どうも! 青羽シナリオラボリーダーの上坂涼です。
今日はネタ提供シリーズということで、団扇について紹介させていただこうかなと思います。
自分は団扇に限らず、趣のあるものが新しいものや便利なものに淘汰されていってしまうことをとても憂いでいる人間です。
確かにエアコンの方が性能も便利さも上ですし、いちいち手で扇ぐ必要もないから疲れなくて良いです。それは間違いないです。
けれどけれど団扇があると、なんかテンション上がるんですよ。
自分の力加減で風の力が変わるのも、風を発生させる場所を決めることが出来るのも嬉しい。強風設定の扇風機を顔面に向けられるより、団扇で風を送られたほうが「くそー!」ってなる。
やっぱり全自動よりも手動の方が『人の気持ち』がこもるということだと思うんですよ。便利に生きようと工夫するのと、怠け志向は紙一重。
便利なものは便利に扱っていきつつ、それと同時に『不便を楽しむ』ということも忘れちゃいけないなと僕は思うわけです。
さて。団扇の歴史はとても古く、古墳時代に中国から伝わったとされています。
当時は翳(さしば)と呼ばれていて、扇ぐ用途ではなく、儀式の道具として使われていました。
で、鎌倉時代あたりから偉い人達が、威厳ある立ち居振る舞いをするための道具として団扇を使い始めたそう。
あれですね。格式ある女性が口元を扇子で隠して「オーホッホッホ」とするみたいな感じですね。
はしたなさをオブラートに包むため、私は慎んでいますよというポーズのために使用していたっぽい。
団扇が現代の団扇の用途で使われ始めたのは、江戸時代から。
暑さをしのぐために扇いだり、火おこしのために利用したりと用途は多くあったよう。
なんかこの当時は画期的なスマート便利グッズだったのかなと思いますね。
江戸時代の国民に団扇が親しまれていたんだろうなあと感じさせる用途として、絵が描かれた団扇が流行ったことが挙げられます。
それはなんと浮世絵、歌舞伎役者、美人画といったものが描かれた団扇です。
お気に入りの役者の団扇を手に、遊び場へ出向くのが粋だったそう。完全にアイドルうちわですね。笑 なんか良いなあ。
完全に江戸時代のうちわはステータスというか、自分の色を見せるためのプロフィール写真というか。ツイッターのサムネだったのかなと思います。
「あっ! 兄さん、それ最近流行りの『北斎』が描いた神奈川沖浪裏じゃねえの!? いいなぁ~、俺っちも欲しいなあ~。いったいどこで手に入れたんで?」 的な。
あれ、あんまり現代と変わらなくない? なんか江戸時代って楽しい時代だったんだなあと思います。
現代のような団扇に広告を載せるスタイルになったのは、明治時代から。
それから昭和にプラスチック団扇へと主流の姿を変えて、今日の今日まで世界の誰かの顔に風を送り続けているというわけです。
ちなみに団扇の語源ですが、中国語から来ています。
中国語で丸いという意味である「団」という漢字と、観音開きの開閉の際に風が生じる様子を表した「扇」という漢字を合わせ、「団扇」と呼ばれていたそうです。
一時期は、害を羽で打ち払う意味合いから「打羽」と呼んでいたそうですが、次第に中国語の「団扇」の方で浸透していったとのこと。
今回はこれぐらいで終わりにします!
団扇良いなあ。と思っていただけたら幸いです。
自分も木製の団扇とか、カッコいい扇子とか欲しくなってきました。使う使わないは置いておいて、なんか粋じゃないですか。コレクションとして欲しい。うん。
★参考にさせていただいたサイト様
どうも! 青羽シナリオラボリーダーの上坂涼です。
今日は物書きにとって散歩がいかに素晴らしいものなのかお話ししようと思います。
よく煮詰まったときに散歩をするのが良いと言いますが、なんの気もなしにふらっと散歩したところで、ちょっぴり気分転換が出来るくらいです。
そんなことではいけません。散歩の神が泣いて雨を降らすでしょう。
もちろん頭を空っぽにしてぶらりぶらりと彷徨うのは良いものです。気分転換を目的として散歩するのならばそれでも問題ありません。
しかし煮詰まった現状を打破するために散歩するのであれば、思考を空っぽにして彷徨うのはゾンビも同じ。家に帰ってきてから人間に戻ったところで、煮詰まった状態に戻るだけです。
そう。簡単な話なんです。
人間のまま散歩をするだけ。
どういうことかというと、周囲の変化を楽しもうということです。これぞ散歩の神髄。
『散歩は周囲の変化を楽しむべし』
これだけ覚えてもらえれば、もうここで読むのをやめてもらっても大丈夫なくらいです。
さて、人間は『変化』というものに刺激を受けます。
先月にはなかった新しいお店がオープンしている。
小さな神社の社のお供え物が「大福」から「あんぱん」に変わっている。
道端に咲いていたタンポポが刈り取られていた。
錆びたポストがさらに錆びていた。
隣の犬の毛が短くなっていた。
『変化』を目の当たりにしてしまえば、ああだこうだ考えてしまうのが人の性。これが散歩をする上で実に大事なんです。
煮詰まる原因の大部分は、心の貯蓄が無くなってしまったからだと私は思っています。
心の貯蓄を言い換えるならば、『想像、妄想することによって溜まっていく物書きのガソリン』のようなものです。
我々は日頃の生活で感じたことを、頭の中でこねくり回して楽しむ人種。こねくり回したことを人に伝えたくなる運命。
「前の店の売上悪かったもんな。人気商品として○○とか出してたらまだ潰れてなかったりして」
「あんぱん置いたやつ誰だよ。笑 いつも大福だったし、子供のいたずらか? だとしたらどんな理由が」
「道端のタンポポを刈り取る理由ってなんだ? 生け花で急に必要になった?」
「このまま錆びていったら、どうなるんだろう。だんだん朽ちて穴が空いたりするんだろうか」
「モフモフの犬っていろいろいるけど、全種類の毛を剃った姿見てみたいな」
そう。
散歩はこうして景色の変化を発見して楽しむことができます。それは心の貯蓄にも直結するので、再び書く意欲が湧き、そしてそれが沸いてくるものです。
こういったことが小説のネタとしてもストックされるので、良いことずくめ。
皆さんも煮詰まったら、なにか新しい発見がないかなと外へ散歩へ繰り出すことをオススメします。
現状を打破できるアイデアないかと、一点集中では出かけないこと。
面白いものを探しに行くような冒険する感覚で散歩することがコツかなと思います。