普通の夫が妻を追い詰める:映画『82年生まれ、 キム・ジヨン』 | 本と映画と。

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好きな本(日本の小説、英語の小説、韓国の小説)のレビューを書いていく予定です。映画のレビューもときどき。

 原作をはじめて読んだときにはピンとこなかったのですが、韓国の文学や文化について知るうちに改めて興味を持った作品です。

 結婚して育児のために仕事を辞めたジヨン(チョン・ユミ)に、ある日異変が起こります。自分の母親が憑依したような口調で、夫の母に「奥さん」と語りかけ、正月ぐらい実家に娘を返して欲しい、と訴えたのです。

 あっけにとられる親戚一同。夫(コン・ユ)は「ジヨンは具合が良くないんだ」と説明して実家を去ります。ジヨンにはその時の記憶がありません。

 妻が産後うつなのではないかと考えた夫は、ジヨンに精神科の受診をすすめますが、自覚症状がないジヨンは乗り気ではありません。近所のパン屋でアルバイトをしたいと言いますが、夫のデヒョンは妻の体を気遣い、無理に働かなくていいと提案を退けます。

 ジヨンの代わりに精神科に通うデヒョンでしたが、憑依の原因は分かりません。しかし映画を見ている視聴者には、ジヨンが別の人格に変異するのは、男尊女卑社会の理不尽に深い絶望と憤りを感じた瞬間であることがわかります。

 息苦しいワンオペ育児の毎日から抜け出し、社会復帰をしたいと望みながら社会制度や世間の意識という壁にはばまれ、倦んでいくジヨンと、妻が心を病んだ原因に思い至らず、妻の症状を本人に告げることもできず、妻が失われてしまうのではないかと怯える夫。二人のすれ違いは、愛情の有無ではなく、男女という立場の違いに起因うするのだということが、はっきりと描かれています。

 ジヨンの元上司の女性が独立して設立した会社で働きたいというジヨンに、「君が幸せなら僕も幸せだ」とデヒョンは言い、子どもの預け先が見つからないならば自分が育児休暇を取ろうと決意しますが、デヒョンの母がそれを聞いて激怒し、ジヨンの社会復帰は立ち消えになります。

 打ちひしがれるジヨンのもとへ駆けつけた実の母は、ジヨンが祖母の人格に憑依して語るのを目の当たりにし、衝撃と深い悲しみに襲われます。兄たちの大学の費用を工面するために教師の夢をあきらめ、工場で働いた経歴をもつ母は、ジヨンの一番の理解者であり、支えてくれる存在でした。その母がジヨンのことをもっと気に掛けるべきだと封建的な考えで息子ばかりかわいがる夫を非難し、娘の窮状を訴えたことから、ジヨンの父と弟の意識も少しずつ変わり始めます。

 女性であるがゆえに能力があっても仕事を続けることができず、仕事をしていても、育児との両立が難しく、男性と同じように出世することは叶わない社会。専業主婦は「ママ虫」と呼ばれ、夫の給料で楽をする、社会のお荷物的な存在として揶揄される社会。韓国ほど露骨ではないにしても、日本社会も本質はよく似ているように思います。

 主人公のキム・ジヨンという名は、1982年に最も多かった女児の名前で、1982年生まれという設定は、IMFショックのあおりを受けた代表的な世代の子供、という意味なのだそうです。

 登場人物、とりわけジヨンの夫が「普通のいい人」である点が、この映画の怖いところです。酒乱でも、ギャンブル好きでも、浮気性でもなく、ただ封建的な社会で生まれ育った平均的な(むしろ平均より思いやりのある)男性が、これほどまでに妻を苦しめる。それが実在する一人の人間の実話としてではなく、韓国社会の総体として、「統計に基づく事実」として描かれているのです。これほど説得力のある語り口はありません。

 夫、夫の母、妻の父、妻の弟。彼らの意識の奥の奥にまでしみ込んだ男尊女卑の考え方は、そう簡単に変えられるものではなさそうです。

 それでも、この映画を観た人は、何気ない発言の一つ一つが自分らしく生きたいと願う女性の精神をじりじりとむしばんでいくさまを目撃することで、意識改革を迫られます。

「閉じ込められていて、出ようとしても扉が次々と現れる」「出口なんて最初からない」と語るシーンで、チョン・ユミ演じるジヨンの、絶望しきったような乾いた眼差しが印象的でした。

 コン・ユの、いやみのない演技も素晴らしい。ただ水のように画面に存在できる稀有な俳優さんだと思いました。

 男女の格差に悩む人にも、その他の社会の壁に悩む人にも、きっと新しい視点を授けてくれる1本です。