おはようございます、キヌコです!
人生で初めてスノボ
をしに来ています

最後に雪山行ったのが14年前で、小学生の頃の家族旅行でしたね。
この歳になると家族旅行行く人は減っていますが、行ける時に行くべし!
家族の思い出の場所は必要!
と思います。
家族でこんなに楽しい事をしたなと思うと幸せに気持ちになります。
それでは長くなりますが、私の高校生生活と母親の闘病生活をどのように過ごしていたかを記していきます。
〜高校二年生夏休みから〜
母が入院をして1ヶ月経ったくらいの頃、
私は部活の練習中に靭帯を切る大怪我をしてしまいました。
そこから2週間は松葉杖をつきながら毎日母親の所へ行ってました。
ある日、
『なんで私はこんな目に遭わないといけないの』
と溜め込んでいた気持ちを家族にぶつけてしまいました。
何か親に言葉をぶつけるわけではなく、
突然波が出てきて、帰りたく無いと一言だけ言って母親の病室で泣くだけでした。
父親も仕事が忙しいので、私は松葉杖をつきながら、家の家事をやっていたのでかなりストレスになっていたようです。
今、思えば、母親を後ろめたい気持ちにさせてしまったと思っています。
しかし、あそこで気持ちを発散できていなかったらもっと溜め込んでいたと思います。
母親の誰にも言わないで欲しいという気持ちを尊重をして、先生にも相談ができず、
また病院内には患者の家族向けのイベントは学生向きでなかったり、部活動があったので行きづらかったです。
『学生向けの患者家族の相談会』
があればなと未だに思いますね。
そして自身の手術を終えて退院をして、家に帰っても母親がいない生活は、心身共にハードでした、、、。
でも高校生で身の回りの事を責任もってやる生活をしたお陰で母親が無くなっても困らなかったのは有り難かったですね。
母は9月に退院をしました
リハビリを終えて、身の回りの事も一人でできていました
歩き方はぎこちなかったですが、また普通に生活が出来たことにお医者さんには感謝しています!

ここから残りの高校生活では、
母は長い間専業主婦で料理を作ったり洗濯をしたり家族のために家事をやる事が好きだったので、全部手伝う事はせずに出来ない事を手伝っていました。
病気だから何もできないわけではありません。
以前と同じように生活をしたいと望む患者さんは多いです。家族はそれを尊重をして、同じような生活をするのが良いかとおもいます。
高校生の時は、余命はどれくらいとかは聞かされていませんでした。
おそらく、5〜10年はもつとでも言われてたのでしょう。
私は大学生で留学をしたいと考えていたので、その事を知っていた母はあえて私には言わなかったのかもしれません。
このような感じで、
親の闘病生活を頭の片隅に置きながらも
高校生活を謳歌する事ができました!

次回は大学時代について記していきます!