり小道具の料理を作ったり、手と身体を動かさずには居られ無い人だった。脚本や企画書を数本、何時もカバンに入れて持ち歩き、最後まで、新作を撮ることに意欲的だった。
私は若松孝二監督に付いては原田芳雄さん主演の「キスより簡単」「シンガポール・スリング」そして私が大好きな芳雄さんの映画「われに撃つ用意あり」と「寝取られ宗介」で知っていた。若松監督の初期作品は「東京マッド」をDVDで所有して居る。そして、「実録・あさま山荘の射程」「キャタピラー」「11,25、自決の日・三島由紀夫と若者たち」と最近の話題作は映画館で見て居る。特に「11・25、自決の日・三島由紀夫と若者たち」では若松監督と会い、話もした。監督はスタイリッシュでもう歳なのに、これからまだまだ映画を撮るぞと言った感じだった。ああ、この映画のBlu-rayを持って居るのだが、此間の引越しの時に。業者の若いのが、ラックにわざと入れなかった事があった。彼は三島が自決した当時を知らない。恐らく、自決した犯人と言う認識なのであろう。三島由紀夫自決当時、私は12歳だった。子供心に当時のきな臭い事件として記憶して居る。あの当時は世相が揺れていた時代だ。次々と事件が起こり、そして1960年代の亡霊を拭い去って1970年代に入って行ったのだ。最近の若者は大人しいが、一歩間違えると大変な事件を起こす。三島は主義主張があった。だが今の若者は、世間を変え様とするのではなく、世間を憎む。だからこそ、反権力を謳った若松孝二の映画が身に染みるのです。
圧倒的な存在感と行動力で、古き慣習の残る日本映画界を切り開いてきた若松孝二監督は2012年10月に急逝されました。しかし、巨頭死しても魂は死なず! 映画を志す若き人たちと積極的に交流を持って来た若松監督には多くの「若松学校」卒業生がおり、新たな道を作るべく奮闘して居ます。皆さん若松監督が撮った映画を見ましょう.....。
『浅川マキ』

歌手,作詩家,作曲家。石川県に生まれる。1968年,寺山修司に見出され新宿のアンダーグランドシアター蠍(さそり)座で初公演。1969年,《夜が明けたら/かもめ》でレコード・デビューした。ビリー・ホリディ,ベッシー・スミスなどの影響を受け,自作や寺山修司などの作品だけでなく,ジャズ・ブルース・黒人霊歌・シャンソンを独自の日本語詩で歌った。〈時代に会わせて呼吸をするつもりはない〉と自ら表現,CDの音質を嫌い独特の美意識に貫かれたアンダーグラウンドの音楽活動を終生続けた。
浅川マキ 「ふしあわせという名の猫 (歌詞付) 」
マキと親しかった作詞家の喜多條忠が語る。「マキは何時もカネが無かった。事務所にバンス、バンス。サラ金から2回50万を借りて、20年かかって返したりした。しかし、皆んなが言う通り、見事な生き方で見事な死に方でした。わたしには、ずっと姉御でいい女でした」マキは麻布十番のマンションの4階1LDKにひとりで暮らした。ベッドの空間を除いて、本とレコードとCDがあふれ、歩くのはその隙間の踏み分け道。冷蔵庫は、外のベランダ。テレビは音だけしか出さなかった。この頃、浅川マキのステージは、少ない年はたった10日しか歌わないことがあった。 バックバンドへの支払いは即日。ほとんどマキの手許に残ら無い事があった。最後の新作アルバムは13年前の1998年だった。長野オリンピックがあり、和歌山毒入りカレー事件が起きた。
印税収入があるとは言え、生活は厳しく、清貧だった。マキのプロデューサー・寺本幸司氏は、最後になった名古屋の満員の客入りで勘定した。「ワンドリンク代を引いて6,000円。満員70人だから42万円。これが3日間。メンバーのギャラ、足代、宿泊料を引いて約40万円残る。これで3か月は暮らせるな」
♫ 赤い橋 ♫ 浅川マキ
マキの写真を撮りつづけてきた田村仁氏にも思い出は尽きない。マキが近所のスーパーで惣菜を買う。切り干し大根、小松菜のおひたしの50円パック。あるいは、黒いコート、黒い野球帽に100均のビニール袋を持ってタクシーに手を振る。誰も止まらない。ホームレスに見えたからだと田村は思った。極度の近視で木にぶつかり、左目に網膜剥離を起こした。すぐに手術すれば完治する。だが公演を間近にして、手術は1か月後、結局、失明した。「思うように生きて来たから、左目を失ってもいい」と思ったと周囲に話した。さらに、残された近視の右目も酷使により、没する前は殆んど見えなかった。部屋の踏み分け道を手さぐりで歩いた。それでも死んだ年にはライブや新曲など、新たな浅川マキを生み出そうとして居た。
Yo Ga Aketara
浅川マキさんの死因については、急性心不全と言う事でした。亡くなった場所は名古屋のホテルで、なぜ名古屋を訪れて居たかと言うと、ライブの為でした。遺体となって発見された日も夜からライブを控えて居て、時間になっても本人が会場に訪れないので不審に思いホテルを訪問し風呂場で裸で倒れて居る処を発見しそのまま死亡が確認されました。前日も名古屋でライブを行い、上手く行った様で上機嫌でホテルへと帰って行った様なので、突然急性心不全を起こし亡くなった物だと思います。また、薬を服用して居たが持病があったとは聞いて居ないし、何処かにぶつけた様な跡もあったと言われて居ます。浅川マキさんの性格は、本当はとても明るい人だったのでは無いかそう言われて居ます。歌って居る歌はとてもアンダーグランドで、その歌を聴いた人を自分の世界に引き込む事は得意で、一度ファンになると中毒性があると言われて居ます。
Maki Asakawa 浅川マキ 「 かもめ(歌詞付) 」
また、ステージ上で見せる姿は歌手浅川マキとしての姿であり、普段の浅川マキは明るい性格の持ち主で、ステージ上ではじけるときもあった様です。また評判はすこぶる良い様でした。
もう亡くなって仕舞いましたが、演出家の寺山修司さんも浅川マキさんのファンで、歌を聴いた瞬間に体に電流が流れて。その世界に引き込まれたようです。また、アンダーグランドの歌手なのかと思えば、メジャーレーベルとの契約もあり新作をリリースするルートはしっかりと作られて居ました。ミュージシャン仲間は惜しい歌手を亡くしたと口を揃えて語るだろうと思いました。病気を抱えながら歌手活動を行って来た訳では無く、突然亡くなって行った訳だから。それだけに良い想い出しか残らないのではなかったかと感じています。
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『Guyatone Harpist HP-300A (ハーモニカアンプ)』
私も愛用のアンプです。。。。
このアンプは、ブルース・ハーモニカ・プレイヤーの妹尾隆一郎氏を中心に、八木のぶお氏、続木力氏、そして私、この4人での監修。1994年頃、ビンテージ・マイクから現行のマイクまで使用できるようにとのコンセプトで制作。アンプ製作中に、あくまで個人的な意見だが、“トーンがまろやかすぎるので、Hi・Mid・Low全体を、もっとエッジの利いたはっきりしたトーンに出来ないか?”という意見に対しエンジニアの方は「簡単に出来ますよ」と答えてくれたが、特に何もしなかった様だ・・・。
(東京サウンド)石川二三夫氏談。
2012-10/27@BT 小出斎and石川二三夫 。blues Duo Live
20180805 四谷三丁目 ブルーヒート 6 石川二三夫さん オンステージ!
過去に教則ビデオも出していました。

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『アントニオ・グラムシ。「ヘゲモニー概念とは」』
ヘゲモニーとは、人々による合意にもとづいた覇権や支配権のことをさす。この言葉の語源はギリシャ語のヘーゲスタイつまり、都市国家による別の国家や農村の支配のことをさして居た。イタリアのマルクス主義思想家・運動家のアントニオ・グラムシ(Antonio Gramusci, 1891-1937)は、強制や恐怖による権力支配とは異なり、人々の合意による権力掌握のことについて指摘し、それをヘゲモニーとして称した。
さて、グラムシによるヘゲモニー理論の事を理解する為には、彼の政治的信条と実践の原理であったマルクス主義(共産主義)と、当時の共産主義の状況、さらにはイタリアのファシスト政権の樹立などの事を考慮すれば解りやすい。マルクス『ゴータ綱領批判』(1875)では、革命の過渡期における「労働者階級=プロレタリアート」が権力を掌握し、政治支配を確立する統治のアイディアが構想された。いわゆるプロレタリアート独裁についての考え方である。この政治支配は、ロシア革命の政治権力の確立のプロセスにおいてにおいてウラジミール・I・レーニン(1870-1924)により一種のドグマ 的正当化に成功した。此処で興味深い事は、レーニンはヘゲモニー(ギリシャ語的語源のとおり「政治的支配」)をプロレタリアート独裁と同義語として使って居たと言う事であり、この用語法はやがて使わなくなる。しかし1918年にはドイツのK.カウツキー(1854-1938)は、プロレタリアート 独裁は、ソビエトによる一党独裁にすぎない事を喝破して(=今からみれば当然の批判の事ながら「革命の遂行」と言う使命感に燃えて居たソビエトからみれば裏切りと思われ、レーニンは口汚く批判した)、カウツキーは社会民主主義の立場を明確にした。
他方、グラムシは、イタリア社会党を経由して、1921年にイタリア共産党の結成にかかわり、翌年から1年ほどモスクワに滞在し、その直後亡命先でイタリア共産党書記長になる。ファシスト=ムッソリーニ政権下で下院議員に選出されると、議員は逮捕を免れると言う特権を利用して帰国するが、最終的にはその特権が剥奪されて1926年より禁固刑に処され、1937年まで収監される。グラムシは、獄中での論文等の執筆が許され、そのなかでサバルタンやヘゲモニーに関する論考の断片が記される事になる。グラムシによれば―― 自分の足元を掬ったファシスト政権の存在もあり――イタリアにおける政治支配の問題は、ロシアほど単純であるとは思われず、[共産主義者のみならず反共産主義の勢力の]支配の形態は複雑であった。つまり、政治を通して支配関係を確立すると言う事は、力ずくの暴力だけでは無く(=この点はプロレタリアート 独裁における単純な暴力観からは離礁して居る)、文化、道徳さらには教育というプロセス、さらには市民社会の確立や民主主義と言う政治制度(=この点では レーニンよりもカウツキー的な社会民主主義的な政治権力掌握の概念に近い)が関係して居ると理解した。
ただし、グラムシのヘゲモニーに関する議論は、むしろさまざまなノートの断片のなかに登場し、彼自身も(学位論文の様に)一つのまとまった議 論としてまとめる(ブルジョア的?)と言う気持ちも無かった様で、グラムシのテキストのどこかに「グラムシのヘゲモニー論」があると期待すると失望する事になる。また後のグラムシ研究者がヘゲモニー論として、その価値を取り出そうとする議論の多くは、贔屓の引き倒しのものが多いので、ノートから読者の 創造的解釈によってヘゲモニー論に新しい生命を与える方がより生産的であろう。ヘゲモニーの理論では、主体性を持つ人々が、なぜ意見を異にする勢力や権力に従属するのかと言う事について明らかにする。すなわち同意をもとに活動に参加して居ると感じている主体は、その活動がもつイデオロギーを実践を通して内面化し、全体の活動に「従属」すると言う事が可能になると言う事だ。これは、強制的な権力により従属して居る事でも無く、また処罰や恐怖によって主体性のある人をある事に従わせる事でも無い。
大衆動員が、参加者全員による合理的な理解によって可能になって居るのでは無く、その動員を正当化するイデオロギーに対して合意して居るのだと言う共同体感のみによって従って居るかも知れない。政治的支配や統治について、文化、道徳および教育が深く関わると言うアイディアは、のちにルイ・アルチュセール(Louis Althusser, 1918-1990)「国家と国家イデオロギー装置」の議論で興味深い展開を遂げる。また、文化研究(カルチュラルスタディーズ, Cultural Studies)において、スチュアート・ホール(Stuart Hall, 1932-)は、この研究領域における重要な鍵概念として、としてグラムシのヘゲモニーと、アルチュセールのイデオロギー論を挙げて居る。

今回は此処までです。読んでくれて有難う御座いました。調子が良かったらまた更新します。それまで宜しく。また逢いましょうね。


